董仲舒
天は、人の行いを どこまで見ているのか?
漢武帝の賢良対策で儒教国教化を理論化し、天人相関と三綱五常の骨格で漢代以後二千年の中国思想の土台を据えた公羊学者
- 儒教国教化
- 天人相関
- 三綱五常
- 春秋公羊学
時代の空気
前漢初期、高祖の建国(BC202年)から続く黄老思想に基づく無為の治の時代から、武帝の積極策への転換期。BC140年に16歳で即位した武帝は対匈奴戦争と中央集権化を進め、BC136年に五経博士を置き官学化に着手。BC134年頃、董仲舒は賢良対策で独尊儒術を建議、諸子百家を罷黜し孔子の教えを国是とする道筋を示した。BC124年には太学が設置され、公孫弘・児寛らの実務で儒教の制度化が進む。広川(現河北省)出身の儒者として地方では江都王・膠西王の宰相を務め、晩年は里に戻って著述に専念した。
01広川の儒者 ― 公羊学の研究者
漢高后8年(BC180年)頃、広川(現河北省衡水市景県・故城・棗強一帯)の人として生まれた。生年は一説にBC179年、BC195年説もあり、確定しない。姓は董、諱は仲舒(ちゅうじょ)、字は伝わらない。家は代々儒学を修める士族で、少年期から『春秋』を読み、書斎に籠もって「三年庭を窺わず」と『漢書』董仲舒伝は記す。庭に咲く花を三年見なかったという伝は、その沈潜の深さを示す逸話として後世に流布した。
『春秋』は孔子が魯の史書を削修した編年体の古典であるが、漢代には三家の解釈が並立していた――公羊伝(斉の公羊高の伝承、微言大義を重視)、穀梁伝(魯の穀梁赤の伝承、礼義を重視)、左氏伝(左丘明の伝承、史実を重視)。董仲舒は公羊学を選び、師はその第四代の継承者胡毋生(こぶせい)と同門と伝える。
景帝朝(BC156–BC141)、博士(国立大学の教授格)に任じられた。弟子に教えるとき、帳を垂れて自らは見えぬ位置に座り、声のみで講ずるという厳格な作法を守ったと『漢書』は記す。弟子は師の顔を見たことがない者もいたという。この距離感は、言葉そのものに権威を宿らせる公羊学の解釈学的精神を身体化したものとも読める。
02賢良対策 ― 独尊儒術、百家を罷黜す
建元元年(BC140年)、武帝16歳で即位。建元5年(BC136年)、武帝は五経博士を置いた。詩・書・礼・易・春秋を官学とする制度化である。そして元光元年(BC134年)、武帝は天下に賢良方正の士を挙げさせ、対策(天子の問いに対する答案)を求めた。古今の治乱興亡と天命・王道について問うた三度の策問に、董仲舒は精緻な三対策で応じた。これが『漢書』董仲舒伝に全文収録される天人三策である。
三策の要点は以下である――
第一策(古今治乱の根本)。天の意志は一定の秩序を持ち、君主はそれに応ずる責務がある。王道は天道を模倣し、礼楽は天地の和を具現する。聖王の時代に天下が治まったのは、天人の感応が順調だったからである。
第二策(天命と革命)。天は災異を以て警告を下す。日食・地震・旱・水害は、政治の失徳に対する天の譴告である。改制(制度の刷新)によって天命に応じれば、王朝は存続する。これが災異説、のちの天命革命論の理論化である。
第三策(学術統一)。「諸の六芸の科・孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、並び進ますこと勿れ」(『漢書』董仲舒伝)――孔子の教え以外の諸子百家は、官学から排除すべし。これが後に独尊儒術(儒術を独り尊び、百家を罷黜(ひちゅつ)す)と要約される建議である。
武帝はこの建議を全面的に採用したわけではないが、実質的な方向性として儒教の国教化を進めていった。太学の設置(BC124)、五経博士の拡充、孝廉による人材登用など、一連の制度改革が董仲舒の理論的枠組みのもとで進められた。公孫弘(丞相)の実務、児寛(御史大夫)の法制化を経て、武帝朝末期までに儒教は国家の公式教学として確立する。
董仲舒はしかし、対策後すぐに中央で重用されたわけではなかった。強直な性格と学者気質が武帝と合わず、江都王相(江都王劉非の宰相)・膠西王相(膠西王劉端の宰相)として地方に派遣された。膠西王は暴君で知られ、「驕恣悍勇」と『漢書』は記す。董仲舒はなお恭謹を保ち、王もその徳を敬して無用な害を加えなかったという。
03天人相関説 ― 天と人の感応
董仲舒の核心思想は、天人相関(天人感応)である。天と人は同じ秩序を共有し、互いに感応する――この古代中国の共通観念を、董仲舒は陰陽五行の論理と結合して体系化した。
天の構造。天は意志を持ち、生成の原理として働く。天地は陰陽の気から成り、陰陽は五行(木火土金水)を生む。五行は四時(春夏秋冬)と方位(東西南北中)と色(青赤白黒黄)を司り、万物を循環させる。天は徳(陽)と刑(陰)を両輪として運営する。陽が主で陰が副、徳が主で刑が副――これが天の本性である。
人の構造。人は天の縮図である。身体の骨節は天の数に応じ、五臓は五行に応じ、心情の喜怒哀楽は四時に応ずる。君主は天の子(天子)として、天道を地上で体現する責務を負う。
感応の機構。天と人は同類の気を共有するため、行為は天の気を動かす。善政は天の和を引き寄せ、悪政は天の怒を引き寄せる。災異(天の譴告)と祥瑞(天の嘉納)は、天の気が人の行為に応答した結果である。
この枠組みは、一見すると古代的な自然神学だが、政治的には君主の権力を天に従属させる論理として機能した。皇帝といえども天の下にある。天命を失えば、革命(易姓革命)が正当化される。『春秋』に災異を記すのは、後の君主への警告である。このように、は君主批判の言論装置でもあった。董仲舒自身、元光・元朔年間(BC130頃)に遼東高廟・長陵高園殿の火災を災異として解釈した疏を上奏し、武帝の怒りを買って一時下獄している(『漢書』董仲舒伝)。命は赦されたが、以後災異を論ずることには慎重になった。
04三綱五常 ― 人倫秩序の確立
董仲舒はまた、人倫の秩序を体系化した。中核は三綱五常である。
三綱は、君は臣の綱なり、父は子の綱なり、夫は妻の綱なり(基義篇の言い回しが後に整形されたもの、「三綱」の語自体は『白虎通義』三綱六紀篇で明文化される)。上位者が下位者の基軸(綱、網の元綱)となる、という非対称的秩序論である。この三つの関係が、儒教社会の基本的人間関係を規定した。
五常は、仁・義・礼・智・信の五つの徳。孟子の四端(仁義礼智)に「信」を加え五行に対応させた構成で、董仲舒の定式化が後世の五常説の基盤となる。五常は天の五行(木仁・火礼・土信・金義・水智)と対応し、人の心に内在する徳として常住する。
は、単なる道徳訓ではなく、陰陽五行の宇宙論と結合した人倫の形而上学である。夫が陽で妻が陰、父が陽で子が陰、君が陽で臣が陰――この対応は、社会の上下関係を天地の秩序として正当化する装置であった。
批判的に見れば、三綱は儒教の非対称的権力論の極点であり、後世の封建的上下秩序を理論化したものである。とりわけ清末から五四運動にかけて、魯迅や陳独秀は「吃人の礼教」として三綱を批判した。しかし董仲舒の時代の文脈では、これは部族社会・戦国末期の混乱を経て、新たな統一帝国の秩序原理を提示する積極的な試みだった。中華的人間関係の基本語彙は、ここで結晶している。
もうひとつ重要なのが大一統の観念である。『春秋』公羊伝の「元年春王正月」の注釈として、董仲舒は「一」を万物の起源、「統」をそれを継ぐ根元として読み解き、皇帝による統一天下の思想的正当化を行った。戦国の分裂と秦の苛酷な統一を経て、漢が新たに模索した「緩やかで持続的な統一」のイデオロギーとして、は機能した。
05『春秋繁露』と二千年の影響
晩年、董仲舒は官を退き、広川の里で著述に専念した。遺著『春秋繁露』十七巻八十二篇は、『春秋』公羊学の解釈と、天人相関・陰陽五行・三綱五常の理論を総合した主著である。ただし現行の『春秋繁露』は、唐の楼郁の編纂と、その後の校訂を経て伝わり、宋代から明代にかけて篇目の異同や後人附加の疑いが論じられてきた。清代の凌曙、近代の蘇輿らが考証を加え、真撰篇と後人撰篇の区別が概ね定まっているが、細部には議論が続く。
主要篇として――楚荘王・玉杯・竹林(春秋解釈)、十指(春秋の十指針)、二端(災異と祥瑞)、王道(王道論)、陰陽義・陰陽終始・陰陽位(陰陽論)、五行相生・五行相勝・五行変救・五行順逆(五行論)、深察名号・実性(名実論・人性論)、基義(三綱五常の基礎)、順命・郊語・郊祭(祭祀論)、天地陰陽・天道施(宇宙論)。
影響は中国思想史全体に及ぶ。漢代儒教の成立そのものが董仲舒の遺産であり、『白虎通義』(後1世紀末、章帝の白虎観会議の記録)は董の枠組みをさらに国教として整形した。讖緯思想(後漢の予言学)や緯書も、災異・祥瑞の観念を拡張した系譜に位置する。
宋代の新儒教(朱子学)は、董仲舒の宇宙論を批判的に継承した。周敦頤の『太極図説』、張載の気の哲学、朱熹の理気論は、陰陽五行を哲学的に精錬しつつ、董仲舒的な「天への畏敬」を内面化した。朱熹は『近思録』で董仲舒の「道の大原(みなもと)は天に出づ」を引用し、儒教的実存の源泉として尊重した。
朝鮮・日本でも、董仲舒は朱子学を通じて受容された。朝鮮の李退渓の敬の哲学、日本の林羅山の朱子学、さらに本居宣長の神道論にも、天人相関の枠組みは間接的に浸透している。
董仲舒は、BC104年頃、広川の里で没した(正確な没年は不詳、BC115–BC104頃と推定)。子孫の董氏は代々学を守り、後漢初期まで家学として伝えたとされる。墓は陝西省西安市興平の「下馬陵」(董子陵)と伝えるが、広川の故地にも顕彰の祠堂があり、所在地には諸説ある。
漢代儒教の創設者として、孔子の再解釈者として、そして中国宇宙論の体系化者として――董仲舒の影は、二千年の中華文明の骨格のうちに、いまも静かに残り続ける。
天、常に佑(たす)けんとし、帝、常に承(う)けんとす。天と人と、一なり。
06主要な出来事と著作
- 広川(現河北省衡水)の儒者の家に生まれる(生年は諸説あり)
- 景帝朝に博士、公羊春秋を講じる。「三年庭を窺わず」の沈潜
- 武帝、五経博士を置く。儒教の官学化の第一歩
- 賢良対策(天人三策)で独尊儒術を建議、儒教国教化の理論的基礎を据える
- 遼東高廟・長陵高園殿の火災を災異として疏上、武帝の怒りで下獄、のち赦免
- 公孫弘・児寛の尽力で太学設置、五経博士の弟子員制度が整う
- 江都王相・膠西王相として地方統治、暴君にも恭謹の態度で臨む
- 官を辞して広川の里に戻り、著述に専念
- 『春秋繁露』十七巻の原型を遺して没(正確な没年は不詳)
- 昭帝朝の塩鉄会議で賢良が董仲舒の思想を援用、後漢白虎観会議へ受け継がれる
- 後漢章帝、白虎観会議を開催、『白虎通義』として董の枠組みが国教として整形される
残した思想の輪郭
- ― 儒教の国教化への理論的建議、百家を罷黜して孔子の教えを官学とする
- 天人相関 ― 天と人は感応する、災異は天の譴告、祥瑞は天の嘉納、君主を天に従属させる論理
- 三綱五常 ― 君臣父子夫婦の三綱、仁義礼智信の五常、儒教社会の基本的人間関係の定式
- 陰陽五行との結合 ― 戦国以来の陰陽五行説を儒教に接続し宇宙論的な人倫論へ
- 大一統 ― 『春秋』「元年春王正月」の解釈から統一帝国の思想的正当化を導く
- 春秋繁露 ― 十七巻八十二篇、公羊学と宇宙論と人倫論の総合、漢代儒教の集大成
- 二千年への橋渡し ― 朱子学の源泉の一つ、東アジア儒教圏の宇宙観・倫理観の深層文法
つながり
- 孔子
継承 — 『春秋』公羊学の解釈者として孔子の微言大義を国家教説へ整形
- 孟子
継承 — 性善説と王道政治論を陰陽五行と結合し天人相関・三綱五常の枠組みへ再編
- 朱熹
先駆 — 漢代儒教の宇宙論的国教化が宋明理学の前提を準備(朱熹は『近思録』で董仲舒を儒教的実存の源泉として引用)
さらに辿るならExternal References
董仲舒を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「董仲舒」項
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