董仲舒
皇帝を天の下に置いた学者は、 なぜその皇帝の牢に入ったのか?
漢武帝の賢良対策で儒教国教化を理論化し、天人相関と三綱五常の骨格で漢代以後二千年の中国思想の土台を据えた公羊学者
- 儒教国教化
- 天人相関
- 三綱五常
- 春秋公羊学
若い皇帝が力を強めていく時代、皇帝より上にあるものは何か — ひらく
時代の空気
前漢初期、高祖の建国(BC202年)から続く黄老思想に基づく無為の治の時代から、武帝の積極策への転換期。BC140年に16歳で即位した武帝は対匈奴戦争と中央集権化を進め、BC136年に五経博士を置き官学化に着手。BC134年頃、董仲舒は賢良対策で独尊儒術を建議、諸子百家を罷黜し孔子の教えを国是とする道筋を示した。BC124年には太学が設置され、公孫弘・児寛らの実務で儒教の制度化が進む。広川(現河北省)出身の儒者として地方では江都王・膠西王の宰相を務め、晩年は里に戻って著述に専念した。
01二つの火事 ― 天の警告を皇帝に告げる
紀元前130年ごろのことである。漢の国で、二つの火事が起きた。ひとつは遼東(りょうとう)の高廟(こうびょう)。もうひとつは長陵(ちょうりょう)の高園殿(こうえんでん)。どちらも、漢を建てた初代皇帝、高祖にゆかりの建物だった。
ひとりの学者が、この火事について文を書き、皇帝に差し出した。名を董仲舒(とうちゅうじょ)という。文の中身は、はっきりしていた。火事は偶然ではない。天が、いまの政治に警告を送っているのだ、と。
読んだ皇帝、(ぶてい)は怒った。董仲舒は牢に入れられた。命さえ危うかった。
董仲舒は、皇帝の敵ではなかった。むしろその数年前、皇帝のために国の学問の土台を作った人物である。(じゅがく)を国の正式な教えにせよ、と進言したのは彼だった。皇帝の力を支える理屈を組み立てた学者が、なぜ皇帝を怒らせる文を書いたのか。
答えは、彼が組み立てた理屈そのものの中にある。時は、半世紀近く前に戻る。
02三年、庭を見なかった若者
広川(こうせん)は、いまの中国、河北省(かほくしょう)にある土地である。董仲舒はそこで生まれた。生まれた年ははっきりしない。紀元前179年ごろという説が有力だが、紀元前195年という説もある。家は代々、儒学を学ぶ家だった。
少年のころから、『』を読んだ。『春秋』は、孔子が魯(ろ)という国の記録を手直しした古い本である。年ごとに出来事を短く記す。董仲舒はこの本に打ち込んだ。「三年庭を窺わず」と、歴史書『』は記す。三年のあいだ、庭の花を見なかった、という意味である。それほど深く、本の中に沈んでいた。
『春秋』の読み方には、当時三つの流派があった。(くようでん)は、短い言葉の裏に隠れた大きな意味を読む。穀梁伝(こくりょうでん)は礼と義を重んじる。左氏伝(さしでん)は史実を重んじる。董仲舒は公羊伝を選んだ。公羊伝の四代目の継承者、胡毋生(こぶせい)と同門だったと伝わる。
景帝(けいてい)の時代に、博士(はくし)に任じられた。博士は、国の大学の教授にあたる役目である。教え方は変わっていた。教室に帳(とばり)を垂らし、自分の姿を隠して、声だけで講義した。弟子の中には、師の顔を一度も見たことがない者もいたという。
顔ではなく、言葉だけを残す。この作法は、公羊伝の精神そのものだった。言葉の裏にある意味こそが、権威を持つ。声だけの学者が、やがて若い皇帝の問いに答えることになる。
03若い皇帝の問い ― 天人三策
紀元前140年、武帝が16歳で皇帝になった。それまでの漢は、「何もしない」ことを良しとする政治だった。無理に動かさず、民を休ませる。しかし若い皇帝は、動く国を望んだ。
紀元前136年、武帝は(ごきょうはかせ)を置いた。詩・書・礼・易・春秋の五つの古典を、国の学問と定めたのである。そして紀元前134年、武帝は全国に呼びかけた。賢良方正(けんりょうほうせい)の士、つまり優れた人材を推薦せよ、と。集まった者に、皇帝みずから問いを出す。その答案を「対策」と呼ぶ。
問いは三度出された。昔からの国の栄えと乱れの理由。天の命令と王の道。董仲舒は三つの答案で応じた。これが『漢書』董仲舒伝に全文残る(てんじんさんさく)である。
第一の答え。天には決まった秩序がある。王はそれに従う責任がある。王の道は天の道をまねる。礼と音楽は、天地の調和を形にしたものだ。昔の聖王の時代に世が治まったのは、天と人がうまく応じ合っていたからである。
第二の答え。天は災いを使って警告する。日食、地震、日照り、洪水。これらは政治の失敗に対する天の叱りである。制度を改めて天の命令に応じれば、王朝は続く。これが(さいいせつ)の骨組みになる。
第三の答え。「諸の六芸の科・孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、並び進ますこと勿れ」(『漢書』董仲舒伝)。孔子の教え以外の学派は、国の学問から外せ、という意味である。後の人はこれを(どくそんじゅじゅつ)と呼んだ。儒学だけを尊び、ほかの百家を退ける、と。
武帝はこの建議を、そのまま全部採用したわけではない。だが国の方向は、確かにそちらへ動いた。紀元前124年には太学(たいがく)という国立の学校ができた。五経博士も増やされた。公孫弘(こうそんこう)や児寛(げいかん)という実務家が制度を整えた。武帝の時代の終わりまでに、儒学は国の正式な教えになった。
ところが、董仲舒本人は都に残れなかった。まっすぐすぎる性格と学者らしさが、武帝と合わなかった。江都王(こうとおう)という王の宰相として、地方へ送られた。
都を離れても、第二の答えに書いたことは変わらなかった。天は、災いで警告する。これは飾りの理屈ではなかった。では、その天と人は、どうやってつながっているのか。
04天と人は、ひとつの回路でつながっている
董仲舒の考えの中心は、(てんじんそうかん)である。天人感応とも呼ぶ。天と人は同じ秩序を分け持ち、互いに応じ合う。これは古代中国に広くあった感覚である。董仲舒はそれを陰陽五行(いんようごぎょう)の理屈と結びつけ、ひとつの体系にした。
まず、天の側。天には意志がある。天は、ものを生み出す働きそのものである。天地は陰と陽の気からできている。陰陽は五行、つまり木・火・土・金・水を生む。五行は四つの季節と、方角と、色を受け持ち、すべてを巡らせる。天は徳と刑の両方で世界を動かす。ただし陽が主で陰が従。徳が主で刑が従。これが天の本性だという。
次に、人の側。人は天の小さな写しである。体の骨や節の数は天の数に応じる。五つの内臓は五行に応じる。喜び、怒り、悲しみ、楽しみは四季に応じる。そして皇帝は「天の子」、天子である。天の道を地上で形にする責任を負う。
では、天と人はどうつながるのか。同じ気を分け持つから、人の行いは天の気を動かす。良い政治は天の和を引き寄せる。悪い政治は天の怒りを引き寄せる。災いは天の叱り、譴告(けんこく)。めでたいしるしは天の喜び、祥瑞(しょうずい)。どちらも、天が人の行いに答えた結果である。
天、常に佑(たす)けんとし、帝、常に承(う)けんとす。天と人と、一なり
ここで、この体系の向きに気づいてほしい。皇帝であっても、天の下にいる。天の命令を失えば、王朝は変わる。姓の違う家に天命が移る、(えきせいかくめい)である。『春秋』に災いが記されているのは、後の王への警告なのだ。つまり天人相関は、皇帝を天に従わせる理屈である。同時に、皇帝を批判する言葉の道具でもあった。
この理屈を作った当人が、天の警告を目の前にして、口をつぐめるだろうか。紀元前130年ごろ。二つの火事が起きる。
05火事の上奏、そのあと
遼東の高廟と、長陵の高園殿が焼けた。董仲舒は、この火事を天の警告として読み解いた。そして皇帝に差し出す文、上奏文(じょうそうぶん)を書いた。自分の理屈に従えば、天の叱りは伝えなければならない。皇帝が天の下にいるなら、天の言葉を皇帝に届ける者が要る。
武帝は怒った。董仲舒は牢に入れられた。命は助かった。だがそれ以後、董仲舒は災いを論じることに慎重になった、と『漢書』は記す。天の警告を語る理屈は、語る者の命を危うくした。
皇帝の力を支えた学者が、なぜ皇帝を怒らせたのか。支えることと、叱ること。彼の理屈の中では、この二つは同じ回路の上にあった。
その後、膠西王(こうせいおう)の宰相に任じられた。膠西王は乱暴な王として知られ、『漢書』は「驕恣悍勇(きょうしかんゆう)」と記す。おごり、勝手で、荒々しい、という意味である。董仲舒はそれでも礼儀正しく、つつしみ深い態度を崩さなかった。王もその徳を敬い、無用な害を加えなかったという。
晩年、董仲舒は役目を退いた。広川の里に戻り、書くことに専念した。まとめられた本が(しゅんじゅうはんろ)である。十七巻八十二篇。『春秋』公羊伝の読み解きが土台にある。そこに天人相関と陰陽五行、(さんこうごじょう)を重ねた主著である。
紀元前104年ごろ、広川の里で世を去った。正確な年はわからない。紀元前115年から104年ごろと推定される。子孫の董氏は代々学問を守り、後漢の初めまで家の学として伝えたとされる。墓は陝西省(せんせいしょう)西安市興平の「下馬陵(かばりょう)」と伝える。董子陵とも呼ぶ。ただし広川の故地にも顕彰の祠堂(しどう)があり、所在地には諸説ある。
天は、人の行いをどこまで見ているのか。董仲舒は、見ている、と答えた。そしてその答えを皇帝に届けた日、牢に入れられた。天の言葉を人に届ける者は、いったい誰に守られるのか。
06三綱五常・大一統・二千年の影響 ― 分析
董仲舒はまた、人倫の秩序を体系化した。中核は三綱五常である。三綱は、君は臣の綱なり、父は子の綱なり、夫は妻の綱なり(『春秋繁露』基義篇の言い回しが後に整形されたもの、「三綱」の語自体は『』三綱六紀篇で明文化される)。上位者が下位者の基軸(綱、網の元綱)となる、という非対称的秩序論である。この三つの関係が、儒教社会の基本的人間関係を規定した。
五常は、仁・義・礼・智・信の五つの徳。孟子の(仁義礼智)に「信」を加え五行に対応させた構成で、董仲舒の定式化が後世の五常説の基盤となる。五常は天の五行(木仁・火礼・土信・金義・水智)と対応し、人の心に内在する徳として常住する。
三綱五常は、単なる道徳訓ではなく、陰陽五行の宇宙論と結合した人倫の形而上学である。夫が陽で妻が陰、父が陽で子が陰、君が陽で臣が陰――この対応は、社会の上下関係を天地の秩序として正当化する装置であった。
批判的に見れば、三綱は儒教の非対称的権力論の極点であり、後世の封建的上下秩序を理論化したものである。とりわけ清末から五四運動にかけて、魯迅や陳独秀は「吃人の礼教」として三綱を批判した。しかし董仲舒の時代の文脈では、これは部族社会・戦国末期の混乱を経て、新たな統一帝国の秩序原理を提示する積極的な試みだった。中華的人間関係の基本語彙は、ここで結晶している。
もうひとつ重要なのがの観念である。『春秋』公羊伝の「元年春王正月」の注釈として、董仲舒は「一」を万物の起源、「統」をそれを継ぐ根元として読み解き、皇帝による統一天下の思想的正当化を行った。戦国の分裂と秦の苛酷な統一を経て、漢が新たに模索した「緩やかで持続的な統一」のイデオロギーとして、大一統は機能した。
天人相関の枠組みは、一見すると古代的な自然神学だが、政治的には君主の権力を天に従属させる論理として機能した。皇帝といえども天の下にある。天命を失えば、革命(易姓革命)が正当化される。天人相関が君主批判の言論装置でもあったことは、董仲舒自身の下獄という代価によって裏書きされている。なお、帳を垂れて声のみで講じた博士時代の作法は、言葉そのものに権威を宿らせる公羊学の解釈学的精神を身体化したものとも読める。
遺著『春秋繁露』十七巻八十二篇は、『春秋』公羊学の解釈と、天人相関・陰陽五行・三綱五常の理論を総合した主著である。ただし現行の『春秋繁露』は、唐の楼郁の編纂と、その後の校訂を経て伝わり、宋代から明代にかけて篇目の異同や後人附加の疑いが論じられてきた。清代の凌曙、近代の蘇輿らが考証を加え、真撰篇と後人撰篇の区別が概ね定まっているが、細部には議論が続く。
主要篇として――楚荘王・玉杯・竹林(春秋解釈)、十指(春秋の十指針)、二端(災異と祥瑞)、王道(王道論)、陰陽義・陰陽終始・陰陽位(陰陽論)、五行相生・五行相勝・五行変救・五行順逆(五行論)、深察名号・実性(名実論・人性論、聖人・中民・斗筲の三等に性を分けるの原型)、基義(三綱五常の基礎)、順命・郊語・郊祭(祭祀論)、天地陰陽・天道施(宇宙論)。
影響は中国思想史全体に及ぶ。漢代儒教の成立そのものが董仲舒の遺産であり、『白虎通義』(後1世紀末、章帝の白虎観会議の記録)は董の枠組みをさらに国教として整形した。讖緯(しんい)思想(後漢の予言学)や緯書も、災異・祥瑞の観念を拡張した系譜に位置する。
宋代の新儒教()は、董仲舒の宇宙論を批判的に継承した。周敦頤の『太極図説』、張載の気の哲学、朱熹のは、陰陽五行を哲学的に精錬しつつ、董仲舒的な「天への畏敬」を内面化した。朱熹は『』で董仲舒の「道の大原(みなもと)は天に出づ」を引用し、儒教的実存の源泉として尊重した。
朝鮮・日本でも、董仲舒は朱子学を通じて受容された。朝鮮の李退渓の敬の哲学、日本の林羅山の朱子学、さらに本居宣長の神道論にも、天人相関の枠組みは間接的に浸透している。
漢代儒教の創設者として、孔子の再解釈者として、そして中国宇宙論の体系化者として――董仲舒の影は、二千年の中華文明の骨格のうちに、いまも静かに残り続ける。その骨格は、皇帝を天の下に置く回路であると同時に、天の名で語る者を牢へ送る回路でもあった。回路を設計した者は、その回路から自由でいられるのだろうか。
天、常に佑(たす)けんとし、帝、常に承(う)けんとす。天と人と、一なり。
07主要な出来事と著作
- 広川(現河北省衡水)の儒者の家に生まれる(生年は諸説あり)
- 景帝朝に博士、公羊春秋を講じる。「三年庭を窺わず」の沈潜
- 武帝、五経博士を置く。儒教の官学化の第一歩
- 賢良対策(天人三策)で独尊儒術を建議、儒教国教化の理論的基礎を据える
- 遼東高廟・長陵高園殿の火災を災異として疏上、武帝の怒りで下獄、のち赦免
- 公孫弘・児寛の尽力で太学設置、五経博士の弟子員制度が整う
- 江都王相・膠西王相として地方統治、暴君にも恭謹の態度で臨む
- 官を辞して広川の里に戻り、著述に専念
- 『春秋繁露』十七巻の原型を遺して没(正確な没年は不詳)
- 昭帝朝の塩鉄会議で賢良が董仲舒の思想を援用、後漢白虎観会議へ受け継がれる
- 後漢章帝、白虎観会議を開催、『白虎通義』として董の枠組みが国教として整形される
残した思想の輪郭
- 独尊儒術 ― 儒教の国教化への理論的建議、百家を罷黜して孔子の教えを官学とする
- 天人相関 ― 天と人は感応する、災異は天の譴告、祥瑞は天の嘉納、君主を天に従属させる論理
- 三綱五常 ― 君臣父子夫婦の三綱、仁義礼智信の五常、儒教社会の基本的人間関係の定式
- 陰陽五行との結合 ― 戦国以来の陰陽五行説を儒教に接続し宇宙論的な人倫論へ
- 大一統 ― 『春秋』「元年春王正月」の解釈から統一帝国の思想的正当化を導く
- 春秋繁露 ― 十七巻八十二篇、公羊学と宇宙論と人倫論の総合、漢代儒教の集大成
- 二千年への橋渡し ― 朱子学の源泉の一つ、東アジア儒教圏の宇宙観・倫理観の深層文法
つながり
- 孔子
先駆 — 董仲舒が国家の教説に整形した「微言大義」——その言葉を遺した人。
- 孟子
先駆 — 天人相関の枠組みに組み込まれる前の、性善説と王道政治の唱え手。
- 朱熹
継承 — 漢代の宇宙論的儒教を前提に、宋明理学を打ち立てた人。
さらに辿るならExternal References
董仲舒を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「董仲舒」項
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