孟子
人の本性は、 善いのか悪いのか?
「性善説」を唱え、仁義の王道政治を諸侯に説いた戦国儒家の第二の聖人
- 性善説
- 浩然の気
- 王道
- 四端
時代の空気
戦国中期、周王室の権威は名目化し、魏(梁)・斉・楚・秦・趙・韓・燕の七雄が覇を競った。富国強兵と縦横の外交策が常で、覇道の論理が宮廷を支配する。斉の都臨淄では宣王が稷下の学士館に各家の学者を集め、王道と覇道、性善と性悪をめぐる論争が公然と交わされた。孟子はBC320年代から梁の恵王、斉の宣王、滕の文公らを遊説して回り、戦火と税の重さに疲弊する民を背に、孔子の仁を性善・四端へと組み直す言葉を諸侯に投げ続けた。
01鄒の孟家、母の三遷
紀元前4世紀、鄒(すう、現山東省鄒城)に生まれた。姓は孟、名は軻(か)、字は子輿(しよ)とも伝えるが字については諸説あり。鄒は孔子の故郷魯のすぐ南に位置し、儒家の学問が土着化していた地である。生年は伝統的に周烈王4年(BC372年)とされるが、史料的確証は薄く、諸説がある。
幼くして父を失い、母の手で育てられた。有名な孟母三遷の逸話では、墓地のそばに住むと葬儀の真似をし、市場のそばに住むと商いの真似をするのを見て、母は最後に学塾のそばに引っ越し、子は礼を学ぶようになった、と伝える。孟母断機では、学問を途中で放り出した孟軻を諫めるために、母が織機の糸を断ち切って見せたとも伝える。いずれも『列女伝』(漢・劉向)など後代の伝承で、史実か教訓譚かは一概に断じがたい。
ただし、これらの伝承が長く読まれたこと自体は重要である。孟子の思想は、国家の大計を語ると同時に、幼児のふるまい、母の教育、日々の習慣から徳を考える。善は天から完成品として降るのではなく、住む場所、交わる人、学び続ける気力によって伸びたり枯れたりする。後世が母の物語を孟子の入口に置いたのは、を家庭の時間へ引き戻すためでもあった。
02子思の門流に学ぶ
『史記』孟子荀卿列伝は、孟軻が「子思の門人に受業した」と伝える。子思は『中庸』の作者に擬せられる人物で、孔子の孫ながら直接の祖父の教えを整理する役を担ったとされる。孟子と子思の学統の実態は不詳で、伝記的には諸説があるが、本文の構想は明らかに孔子—子思の系譜を自覚している。
孟子の思想の根は、この学統にある。孔子の仁を受け継ぎつつ、彼はそこに性善という存在論的基礎を与えた。人の内に「惻隠・羞悪・辞譲・是非」の四つの心の端緒()が芽として備わっており、それを拡充することで仁義礼智という徳が実現する。徳は外から教え込まれるものではなく、自分の内に発見し育てるものだ、というのが孟子の核心である。
同時に孟子は、孔子の慎ましい語りよりも、はるかに論争的である。墨家の兼愛、楊朱の為我、法家・兵家の富国強兵の声が諸侯の宮廷に満ちていた。彼はそれらを単なる異説として退けるだけでなく、なぜ人が利へ傾くのか、なぜ仁義の語が空語に見えるのかを問うた。儒家二代目世代の仕事は、祖師の言葉を守るだけではなく、戦国の言論市場で折れずに語り直すことだった。
03諸国遊説、梁の恵王
50歳前後からとも言われる壮年期以後、孟子は弟子団を率いて諸侯の宮廷を巡る遊説を始めた。魏(梁)、斉、宋、滕、薛など、戦国の大小の国を渡り歩き、その期間は二十年以上に及んだと見る説が多い。孔子に倣う行動様式だが、時代はすでに戦国、覇道の論理が支配していた。
魏(梁)の恵王(BC370–319)を訪ねたとき、恵王は「老先生、はるばる千里をいとわず来てくださった。わが国にどんな利益をもたらしてくれるか」と問うた。孟子は正面から切り返した。「王よ、なぜ利を語るのか。仁義あるのみ」。『孟子』巻頭の梁恵王篇冒頭である。利ではなく仁義を政治の根本に据えよ、というこの一喝は、孟子思想の骨格をそのまま示している。
梁恵王篇には、王と孟子の距離もよく出る。王は戦に敗れ、人口と兵力を回復したい。孟子は、五十歩逃げた者が百歩逃げた者を笑う譬えで、苛政を改めないまま隣国と比べる空しさを示す。農時を奪わず、魚や材木を取り尽くさず、老者に絹を着せ、民を飢えさせない。王道は壮麗な標語ではなく、税、労役、農事暦を整える細かな政治であった。
04斉の宣王、王道と覇道
孟子が最も長く滞在したのは斉だった。斉の宣王(BC319–301在位)のもとで、客卿として遇された。宣王は戦国の大国の君主で、稷下の学士館で学者を厚遇した人物である。孟子は宣王に繰り返し王道を説いた。
王道とは、仁徳をもって民を安んじる政治。覇道とは、力をもって諸侯を従える政治である。孟子は言う ―「力をもって仁を仮るは覇、徳をもって仁を行なうは王」。そして民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす(尽心下)と、君主の絶対化に釘を刺した。民の支持を失った君は君ではない、天命を失えば王朝の交代もまた天の意志であるという論理は、後世にとして理論化され中国政治思想の骨格を与えた。
『梁恵王上』に伝わる一場面 ― 堂上の宣王が牛を牽かれていくのを見て「觳觫(こくそく、おののくさま)、罪なくして死地に就くに若し」と憐れみ、牛の代わりに羊を用いよと命じた。孟子はその振る舞いを捉えて、「是乃仁術なり」と指し示す。王は牛は見て羊を見ざりしのみ ― 目の前の苦しみに動いた心こそが、民に及ぼせば王道となる。四端の芽を王自身の日常の一挙に見つけて返す孟子の対話法が、よく現れた場面である。
また「与民同楽」の章では、王の音楽や狩猟そのものを禁じない。民が飢え苦しむ中で王だけが楽しめば怨みとなるが、民と共に楽しむならば王の楽しみは政治の徳に転じる。孟子は禁欲主義者ではない。君主の欲望をただ否定するのではなく、それが民の生活と切り離される瞬間を見逃さなかった。
05浩然の気
『公孫丑上』で、弟子公孫丑が孟子に「先生の長所は何か」と問うと、孟子は「を善く養う」と答えた。浩然の気とは、天地に満ちる至大至剛の気であり、義と道に配う(伴う)ことで人の内に育つ。気は体躯の物質的な生命力であり、同時に道徳的な勇気でもある。
気を養う道については、孟子は一つの寓話で警告する ― 苗の伸びを案じて一本一本引き上げた宋人の話である。日暮れに帰って「今日は疲れた、苗の成長を助けてやった」と言う男に、子が走って見に行くと、苗は皆枯れていた(公孫丑上)。揠苗助長(えつびょうじょちょう)。急いで伸ばそうとするのも、放って省みないのも、ともに気を損なう。義の積み重ねで内から自ずと育つものを、外から引き抜いてはならない、と孟子は言う。
この気の修養論は、後の中国思想に深い影響を与えた。宋明の理気論、朱熹の工夫論、王陽明の致良知は、いずれも孟子の四端・浩然の気を再解釈する形で展開する。
、人皆これ有り。羞悪の心、人皆これ有り。辞譲の心、人皆これ有り。是非の心、人皆これ有り。
06告子との論争、性善説の弁証
孟子の性善説は、告子らの「性無善無不善説」(人の本性に善悪はない)との論争で鋭く磨かれた。告子は「性は湍水のごとし、東に決すれば東に流れ、西に決すれば西に流る」と説いた。孟子は切り返す ―「水に東西の分かれはないが、上下の分はある。水が下へ流れるように、人の性は善へ向かう。外的な力で逆流させられることはあっても、本性は善である」(告子上)。
「子の泣き声を聞いて、誰もが惻隠の情を抱く。これは名誉のためでも、報酬を期待してでもない」。孺子が井戸に落ちようとするのを見て咄嗟に助けようとする心の動き — この直観的な善性の事実から、孟子は性善の論を立てる。
四端は完成した徳ではない。惻隠は仁の端、羞悪は義の端、辞譲は礼の端、是非は智の端である。端とは糸口であり、芽である。放っておけば弱り、利欲や恐怖で塞がれる。だから孟子は、善を語りながら、人が悪を行う現実を軽く見ていない。飢えた年に民が盗むなら、それは民の本性が悪いからではなく、恒産を失い恒心を保てなくなったからである。性善説は、政治の責任を免じる説ではなく、かえって重くする説だった。
07晩年の帰郷、七篇の編纂
BC312年前後、斉を去り魯へ戻ったあと、孟子は政治参与から引き、弟子たちと著述に専念した。七篇の『孟子』 ―梁恵王・公孫丑・滕文公・離婁・万章・告子・尽心は、師と弟子の問答・諸侯との論争・修養論を集めたもので、『史記』は「退きて万章の徒と孟子七篇を作った」と記す。梁恵王篇は王道政治、公孫丑篇は浩然の気と弁論、滕文公篇は井田制と古制、離婁篇は仁義の実践、万章篇は古聖王の伝承解釈、告子篇は性善論争、尽心篇は天命と修養を主に扱う。孟子と弟子たちの関与までは裏づけられるが、現行本が本人監修で確定したとまでは言いにくい。
BC289年頃、84歳前後で没したと伝える(異説多し)。墓は鄒城に現存し、後世「亜聖」(孔子に次ぐ聖人)と尊称された。唐の韓愈は孟子を儒家の道統の正統継承者として位置づけ、宋代の朱熹が『孟子集注』を著して『論語』『大学』『中庸』とともに四書の一つに列したことで、孟子の思想は科挙の標準教典として東アジア全域に浸透した。日本では江戸初期、易姓革命や「君を軽し」とする語が幕府秩序に危険視され、講読を避ける空気もあった。伊藤仁斎『童子問』などをめぐる論争では、朱子学の枠を越えて孟子をどう読むかが、学問と政治の境目を照らした。
08主要な出来事と著作
- 鄒(現山東省鄒城)に生まれる(生年には諸説あり)
- 父を失い母に育てられる。孟母三遷・断機の故事は後代の教訓譚
- 孔子の孫・子思の門流に学ぶ(『史記』孟子荀卿列伝)
- 諸国遊説を開始。魏(梁)の恵王を訪れ「王何ぞ必ずしも利を曰わん」
- 斉の宣王のもとで客卿、王道と浩然の気を説く
- 魯に帰り、弟子団と『孟子』七篇を編纂
- 没(享年には諸説あり、84歳前後とされる)
- 唐・韓愈が道統論で高く評価、南宋・朱熹が四書に列し科挙の必修に
残した思想の輪郭
- 性善説 ― 人の本性には四端(惻隠・羞悪・辞譲・是非)という善の芽が生まれつき備わる
- 四端から四徳へ ― 四端を拡充することで仁・義・礼・智という徳が実現する
- ― 力の覇道に対し、仁徳による王道政治を諸侯に説く
- 民本主義 ― 「民を貴しとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」、天命としての易姓革命
- 浩然の気 ― 義と道に配う至大至剛の気を養う修養論、後の理気論の源流
- 亜聖 ― 孔子に次ぐ聖人として後世に尊称され、朱子学を通じて東アジアの標準教典に
出典と確認メモ
6件- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓しめ、其の身を空乏にし、行ひ其の為す所に払乱せしむ
一次資料を開く告子章句下 第 15 節 (ctext Section 35) verbatim: '孟子曰:舜發於畎畝之中,傅說舉於版築之閒,膠鬲舉於魚鹽之中,管夷吾舉於士,...
- 抜粋原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 惻隠の心、人皆これ有り。羞悪の心、人皆これ有り。辞譲の心、人皆これ有り。是非の心、人皆これ有り。
一次資料を開く告子上 第6章: 『惻隱之心、人皆有之;羞惡之心、人皆有之;恭敬之心、人皆有之;是非之心、人皆有之』。文型『〜の心、人皆これ有り』 (人皆有之) は本章の文体。...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 民を貴しと為し、社稷これに次ぎ、君を軽しと為す
一次資料を開く盡心章句下 第 14 節 verbatim: '孟子曰:民為貴,社稷次之,君為輕。是故得乎丘民而為天子,得乎天子為諸侯,得乎諸侯為大夫。' (WebFetch ...
- 抜粋原典で確認済み要旨訳
要旨訳: 惻隠の心、人皆これ有り。羞悪の心、人皆これ有り。辞譲の心、人皆これ有り。是非の心、人皆これ有り
一次資料を開く孟子・告子上 第6章: 『惻隱之心、人皆有之;羞惡之心、人皆有之;恭敬之心、人皆有之;是非之心、人皆有之。惻隱之心、仁也;羞惡之心、義也;恭敬之心、禮也;是非之...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: mencius.mdx pullsource 『『孟子』公孫丑上(四端の章)』 — 出典 attribution の reference_quality 評価。公孫丑上 (Gongsun Chou S...
一次資料を開く孟子・公孫丑上 第6章 (the 'Four Sprouts' chapter): 『惻隱之心、仁之端也;羞惡之心、義之端也;辭讓之心、禮之端也;是非之心、智之...
- 思想一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 公孫丑の問いに答えた章で、孟子は「幼子が井戸に落ちかける一瞬、人は名誉や報酬を思う前に手が動く」と例を引く。そこに惻隠・羞悪・辞譲・是非という四つの端緒が覗くのだという。性善は高みからの宣言ではなく、...
一次資料を開く公孫丑章句上 canonical text。第六章「今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心」+ 四端之説 確認
つながり
- 孔子
継承 — 『孟子』は孔子の孫・子思の門人に学んだと自ら記す(『孟子』離婁下22)。仁をあらゆる人間に内在する四端の心(惻隠・羞悪・辞譲・是非)として性善説に深化、孔子の外形的な礼を内面的な徳へ転換。朱熹『四書集注』により『論語』と並ぶ儒教経典として確立
- 荀子
対比 — 『荀子』性悪篇は孟子の性善説を名指しで退け、「孟子曰く、人の学ぶこと、その性善なり、と。曰く、是れ然らず」と論駁。戦国後期の儒家内の二大潮流として、宋代以降は朱熹が孟子を正統として『四書』に定め、荀子は長く儒教正統からは傍流扱いとなる
- 朱熹
継承 — 『四書章句集注』(1190前後、1200最終改訂)で『論語』『孟子』『大学』『中庸』を「四書」として定め、孟子の性善説を「本然の性」として理気論の枠組みで再定義。朱熹没後の1313年、元朝が『四書集注』を科挙の公式テクストと定めたことで、以後600年以上にわたる東アジア科挙儒教の正統的解釈となる
- 王陽明
継承 — 『孟子』尽心上の「人の学ばずして能くするところの者は、その良能なり。慮らずして知るところの者は、その良知なり」を陽明学の核心概念「良知」の原典として引き、『伝習録』(1518頃)で四端の心を「致良知」の実践倫理として再定式化。心即理・知行合一とともに明代思想の主流へ
- 董仲舒
継承 — 性善説と王道政治論を陰陽五行と結合し天人相関・三綱五常の枠組みへ再編
- 二宮尊徳
継承 — 孟子の性善説・四端(惻隠・羞悪・辞譲・是非)は報徳思想の「推譲」に直接通じる。自分の余剰を他者に譲る推譲は、孟子の惻隠の心(他者の不幸を見過ごせない心)の制度化。尊徳は『孟子』を仕法書の教えに引きつつ、荒れた村の人情を「四端を失わない」方向で立て直した。思想の直接引用より、実践への翻訳の系譜
さらに読むならFurther Reading
孟子の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門孟子 (上)
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生きた跡を辿るPlaces
孟子が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
孟子を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「孟子」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Mencius"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Mencius"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Mencius (c. 372—289 B.C.E.)"
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