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実践の知

諸葛亮(孔明)

Zhuge Liang·181–234·中国(三国)·

勝てぬ戦と知りながら、 なぜ続けるのか?

三顧の礼で草廬から迎えられ、出師の表を遺して五丈原に倒れた蜀漢の丞相

  • 三顧の礼
  • 出師の表
  • 八陣
  • 鞠躬尽瘁

時代の空気

黄巾の乱(184年)で後漢の屋台骨が砕け、官渡(200年)で曹操が華北を制し、赤壁(208年)で南北分断が固まった。曹操は建安元年(196年)に献帝を許に迎えて天子を挟んで諸侯に号令、220年の魏建国で後漢は終わる。山東琅邪の名族に生まれ叔父に随い荊州劉表のもとへ身を寄せ、襄陽郊外の隆中で晴耕雨読しつつ徐庶らと交わった一人の士は、流動する天下の構造を冷静に読み、北・東・西の三勢力が並び立つ図を描いていた。この時代、士人の選ぶべき主君は世襲ではなく自分で見定めるものだった。

01琅邪陽都、荊州への移住

後漢光和4年(181年)、徐州琅邪ろうや郡陽都県(現山東省沂南県)で生まれた。姓は諸葛、いみなは亮、字は孔明(こうめい)。父諸葛珪は泰山郡の丞(副官)を務めた下級官吏で、母章氏とともに早く世を去り、3歳で母、8歳ごろ父を失った孤児となる。

諸葛氏は琅邪の名族で、兄諸葛瑾(のちに呉に仕え呉大将軍に至る)、弟諸葛均らがいた。父亡き後は叔父諸葛玄が一族を引き取り、献帝初平4年(193年)、曹操が徐州の陶謙を攻めて多くの住民が殺戮された動乱(曹操の父曹嵩殺害への報復とされる)を避けて、一族は荊州へ移住し、襄陽の劉表のもとへ身を寄せる。諸葛亮13歳前後、叔父玄は劉表の客分きゃくぶんとして遇された。興平4年(197年)頃、その叔父も世を去り、若い諸葛亮は身寄りの薄い士として襄陽の郊外へ退いていった。

02隆中の晴耕雨読、臥龍の号

叔父諸葛玄の死後、10代後半の諸葛亮は襄陽西の隆中(現湖北省襄陽市古隆中)に草廬を結び、自ら田を耕しながら読書した――いわゆる晴耕雨読せいこううどくの暮らしを、ほぼ十年にわたって続けたという。身の丈八尺(約184cm)、容貌秀偉と『三国志』諸葛亮伝は伝える。

隆中時代、諸葛亮は襄陽学派とも呼ばれる荊州の知識人集団と交わった。徐庶(じょしょ)、崔州平、孟公威、石広元らが親友としてしばしば隆中を訪れたと伝え、諸葛亮は彼らに「君らは仕官すれば刺史ししや郡守までは務まろう」と語ったが、自分自身については多くを語らず、ただ管仲・楽毅(斉の宰相と燕の名将)に自らを擬したと『三国志』本伝に見える。当時の人は信じなかったが、徐庶や崔州平らだけはその自負を是とした、と続く。龐徳公(ほうとくこう、龐統の叔父)は諸葛亮に「臥龍」の号を贈り、龐統を「鳳雛」(ほうすう、若い鳳)と呼んで、「臥龍鳳雛、一人を得れば天下を安んずべし」(『襄陽記』)とまで評した。

妻は黄月英(こうげつえい、名は後代の伝承で、正史では黄氏)と伝わる。醜女だったが才気あふれ、諸葛亮の「木牛流馬」などの発明は彼女の助力とも伝えられる(逸話は『襄陽記』の短い記述を元に膨らんだもので、裏付けは薄い)。

03三顧の礼、天下三分の計

建安12年(207年)、諸葛亮27歳。曹操に追われ荊州に身を寄せていた劉備(47歳)は、徐庶の推挙で諸葛亮のもとを訪ねた。三度目の訪問でようやく面会が叶う ― これが三顧の礼さんこのれいである。『出師表』の中で諸葛亮自身が「先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)して、臣を草廬の中に三顧したまう」と記している。

劉備の問いに、諸葛亮は隆中対りゅうちゅうたいを献じた。北の曹操は百万の衆を擁して天子を挟むから争うべからず、東の孫権は江東に根を張って同盟の対象とすべし、荊州と益州(蜀)を取り、天下三分を保ち、天下に変があれば北上して中原を争う ― この大戦略が、以後の劉備集団の行動指針となった。諸葛亮は正式に劉備の軍師となり、「孤(われ)の孔明を得るは、猶魚の水を得るが如し」と劉備は語った。水魚の交わりの故事である。

04赤壁、荊益二州の獲得

建安13年(208年)、曹操の南征。劉表の死と劉琮の降伏で荊州は曹操の手に落ち、劉備は長坂で追撃を受け惨敗。諸葛亮は江夏で劉備と合流した後、単身呉へ赴いて孫権と会見し、孫劉同盟を取りつけた。周瑜を中心とする呉軍は曹操水軍を赤壁で破った(208年冬)。劉備はこの勝利に乗じて荊州南部四郡を手に入れ、同時に孫権の妹を娶る政略結婚も結ばれた。

『三国志演義』は諸葛亮の「借東風」(東風を借りて火計を成功させる)や「草船借箭」(草舟で矢を借りる)などの神機を赤壁の場面に配するが、いずれも正史にはなく、小説的創作である。正史の赤壁での諸葛亮の主要な役割は、孫劉同盟の外交締結であり、戦闘指揮は周瑜に帰する。

建安19年(214年)、劉備は益州(蜀)の劉璋を降して成都に入り、諸葛亮は軍師将軍ぐんしょしょうぐんとして蜀の経営を担当した。建安24年(219年)、劉備は漢中王に自立、同年関羽が荊州で呉の呂蒙の奇襲を受けて敗死し、荊州は失われる――が前提とした「荊益二州を併せ持つ」構図はここで半ば崩れた。章武元年(221年)、劉備は帝位に即き蜀漢を建て、諸葛亮を丞相じょうしょうに任じた。

05白帝城の託孤、丞相就任

章武3年(223年)、夷陵の戦いで劉備は呉の陸遜に大敗、永安(白帝城)で病に倒れた。死の床で劉備は諸葛亮に後事を託した ―「君の才、曹丕の十倍、必ず能く国を安んじ、終に大事を定めん。若し嗣子輔くべくば之を輔けよ、如し其れ不才ならば、君自ら取れ」(『三国志』諸葛亮伝)。

諸葛亮は涙を流して「臣敢えて股肱の力を竭し、忠貞の節を効(いた)し、之に継ぐに死を以てせざらんや」と誓った。劉備は没し(62歳)、子の劉禅(17歳、幼名阿斗)が即位した。諸葛亮は丞相として、蜀漢の内政・軍事・外交のすべてを一身に担うことになる。

内政面では法を厳しく適用しつつ、劉巴・李恢・蒋琬・費禕・董允らを登用。農業と塩鉄の専売で財政を立て直し、蜀錦(蜀の絹織物)の交易を振興した。「科教厳明、賞罰必信、道不拾遺、強不凌弱」と陳寿は評する(『三国志』評)。

06南征、七擒孟獲 ― そして出師の表

建興3年(225年)、諸葛亮は南中(現雲南・貴州北部)の反乱を鎮圧した。孟獲(もうかく、南蛮の首領)を七度捕らえて七度放ち、ついに心から服従させたという七擒七縦しちきんしちしょうは、裴松之注が引く『漢晋春秋』にある記述で、正史本文では単に「南征し、其の地を定む」とのみ記される。心服させて夷を治める、という統治思想の象徴として後世に広まった故事である。

建興5年(227年)、諸葛亮は北伐ほくばつを決意し、劉禅に『出師表』()を上奏した。「先帝、創業未だ半ばならずして、中道にして崩殂す」で始まるこの上奏文は、中国散文の最高峰の一つとされる。劉備が託孤の場で遺した重責を、我が身一つで継ぐ覚悟 ―「臣、本布衣、躬ら南陽に耕す。苟(いやし)くも性命を乱世に全うし、聞達を諸侯に求めず」と、自らが野にあった身から先帝に引き上げられた恩義を繰り返し書き、劉禅には賢臣を遠ざけず小人を近づけぬよう繰り返し諫めている。後世、「出師の表を読んで哭(な)かざる者は必ず不忠」という評語が広く流布したが、典拠と原典帰属については諸説あり、確定しない。なお、より烈しい忠誠の語を含む『後出師表』は『三国志』本文には収録されず、裴松之注が引く『漢晋春秋』の引用に拠るのみで、後代の偽託説が有力である。

同年、諸葛亮は漢中に進軍し、第一次北伐を開始。要衝街亭がいていで先鋒の馬謖ばしょくが軍令に違反して山上に布陣し、魏の張郃に水路を断たれて大敗を喫した。諸葛亮は軍の秩序を守るため、自ら推挙したこの寵将を斬る ― 後世「泣いて馬謖を斬る」と凝縮される場面である。以後、第二次(228年冬・陳倉)、第三次(229年・武都陰平)、第四次(231年・祁山攻め、対司馬懿)と続いたが、食糧輸送の困難と魏の司馬懿の持久戦略に阻まれ、決定的な勝利は遠のいていく。

鞠躬尽瘁、死して後已む。

後世に諸葛亮像を代表する句として流布する語(『後出師表』に見えるが、同表は後代の偽託説が有力、正史には見えない)

07五丈原、秋風の丞相

建興12年(234年)春、54歳の諸葛亮は第五次北伐を率い、五丈原ごじょうげん(現陝西省岐山県)に陣を構えた。魏の司馬懿は堅守して出撃せず、持久戦に持ち込む。諸葛亮は屯田を実施して長期戦の構えを取り、巾幗(女の頭巾)を贈って挑発したが司馬懿は動かなかった(『晋書』宣帝紀)。『三国志』諸葛亮伝は、司馬懿が蜀の使者に諸葛亮の起居を問い、「食は少なく事は煩(わずら)わしく、其れ能(よ)く久しからんや」と応じた逸話を伝える。任を一身に抱え込む丞相の身体に、限界が迫っていた。

同年8月、病篤くなり、陣中で没した。54歳。「星墜ちて丞相亡ぶ」の言い伝えが残る(小説化された表現)。諸葛亮は最期まで戦略の指示を書きつけ、退却と継承の手はずを整えた。楊儀が兵を引き、魏延(蜀の宿将で諸葛亮の方針に不満を抱いていた)との内訌が発生、魏延は誅殺された。

後主劉禅は諸葛亮に忠武侯の諡号しごうを贈り(生前は武郷侯)、遺体は定軍山(現陝西省勉県)に葬られた。遺言により副葬品は僅少、棺は山に収まる大きさを超えないことと定められた。この薄葬の遺志は『諸葛亮文集』や『三国志』諸葛亮伝が伝える。後世、成都・漢中勉県・五丈原・襄陽古隆中などに諸葛亮を祀る武侯祠ぶこうしが建てられ、北伐未達の丞相は「鞠躬尽瘁」の理想像として一千八百年の民間記憶に残ることとなる。

死後29年、蜀漢は魏に滅ぼされた(263年)。諸葛亮の北伐は結局成就しなかったが、後世「鞠躬尽瘁、死して後已む」(『後出師表』に見えるが偽託説が有力で正史には見えない句)として凝縮される生き方が、一千七百年の中国人・日本人の理想の忠臣像を決定した。子の諸葛瞻に与えた86字の家訓『』にある「淡泊にして以て志を明らかにし、寧静にして以て遠きを致す」(澹泊明志・寧静致遠)は、出陣の高揚も覇業の言葉も含まず、ただ静と倹を君子の根に置く ― 隆中の晴耕雨読を最後まで手放さなかった人の、家族に向けた肉声として、東アジアの君子像の基礎テキストとなった。

08主要な出来事と著作

  1. 琅邪陽都に生まれる。3歳で母、8歳で父を失う
  2. 叔父諸葛玄とともに荊州襄陽へ移住
  3. 襄陽西の隆中に草廬を結び晴耕雨読、臥龍と号する
  4. 劉備の三顧の礼、隆中対で天下三分の計を献じる
  5. 赤壁の戦い。単身呉へ赴き孫劉同盟を成立させる
  6. 劉備の益州奪取に貢献、軍師将軍として蜀の経営を担当
  7. 劉備即位、蜀漢成立。丞相に就任
  8. 白帝城で劉備の託孤、劉禅を輔ける誓いを立てる
  9. 南中(南蛮)平定、七擒七縦の故事(裴注『漢晋春秋』)
  10. 「出師表」を劉禅に上奏、漢中に進軍
  11. 第一〜第五次北伐、街亭で馬謖大敗し涙して斬る
  12. 8月、五丈原の陣中で没。享年54。定軍山に葬られる
  13. 諸葛亮没後29年、蜀漢は魏に滅ぼされる

残した思想の輪郭

  • 隆中対・天下三分 ― 曹操と対抗するため孫権と結び荊益を取る長期大戦略
  • と水魚の交わり ― 指導者と参謀の理想的な出会い方の古典
  • 鞠躬尽瘁、死して後已む ― 任務に身を尽くし死して初めて止む忠臣の極
  • 法治と恩愛の両立 ― 厳正な法運用と、国士ごとの待遇・教化を両立させた蜀漢経営
  • 七擒七縦 ― 軍事力より心服による統治、辺境を内化する統治思想(裴注の故事)
  • 出師表 ― 中国散文の最高峰、忠節と諫言の模範として一千七百年読み継がれる
  • 誡子書 ― 「淡泊明志・寧静致遠」、東アジアの君子像の基礎テキスト
  • 北伐の未達 ― 結果的に成らなかったが、その過程そのものが理想の公僕像を規定した
蜀漢建興12年(234年)8月、五丈原の陣中で没。54歳。劉禅は忠武侯の諡を贈り、漢中勉県の定軍山に葬った。
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  • 文脈伝承として記録伝承

    伝承: 蜀漢丞相の諸葛亮が北伐の再開にあたり劉禅へ奉ったと伝わる『後出師の表』の末尾の句である。後出師表そのものには後代の仮託説もあるが、孤児の後主を託された劉備との白帝城の誓いを受け、五丈原に没するまで魏へ...

    一次資料を開く後出師表 canonical text。「臣鞠躬盡瘁,死而後已;至於成敗利鈍,非臣之明所能逆睹也」確認。philoglyph 「鞠躬尽瘁、死而後已」八字 (実際...

  • 文脈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 建興3年(225年)、諸葛亮(181–234)は南中(現雲南・貴州北部)の反乱を鎮圧した。孟獲(もうかく、南蛮の首領)を七度捕らえて七度放ち、ついに心から服従させたという『七擒七縦』は、裴松之注が引く...

  • 出典伝承として記録伝承

    伝承: 諸葛亮『後出師の表』(ただし後出師の表は後代の仮託説あり、正史の出師表の趣旨を凝縮する句として広く流布)

    一次資料を開く中央研究院 CTEXT で『三国志』全文確認可能。卷三十五「諸葛亮伝」に陳寿が附した『出師表』(建興五年/227 年第一次北伐前) の verbatim 全文。...

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 鞠躬尽瘁、死して後已む

    一次資料を開く後出師表末尾段 verbatim 確認: 「臣鞠躬盡瘁,死而後已,至於成敗利鈍,非臣之明所能逆覩也」 (WebFetch 検証済 2026-05-04)。phi...

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 鞠躬尽瘁、死して後已む。

    一次資料を開く後出師表末尾段 verbatim 「臣鞠躬盡瘁,死而後已」 確認 (WebFetch 検証済 2026-05-04)。philoglyph mdx-pullqu...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 淡泊に非ずんば以て志を明らかにする無く、寧静に非ずんば以て遠きを致す無し

    一次資料を開く誡子書全文: 「夫君子之行、靜以修身、儉以養德。非澹泊無以明志、非寧靜無以致遠。夫學須靜也、才須學也、非學無以廣才、非志無以成學。慆慢則不能勵精、險躁則不能冶性...

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

諸葛亮(孔明)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 武侯祠(成都)所属

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さらに辿るならExternal References

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