本文へスキップ
φPhiloGlyph
関
風土の知恵

関羽(関雲長)

Guan Yu·160?–220·中国(三国)·

すべてをくれた人を捨てて、 なぜ何も持たない人のもとへ帰ったのか?

桃園の誓いで劉備に身を捧げ、荊州を託されて麦城に散り、死後は東アジア全域で神となった蜀漢の将

  • 桃園結義
  • 忠義
  • 関帝信仰
  • 三国志演義
  • 武神
皇帝の力が消え、誰につくかで命の行方が決まる時代 — ひらく

時代の空気

後漢が傾き、黄巾の乱(184年)を契機に群雄が割拠し、官渡(200年)・赤壁(208年)を経て魏蜀呉の三国時代へなだれ込む時代だ。中央の権威は外戚・宦官・軍閥のあいだを漂い、地方では豪族と流民が流動を続けていた。河東の田舎に生まれた若者が、郷里で人を斬って涿郡へ逃れ、同じく流れてきた劉備・張飛と義兄弟の契りを結ぶ——そんな身の振り方が、英雄譚ではなく日々の選択として成り立った時代だった。北伐で「華夏を震わす」威を振るった同じ年、背後を突かれて麦城に散ることもまた、この乱世の常だった。死後、宋以降に神格化が進み「武聖」として東アジアに祀られていく長い残響もまた、この時代の余韻である。

01封じた贈り物 ― 200年、曹操の陣を去る日

200年、関羽かんうは曹操(そうそう)の陣にいた。曹操は、天下を争う実力者のひとりである。関羽はその曹操から、偏将軍という将軍の位を受けていた。さらに漢寿亭侯(かんじゅていこう)という、正式な貴族の位も受けていた。関羽が生涯でただ一度、正式に授かった貴族の位である。

その少し前、関羽は曹操のために大きな手柄を立てていた。白馬(はくば)という戦場で、敵将の顔良(がんりょう)を討ち取ったのだ。顔良は、袁紹(えんしょう)軍の猛将である。一万の敵兵のただ中に馬で突っ込み、首を取って戻った。曹操が惜しんで手厚くもてなしたのも、当然だった。

ところが関羽は、ある知らせを聞くと動いた。かつての主君、(りゅうび)が生きていて、袁紹のもとにいるという。関羽は曹操から受けた贈り物を、すべて封をして残した。そして手紙一通を置いて、陣を去った。

向かう先は、袁紹の軍である。自分がその将を斬ったばかりの、敵の陣だ。しかも劉備は、曹操に負けて逃げこんだ身にすぎない。位も兵もない。追う者はいなかった。曹操が追撃を許さなかったのだ。曹操は言った。「各々其の主の為にす」。それぞれ、自分の主君のためにしたことだ、と。

栄誉のすべてを捨て、負けた主君のもとへ帰る。なぜ関羽は、こんなことができたのか。時は十六年前、184年に戻る。

玉は砕くべく、白きを改むべからず。竹は焚くべく、節を毀(こぼ)つべからず。

— 『三国志演義』第七十六回。小説が十九年後、最期の城の関羽に語らせた辞。史実の言葉ではないが、200年の別れを後世がどう読んだかを映す

02涿郡の三人 ― 桃園結義のほんとうの姿

184年、が起こった。黄色い頭巾をつけた人々の大反乱で、漢という王朝はこれをきっかけに崩れていく。北の涿郡たくぐん(いまの河北省涿州市)に、ひとりの流れ者がいた。関羽である。

関羽は河東郡解県(かとうぐん・かいけん、いまの山西省運城市)の生まれだった。生まれた年は160年ごろとされるが、はっきりしない。姓は関、名は羽。字(あざな)は初め長生、のちに雲長と改めた。歴史家の(ちんじゅ)が書いた正史『三国志』は、関羽の若いころをほんの数行しか記さない。「亡命して涿郡に奔(はし)る」。故郷を逃げ出して涿郡へ来た、とだけある。なぜ逃げたのか、誰を斬ったのかは書いていない。故郷で豪族ともめて人を殺した、という話は、『関帝聖蹟図志』など、ずっと後の宋の時代からの伝承である。故郷の解県には大きな塩の湖があり、塩の商人が集まる町だった。後に関羽が塩商人の守り神とされる土台は、この生地にもある。

涿郡で関羽は、(ちょうひ)と出会った。そして劉備と出会う。劉備は漢の皇族、中山靖王の子孫だと名乗っていた。三人は義勇兵を集めて、黄巾の乱の討伐に立ち上がった。

小説『』は、この三人が桃の園で義兄弟の誓いを立てたと描く。(とうえんけつぎ)、桃園の誓いである。「同年同月同日に生まれずとも、同年同月同日に死なんことを願う」。だが正史には、桃園で誓った場面はない。それでも陳寿は、劉備と関羽の関係をこう記す。「寝則同床、恩は兄弟のごとし」。同じ寝床で起き伏しし、恩は兄弟のようだった。そして生涯それを違えなかった、と。誓いの場面は小説でも、姓のちがう者どうしの兄弟の絆(異姓兄弟)は、たしかにあった。後世の桃園の絵は、この一行の上に人々が彫り重ねたものである。

劉備は黄巾討伐の手柄で、安喜県尉という小さな役人になった。関羽と張飛はその左右にいた。それから劉備は、身を寄せる先を次々に変える。公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹、劉表。190年の反董卓連合、194年の徐州の陶謙救援。どの陣営でも、関羽は劉備の側にいた。

しかし200年、その劉備が曹操に敗れる。関羽は劉備と離ればなれになった。

03白馬の一騎打ち ― 曹操のもとでの一年

200年、劉備は徐州で曹操から独立しようとした。だが曹操の先手を受けて敗れ、袁紹のもとへ落ち延びた。このとき関羽は下邳かひの城を守っていた。劉備の妻たち(甘夫人・糜夫人)を守ったまま、関羽は曹操に降伏した。

正史がわざわざ書き残したこの降伏は、後の世に「降漢不降曹」という言葉を生む。漢の朝廷には降るが、曹操には降らない、という意味だ。正史の注(裴松之の注)は、劉備の消息がわかれば戻る、という含みが降伏にあったと伝える。

曹操は関羽を惜しみ、偏将軍に任じて手厚くもてなした。同じ年の四月、袁紹の大軍が南へ下り、白馬の戦いが起こる。袁紹の先鋒は顔良。文醜と並ぶ河北の猛将で、曹操軍の徐晃らを破っていた。関羽は顔良の旗印(麾蓋)を遠くに見つけると、馬に鞭を打って突進した。一万の軍勢のただ中で顔良を刺し、その首を斬って戻ってきた。『三国志』関羽伝にそう明記されている。史書で敵将を一騎打ちで討ったと記される、めったにない場面である。曹操は関羽を漢寿亭侯に封じた。漢寿は地名、亭侯は爵位である。後世「寿亭侯」「関寿亭侯」と呼ばれる根拠は、ここにある。

そして関羽は、劉備の消息を知って去った。第1章で見た、あの別れである。正史はこう短く記す。「羽尽く其の賜えるところを封じ、書を拝して告辞し、而して先主の袁軍に在るに奔る」。あまりに短い。その短さが、後の世の想像をふくらませた。曹操の温情に応えた「三約」の話も、こうして生まれた伝承のひとつである。

『三国志演義』はこの別れの後に、大きな見せ場を置く。劉備の二人の夫人を守り、千里を駆ける「(せんりそうたんき)」。五つの関所を破り、六人の将を斬る「(ごかんろくしょう)」。だがこれらは、正史にも裴松之の注にもない、小説の創作である。史実の関羽は、曹操の礼にゆるされて、静かに袁紹軍に合流したにすぎない。

小説には、ほかにも後から加わったものがある。養子の(かんぺい)は、正史では関羽の実の子である。従者の(しゅうそう)は、完全に小説の人物だ。武器の(せいりゅうえんげつとう)も、史書は関羽の武器をそう特定していない。史実の関羽と、物語の関羽。二つの姿が、ここから枝分かれしていく。

劉備のもとへ戻った関羽を待っていたのは、南の大きな川と、天下を分ける戦いだった。

04荊州をひとりで ― 水淹七軍と威震華夏

208年、。長江で曹操の大軍が、孫権(そんけん)と劉備の連合軍に敗れた。関羽は劉備側の水軍を率いて参戦したと、『三国志』先主伝などに記される。ただし具体的な戦功はあまり書かれていない。小説にある、華容道で逃げる曹操を見逃す場面は創作である。

戦いの後、劉備の集団は荊州(けいしゅう)南部の四つの郡を手に入れた。関羽は襄陽太守・盪寇将軍として、曹操と直接国境を接する最前線に置かれた。214年、劉備は益州(いまの四川)を平定して西へ動く。215年の湘水(しょうすい)の盟で、荊州南部の長沙・桂陽が呉に譲られた。関羽は江陵・公安・零陵・武陵をまとめる立場になった。南に孫権の呉、北に曹操の魏。その要の地を、関羽はただひとりで支えていた。

219年7月、劉備が漢中王を名乗る。関羽は前将軍となり、仮節鉞(かせつえつ)を授けられた。天子の節と鉞(まさかり)を預かり、独自に軍令を出せる最高位である。小説の言う「五虎大将」の筆頭は脚色だが、蜀漢での地位が飛び抜けていたことは正史でも疑いようがない。

同年8月、関羽は北へ攻め上った。北伐である。曹仁が守る樊城(はんじょう、いまの湖北省襄陽市)を包囲した。と呼ばれる。折しも秋の長雨で、漢水(かんすい)があふれた。救援に来た曹操軍の于禁うきんの七軍を、関羽は水軍を使って水没させた。于禁は降伏し、最後まで降らなかった猛将、龐徳ほうとくは斬られた。これを(すいえんしちぐん)という。『三国志』于禁伝は「漢水溢れ、平地水数丈、禁等投降」と記す。関羽伝は「威華夏を震わしむ」と書く。威震華夏、その威が中国全土をふるわせた。曹操は都を移すことまで話し合ったという。

219年は、関羽の生涯でいちばん輝いた年だった。そして最後の年でもあった。背後で、呉が動いていた。

05麦城の敗死 ― 背後から来た呉

荊州は呉との境に接していた。孫権は「返せ」と何度も求めていた。劉備が益州を得て以降、荊州を手放さないことは、呉にとって喉に刺さった棘だった。だが関羽は呉を軽く見ていた。孫権が、自分の子に関羽の娘を、と縁組を申し入れたとき、関羽ははねつけた。「虎女どうして犬子に嫁がせんや」。虎の娘を、犬の子に嫁がせられるか。『三国志』呉主伝と関羽伝の注がそう伝える。言葉の形には異同があるが、拒絶そのものは史実の流れにある。は、味方の同盟を自分で壊す一句となった。

樊城を囲んでいる最中、呉の呂蒙りょもうは陸遜りくそんと策を練った。は病気と称して退き、後任に若いを据えた。陸遜はへりくだった手紙を関羽に送り、警戒を解かせた。関羽は荊州守備の兵を引き抜き、北伐へ回した。後ろが手薄になった。

219年閏10月、呂蒙は商人に化けて、夜の長江を渡った。白衣渡江(はくいとこう)という奇襲である。江陵と公安は一気に落ちた。関羽の妻子も、家臣の家族も、人質になった。北伐軍の補給の道は、一夜で断たれた。

関羽は包囲を解いて南へ急いだ。だが呉軍は、兵士の家族を手厚く扱った。関羽の兵は戦う気を失い、次々と逃げていった。関羽の手元には、わずか十騎あまりしか残らなかった。関羽は麦城ばくじょう(いまの湖北省当陽市)に退いて、こもった。同年12月、西暦では220年の初め、臨沮りんそ(いまの湖北省遠安県)で呉の潘璋の部将、馬忠に捕らえられた。そして子の関平とともに斬られた。麦城の敗死である。享年は正史に書かれておらず、60歳前後とされる(諸説あり)。

関羽の首は、孫権によって曹操のもとに送られた。十九年前、関羽は曹操の贈り物をすべて封じて去った。曹操はそのとき追わなかった。今度は、その首を諸侯の礼で洛陽に葬った。孫権は身体を当陽に葬った。いまの関陵である。洛陽の首塚は、後に関林として整えられた。

劉備は翌221年、関羽の仇を討つとして呉に攻め入った。だが222年の夷陵(いりょう)の戦いで陸遜に大敗し、翌年に永安で病死した。関羽の死は、蜀漢の運命そのものを狂わせた分かれ目だった。

同盟を壊し、後ろを空け、兵に去られて死んだ将軍。この人は、なぜ神になったのか。

玉は砕くべく、白きを改むべからず。竹は焚くべく、節を毀つべからず

— 『三国志演義』第七十六回、麦城の関羽が呂蒙の使者を前に語る辞(小説の整形ではあるが、関羽像の核として広く流布)

06神格化の千八百年 ― 関帝信仰と忠義の寓話化

関羽の死後、その人格像は正史の枠を越えて、中国・朝鮮・ベトナム・琉球・華僑圏の広範な地域で信仰の対象となっていった。

宋代には、徽宗が崇寧元年(1102年)に忠恵公、崇寧三年(1104年)に崇寧真君、大観二年(1108年)に武安王と、次々に追封して神格化を進めた。背景には、遼・金・西夏の圧迫を受ける北宋の政治的要請がある――「忠」の象徴を国家が必要とした。南宋の建炎二年(1128年)には壮繆義勇武安王と加封された。

明代、万暦十八年(1590年)に協天護国忠義帝として王から帝へ昇格、万暦四十二年(1614年)には三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君(関聖帝君、略して関帝)として最高位の神格となった。清代では光緒五年(1879年)の加封により、尊号は二十六字に及ぶ。孔子(文聖)と対をなす武聖として、儒教社会の最上位の神格の一つに位置づけられた。

民間信仰における関帝は、単なる武神にとどまらない。商人の守護神(信義を重んじる性格、塩商からの起源説)、科挙・学問の神(を手離さなかった故事)、警察・軍の守護神、さらには冥界の裁判官まで、多面的な役割を担う。中国大陸の山西運城(関羽の故郷)、河南洛陽(関羽の首塚=関林)、湖北当陽(関羽の身塚=関陵)は三大関廟とされ、現在も巡礼地である。

東アジア各地への伝播も厚い。朝鮮では壬辰倭乱()で派遣された明軍を機に、東廟・南廟など官立の関帝廟かんていびょうが建てられた。ベトナム(越南)や琉球(沖縄)、東南アジアの華僑圏(シンガポール・マレーシア・タイ)でも、寺院・商会・秘密結社(三合会など)の祭神として祀られる。日本には比較的浅く、横浜・神戸・長崎の中華街や黄檗宗関連の寺院に限られる。

思想史的に見れば、関羽の神格化は「忠義」という儒教的徳目の集団的寓話化である。『三国志演義』(羅貫中、元末明初)の流布と連動し、青龍偃月刀、赤兎馬、美髯公、単刀赴会(ただ一振りの刀で呉の孫権の宴に赴く)などの固有のモチーフが民衆の記憶に刻まれた。清朝の考証学者趙翼は『陔余叢考』で「関壮繆の神、後世に至りてますます盛ん」と記し、神格化の過程そのものが中国社会の「忠」の観念の変遷を映し出すと論じた。

ここで冒頭の場面に戻る。200年、封じた贈り物と一通の手紙。正史ではわずか一行のこの別れが、後世に「降漢不降曹」の降伏観を生み、小説では「千里走単騎」「五関六将」の見せ場へと膨らんだ。宋の朝廷が求めた「忠」の象徴、明清が最高位に押し上げた関聖帝君は、まさにこの一行から彫り出されていったのである。麦城で兵に去られた将軍が神になれたのは、勝ち負けではなく、負けた主君のもとへ帰ったという一点が、人々の求めるものと重なったからだ。

正史の関羽は寡黙で厳格、兵に対しては優しく士大夫には傲慢だったと『三国志』は記す。『演義』と信仰が重ねてきた美髯と温顔の関帝像は、千八百年のあいだに民衆の祈りが彫り出した「理想の忠臣」の姿であり、史実の将軍像と神の姿は分かちがたく融合している。関羽は、人が神になった稀有な事例ではなく、人が神に成っていく過程そのものを東アジアに示した、生きた象徴である。

関羽が封じて去ったものと、千八百年かけて人々が彼に贈り続けたもの。どちらが、この人の本当の姿なのだろうか。

07主要な出来事と伝承

  1. 河東郡解県(現山西省運城)に生まれる(生年は諸説あり)
  2. 黄巾の乱。涿郡で劉備・張飛と出会い義勇兵に加わる
  3. 下邳で曹操に降伏、偏将軍・漢寿亭侯に封じられる。白馬で顔良を斬り曹操の厚遇を辞して劉備のもとへ戻る
  4. 赤壁後、荊州南部の守将として襄陽太守・盪寇将軍に任じられる
  5. 劉備の益州平定に伴い、荊州全土の統括を任される
  6. 前将軍・仮節鉞に任じられる。樊城を包囲、水淹七軍で于禁を降し龐徳を斬る(威震華夏)
  7. 呂蒙の白衣渡江により江陵陥落。兵心離散し、麦城へ退却
  8. 臨沮で捕らえられ、子関平と共に処刑される
  9. 蜀漢の後主劉禅、壮繆侯の諡を追贈
  10. 北宋徽宗、忠恵公・崇寧真君・武安王と累代の追封
  11. 明万暦帝、協天護国忠義帝・三界伏魔大帝として神格の最高位へ(関聖帝君)
  12. 清光緒帝、二十六字の尊号で最終追封

残した思想の輪郭

  • 桃園結義 ― 正史にはない小説の語だが、対等な盟約に身を投じる民衆的な兄弟像の原型
  • 降漢不降曹 ― 主君不在の隙も節操を失わぬ降伏観、後世の「条件付き忠誠」論の祖型
  • 水淹七軍・威震華夏 ― 洪水を戦機に変える機略と、単独で王朝遷都を議させるほどの脅威
  • 大意を失う驕り ― 孫権の縁組を拒絶し荊州の兵を抜いたことが、自身と蜀漢の敗北を招いた教訓
  • 武聖・関帝 ― 孔子(文聖)と対をなす武の聖、宋から清にかけて国家が累代で彫り続けた神格
  • 東アジアの華僑信仰 ― 商人・警察・軍・学問の多面神として、民衆の生活と政治権力の双方に根を張る
  • 忠義の寓話化 ― 史実の寡黙で厳格な将軍から、民衆の祈りが彫り出した「理想の忠臣」への長い変化
建安24年(219年)12月、呂蒙に追われ麦城を脱出した折、臨沮で捕らえられ斬首された。子関平も同じく処刑。享年60前後(諸説あり)。

つながり

全体のつながりを見る →

さらに読むならFurther Reading

関羽(関雲長)の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。

生きた跡を辿るPlaces

関羽(関雲長)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 関林(関羽の首塚)墓所

    洛陽(河南省), 中国

    220年、孫権から送られた首を曹操が王侯の礼で葬った地。明代に祠が拡張され、約2000点の石碑と獅子像が残る

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • 解州関帝廟ゆかり

    運城(山西省), 中国

    関羽の故郷・解州に建つ関帝信仰の総本山。明代の壮大な廟建築群は国家重点文物保護単位

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

関羽(関雲長)を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。