西郷隆盛
敬天愛人とは、 どこまで人を容れることか?
討幕の刃と明治の制度を両手で握り、最後は鹿児島の士族と城山に籠もって自刃した、敬天愛人の巨人
- 敬天愛人
- 西南戦争
- 征韓論
- 大西郷
時代の空気
二百六十余年続いた幕藩体制が二十年で崩れ落ちた時代である。嘉永6年(1853)の黒船来航で目覚めた国は、安政の大獄(1858-59)、桜田門外の変(1860)、薩英戦争(1863)、二度の長州征伐を経て薩長同盟(1866)に至り、王政復古(1867)から戊辰戦争(1868-69)へなだれ込んだ。版籍奉還(1869)と廃藩置県(1871)で武士の世は終わり、岩倉使節団の留守に征韓論争(1873)が爆発、台湾出兵・江華島事件と対外膨張が進むその裏で、士族の不満は神風連・秋月・萩の乱を経て1877年の西南戦争へと流れ込んでいく。
01下加治屋町、薩摩の幼馴染
文政10年(1827年)12月7日(新暦1828年1月23日)、薩摩国鹿児島城下下加治屋町(現鹿児島市加治屋町)の下級武士西郷吉兵衛(御勘定方小頭)と母満佐(椎原氏)の長男として生まれた。幼名小吉、通称吉之助、諱は隆永のち隆盛(父の諱を明治になって誤って自分のものとして届け出、定着)、号南洲(なんしゅう)。父母のもとに四男三女があり、家計は終始苦しかった。
下加治屋町は薩摩藩の下級武士が集住する地域で、同年・同地には(一蔵)、東郷平八郎、大山巌、村田新八、篠原国幹、有村俊斎(海江田信義)、税所篤ら、のちの薩摩閥が幼馴染として育った。薩摩独特の郷中教育で、年長者が年少者を訓育する仕組みのなか、西郷は二才頭(青年リーダー)として重きをなした。
身長は6尺前後(約178センチ)、体重は16貫を超えた(約90キロ)と伝わる(数値は伝聞で諸説あり)、薩摩の豪傑そのものの偉丈夫。若き日に右腕を負傷して剣術に未練を捨てた西郷は、学問と統率力で頭角を現した。弘化元年(1844年)、17歳で郡方書役助に出仕、農政の下役人として薩摩各村を巡回した。貧農の実情に触れ続けた経験が、後年「民を安んずる」という西郷の一貫した重心を作った。犬を可愛がり、漢詩と書を生涯の友としたことも、この身体の大きな男の素顔を伝えている。
02島津斉彬、月照との入水
嘉永4年(1851年)、が薩摩藩主に就任。斉彬は薩摩藩を近代化し日本全体を動かす構想を持つ名君だった。西郷は斉彬に目をかけられ、江戸へ従者として随行(安政元年、1854年)。御庭方役(藩主の側近情報収集役)として斉彬の使者を務め、藤田東湖、橋本左内、梅田雲浜ら諸藩の志士と交流した。この数年の経験が、西郷を一地方武士から幕末政治の当事者へと押し上げた。
安政5年(1858年)7月、斉彬が急死(享年50)。直前に計画されていた藩兵5000の上京計画(安政戊午の密勅前夜の動き)は頓挫した。同年秋、井伊直弼による安政の大獄が激化。西郷は京都で尊王派の月照(清水寺成就院住職、勤王僧)を匿ったが、薩摩藩は事態を恐れて庇護を拒否。11月16日未明ごろ、西郷は月照とともに錦江湾に身を投げた(入水)。月照は溺死し、西郷だけが奇跡的に蘇生した。死ぬはずだった者が生き残ったというこの一事は、以後の西郷の挙措を低く沈ませる音色となった。
死に損ねた西郷は、奄美大島に「菊池源吾」の変名で潜伏を命じられた。流刑に近い潜居である(形式は「遠島」ではなく「島送り」)。3年間、奄美大島龍郷で地元の女性愛加那(とま、本名於戸間金)と事実婚の形で生活し、長男菊次郎、長女菊草(菊子)をもうけた。文久2年(1862年)に薩摩へ呼び戻された折、愛加那と幼い子は奄美に残された。当時の身分秩序では薩摩武士の正室にすることはできず、再婚相手はのちに改めて迎えることになる(西郷は生涯に三度結婚し複数の子をもうけた)。島で築いた家族と引き離された決断を、後年の西郷自身がどう抱えていたかは、断片的な書簡からは完全には読み取れない。
03沖永良部島、二度目の流罪
文久2年(1862年)1月、西郷は薩摩に呼び戻され、藩主の父島津久光の上洛計画に加わった。しかし急進派藩士の有馬新七らが同年4月寺田屋事件(薩摩藩士同士の粛清)を起こし、久光は西郷と大久保の意見対立にも苛立った。西郷は「大偽君子」と久光を罵ったと伝わり、再び罪人として徳之島、さらに沖永良部島に流された。
沖永良部での西郷は、当初獄舎(座敷牢)に入れられたが、島役人土持政照の助けで待遇が改善された。この一年半の流刑中、西郷は読書と思索に集中し、陽明学・水戸学・朱子学の書を読み、獄中の漢詩を多く残した。この時期の漢詩には「身を以て一剣と成す」「独り坐して万緒を観る」の類の句が繰り返し現れ、一度死に損ねて赦された者が自分の身を公に使い切ろうとする覚悟を、島の夜の中で鍛え直していたと読める。流刑地での自省と読書が、西郷の後年の思想的骨格を決めた。
元治元年(1864年)2月、大久保利通ら薩摩藩の幼馴染たちの尽力で、西郷は赦免され鹿児島へ帰還した。久光との感情的しこりは完全には解けなかったが、薩摩藩は京都政局での主導権を握るため、西郷の実行力を必要としていた。同年、西郷は京都に上り、薩摩藩軍賦役(軍事指揮官)として一躍時局の中央に立った。
04禁門の変、薩長同盟、江戸無血開城
元治元年(1864年)7月19日、京都で禁門の変。西郷は薩摩藩兵を率いて御所を守り、長州藩を京都から駆逐した。9月、第一次長州征伐の参謀に任命(総督は徳川慶勝)。西郷は征長軍を動員しつつ、長州藩家老三家老切腹などで事態を収拾し、実戦を避けて長州を屈服させた。
慶応2年(1866年)1月21日、京都小松帯刀邸(あるいは近衛家別邸とも)で、坂本龍馬の仲介によりが締結された。西郷と桂小五郎(木戸孝允)が署名、龍馬が裏書した六ヶ条の密約。薩摩は長州の後援者となり、第二次長州征伐(慶応2年、四境戦争)では出兵を拒否して幕府を見放した。
慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還、12月9日の王政復古の大号令。慶応4年(1868年)正月、鳥羽伏見の戦いで薩長軍が幕府軍を破り、戊辰戦争が始まる。西郷は東征大総督府下参謀として江戸へ進軍。同年3月13日・14日、江戸の薩摩藩邸(少なくとも14日の会見地は芝田町の薩摩藩蔵屋敷、13日については高輪説あり)で勝海舟と会談し、江戸無血開城を合意した。4月11日、江戸城は無血のうちに開城された。その後、上野戦争(5月、彰義隊壊滅)、東北戦争、会津戦争(9月22日落城)、翌函館戦争と続き、戊辰戦争は明治2年(1869年)5月に終結した。
05廃藩置県、征韓論、下野
明治2年(1869年)、西郷は薩摩に帰藩し、藩政改革に取り組んだ(士族の農業奨励、軍制改革)。しかし明治政府は、藩体制を廃止して中央集権化する必要に迫られていた。明治4年(1871年)7月、西郷は再び政府に呼ばれ、薩摩・長州・土佐の御親兵(後の近衛兵)を背景に、廃藩置県を断行。三条実美・岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らとともに明治維新の制度的総仕上げを担った。西郷は参議、陸軍大将(明治5年)として政府首脳の中核となる。
明治4年末から明治6年までの岩倉使節団(岩倉・木戸・大久保・伊藤博文ら)の留守政府で、西郷は留守番首班として学制・徴兵制・地租改正・太陽暦採用などの近代化改革を推進した。だが政府内部で、征韓論(当時の朝鮮王朝との国交樹立問題)が爆発する。
明治6年(1873年)、西郷は遣韓大使として単身朝鮮に渡り、死を覚悟して使節の任に就き、交渉が成れば国交樹立、という策を主張した(これが一般に「征韓論」と呼ばれるが、西郷自身の書簡を厳密に読めば遣韓使節派遣論と位置づけるべきとする研究も多い)。帰国した岩倉・大久保・木戸は「内治優先」を主張して西郷案を退け、明治六年政変(10月)で西郷・板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平ら参議5名が下野した。西郷は鹿児島へ帰郷した。
敬天愛人。
06私学校、城山 ― 西南戦争
明治7年(1874年)、鹿児島に帰った西郷はを設立した。下野した西郷を慕う士族と旧薩摩藩兵の青年たちの教育機関で、県下の村ごとに分校が設けられ、事実上、鹿児島県は私学校と西郷の支配下に入った(県令は西郷の私学校党の大山綱良)。政府からは独立した武装勢力に近い様相を呈し、中央の大久保政権との緊張は高まる一方だった。同じ時期、肥前で江藤新平の佐賀の乱(1874年2月)、九州・山口で神風連の乱・秋月の乱・萩の乱(1876年)が相次ぎ、士族不満の波が西郷の足元へ寄せていた。
明治10年(1877年)1月、政府が鹿児島の武器弾薬を大阪へ搬出しようとしたことを契機に、私学校生徒が弾薬庫を襲撃。西郷は事態を抑えきれず、「政府へ尋問」(政府の西郷暗殺計画の噂を問い質す、という形式)の名目で兵を挙げた。である。挙兵の真意については、政府による挑発と暗殺計画の存在を信じての已む無き決起、私学校生徒の暴発を抑えきれぬまま盟主としてかぶった責任、敗れることを覚悟した上での士族の大義の引き受け、など諸説が並立し、西郷自身の手による弁明文書はほとんど残されていない。
2月、西郷軍は薩摩兵約1万3千で挙兵し、最盛期には九州各地から馳せ参じた者を含めて4万近くまで膨らんだとされる。熊本城を包囲したが、谷干城が守る熊本城は52日間の籠城戦に耐え、田原坂の戦い(3-4月)で政府軍の新式小銃と物量に押された。薩軍は人吉・宮崎・延岡と南下、最後は九州を迂回して鹿児島城下へ戻った。9月24日早朝、城山に籠った約300名の薩軍に政府軍が総攻撃。西郷は銃弾で股を撃たれ、立てなくなったところで従者別府晋介に「晋(どん)、もうここらでよか」と言って介錯を頼み、自刃した。享年49(満49歳)。
政府は西郷を「賊軍」として扱ったが、旧薩摩の怒りと世情の同情から、遺体は丁重に扱われた。南洲墓地(鹿児島市上竜尾町)に葬られ、西南戦争の戦死者約2000名とともに眠る。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で名誉回復、正三位を追贈された。明治31年(1898年)には高村光雲作の銅像が東京・上野公園に建てられ、賊将から「最後の真の侍」という国民的偶像へと、死後の西郷像は明治後期に大きく書き換えられていく。生身の人間と神格化された伝説のあいだの距離は、今もなお埋まりきっていない。
07残したもの ― 敬天愛人
西郷は体系的著述を遺さなかった。現在知られる西郷思想の多くは、『』(明治23年、旧庄内藩士たちが戊辰戦争後に西郷から受けた薫陶を書き留めた遺訓集)、書簡、詩文を通じて伝えられる。中核の言葉は敬天愛人(けいてんあいじん)。「道は天地自然のものなり。故に人は之を行ふを以て主とす」。
敬天は、天(道理、自然、人を超えるもの)への畏敬。愛人は、差別なき人への愛。この二語で、西郷は公的行動の基軸を据えた。「己れを愛するは善からぬことの第一なり」(遺訓第24条)― 私心を無くすことが為政者の第一条件。児孫の為に美田を買わず(南洲の遺偈)― 子孫に財産を遺さないという言明。西郷の清貧と無私は、明治の俗物官僚への痛烈な対比として、時代を超えて語り継がれた。
影響は多岐にわたる。明治の内村鑑三『代表的日本人』が西郷を第一に挙げ、徳富蘇峰の西郷論、戦前右翼思想の西郷像(三島由紀夫まで)、そして戦後の司馬遼太郎『翔ぶが如く』に至るまで、西郷は常に日本人の鏡として参照され続けた。岩倉具視の洋行・近代化路線に対する対抗軸、大久保利通の冷徹な合理主義への対抗軸、として西郷はもう一つの明治を象徴する。征韓論の評価をめぐる論争(侵略論の先駆か、平和的使節論か)は、今なお研究の焦点である。
08主要な出来事と著作
- 1月23日(文政10年12月7日)、薩摩鹿児島下加治屋町に誕生。幼名小吉
- 17歳、郡方書役助として藩役人に。農村を巡回
- 藩主島津斉彬に従い江戸へ。庭方役として志士と交流
- 斉彬急死。11月、月照と錦江湾に入水、一人生還。奄美大島へ潜居
- 奄美大島で愛加那と事実婚、長男菊次郎ら誕生
- 帰藩するも島津久光と対立、徳之島・沖永良部島へ再流罪
- 2月赦免、京都に上り薩摩藩軍賦役に。7月禁門の変で指揮、9月第一次長州征伐参謀
- 1月薩長同盟、坂本龍馬の仲介で桂小五郎と同盟締結
- 東征大総督府下参謀として江戸進軍、3月勝海舟と会談し江戸無血開城
- 戊辰戦争終結、薩摩に帰藩して藩政改革
- 7月、廃藩置県を断行。参議として政府首脳に
- 10月、明治六年政変で征韓論敗北、下野して鹿児島へ
- 鹿児島に私学校を設立、事実上の武装勢力化
- 2月西南戦争勃発、熊本城籠城戦・田原坂の戦い
- 9月24日、城山で別府晋介の介錯により自刃。享年49
- 2月、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で正三位追贈
- 『南洲翁遺訓』刊行(旧庄内藩士編)
残した思想の輪郭
- 敬天愛人 ― 天への畏敬と差別なき人への愛、西郷思想の全体を貫く一語
- 無私と清貧 ― 「児孫の為に美田を買わず」、子孫に財を遺さぬと明言した為政者像
- 身体の誠 ― 体系的著作を遺さず、行為そのもので人を動かしたリーダーシップ
- ― 勝海舟との会談で百万都市の戦火を回避、戊辰戦争の転轍点
- 薩長同盟と廃藩置県 ― 討幕と近代国家建設の両輪を手で握った明治維新の最高功臣
- 征韓論(使節派遣論)をめぐる論争 ― 侵略の先駆か、平和的交渉案か、解釈は今も割れる
- 西南戦争と城山 ― 敗者として死ぬことで、勝者の明治国家に対する倫理的鏡となった
- 『南洲翁遺訓』 ― 遺訓41ヶ条+追加が、書物を遺さなかった西郷の思想の事実上の核
出典と確認メモ
6件- 解釈一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 明治23年、西郷の死から13年を経て、かつて戊辰戦争で敵対した旧庄内藩の旧臣たちが、降伏後に受けた寛大な扱いへの感謝から編んだ『南洲翁遺訓』に置かれた四字。天を畏れ、人を愛する ― 討幕の最高功臣であ...
- 文脈伝承として記録伝承
伝承: 西郷隆盛(1828–1877)は身長6尺前後(約178センチ)、体重16貫超(約90キロ)と伝わる薩摩の偉丈夫(数値は伝聞で諸説あり)。若き日に右腕を負傷して剣術に未練を捨て、学問と統率力で頭角を現し...
- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 明治10年(1877年)1月、政府が鹿児島の武器弾薬を大阪へ搬出しようとしたことを契機に、私学校生徒が弾薬庫を襲撃。西郷隆盛は事態を抑えきれず、『政府へ尋問』(政府の西郷暗殺計画の噂を問い質す形式)の...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 敬天愛人
一次資料を開く青空文庫公開の『南洲翁遺訓』全文。第二十一条 '敬天愛人' を含む。山田済斎『大西郷遺訓』(岩波文庫 1939) を底本
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 敬天愛人。
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 南洲翁遺訓(明治23年、旧庄内藩士がまとめた西郷語録より)
一次資料を開く青空文庫公開の『南洲翁遺訓』全文 (岩波文庫底本 1939 山田済斎編)。書誌情報 (1890 初版 + 庄内藩士菅実秀ら編纂) を巻末注記で確認
つながり
- 高杉晋作
同時代 — 薩長同盟(慶応2年)をはさむ幕末志士の同時代、直接の協働関係ではなく討幕陣営としての並走
- 大久保利通
対比 — 薩摩幼馴染の友情から明治の決裂、西南戦争で刃を交える二極
- 勝海舟
伴走 — 慶応4年3月の江戸薩摩藩邸会談で江戸無血開城を合意、幕臣と薩軍参謀の対話
生きた跡を辿るPlaces
西郷隆盛が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
西郷隆盛を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「西郷隆盛」項
WikipediaWikipedia 日本語版「維新の三傑」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Saigō Takamori"
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