高杉晋作
つまらない世の中を、 面白くするのは誰か?
松下村塾の俊英として奇兵隊を編成し、功山寺挙兵で長州藩の流れを変え、27歳で結核に倒れた幕末長州の火付役
- 奇兵隊
- 功山寺挙兵
- 下関戦争
- 三千世界
外国の軍艦が海の向こうから迫り、藩の中は幕府に従うか戦うかで割れていた — ひらく
時代の空気
幕末、ペリー来航(1853)で開国が迫り、安政の大獄(1858-59)で吉田松陰が刑死(1859-10)、桜田門外で大老井伊直弼が暗殺(1860)。薩英戦争(1863)・下関外国船砲撃(1863-05)で攘夷の現実が露呈し、八月十八日政変(1863-08-18)で長州七卿は都落ち、禁門の変(1864-07)で久坂玄瑞ら自刃。第一次長州征伐(1864-08)で藩は恭順、結核も流行する崩壊期だった。
01八十四人で、自分の藩に刃を向ける
1864年12月15日。長府(ちょうふ、現山口県下関市)の功山寺(こうざんじ)に、若者たちが集まった。その数は84人ほど(諸説あり、60〜100名の範囲)。率いるのは、25歳の高杉晋作だった。
相手は幕府(江戸の将軍の政府)ではない。自分たちの藩、長州の政府だった。藩はこのとき、幕府に頭を下げる方針を決めていた。幕府と戦おうとした人たちは、次々に処刑されていた。家老三人も、責任を取って切腹させられたばかりだった。
寺には、京都を追われた三条実美(さんじょうさねとみ)ら公家たちが身を寄せていた。晋作は本堂の前で、彼らに向かって言ったと伝わる。「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけもうす」(伝承、諸説あり)。そして手勢を率いて下関へ下り、新地会所(藩の出先の役所)を襲った。三田尻(みたじり)の海軍局からは、軍艦まで奪った。
味方はわずか。相手は藩の正規軍。勝てる見込みは、ほとんど無かった。なぜ、この男はたった84人で自分の藩に刃を向けたのか。その答えを探すために、時は25年前に戻る。
02萩、身分の高い家の子
1839年、晋作は長州の城下町、萩(はぎ)に生まれた。父は高杉小忠太。200石の上士(じょうし)、つまり身分の高い武士の家だった。師となる吉田松陰(よしだしょういん)は下級武士の集落で育った。それに対して晋作は、藩の学校、明倫館(めいりんかん)で学べる特権階級の子だった。
名は何度も変わる。幼いころは和介、のちに諱(いみな、本名)を春風(はるかぜ)と改めた。通称が晋作、号は東行(とうぎょう)。藩を抜け出したり身を隠したりするたびに、偽名も使った。谷潜蔵・谷梅之助・谷暢夫(たにちょうふ)など、その数は多い。
幼いころから学問と武芸に秀でた。1852年に明倫館に入学した。15歳の1854年からは神道無念流(しんとうむねんりゅう)の剣と槍を修行した。明倫館の学問の中心はだった。中国の朱子がまとめた儒教の学問で、幕府が正式に認めた教えである。晋作はそれに飽き足らなかった。
1857年、18歳で(しょうかそんじゅく)の門を叩いた。松陰が開いた小さな私塾である。学んだのは約14ヶ月。松陰は「暢夫(ちょうふ、晋作の字)の才は一歩進んで狂に入らば大成すべし」と評した。狂(きょう)とは、型を越えて進む者のこと。識見の(くさかげんずい)と、気骨の晋作。松陰は二人を対にして置いた。
型を越える、とはどういうことか。晋作はやがて、それを自分の身体で知ることになる。
03江戸、そして師の死
1858年、晋作は江戸へ遊学に出た。幕府の学校、昌平坂学問所(昌平黌)で講義を聴いた。一橋家の家臣としての修行も兼ねていた。西洋の学問に通じた(さくましょうざん)や、横井小楠ら開明派の人物にも触れた。世界は、萩で習ったよりずっと広かった。
1859年10月、知らせが届く。師の松陰が、江戸伝馬町で処刑された。幕府に逆らう者を取り締まる、安政の大獄のさなかだった。晋作は急いで萩へ帰った。
1860年、井上家の雅子(マサ、史料により表記揺れあり)を妻に迎えた。上士の家督を継ぐ位置に、晋作は置かれた。だが心はすでに、藩の枠の外を見ていた。藩の外、それも海の向こうを。
04上海で、負けた国を見る
1862年4月、22歳の晋作は幕府の船、千歳丸(ちとせまる)に便乗して上海へ渡った。このは、日本の幕府船が上海に入港した最初期の一つである。滞在は約2ヶ月。晋作が見たのは、太平天国の乱(清の大きな内乱)の末期の混乱だった。
そして租界(そかい、外国人が支配する区域)があった。アヘン戦争に負けた後の清は、事実上の半植民地に陥っていた。西洋列強の軍事と経済が、街の奥まで入り込んでいる。清は、それに対して無力だった。
帰国後の手記『遊清五録』(『上海掩留日録』などを含む)は、切実である。日本が清と同じ道を辿らないための方策を、繰り返し説いた。1862年末、晋作は江戸で同志11名と(みたてぐみ)を血盟結成した。桂小五郎・久坂玄瑞・伊藤博文らが名を連ねた。
1863年1月、品川御殿山の英国公使館を焼き討ちした。攘夷(じょうい、外国人を追い払うこと)を論じる側ではない。攘夷の手を動かす側に、晋作は立ち始めていた。だが本当に、外国を打ち払えるのか。その答えは、下関の海峡で、砲声とともにやってくる。
05奇兵隊、身分のない軍
1863年5月10日、長州藩は朝廷が定めた攘夷の期日に合わせて動いた。下関海峡を通るアメリカ・フランス・オランダの船を、一方的に砲撃したのである()。西洋列強は報復の準備に入った。同年6月、藩は海岸の守りを固めることを決め、晋作を呼んだ。
晋作が提案したのは、身分にとらわれない志願制の軍だった。6月6日頃(6日説・7日説あり)、下関の豪商、(志士たちを支えた商人)の屋敷でが結成された。武士だけでなく、農民・町人・力士・僧侶を受け入れた。階級は、志願と能力で決めた。
名の「奇」は、正規でないという意味である。藩の正規軍(撰鋒隊など)に対する呼び名で、兵法書『孫子』の正兵・奇兵の考えに由来する。晋作は総督(創設時は「総奉行」、後に総督に名称変更)を務めた。武士でない者が武士と並んで戦う。それだけで、この時代には大きな挑戦だった。奇兵隊の仕組みそのものが、幕末の身分制の壁を実戦で打ち破る思想的実験だった。
しかし晋作の総督期間は短い。同年8月、奇兵隊士と藩の正規軍先鋒隊が衝突した(教法寺事件)。晋作はその責任を取って総督を辞任し、萩で謹慎となった。奇兵隊はその後、山県有朋、赤根武人、三好軍太郎らの指揮下に入る。晋作が謹慎している間に、藩は坂道を転げ落ちていく。
06京を追われ、友を失い、藩は頭を下げる
1863年8月18日の政変で、長州藩は京都から追放された。会津と薩摩が手を組み、幕府と朝廷の協調を望む一派が、攘夷急進派を一掃したのである。三条実美ら七卿(七人の公家)は、長州へ落ちのびた。
翌1864年7月19日、長州は京都での復権を目指して兵を出した。(蛤御門の変)である。薩摩・会津・桑名の連合軍に撃破された。久坂玄瑞・寺島忠三郎ら、松下村塾の仲間の多くが戦死し、あるいは自刃(じじん、自ら命を絶つこと)した。晋作はこのとき藩を抜け出して京都を離れており、難を免れた。ただし藩の命令に背いた罪で、野山獄に投獄されることになる。
同年8月、四国連合艦隊が下関を砲撃した(下関戦争、馬関戦争)。イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊である。長州の砲台は壊滅し、藩は全面降伏した。晋作は講和の全権として交渉に臨んだ。家老宍戸備前の名を騙り、「宍戸刑馬」の変名を使ったと伝わる(交渉時の名乗りと藩の公式上の扱いには解釈差がある)。賠償金は幕府に付け替える形で決着させたと伝わる。彦島の租借要求も退けたとされる(この逸話は後世の脚色が多いが、和約交渉に臨んだ事実は確認される)。
藩の中では、幕府に従おうという一派(俗論派、椋梨藤太らが主導)が力を持った。第一次長州征伐に対して藩は頭を下げる方針を採り、攘夷派の要人を処刑した。12月、三家老が責任を負って切腹した(益田親施・福原越後・国司信濃)。長州は完全に守勢に追い込まれた。
松陰は死んだ。久坂も死んだ。藩は幕府に頭を下げた。そして同じ12月、晋作は功山寺に立った。
07ふたたび功山寺
ここで、冒頭の場面に戻る。なぜ、たった84人で自分の藩に刃を向けたのか。読者はもう、その材料を手にしている。上海で、外国に負けた国の姿を見た。松陰は、型を越えて進めと言った。奇兵隊は、身分がなくても人は戦えると証明した。久坂は京で死に、藩は頭を下げた。
このは、幕府に従う藩の方針を武力で引っくり返すための、絶望的な賭けだった。伊藤博文(当時は伊藤俊輔)の力士隊、石川小五郎の遊撃隊などが加わった。各地の諸隊も呼応した。1865年1月の大田・絵堂の戦いで、俗論派の正規軍を破った。1865年初頭までに、藩の方針は再び討幕派(正義派)が握った。晋作の挙兵は、幕末の流れを逆転させた決定的事件だった。
「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」。晋作がこの時期に愛した都々逸(どどいつ、三味線に合わせて歌う短い歌)である。大きな見得(みえ)の裏に、疲れとあきらめもにじむ。
藩は救った。だが、晋作の身体には、もう別の敵が入り込んでいた。
08勝ち戦と、忍び寄る病
1865年から1866年にかけて、晋作は長州藩の軍の改革を進めた。(四境戦争)に備えるためである。藩はイギリス商人トーマス・グラバー経由で洋式銃(ミニエー銃)を大量に買い入れた。軍の近代化を指揮したのは(おおむらますじろう)だった。同志内藤伊兵衛らとの過酷な訓練と奔走のなか、1865年春には結核の初期症状が現れていたとされる。
1866年1月21日、京都でが結ばれた。西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)の間で、坂本龍馬が仲介した。晋作は体調を崩し、京都行きを辞退している。
同年6月7日、四境戦争が始まった。晋作は海軍総督として軍艦丙寅丸(ひのえとらまる、英国製小型汽船)を指揮した。周防大島口と小倉口で、幕府海軍を破った。小倉口の戦いでは、自ら艦橋に立って指揮したとの記録がある。8月1日、幕府は将軍家茂の死を機に休戦・講和へ動いた。長州は事実上の勝者となった。
勝った。しかし、その勝ちの先を見届ける時間が、晋作にはもう残されていなかった。
おもしろき こともなき世を おもしろく
09東行の終焉
肺結核は急速に進んだ。1866年秋以降、晋作は吐血を繰り返して療養に入った。身を寄せたのは、下関新地の桜山にある林算九郎邸の離れ。と(のむらぼうとうに)が看護した。
1867年4月14日(旧暦)、晋作はこの療養先で静かに息を引き取った。享年27(満27歳)。年表にすれば、、の一行である。桜山の招魂場(しょうこんじょう)を望む地での死だった。松陰以下の同志を祀るその場所は、晋作自身が建議した最初期の招魂社である。
辞世は「おもしろき こともなき世を おもしろく」。上の句は晋作、下の句「すみなすものは心なりけり」は看取った野村望東尼が付けたと伝わる。上の句の初出時期にも諸説ある。遺髪は下関の東行庵(とうぎょうあん)に納められた。おうのが髪を下ろして守った庵で、現在の東行記念館である。遺骨は山口市の清水山に葬られた。
維新の3ヶ月前だった。大政奉還も王政復古も見ずに、晋作は去った。、伊藤博文や桂小五郎は、晋作の見なかった時代を生きることになる。
おもしろき こともなき世を おもしろく。
10残したもの ― 狂と軽さ
晋作を理解するには、狂(きょう)と軽さの二語が鍵である。松陰が「一歩進んで狂に入らば大成すべし」と評した狂は、儒教的には「中庸を越えて進む者」を指す(『』子路篇)。制度と身分の枠内で最適解を探す官僚的合理性ではなく、枠の外に足を踏み出す跳躍の力。奇兵隊も功山寺挙兵も、この意味での狂の所産である。
一方、晋作には同時代人が等しく記す軽さがある。三味線を弾き、都々逸を唸り、遊里で遊び、愛人を持ち、辞世を諧謔で始める。深刻さの対極にある姿勢を、27年の短い命に張り付かせていた。「三千世界の鴉を殺し」の破天荒な大見得と、その裏にある倦怠と諦念は、晋作という人格の両義性を映す。「」という語り出しは、時代への失望だけでなく、世を面白くする主体の自覚を含む。外からの意味を待たず、自分の側で世を面白くするという挑発が、辞世の真骨頂である。
影響の系譜は明白である。伊藤博文・山県有朋は奇兵隊を実戦で率い、明治政府で長州閥を形成した。山県の近代陸軍構想、大村益次郎・山県の徴兵制は、奇兵隊の「身分を超えた兵」の延長上にある。思想面では、晋作自身は体系的著作を遺さなかったが、『東行先生遺文』『暢夫遺稿』などに詩文・書簡が集められ、軽みと胆力の幕末像として司馬遼太郎『世に棲む日日』ほか多数の文学作品で再生産され続けている。
功山寺の84人は、世が面白くなるのを待たなかった。では、いま自分の目の前にある「面白きこともなき世」を、面白くするのは誰なのか。
11主要な出来事と著作
- 8月20日、長州萩の上士高杉小忠太の長男として誕生
- 藩校明倫館に入学
- 18歳、松下村塾に入門。松陰が「暢夫の才」を高く評価
- 千歳丸で上海渡航、清の衰亡と西洋列強の浸透を目撃
- 帰国後、江戸品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加
- 下関事件(5月)。6月上旬(6日または7日、諸説あり)、白石邸で奇兵隊結成、総督に
- 8月、教法寺事件の責任で総督辞任、萩で謹慎
- 禁門の変(久坂玄瑞ら戦死)。8月、四国連合艦隊との下関講和に宍戸刑馬の名で臨む
- 12月15日、長府功山寺で挙兵、俗論派の藩論を武力で覆す
- 大田・絵堂の戦いで正義派が藩論を奪還
- 1月薩長同盟成立。6月、四境戦争で海軍総督として丙寅丸を指揮、幕府海軍を破る
- 秋、肺結核を発症、療養に入る
- 4月14日、下関新地の林算九郎邸離れで没。享年27。東行庵に遺髪を納める
残した思想の輪郭
- 奇兵隊 ― 身分を超えた志願制の軍、士農工商の壁を実戦で破った幕末最大の制度的実験
- 狂 ― 松陰が見出した「枠を越えて進む力」の体現者、制度合理性ではなく跳躍の論理
- 功山寺挙兵 ― 84名(諸説あり、80-100名の範囲)で藩論を覆した、幕末維新史の決定的な分岐点
- 軽さと諧謔 ― 三味線・都々逸・遊里遊び、辞世の軽みに宿る世を面白くする主体の自覚
- 上海体験 ― 半植民地化した清の実見が、長州の攘夷から開国倒幕への転換の土台
- 近代軍の範型 ― 奇兵隊の精神が伊藤・山県を経て明治の徴兵制・国民軍に接続
- 『東行先生遺文』 ― 詩文・書簡から読み取れる、27年に凝縮された長州の火付役の肖像
つながり
全体のつながりを見る →生きた跡を辿るPlaces
高杉晋作が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
高杉晋作を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「高杉晋作」項
WikipediaWikipedia 日本語版「奇兵隊」項
高杉が創設した身分混成の部隊
WikipediaEnglishWikipedia English — "Takasugi Shinsaku"