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実践の知

勝海舟

Katsu Kaishū·1823–1899·日本(幕末・明治)·

幕府の側で、 どこまで大きく負けるか?

幕臣として太平洋を渡り、咸臨丸艦長・軍艦奉行・陸軍総裁を歴任し、江戸を無血で開城させた最後の幕府政治家

  • 咸臨丸
  • 江戸無血開城
  • 海舟
  • 氷川清話

時代の空気

黒船来航(嘉永6年・1853年)以降、幕府は阿部正弘の海防策で諸藩の声を吸い上げ始めるが、安政の大獄、桜田門外の変、長州征伐、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争(1868-69)と政局は急流を下る。版籍奉還・廃藩置県が士族の身分を解体し、岩倉使節団が西洋を見て回るかたわら、新政府は旧幕臣を実務官僚として抱え、海軍創設と不平士族の不満が同じ時間に進んでいた。

01本所亀沢町、剣と蘭学

文政6年(1823年)1月30日(新暦3月12日)、江戸本所亀沢町(現墨田区両国)で、男谷家から分家した勝小吉(家禄41石の旗本はたもと)の長男として生まれた。幼名麟太郎、諱義邦(のち安芳)、通称安房守あわのかみ、号海舟(かいしゅう、別号鈍翁)。父小吉は破天荒な旗本で、無役の貧乏暮らしだったが、息子には独自の教育観を持った(後年、自伝『夢酔独言むすいどくげん』を残す)。

麟太郎は7歳で将軍徳川家慶の世子家定の遊び相手(御小姓)候補に選ばれたが、父小吉の不品行で沙汰止みとなった。10代の麟太郎は男谷精一郎(剣豪、父の従兄弟)に直心影流の剣を学び、19歳で免許を受けた。同時期に島田虎之助に師事。島田の「これからは蘭学だ」という勧めで、麟太郎は剣を辞めて蘭学らんがくに転じる。

天保13年(1842年)、20歳で永井青崖について蘭学を始めた。極貧のなか、オランダ語辞書『ドゥーフ・ハルマ』(蘭日辞書)を一年がかりで書写し(貸本で借りて夜通し筆写)、独学で蘭書を読む力を身につけた。弘化3年(1846年)、赤坂田町に氷解塾(蘭学塾)を開設。独学で積み上げた蘭学と砲術ほうじゅつの蓄えが、やがて幕府から招集される力となる。

02長崎海軍伝習所、咸臨丸

安政2年(1855年)、幕府はオランダから贈呈された軍艦観光丸(スームビング号)を長崎に配備し、長崎海軍伝習所を開設した。麟太郎(32歳)は第一期生として派遣され、オランダ人教官ペルス・ライケン・カッテンディーケらから航海・砲術・造船・オランダ語を学んだ。同期には榎本武揚、伊東祐亨、甲賀源吾(後の元帥候補)、中牟田倉之助(佐賀藩)らがいる。約3年半の長崎滞在で、海舟は日本人として最も体系的な西洋海軍教育を受けた。

安政6年(1859年)、麟太郎は軍艦操練所そうれんじょ(江戸築地)の教授方頭取として帰任。翌万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書を米国に届ける万延元年遣米使節団の護衛艦として、咸臨丸(オランダ製180馬力木造蒸気船)が派遣された。麟太郎は艦長格(軍艦奉行ぐんかんぶぎょうは木村喜毅=摂津守)。日本人が自力で太平洋を横断した最初期の船旅とされるが、浦賀-サンフランシスコ間の遠洋操船・航海運用の指導では米国海軍大尉ジョン・M・ブルック(John M. Brook)が大きな役割を果たした(荒天時には多くの日本側乗組員が船酔いで動けず、ブルック側の支援が記録される)。

1月19日横浜出港、2月25日サンフランシスコ到着。約40日の航海だった。海舟は現地で市会議員や海軍士官と交流し、西洋文明の末端(病院・造船所・議会)を観察した。福沢諭吉、ジョン万次郎、木村喜毅らが同乗。5月5日、浦賀帰港。

03軍艦奉行、神戸海軍操練所、坂本龍馬

文久元年(1861年)、海舟は軍艦頭取、文久2年(1862年)軍艦奉行並、元治元年(1864年)軍艦奉行(2000石格)に昇進。幕府海軍の最高指揮官となる。海舟の戦略は、日本全体の海軍を幕府・諸藩横断で一元化することで、列強の脅威に対抗することだった。

文久3年(1863年)、海舟は(幕府の公式機関、正式開設は元治元年=1864年)の設置構想と用地借受を進め、隣接する私塾(海軍塾)を合わせて設立した。ここに坂本龍馬(土佐脱藩浪士)、陸奥宗光(紀州)、伊東祐亨(薩摩)、佐藤与之助、望月亀弥太、近藤長次郎ら諸藩の志士が集まった。海舟は龍馬を「あいつは大変な人物だ」と評し、龍馬は海舟を「日本一の人物」と手紙に書いた。この師弟関係は、のちの薩長同盟・大政奉還構想へ強い影響を与えた一因とされる(因果関係の強さには諸説あり)。

しかし元治元年(1864年)蛤御門はまぐりごもんの変(禁門の変)に海舟の塾生の一部(望月亀弥太ら)が関与したことを幕府が問題視し、同年10月海舟は軍艦奉行を罷免、神戸海軍操練所は閉鎖された。海舟は江戸に戻り、閉門へいもんに近い状態で2年を過ごした。龍馬ら塾生は薩摩藩に引き取られ、亀山社中(後の海援隊)へと繋がっていく。

04再起、陸軍総裁、江戸無血開城

慶応2年(1866年)、第二次長州征伐(四境戦争)が幕府の敗北に終わると、幕府は海舟を再登用した。軍艦奉行復職。同年、下関で海舟は長州側の広沢真臣と停戦交渉を行ない、事実上の幕府の敗北を認める和約に漕ぎつけた。慶応3年(1867年)10月大政奉還、12月王政復古。

明治元年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸へ逃げ帰った。海舟は陸軍総裁(1月17日)に任じられ、幕府の軍事最高責任者となる(海舟はこれを名誉職と理解していたが、事実上の戦争指揮官)。東征軍(官軍)が江戸に迫るなか、海舟は徹底抗戦を主張する小栗忠順・榎本武揚ら強硬派を抑え、無血開城むけつかいじょうの道を探った。

3月5日、海舟は山岡鉄舟を駿府の西郷隆盛(東征大総督府下参謀)のもとに使者として派遣し、停戦交渉の糸口をつけた。3月13日・14日、江戸の薩摩藩邸で海舟と西郷が直接会談した(通説では3月13日は高輪の薩摩屋敷、3月14日は芝田町の薩摩藩蔵屋敷)。海舟は徳川家の存続、慶喜の助命、江戸城の無血開城を提案、西郷がほぼ受諾した。4月11日、江戸城は無血開城された。江戸百万の市民と20万の旗本・御家人の生活が、この会談で守られた。

その後、上野戦争(5月15日、彰義隊壊滅)、東北戦争、函館戦争(明治2年5月、榎本武揚の五稜郭降伏)へと続くが、江戸の首都機能は無傷で新政府に引き継がれ、江戸は東京と改称されて奠都の基盤となった。

05明治維新後 ― 静岡、参議院、伯爵

徳川家と幕臣の行く末をつける仕事が、海舟には残された。明治元年(1868年)7月、慶喜と徳川家臣団は駿府(静岡)に移住し、海舟もこれに従った。勝ったのは西郷、負けたのは慶喜 ― そのどちらの側にも立たず、海舟は3万家に及ぶ旗本・御家人の身の振り方を世話する役を引き受ける。困窮した旧幕臣への就職斡旋、新政府への出仕仲介、自殺した旗本の遺族への援助など、膨大な実務を明治初年の数年間こなした。

明治5年(1872年)、政府は海舟を海軍大輔たゆう(事実上の海軍次官)に任じ、東京に呼び戻した。明治6年(1873年)海軍卿かいぐんきょうに昇任するも、明治8年(1875年)辞任。政府からの度重なる要職への推挙を海舟は多く辞退した。明治10年(1877年)西南戦争では、海舟は勝海舟の名で政府と西郷双方に密書を送り停戦を試みたが、間に合わなかった。西郷の死を深く悼んだ記録が複数残る。

明治20年(1887年)伯爵。明治21年(1888年)枢密顧問官。爵位と顕職に与かりながら、海舟は幕末以来の旧幕臣の代弁者として振る舞い続けた。とくに徳川慶喜の名誉回復(維新後の蟄居ちっきょからの復権)を生涯の課題とし、明治35年(1902年)に慶喜が公爵に列せられる道筋を海舟の死後まで見届けた人々に託した。

行くところにあらずんば、必ず渡るところあり。

『海舟座談』巌本善治編(明治31年)ほか談話集より

06氷川清話 ― 語り手としての晩年

明治23年(1890年)前後から、海舟は東京赤坂氷川町(現赤坂6丁目、氷川神社近く)の自邸 ― 通称氷川邸ひかわてい ― に、記者・文人・旧幕臣を招いて幕末回顧の談話を語った。巌本善治(明治女学校長、『女学雑誌』編集者)、吉本襄(速記そっき者)、徳富蘇峰らが海舟の話を聞き書きした。これらが『』(明治30年、1897)、『海舟座談』(明治31年、1898)、『海舟日記』(死後公刊)として刊行される。

海舟の語りは、幕末の当事者として西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・福沢諭吉・坂本龍馬・小栗忠順・徳川慶喜らを間近に見た人の具体的な人物評である。「西郷はえらかったよ」「福沢はあゝいう人だ」「小栗は惜しい男を殺した」といった直裁な評言は、維新史研究の一次史料として重要視される(ただし海舟の語りは美化や自己正当化を含むので、他史料との突き合わせが必要)。

瘠我慢の説やせがまんのせつ』論争(明治24年、1891)では、福沢諭吉が海舟・榎本武揚らの「旧主を見捨てて明治政府に出仕した節操」を批判した公開書簡に対し、海舟は「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」と一行で応じた。咸臨丸での同船以来、互いを意識し続けた二人の関係は、ここで公然たる対立として刻まれる。この応答は、海舟の禅的な達観と、弁明を拒む美学を象徴する挿話として広く知られる。

07残したもの ― 負け方の知恵

海舟の思想の核は、体系的な哲学よりも実務の知恵として現れた。第一は、大局を見て局所を譲る。は、幕府の面目を捨てて江戸百万の命を取る選択だった。第二は、身分より能力。海舟は幕臣でありながら、坂本龍馬ら諸藩脱藩浪士を公然と塾生にし、維新後は旧幕臣だけでなく旧薩長の人物とも交流を絶たなかった。第三は、政治は詩である。合理的計算だけでなく、機微と人情で動くという感覚を海舟は生涯持ち続けた。

坂本龍馬への影響は大きい。龍馬の船中八策・大政奉還構想は、海舟のもとで身につけた海軍と幕府政治の実情理解が強い影響源の一つになったと考えられる(因果の強さには解釈差がある)。1867年の龍馬暗殺ののち、海舟は折に触れて龍馬を語り続けた。西郷隆盛との信頼関係は、江戸開城を可能にし、さらに明治後の西郷と政府の間の仲介役としても働いた。福沢諭吉とは同時代人として互いを意識しつつ、『』論争のような鋭い対立も経た。

晩年は赤坂氷川邸に隠居いんきょ同然に籠もりつつ、訪客に幕末を語り続けた。明治32年(1899年)1月19日、その氷川邸で脳溢血により倒れる。看護に対し「コレデオシマイ」と一言を残したと伝わる(辞世というより、死の床のつぶやきとして弟子たちが書き留めたもので、出典に揺れがある)。海舟の遺産は明治以降、司馬遼太郎『竜馬がゆく』『海舟余波』ほか多数の文学で再生産され、また石原莞爾ら昭和の軍人、吉田茂ら戦後政治家からも愛読された。『氷川清話』の軽い口語体は、現在も読める幕末維新の一次資料として生きている。

08主要な出来事と著作

  1. 3月12日(文政6年1月30日)、江戸本所亀沢町の旗本勝家に誕生。幼名麟太郎
  2. 20歳、永井青崖に蘭学を学ぶ。『ドゥーフ・ハルマ』を筆写して独学
  3. 赤坂田町に氷解塾(蘭学塾)を開設
  4. 民子(たみ)と結婚
  5. 長崎海軍伝習所第一期生としてオランダ人教官から海軍学を学ぶ(-1858)
  6. 咸臨丸艦長格として日米修好通商条約批准団を護衛、サンフランシスコへ(1-5月)
  7. 軍艦奉行並に昇進、幕府海軍の指揮系統を担う
  8. 神戸海軍操練所を構想・準備(1863)、1864年に正式開設。私塾を合わせ坂本龍馬らを門下に
  9. 軍艦奉行に昇進するも10月罷免、神戸海軍操練所閉鎖
  10. 軍艦奉行復職。下関で長州と停戦交渉
  11. 11月、京都近江屋で坂本龍馬が暗殺される
  12. 1月陸軍総裁。3月13-14日西郷隆盛と高輪・芝薩摩屋敷で会談、4月11日江戸無血開城
  13. 駿府で徳川家と旧幕臣の世話、困窮救援に尽力
  14. 海軍大輔、海軍卿を歴任し辞任
  15. 号「海舟」を正式に名乗り始める時期(以前から号として使用)
  16. 伯爵に叙せられる
  17. 枢密顧問官に任命
  18. 福沢諭吉『瘠我慢の説』論争、「行蔵は我に存す」と応じる
  19. 『氷川清話』『海舟座談』相次いで公刊
  20. 1月19日、赤坂氷川町の自邸で脳溢血により没。満75歳(数え77)

残した思想の輪郭

  • 大局と負け方 ― 江戸無血開城に集約される、面子を捨てて実を取る政治判断
  • 実務の蘭学 ― 独学で蘭書を読み解き、長崎で体系的な海軍学を修めた幕臣の新しい型
  • 身分を超える塾 ― 神戸海軍操練所に諸藩の志士を集め、坂本龍馬を育てた
  • 「行蔵は我に存す」 ― 弁明を拒み、自分の行ないは自分の内に在ると応じる禅的達観
  • 『氷川清話』『海舟座談』 ― 晩年の談話が幕末維新史の一次史料として機能
  • 旧幕臣の代弁者 ― 明治後も旗本・御家人の生活再建に尽力した仲介者
  • 咸臨丸の両義性 ― 日本側で艦長格とみなされることが多い立場、同時にブルック大尉の遠洋操船指導が大きかったとする説もある
  • 坂本龍馬の師 ― 幕府側に居ながら薩長同盟・大政奉還の思想的土壌を準備した
明治32年(1899年)1月19日、東京赤坂氷川町の自邸で脳溢血により没。満75歳(数え77)。一族・門弟・旧幕臣に看取られ、同年2月、赤坂の自邸から青山霊園に埋葬された(のち夫人と並葬)。
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  • 文脈伝承として記録伝承

    伝承: katsu.mdx Chapter 7 段落: 勝海舟 (安房、1823-1899) 晩年は赤坂氷川邸に隠居、明治 32 年 (1899) 1 月 19 日同邸で脳溢血により倒れ、看護に対し『コレデオ...

    一次資料を開く赤坂氷川町の勝海舟邸跡、晩年居所の歴史的位置

  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 明治30年前後、赤坂氷川町の自邸で晩年の勝海舟が、女子教育者の巌本善治らに語り遺した談話群に現れる一句。江戸無血開城から30年、旧幕府の側で大きく負ける判断を差配した男が、進むべき道が閉ざされたと見え...

  • 引用伝承として記録伝承

    伝承: 世の中のことは、義理と人情と、あともう一つの算盤 ― この三つでできている

    一次資料を開く講談社学術文庫版『氷川清話』江藤淳・松浦玲編 (2000) は学術的精査を経た定本。氷川清話の本文を底本 (1898 年鉄華書院版) から再校訂、海舟の他編纂物...

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 行くところにあらずんば、必ず渡るところあり。

    一次資料を開くNDL デジタルコレクション pid 1186921 で『海舟座談』(岩波書店ほか発行版含む) が閲覧可能。巌本善治が 1895-1899 年に勝から聞いた談話...

  • 抜粋伝承として記録伝承

    伝承: 行くところにあらずんば、必ず渡るところあり。

  • 出典二次資料で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 『海舟座談』は、勝海舟の談話を巌本善治が編んだ岩波文庫版(昭和5年=1930年刊。明治28-32年聞書)として出典表示する。明治31年初版という表示は、NDL pid 1186921 の書誌に合わない...

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生きた跡を辿るPlaces

勝海舟が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 洗足池公園 勝海舟記念館記念館

    東京, 日本

    勝海舟の墓と旧別邸跡に近接する大田区立記念館

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