勝海舟
負けが決まった側にいるとき、 人は何を守れるだろう?
幕臣として太平洋を渡り、咸臨丸艦長・軍艦奉行・陸軍総裁を歴任し、江戸を無血で開城させた最後の幕府政治家
- 咸臨丸
- 江戸無血開城
- 海舟
- 氷川清話
黒船が来て、二百年以上つづいた幕府がゆらぎ、武士の世そのものが終わろうとしていた時代 — ひらく
時代の空気
黒船来航(嘉永6年・1853年)以降、幕府は阿部正弘の海防策で諸藩の声を吸い上げ始めるが、安政の大獄、桜田門外の変、長州征伐、薩長同盟、王政復古、戊辰戦争(1868-69)と政局は急流を下る。版籍奉還・廃藩置県が士族の身分を解体し、岩倉使節団が西洋を見て回るかたわら、新政府は旧幕臣を実務官僚として抱え、海軍創設と不平士族の不満が同じ時間に進んでいた。
01薩摩屋敷の二日間
1868年3月13日、江戸。高輪の薩摩屋敷に、幕府の男がやって来た。勝海舟、45歳。幕府の軍事のいちばん上、陸軍総裁である。
相手は西郷隆盛だった。幕府を倒しに来た東征軍(官軍)の参謀である。官軍は、もう江戸のすぐそばまで迫っていた。
海舟が持ってきたのは、戦う計画ではなかった。徳川家を残すこと。将軍だったの命を助けること。そして、江戸城を戦わずに明け渡すこと。この三つだった。
話し合いは翌14日、芝田町の薩摩藩の蔵屋敷でも続いた。西郷は、その提案をほぼ受け入れた。4月11日、江戸城は血を流さずに新政府へ渡された。江戸に住む百万の人々と、二十万の旗本・御家人の暮らしが、この会談で守られた。
幕府の軍の責任者が、自分の城を差し出す。幕府の中には、やのように、最後まで戦えと言う人もいた。なぜこの男は、勝つ道ではなく、負け方を選んだのか。時は45年前、1823年に戻る。
02貧乏旗本の子、剣から蘭学へ
1823年、江戸の本所亀沢町(いまの墨田区両国)に生まれた。父は勝小吉。家禄41石の貧しい旗本、つまり将軍に直接仕える武士だった。役目はなく、暮らしは苦しかった。小吉は型やぶりな人で、のちに自分の一生を『夢酔独言(むすいどくげん)』という本に書いた。
幼名は麟太郎(りんたろう)。7歳のとき、将軍の跡つぎ(徳川家定)の遊び相手の候補に選ばれた。だが父の素行の悪さがもとで、話は流れてしまった。
10代の麟太郎は剣に打ち込んだ。父のいとこにあたる剣豪、男谷精一郎(おたにせいいちろう)に直心影流を学び、免許を受けた。同じころ島田虎之助にも学んだ。その島田が勧めた。「これからはだ」。麟太郎は剣をやめ、蘭学、つまりオランダ語で西洋の学問を学ぶ道に入った。
1842年、永井青崖(ながいせいがい)のもとで蘭学を始めた。金はない。オランダ語の辞書『ドゥーフ・ハルマ』を貸本で借り、一年かけて夜通し書き写した。こうして独学で、オランダの本を読む力を手に入れた。1846年、赤坂田町に蘭学の塾、氷解塾(ひょうかいじゅく)を開いた。
行くところにあらずんば、必ず渡るところあり。
1853年、アメリカの黒船が来た。幕府は海の守りを急いだ。独学で積み上げた蘭学と砲術(大砲の技術)の力。それが幕府から呼び出されるときが来る。
03長崎、そして太平洋
1855年、幕府は長崎に海軍伝習所を開いた。オランダから贈られた軍艦観光丸を使い、オランダ人の教官から海軍のすべてを学ぶ学校である。32歳の麟太郎は、その第一期生として送り込まれた。航海、砲術、造船、オランダ語。約3年半、日本人としてもっとも本格的な西洋の海軍教育を受けた。同期には榎本武揚(えのもとたけあき)や伊東祐亨(いとうすけゆき)らがいた。
1859年、江戸の築地にある軍艦操練所に、教授方頭取(教師のかしら)として戻った。翌1860年、幕府は日米修好通商条約の批准書(条約を正式に認める文書)をアメリカに届ける使節団を送る。万延元年遣米使節である。その護衛の船が、オランダ製の蒸気船、咸臨丸(かんりんまる)だった。
麟太郎は艦長格として乗った。軍艦奉行(海軍の長官)は木村喜毅(きむらよしたけ)。福沢諭吉やジョン万次郎も同じ船にいた。1月19日に横浜を出て、約40日後の2月25日、サンフランシスコに着いた。日本人が自分たちの手で太平洋を横断した、最初期の船旅とされる。
ただし、注意がいる。荒れた海では、日本側の乗組員の多くが船酔いで動けなかった。船の操縦と航海の指導では、同乗したアメリカ海軍のブルック大尉(John M. Brook)が大きな役目を果たした。その支援の記録が残っている。
サンフランシスコで麟太郎は、病院、造船所、議会を見た。市会議員や海軍の士官とも話した。5月5日、浦賀に帰港。海の向こうを自分の目で見た幕臣は、帰国後、幕府海軍の頂点へ登っていく。だがその頂点から、彼は一度、突き落とされる。
04神戸の塾と坂本龍馬
1861年に軍艦頭取、1862年に軍艦奉行並(ならび)、1864年には軍艦奉行になった。幕府海軍のいちばん上の指揮官である。海舟の考えははっきりしていた。幕府だけの海軍ではなく、諸藩も合わせた日本全体の海軍を作る。そうしなければ、西洋の強国に立ち向かえない。
1863年、海舟は神戸に海軍の学校を作る計画を進めた。幕府の公式の機関、である(正式に開いたのは1864年)。隣には自分の私塾(海軍塾)も作った。ここに、藩をこえて若者が集まった。土佐藩を抜け出した坂本龍馬、紀州の陸奥宗光(むつむねみつ)、薩摩の伊東祐亨、佐藤与之助、望月亀弥太、近藤長次郎らである。
海舟は龍馬を「あいつは大変な人物だ」と言った。龍馬は手紙に、海舟を「日本一の人物」と書いた。この師弟関係は、のちのやの構想に強い影響を与えた一因とされる。どれほど強い影響だったかには、いくつもの説がある。
ところが1864年、京都で戦いが起きた。(蛤御門の変)である。塾生の一部(望月亀弥太ら)がこれに関わっていた。幕府はこれを問題にした。同年10月、海舟は軍艦奉行を罷免(辞めさせること)された。神戸海軍操練所も閉鎖された。
海舟は江戸に戻った。閉門(外出を禁じられる罰)に近い暮らしを2年送った。龍馬たちは薩摩藩に引き取られ、亀山社中(のちの海援隊)へとつながっていく。海舟を呼び戻したのは、皮肉にも、幕府の負け戦だった。
05負けを認める役目
1866年、幕府は長州藩と戦って負けた。(四境戦争)である。幕府は海舟を再び呼び出し、軍艦奉行に戻した。その年、海舟は下関で長州側の広沢真臣(ひろさわさねおみ)と停戦の交渉をした。事実上、幕府の負けを認める和約だった。負けを認める。それが、海舟に回ってくる仕事になった。
1867年10月、将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返した。大政奉還である。12月には王政復古、つまり天皇を中心とする新しい政府ができた。
1868年1月、で幕府軍が負けた。慶喜は大坂城を抜け出し、江戸へ逃げ帰った。1月17日、海舟は陸軍総裁になった。幕府の軍事のいちばん上である。海舟自身は名前だけの役だと思っていたが、実際には戦争の指揮官だった。
官軍が江戸に近づく。幕府の中には、最後まで戦うべきだという声が強かった。小栗忠順、榎本武揚らである。海舟はそれを抑え、戦わずに城を渡す道を探した。3月5日、海舟は(やまおかてっしゅう)を使いに出した。駿府にいる西郷隆盛のもとへ、停戦の糸口をつけるためである。そして3月13日、海舟は高輪の薩摩屋敷に向かった。
06ふたたび、薩摩屋敷
ここで冒頭の二日間に戻ろう。海舟はなぜ、負け方を選んだのか。
彼は太平洋を渡り、西洋の力を自分の目で見ていた。長州との戦いでは、負けを認める側に立っていた。そして江戸には百万の人が住んでいた。幕府の面目(めんぼく)を守る戦いをすれば、その人たちの町が戦場になる。
は、幕府の面目を捨てて、江戸百万の命を取る選択だった。海舟は西郷に、徳川家の存続、慶喜の命、城の明け渡しを提案した。西郷はほぼ受け入れた。4月11日、江戸城は開城した。
世の中のことは、義理と人情と、あともう一つの算盤 ― この三つでできている
その後も戦いは続いた。5月15日の上野戦争で彰義隊が壊滅し、戦いは東北へ、そして函館へ移った。函館では1869年5月、榎本武揚が五稜郭で降伏した。だが江戸の町は無傷のまま新政府に引き継がれた。江戸は東京と名を変え、新しい都の土台になった。
負けた側の始末は、まだ終わっていなかった。3万の家に及ぶ旗本・御家人が、行き場を失っていたのである。
07負けた人たちの世話
1868年7月、慶喜と徳川の家臣たちは駿府(いまの静岡)に移った。海舟も従った。勝ったのは西郷、負けたのは慶喜。海舟はそのどちらの側にも立たず、旧幕臣の身の振り方を世話する役を引き受けた。仕事の口をさがす。新政府へ出仕する橋わたしをする。自殺した旗本の遺族を助ける。明治のはじめの数年、海舟はこうした実務を山のようにこなした。
1872年、新政府は海舟を海軍大輔(たゆう)、事実上の海軍次官に任じ、東京に呼び戻した。翌1873年には海軍卿(かいぐんきょう、海軍の長)に昇った。だが1875年に辞めた。政府は何度も要職に推したが、海舟はその多くを断った。
1877年、が起きた。西郷隆盛が新政府と戦った内乱である。海舟は政府と西郷の両方に密書を送り、戦いを止めようとした。だが間に合わなかった。西郷は死んだ。海舟がその死を深く悲しんだ記録が、いくつも残っている。
1887年、伯爵(はくしゃく)になった。翌1888年には枢密顧問官(すうみつこもんかん)、天皇の相談役の一人になった。高い位につきながら、海舟は旧幕臣の代弁者であり続けた。とくに徳川慶喜の名誉を回復すること。蟄居(家に閉じこもる処分)からの復権を、海舟は生涯の課題にした。慶喜が公爵になるのは1902年。海舟の死の、あとのことである。海舟はその道筋を、見届ける人々に託した。
64歳の伯爵には、もう一つの仕事が残っていた。語ることである。
08氷川の語り部
1890年ごろから、海舟は赤坂氷川町の自邸、氷川邸に人を招いた。新聞記者、文人、旧幕臣。海舟は彼らに幕末の思い出を語った。巌本善治(いわもとよしはる、明治女学校の校長)。速記者の吉本襄(よしもとのぼる)。徳富蘇峰(とくとみそほう)。この人たちが、その話を書きとめた。それが『』(1897年)、『海舟座談』(1898年)、そして死後に出た『海舟日記』になった。
海舟の話は、西郷隆盛、、木戸孝允、福沢諭吉、坂本龍馬、小栗忠順、徳川慶喜を間近で見た人の人物評である。「西郷はえらかったよ」「福沢はあゝいう人だ」「小栗は惜しい男を殺した」。こうしたずばりとした言葉は、維新の歴史を調べる大切な一次史料になっている。ただし海舟の話には、自分をよく見せる部分もある。他の史料と突き合わせて読む必要がある。
1891年、福沢諭吉が公開の手紙で海舟を批判した。『』(やせがまんのせつ)である。旧主を見捨てて明治政府に出仕した、その節操を問う文章だった。榎本武揚も同じく批判された。咸臨丸で同じ船に乗って以来、二人は互いを意識し続けてきた。その関係が、ここで公然の対立になった。海舟の返事は一行だった。「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張」。自分の行いは自分の内にある。ほめるのもけなすのも、他人の勝手だ。海舟は弁明をしなかった。
行くところにあらずんば、必ず渡るところあり。
晩年は氷川邸に隠居同然に籠もり、訪ねてくる人に幕末を語り続けた。1899年1月19日、その氷川邸で脳溢血(のういっけつ)に倒れた。75歳。看護する人に「コレデオシマイ」と一言残したと伝わる。辞世というより死の床のつぶやきとして弟子たちが書き留めたもので、出典に揺れがある。
負けると決まった側で、彼は城を渡し、旧幕臣の世話をし、弁明をしなかった。あなたが負ける側にいるとき、面目と、人の暮らしと、どちらを先に守るだろうか。
09残したもの ― 負け方の知恵
海舟の思想の核は、体系的な哲学よりも実務の知恵として現れた。第一は、大局を見て局所を譲る。江戸無血開城は、幕府の面目を捨てて江戸百万の命を取る選択だった。第二は、身分より能力。海舟は幕臣でありながら、坂本龍馬ら諸藩脱藩浪士を公然と塾生にし、維新後は旧幕臣だけでなく旧薩長の人物とも交流を絶たなかった。第三は、政治は詩である。合理的計算だけでなく、機微と人情で動くという感覚を海舟は生涯持ち続けた。
坂本龍馬への影響は大きい。龍馬の船中八策・大政奉還構想は、海舟のもとで身につけた海軍と幕府政治の実情理解が強い影響源の一つになったと考えられる(因果の強さには解釈差がある)。1867年の龍馬暗殺ののち、海舟は折に触れて龍馬を語り続けた。西郷隆盛との信頼関係は、江戸開城を可能にし、さらに明治後の西郷と政府の間の仲介役としても働いた。福沢諭吉とは同時代人として互いを意識しつつ、『瘠我慢の説』論争のような鋭い対立も経た。
咸臨丸の評価には両義性がある。日本側で艦長格とみなされることが多い立場である一方、ブルック大尉の遠洋操船指導が大きかったとする説もあり、「日本人が自力で太平洋を横断した」という語りは他史料との突き合わせを要する。『氷川清話』の語りも同様で、幕末の当事者による具体的な人物評として一次史料の価値を持ちつつ、美化や自己正当化を含むため、他史料との照合が前提となる。
海舟の遺産は明治以降、司馬遼太郎『竜馬がゆく』『海舟余波』ほか多数の文学で再生産され、また石原莞爾ら昭和の軍人、吉田茂ら戦後政治家からも愛読された。『氷川清話』の軽い口語体は、現在も読める幕末維新の一次資料として生きている。大局のために局所を譲る判断は、譲られた側からは裏切りにも見える。海舟はその非難を「行蔵は我に存す」の一行で引き受けた。あなたなら、その一行の重さを、どこまで引き受けられるだろうか。
10主要な出来事と著作
- 3月12日(文政6年1月30日)、江戸本所亀沢町の旗本勝家に誕生。幼名麟太郎
- 20歳、永井青崖に蘭学を学ぶ。『ドゥーフ・ハルマ』を筆写して独学
- 赤坂田町に氷解塾(蘭学塾)を開設
- 民子(たみ)と結婚
- 長崎海軍伝習所第一期生としてオランダ人教官から海軍学を学ぶ(-1858)
- 咸臨丸艦長格として日米修好通商条約批准団を護衛、サンフランシスコへ(1-5月)
- 軍艦奉行並に昇進、幕府海軍の指揮系統を担う
- 神戸海軍操練所を構想・準備(1863)、1864年に正式開設。私塾を合わせ坂本龍馬らを門下に
- 軍艦奉行に昇進するも10月罷免、神戸海軍操練所閉鎖
- 軍艦奉行復職。下関で長州と停戦交渉
- 11月、京都近江屋で坂本龍馬が暗殺される
- 1月陸軍総裁。3月13-14日西郷隆盛と高輪・芝薩摩屋敷で会談、4月11日江戸無血開城
- 駿府で徳川家と旧幕臣の世話、困窮救援に尽力
- 海軍大輔、海軍卿を歴任し辞任
- 号「海舟」を正式に名乗り始める時期(以前から号として使用)
- 伯爵に叙せられる
- 枢密顧問官に任命
- 福沢諭吉『瘠我慢の説』論争、「行蔵は我に存す」と応じる
- 『氷川清話』『海舟座談』相次いで公刊
- 1月19日、赤坂氷川町の自邸で脳溢血により没。満75歳(数え77)
残した思想の輪郭
- 大局と負け方 ― 江戸無血開城に集約される、面子を捨てて実を取る政治判断
- 実務の蘭学 ― 独学で蘭書を読み解き、長崎で体系的な海軍学を修めた幕臣の新しい型
- 身分を超える塾 ― 神戸海軍操練所に諸藩の志士を集め、坂本龍馬を育てた
- 「行蔵は我に存す」 ― 弁明を拒み、自分の行ないは自分の内に在ると応じる禅的達観
- 『氷川清話』『海舟座談』 ― 晩年の談話が幕末維新史の一次史料として機能
- 旧幕臣の代弁者 ― 明治後も旗本・御家人の生活再建に尽力した仲介者
- 咸臨丸の両義性 ― 日本側で艦長格とみなされることが多い立場、同時にブルック大尉の遠洋操船指導が大きかったとする説もある
- 坂本龍馬の師 ― 幕府側に居ながら薩長同盟・大政奉還の思想的土壌を準備した
つながり
全体のつながりを見る →生きた跡を辿るPlaces
勝海舟が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 洗足池公園 勝海舟記念館記念館
東京, 日本
勝海舟の墓と旧別邸跡に近接する大田区立記念館
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勝海舟を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「勝海舟」項