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実践の知

大久保利通

Ōkubo Toshimichi·1830–1878·日本(幕末・明治)·

国をつくった男は、 なぜ憎まれて死んだのか?

薩摩の幼馴染西郷と組み、明治政府の制度設計を冷徹に実行し、紀尾井坂で暗殺された「有司専制」の内務卿

  • 廃藩置県
  • 内務卿
  • 殖産興業
  • 大久保政権
武士の世が二十年で崩れ、誰かが新しい国の形を決めねばならなかった。 — ひらく

時代の空気

二百六十年続いた幕藩体制が二十年で崩れ落ちた時代である。ペリー来航(1853)で開国を迫られた国は、安政の大獄、薩英戦争(1863)、長州征伐を経て薩長同盟(1866)に至り、王政復古(1867)から戊辰戦争(1868-69)へ流れ込んだ。版籍奉還(1869)・廃藩置県(1871)で武士の世は終わり、岩倉使節団(1871-73)の留守に征韓論争が爆発、台湾出兵(1874)・江華島事件(1875)と対外膨張が進む裏で、地租改正・殖産興業・四民平等・徴兵制が士族の特権を解体し、神風連・萩・秋月の乱を経て西南戦争(1877)、紀尾井坂事件(1878)へと流れ込む。範型はビスマルクのプロイセンだった。

01紀尾井坂、朝の馬車

1878年5月14日の朝である。は馬車に乗り、東京麹町三年町の自宅を出た。行き先は赤坂仮御所。いつもの出勤だった。

馬車が紀尾井坂きおいざかの清水谷にさしかかった。そこに六人の男が待っていた。男たちはまず馬を切り倒した。利通は馬車を降り、抵抗した。

だが六本の刀が彼を取り囲んだ。両頬、両肩、腿、腹。傷は十六か所に及び、利通はその場で息絶えた。御者ぎょしゃの中村太郎と馬丁ばていの芳松も命を落とした。利通は満47歳だった。これがである。

襲った男たちは逃げなかった。斬奸状ざんかんじょう、つまり「なぜこの男を斬ったか」を記した文書を持って自首した。そこには五つの罪が書かれていた。憲法を作らず、(役人だけで政治を独り占めすること)を続けた。国の金を無駄に使った。内乱を引き起こした。外国に弱腰だった。人々の権利を抑えつけた。

近代日本の土台を組み立てた男が、なぜこれほど憎まれたのか。しかも死んだとき、彼の手元に残っていたのは財産ではなく借金だった。答えを探すために、時を48年前に戻す。薩摩、鹿児島の城下町である。

02下加治屋町、西郷の隣

1830年9月26日、利通は薩摩さつま国鹿児島城下の下加治屋町かじやちょうに生まれた。父の大久保利世は薩摩藩の役人で、禁武奉行、のちに琉球館附役を務めた。幼名は正袈裟、通称正助しょうすけ。のちに一蔵と名乗り、正式な名を利通とした。母は福。三男一女の長男である(兄弟の順は史料により揺れがあり、ここでは伝記の通説に従う)。

同じ町内に、西郷隆盛の家があった。目と鼻の先である。二人は郷中ごじゅうという薩摩の少年組織で、竹馬の友として育った。西郷が3歳年上、利通が後輩だった。

二人の体つきは正反対だった。西郷は大きく豪快。利通は痩せて色白で、落ち着いた冷たい顔立ちだったと伝わる。父は学問と実務の両方を息子に仕込んだ。利通は早くから政治向きの才能を見せ、1846年に記録所書役助として藩に仕えた。

1850年、藩を揺るがす事件が起きた。お由羅騒動である。藩主の跡継ぎをめぐり、を推す派と、異母弟久光の母お由羅の派が争った。斉彬派は粛清された。父は斉彬の支持者として謹慎させられ、利通も連座して職を失った。一家は貧しさに沈んだ。

翌1851年、島津斉彬が藩主となり、父子は赦された。1854年、24歳の利通は家督を継いだ。西郷もまた斉彬派だった。二人は薩摩を新しくする同じ船に乗っていた。だがこの船の船長は、四年後に突然いなくなる。

03島津久光と精忠組 ― 工作者の出発

1858年、島津斉彬が急死した。西郷は僧の月照とともに海に身を投げ、生き残って奄美大島に潜んだ。薩摩の近代化派は守りに回った。

利通は別の道を選んだ。斉彬の異母弟、に近づいたのである。久光は新藩主忠義の父で、藩の実権を握っていた。1860年ごろから、利通は側近として重く用いられた。久光は斉彬の遺志を継ぎ、幕府の政治に関わろうとした。その野心を、利通の筆と段取りに託したのである。

利通は(誠忠組とも)を組織した。薩摩藩の下級武士による政治の結社で、有馬新七、海江田信義、伊地知正治ら急進派が集まった。実質的な指導者は利通だった。

1862年4月、が起きた。精忠組の急進派が、同じ薩摩の仲間の手で討たれたのである。有馬新七ら強硬派9名が命を落とした。久光の上京と、朝廷と幕府を結びつける路線を守るため、利通は薩摩内部の分裂を冷静に抑え込み、方針を修正した。

同じ年、利通は久光の率兵上京に随行した。尊王派の志士の動きを抑え、薩摩の立場を朝廷寄りに据える仕事である。1864年、西郷を流刑地から呼び戻したのも利通だった。西郷は武で動かす人、利通は書で動かす人。この二つの車輪で、幕末の薩摩は動いていく。だが二つの車輪は、やがて別の方向を向くことになる。

04薩長同盟から王政復古へ

1864年から、利通は京都・江戸・鹿児島を行き来した。薩摩藩が中央の政治に関わる、その全体をまとめる役目である。この時期の薩摩は、朝廷と幕府を結ぶ立場だった。1863年の八月十八日の政変、1864年の、第一次長州征伐では、長州藩を抑える側に立っている。

1865年から情勢が変わる。幕府はに失敗した。薩摩の家老小松帯刀、利通、西郷が連携し、坂本龍馬が間を取り持った。1866年1月、が結ばれた。署名したのは西郷と長州の桂小五郎である。だが薩摩藩の方針を「幕府を倒す」へ傾けたのは、利通と小松の政治工作だった。

1867年10月14日、大政奉還。将軍が政権を朝廷に返した。12月9日には王政復古の大号令が出る。血を流さないこのクーデターは、利通、西郷、の三人の連携で進められた。岩倉は朝廷側の公家である。

1868年1月、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まった。利通は新政府の参与、参議として中央政府に組み込まれた。参議とは政府の最高幹部の役職である。江戸を東京と改めて都を移すこと、五箇条の御誓文の起草にも関わった。

1869年6月、。薩長土肥4藩の藩主が連名で申し出たのをきっかけに、264の藩主が領地と領民を朝廷へ返した。利通はとともに起草と藩主の説得を主導した。木戸は長州出身の政治家で、桂小五郎の後の名である。武士の世を壊す最初のくさびが、ここで打ち込まれた。しかし藩そのものは、まだ残っていた。

05廃藩置県と岩倉使節団 ― 国の形を見に行く

1871年7月14日、が断行された。264の藩を廃し、3府302県とする(のち3府72県、さらに3府43県に整理)。日本の歴史で最大規模の制度の変更である。背景には西郷の御親兵がいた。薩長土の旧藩兵1万を集めた、政府直属の軍である。この力を背に、全国の藩主がほぼ血を流さずに統治の権利を返した。制度の設計と政令の起草は、利通、木戸孝允、岩倉具視が主導した。

その直後の1871年12月23日、利通はの副使として横浜を出た。大使は岩倉具視、副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳。約1年10か月かけて、アメリカとヨーロッパ12か国を回る旅である。サンフランシスコ、ワシントン、ロンドン、パリ、ベルリン、ペテルブルグ。利通は近代国家の中身を、自分の目で見た。

とりわけ心をつかんだのがドイツだった。ビスマルクが率いるドイツ帝国、プロイセン型の富国強兵である。「弱肉強食の世界に小国が立つには内治を厚くするほかない」というビスマルクの言葉を、利通は終生離さなかった。産業を国が育て、権力を中央に集める。利通の方向は、この旅で固まった。

宜しく大體に注目し、小節に拘る勿れ。

— 『大久保利通文書』第9、文書附録巻下 ― 大きな筋を見て小さなことにこだわるな、という利通の政治の構え

06征韓論争 ― 同盟の半身を折る

1873年9月13日、利通は岩倉、木戸とともに帰国した。留守を守っていた政府では、西郷が自ら使節として朝鮮に渡る案が進んでいた。である。利通はこれに真っ向から反対した。

10月、明治六年政変。西郷、板垣退助、、後藤象二郎、副島種臣の5人の参議が政府を去った。幼なじみと旧友を切り離しての勝利だった。同盟の半身を自分の手で折ることを、利通は冷たく選んだ。

それは政治家としての覚悟の現れだった。では、友を切ってまで、この男は何を作ろうとしていたのか。

07内務卿 ― 殖産興業と地租改正

1873年11月10日、政府は内務省を新設し、利通が初代内務卿ないむきょうとなった。内務省は警察・地方行政・勧業・土木・戸籍・衛生を所管する巨大官庁で、事実上の政府首脳機関となった。1874年2月の佐賀の乱を江藤新平の挙兵として現地で鎮圧したのも、就任直後の利通であった。以後、暗殺される1878年まで、日本の内政は「大久保政権」と呼ばれる時代に入る。

利通の内政は殖産興業しょくさんこうぎょうに集中した。官営の富岡製糸場(1872年)、内務省直営の赤羽工作分局あかばねこうさくぶんきょく(1874年、機械製造の中核)、新橋横浜鉄道(1872年開業)、内務省勧業寮(のちの農商務省)の設置、(1873年、渋沢栄一)、官営兵庫製鉄所・長崎造船所などの国営工業化、そして地租改正ちそかいせい(1873-81年)が核となった。は土地所有権の確立と、藩政時代の石高制から地価3%の金納地租への転換であり、近代国家の歳入基盤を作った。1877年8月、のさなかに利通自身が会頭を務めて第一回内国勧業博覧会を上野公園で開催し、戦時下でも産業振興を止めない強い意志を示した。と地租改正は、明治制度の二大柱となる。

外交面では、1874年の台湾出兵を処理し、北京に自ら赴いて清と交渉し賠償金50万両を引き出した(江華島事件に先立つ列強外交の成功例)。翌1875年の江華島事件を経て1876年に日朝修好条規を結ぶ。1875年には樺太千島交換条約でロシアとの国境を確定した。

士族への締め付けも強化された。徴兵令(1873年)で四民平等の軍を作り、1876年に廃刀令・金禄公債(俸禄の証券化=士族の経済的特権剥奪)を発令。佐賀の乱(1874年、江藤新平の叛乱)、神風連の乱(1876年、熊本)、萩の乱(1876年、前原一誠)、秋月の乱(1876年)を次々と鎮圧した。士族の不満は次第に鹿児島に集中していく。その鹿児島には、西郷がいた。

今日の誹りは、他日の功を待つ。

— 伝承 ― 非難を浴びながら制度を実行した時期の心構えとして、後世に語り継がれてきた言葉

08西南戦争 ― 旧友を討つ

1877年2月15日、西南戦争が始まった。鹿児島の西郷隆盛と、の士族約1万3千が熊本を目指して挙兵した。私学校は、西郷が鹿児島で開いた士族の学校である。利通は京都に司令部を置いた(天皇も京都に滞在した)。熊本城を守る指揮系統を強め、山県有朋、大山巌、黒田清隆ら薩長の軍指導者に総攻撃を命じた。書で動かしてきた男が、下加治屋町の幼なじみを軍で押さえにかかった。

3月から4月、田原坂の戦い。政府軍のミニエー銃と、徴兵制で集めた農民兵が士族軍を圧倒した。西郷軍は南へ下り続け、9月24日、城山で西郷が自刃した。7か月の内戦で、両軍合わせて1万3千余りが戦死した。利通にとっては、幼なじみで生涯最大の盟友を、自分の命令で討ち果たした戦いだった。

戦いの後、利通は西郷の死を聞いて涙したと伝わる(諸説あり、勝田孫弥『大久保利通伝』ほか複数の証言)。だが公の態度は揺るがず、戦後処理を粛々と進めた。鹿児島の私学校派は壊滅した。西南戦争を最後に士族の反乱は収まり、不満の出口は自由民権運動へ移っていく。旧友を倒した男に残された時間は、8か月もなかった。

09紀尾井坂、ふたたび

物語は1878年5月14日の朝に戻る。西郷が城山で死んでから、まだ8か月足らずだった。利通を襲った6人は、島田一郎、長連豪、脇田巧一、杉本乙菊、杉村文一、浅井寿篤。5人は石川県士族、つまり旧加賀藩士を中心とする不平士族で、1人は島根県士族だった。

彼らは斬奸状を持って自首した(自首先は一般には宮内省・警視庁・司法省など諸説あり、確定的な記載を避ける)。冒頭で見た五つの罪を、もう一度読み返してみてほしい。憲法を作らず有司専制で政治を独り占めした。国費を無駄に使った。内乱を引き起こした。外交が弱腰だった。民権を抑えつけた。

一つ一つが、利通の歩みそのものである。憲法より先に強い中央政府を作った。官営工場と博覧会に国費を注いだ。士族の特権を奪い、西南戦争を戦った。外国との交渉を自ら引き受けた。5人の参議を追い出し、反乱を次々に鎮めた。彼が国のために選んだ一つ一つが、殺す理由として並んでいた。士族反乱の最後の残響だった。6人は同年7月、斬首された。

利通の遺体は青山霊園に葬られた。政府は国葬相当の扱いとし、葬儀は盛大に行なわれた。妻ますお(1882年没)との間には3男5女があった。長男利和・三男利武はのち子爵となった。孫の利謙も戦後子爵を継いだ系統で、宮内大臣を務めた牧野伸顕は次男伸顕が婿養子として大久保家から入った。

そして財産である。利通が残したのは、約8,000円の借金だったと伝わる。明治政府の要人としては異例の清貧で、生前の無私が改めて世に知られた。西郷を倒してわずか数か月後の死。明治国家は、その設計者を立て続けに失った。

冒頭の問いに戻ろう。国をつくった男は、なぜ憎まれて死んだのか。彼は人に好かれる言葉より、国が立ち上がる段取りを選び続けた。友を討ち、嫌われ役を最後まで降りなかった。では、嫌われる仕事を引き受ける人がいなければ、国は立つのだろうか。そしてあなたなら、あの朝の馬車に乗れるだろうか。

10主要な出来事と著作

  1. 9月26日(文政13年8月10日)、薩摩鹿児島下加治屋町に誕生。西郷隆盛の3歳下の幼馴染
  2. 17歳、記録所書役助として藩に仕官
  3. お由羅騒動で父と連座して謹慎、翌年島津斉彬就任で復職
  4. 24歳、家督相続。父利世の跡を継ぎ薩摩藩士として正式に立つ
  5. 斉彬死後、島津久光に接近。精忠組を組織
  6. 寺田屋事件で精忠組急進派(有馬新七ら)を粛清、久光の上京に随行
  7. 西郷を流刑地から呼び戻す。京都政局で薩摩の実質的工作者に
  8. 1月、小松帯刀・西郷とともに薩長同盟成立を工作
  9. 10月大政奉還、12月王政復古の大号令、西郷・岩倉と連携
  10. 戊辰戦争、新政府参与・参議。江戸遷都・版籍奉還の工作
  11. 6月、版籍奉還を木戸孝允とともに起草・主導し、藩主の領地・領民を朝廷へ返上させる
  12. 7月14日廃藩置県を断行。12月23日(新暦)岩倉使節団副使として横浜出港、米欧12ヶ国歴訪(1873年9月帰国)、ビスマルク・プロイセンの殖産モデルを受容
  13. 10月明治六年政変で征韓論を退け、西郷・板垣・江藤・後藤・副島ら5参議を下野させる。11月10日内務省設置・初代内務卿就任。地租改正条例公布
  14. 2月佐賀の乱を鎮圧。5月台湾出兵、北京で清と交渉し賠償金50万両。『殖産興業建白書』
  15. 江華島事件・樺太千島交換条約・日朝修好条規。神風連の乱・萩の乱・秋月の乱を鎮圧、廃刀令・金禄公債で士族特権を解体
  16. 2月15日西南戦争勃発、京都に司令部。8月第一回内国勧業博覧会を上野で開催(自ら会頭)。9月24日西郷自刃
  17. 5月14日、紀尾井坂清水谷で島田一郎ら6名(石川県士族5・島根県士族1)に16ヵ所を斬られて即死。御者・馬丁も殉職。満47歳(数え49)。墓所は青山霊園

残した思想の輪郭

  • 有司専制 ― 立憲より前にまず強い中央政府を、と実行した藩閥政治の統御者
  • 殖産興業 ― 官営工場・鉄道・銀行・地租改正で近代国家の経済基盤を実装
  • 廃藩置県と地租改正 ― 264藩の統治権剥奪と土地税制の金納化、明治制度の二大柱
  • 冷徹な合理性 ― 西郷との決別と士族反乱の鎮圧、感情を排した制度優先の政治
  • ビスマルク型モデル ― 岩倉使節団で学んだドイツ型富国強兵が利通政治の範型
  • 内務省の設計 ― 警察・地方行政・勧業・土木を束ねる巨大官庁を創設、戦後1947年まで続く
  • 個人の清貧 ― 死去時に借金を遺し、明治政府要人としては異例の無蓄財だった
  • 紀尾井坂の変 ― 士族反乱の最終残響として暗殺され、有司専制への抵抗の象徴となった
明治11年(1878年)5月14日朝、東京麹町紀尾井町(現千代田区紀尾井町)の清水谷で、出勤途中の馬車を石川県士族ら6名(うち1名は島根県士族)に襲われ、馬車を降りて抵抗するも斬殺された(紀尾井坂の変)。満47歳(数え49)。遺体は東京・青山霊園に埋葬される。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

大久保利通が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 大久保利通像ゆかり

    鹿児島, 日本

    生誕の地・鹿児島の加治屋町近くに建つ大久保の銅像

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • 青山霊園(大久保利通墓所)墓所

    東京, 日本

    1878 年紀尾井坂で斃れた大久保の墓所。青山霊園の特別区画

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • 紀尾井坂の変記念碑ゆかり

    東京, 日本

    1878 年、大久保が暗殺された千代田区紀尾井町の地に建つ碑

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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