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プロタゴラス

Protagoras·BC490頃–420頃·古代ギリシャ·

正しさは、 だれが決める?

「人間は万物の尺度」と語った、最初にして最大のソフィスト

  • 人間尺度
  • ソフィスト
  • 相対主義
民主政の広場で言葉が力になり、神を疑う言葉はまだ罪になりえた — ひらく

時代の空気

前5世紀古典期ギリシア。ペリクレスの治世(461-429)はアテナイ民主政の絶頂で、ゴルギアス・ヒッピアス・プロディコスらソフィストが各都市を巡り、ソクラテスが広場に立った時代だ。前444年にはペリクレスとヒッポダモスが南イタリアにトゥリオイ植民市を建設し、新しい法典が必要とされた。ペロポネソス戦争(431-404)とペスト(430-426)、ニキアス和約(421)が交差する不安定な日々の中で、慣習(ノモス)と自然(ピュシス)、修辞学と倫理が問い直され、書写文化はまだ口頭の力に従属していた。神々への懐疑は告発の対象となりえた。

01広場で焼かれた本

紀元前411年ごろのことだ、と伝えられる。アテナイの広場に、本が集められた。市民の集会(民会)が、焼くことを決めたのだ。人々の家にあった写しも、取り上げられたという。

本の題は『』。書いたのは、ギリシャでいちばん有名な教師だった。若者たちは彼に会うため、夜明け前から走ったという。アテナイを率いた政治家とも、親しい友だった。

罪の名は不敬神罪(ふけいしんざい)。神々を敬わなかった、という罪である。訴えたのはピュトドロスという人物だと伝わる。だが、その本は神々を否定してはいなかった。冒頭には、こう書かれていただけだった。

「神々については、在るかどうかも、どのような姿をしているかも、私には知ることができない。知ることを妨げるものが多くある。問題の不明瞭ふめいりょうさと、人の生の短さが」。

「わからない」と言っただけの本が、火にかけられた。著者はアテナイを追われた。シキリア(今のシチリア)へ向かう船で、海に沈んだとも伝わる。彼の名はプロタゴラス。人々を引きつけた「」の第一人者だった。

そして彼には、もう一つ有名な言葉があった。「」。すべてを測る基準は人間だ、という言葉である。

人間は万物の尺度である。在るものについては在ることの、在らぬものについては在らぬことの。

— 著作『真理』の冒頭の一文。プラトン『テアイテトス』152a(Diels-Kranz 80B1)が伝える。焼かれた本とは別に、彼の名を世に残した言葉

人間が尺度だと言った男が、神々のことは「わからない」と言った。なぜ、その言葉が本を焼く火になったのか。答えを探すために、時をおよそ80年前に戻そう。

02北の港町から来た旅人

紀元前490年ごろ、彼は北のトラキア地方の港町アブデラに生まれた。父はマイアンドリオスといい、裕福だったと伝わる。アブデラはのちに、原子論のデモクリトスも生む町だ。だがアテナイの人々からは「辺境の蛮地(いなかの野蛮な土地)」と見られがちだった。

プロタゴラスはその町を出て、ギリシャ世界を旅した。知識を売り歩く旅人になったのだ。当時の学者にとって、旅は珍しくない。だが彼ほど広く、長く旅を続けた者はほとんどいなかった。

彼は自分を「ソフィスト」と名乗った。ソフィストとは「知者」、知恵を教えて報酬を受け取る人のことだ。自ら名乗ったのは、歴史上プロタゴラスが最初だとされる。のちに悪口の言葉になるが、当時はまだそうではなかった。彼こそが、だった。

それまで知識は、貴族や神官が独り占めしていた。プロタゴラスは「教えることができる」と宣言し、広場に出た。知識を市場に持ち込んだ最初の人、と言ってもよい。ソクラテスより少し上の世代で、二人は同じアテナイの空気を吸った。

彼の評判は、早くからアテナイに届いていた。何度も訪れ、長く滞在した。プラトンの本『プロタゴラス』は、若者たちが夜明け前から彼に会いに走る場面から始まる。それほど彼の名は輝いていた。

時代は「ペリクレスの黄金時代」と呼ばれる。アテナイは最も大きな力を持ち、パルテノン神殿が建ち、演劇と哲学が花開いた。その中で、よそ者のプロタゴラスは最も有名な思想家の一人になった。何が、人々をそこまで引きつけたのか。

03知恵に値段をつけた男

彼の授業料は、当時としては破格だった。弟子一人から一万ドラクマ、つまり一タラントを受け取った、という伝えもある。熟練の職人が、数年働いて稼ぐ額にあたる。このが、アテナイの古い貴族たちを怒らせた。知恵を金で売るとは何事か、というのである。プラトンもソフィストを厳しく攻めたが、プロタゴラスへの怒りは特に強かった。

彼が教えたのは、主に弁論術(べんろんじゅつ)だった。民会や法廷で、自分の主張を通すために話す技術である。民主政のアテナイでは、うまく話せることが政治で生き残る力に直結した。プロタゴラスはその力を、貴族の子だけでなく志のある者に開いた。授業料を払える者なら、誰でも。それは知識と権力の一部を、市民に開くことでもあった。

その教えには、一つの核があった。「どんな問題にも二つの相反する議論がある」という考えだ。彼はこれを(アンティロギア)と呼んだ。弟子には、どんな題目でも賛成と反対の両方を語る訓練をさせた。一方の側だけが真実なのではない。話す者は、どちらの側も説得力をもって語れなければならない。この考えは著作『』にもまとめられた、と伝わる。

ソクラテスは報酬を取らなかった。プロタゴラスは取った。この違いは、単なる清さの問題ではない。知恵を誰が持ち、誰に渡すのか、という問いだった。その問いを胸に、彼はやがて一人の政治家と深く結びつく。

04ペリクレスの友、新しい町の法

プロタゴラスの人生で、最もはっきり記録に残るのがだ。ペリクレスは、アテナイ民主政の最盛期を率いた政治家である。哲学者や芸術家を進んで守り、育てた。プロタゴラスは、その知的な集まりの中心にいた。

伝記作家が、『ペリクレス伝』で一つの話を伝えている。競技場で、投げ槍が人を死なせた。二人は一日中、「責任は槍にあるのか、投げた者にあるのか、競技を運営した者にあるのか」を論じ合ったという。

紀元前444年ごろ、ペリクレスは彼に大仕事を頼んだ。南イタリアに造る新しい町、トゥリオイの法典(ほうてん、法律の集まり)を書くことだ。プロタゴラスは46歳前後だった。トゥリオイは、ギリシャ人全体の町としてペリクレスが構想した植民市(新しく造った町)だった。町の設計は都市計画家が担い、道を格子状(こうしじょう)に引いた。

法を書く。それは名誉だけの仕事ではない。社会の秩序を言葉で設計できる人物と認められた、という証しだった。彼はアテナイを離れ、建設中の町に実際に赴いたと考えられている。このの仕事は、彼の考えとも深くつながっていた。

真実が人によって違うなら、社会の決まりも、天から与えられたものではない。人間が話し合って作るものになる。法とは「誰にとっても同じ真実」ではなく、「その共同体が有益と定めた取り決め」だ。彼はそう考えた。では、その「人によって違う真実」とは、どんな考えだったのか。

05「人間は万物の尺度」

プロタゴラスの名を不滅にした一文がある。「人間は万物の尺度である。在るものについては在ることの、在らぬものについては在らぬことの」。彼の著作『』の冒頭に置かれていた、と伝わる。ギリシャ語では『アレーテイア』、別名『カタバッロンテス』と呼ばれる本だ。

意味は、こうだ。何かが「ある」か「ない」か、それを決める基準は人間である。風が冷たいかどうかは、感じる人によって違う。何が善いことかも、置かれた立場によって変わる。誰にとっても同じ、絶対の真実などない。

この考えは、のちに「人間尺度説」(ホモ・メンスーラ)と呼ばれる。ただし、この一文は彼自身の本からは届いていない。本はほとんど失われた。私たちが読めるのは、批判者プラトンがという本の中で引いた形だけだ。プラトンはこの考えを、徹底的に批判した。

批判者の言葉を通してしか、彼の言葉は残らなかった。それでも、この一文は二千年以上、人々を悩ませ続けている。では、この考えの持ち主は、ソクラテスの前で何を語ったのか。

06ソクラテスとの一日

プラトンの本『プロタゴラス』は、劇のような場面から始まる。若者ヒッポクラテスが、夜明け前にソクラテスを叩き起こす。「プロタゴラスがアテナイに来ている。一緒に行こう」。二人は富豪カッリアスの屋敷に向かう。そこには、ヒッピアスやプロディコスといった他のソフィストも集まっていた。

その日の主題は「徳は教えられるか」。徳とは、人としての優れた性質のことだ。プロタゴラスは「教えられる」と答えた。そして話を、民主政のよりどころにまで広げた。市民が民会で政治の判断を下せるのは、正義や知恵が教育で身につくからだ、と。彼はゼウスとヘルメスの神話を引き、正義と恥の感覚はすべての人に与えられていると論じた。

ソクラテスは問い詰める。徳が教えられるなら、優れた政治家の息子はなぜ父を超えられないのか。徳は一つなのか、それとも多くあるのか。プロタゴラスは長い演説で返し、ソクラテスは短い問答で切り返す。二人は、問う側に立つ権利をめぐってさえ争った。

この本のプロタゴラスは、負けるだけの愚か者ではない。聡明で、説得力があり、ある点ではソクラテスより現実的だ。だが最後に勝者の席に座るのは、書き手プラトンの師ソクラテスである。賢く、有名で、権力者の友でもあった彼に、なぜ火は迫ったのか。

07ふたたび、広場の火

場面は冒頭に戻る。『神々について』(ペリ・テオーン)。その冒頭に置かれたのは、神々のことは知ることができない、という一文だった。

これは無神論ではない。神はいない、とは言っていない。「わからない」と言っただけだ。今日の言葉で不可知論(ふかちろん)という。だがアテナイにとって、それで十分だった。神がいるかどうかを問いにすること。それは、都市の秩序の土台そのものを疑うことだった。

伝えによれば、ピュトドロスが訴え、彼は不敬神罪で告発された。本は民会の決議で、アゴラの広場で焚書(ふんしょ、本を焼くこと)にされた。写しは持ち主から回収された。彼自身はアテナイを追放され、シキリアへ向かう船で沈没事故に遭い、水死したとされる。後世はこれを「」、そして「」の伝承として語り継いだ。

彼を火にかけたのは、神を否定する言葉ではなかった。「人間は万物の尺度」と言い切った男が、神々の前では「私には知ることができない」と立ち止まった。人間を尺度にするなら、人間に測れないものは「わからない」としか言えない。二つの言葉は、同じ一つの考えから出ていたのかもしれない。

人間は万物の尺度である。在るものについては在ることの、在らぬものについては在らぬことの。

— 同じ一文(プラトン『テアイテトス』152a、Diels-Kranz 80B1)。神々について「わからない」と書いた男の、もう一つの言葉として読み直すとき

一つの尺度を天から下ろせば、人は安心できる。だがプロタゴラスは、その尺度を人間の手に渡した。そして「わからない」ものは、わからないままにした。あなたなら、その態度を危険と呼ぶだろうか。それとも、誠実と呼ぶだろうか。

08批判者の鏡に映る像

プロタゴラスの著作はほぼ全て散逸さんいつしており、Diels-Kranz 編の断片集に残るのもごくわずかな引用ばかりだ。人間尺度説の一文もプロタゴラス自身の写本からではなく、プラトン『テアイテトス』152aを経由してわれわれに届いている。われわれが知る「プロタゴラス」は多くの場合、批判者プラトンが再構成した像である。その点は常に念頭に置かなければならない。『神々について』の冒頭も『ギリシア哲学者列伝』9.51 が伝えるものであり、告発を前 411 年ごろ、没年を前 420 年ごろとする伝承は、ディオゲネスの記述自体に時系列の混乱を含む。晩年の詳細は今も不明のままだ。彼は霧の中に消えた。

人間尺度説は認識論にんしきろん的相対主義と呼ばれる。プラトンはこの立場を、もしすべてが相対的なら「プロタゴラスの学説も相対的にすぎない」という自己論駁の罠に陥る、と批判した。この批判は鋭いが、それはプロタゴラスをつぶすための論法でもある。現代の解釈者の中には、プロタゴラスを認識論の先駆として再評価する者も多い。加えて重要なのは、プロタゴラスが「人間」という言葉に込めた意味の幅だ。「個々の人間」を指すのか「人類全体」を指すのかで解釈は大きく分かれる。前者なら極端な個人相対主義、後者なら人間中心主義的な普遍性になる。この曖昧さ自体が、プロタゴラス哲学の豊かさであり、二千年以上議論が続く理由でもある。

双論法の訓練は、単なる弁護士的技術論ではなく、真理の客観性そのものへの根本的な問いかけでもあった。授業料を払える者なら誰でも、という開放は、知識と権力の一部民主化でもあった。ソクラテスが報酬を取らず、プロタゴラスが取ったという対比も、単なる倫理の違いではなく、哲学の社会的位置づけをめぐる根本的な亀裂だった。誰が知識の正統な担い手であるか ― その問いは今も続いている。

トゥリオイの法典草案は、この相対主義の政治的帰結きけつでもある。真理が各人の知覚によって異なるとすれば、社会の秩序は自然に与えられるものではなく、人間が合意によって作り出すものになる。慣習法かんしゅうほう(ノモス)と自然法しぜんほう(ピュシス)の論争が前5世紀後半の知識人を巻き込んでいくが、プロタゴラスはノモス側の最も洗練された代弁者の一人だった。法の人工性と可変性という近代的視点を、彼はすでに先取りしていた。同様に、プラトン『プロタゴラス』で論じられるは、民主政の正当性の議論と直結する。徳 ― とりわけ政治的な知恵と正義 ― が教育によって身につくからこそ、市民は民会で政治的判断を下せる、という論旨である。

『神々について』の不可知論は神の存否についての「わからない」であり、無神論の宣言ではない。しかしアテナイにとって、それは十分すぎる冒涜ぼうとくだった。神々について「わからない」と言うことは、宗教的秩序の根拠そのものを揺るがし、ポリスの共同体秩序の基盤を疑うことに等しかった。民会の決議による焚書は、記録に残る西洋哲学史上の最初の書物焚刑とも言われる。人間を尺度に据えた思想が、人間の合意(民会)によって焼かれた。この円環をどう読むかは、なお読者に委ねられている。

09主要な出来事と著作

  1. トラキア・アブデラに誕生(父マイアンドリオス)
  2. アテナイ初訪問。最初の職業ソフィストとして活動開始、最高水準の授業料(一説に一タラント)を設定
  3. ペリクレスの依頼で南イタリアのトゥリオイ殖民市に法典を草案
  4. 著作『真理(打ち倒す論)』『神々について』『反論(アンティロギアイ)』を執筆と伝承
  5. アテナイで『神々について』をめぐり不敬神罪で告発(訴追者ピュトドロス)、著作焚書、追放(ディオゲネス・ラエルティオス 9.51-52)
  6. シキリア渡航中の船で水死と伝わる(年代の確証なし、年齢70前後)

残した思想の輪郭

  • 人間尺度説(ホモ・メンスーラ) ― 真理は普遍ではなく、各人の知覚と判断によって決まる
  • 双論法(アンティロギア) ― あらゆる問題には相反する二つの議論がある
  • 不可知論 ― 神の存否は人間には知りえない、という立場
  • 徳の教育可能性 ― 徳は生まれつきではなく、学習と訓練によって習得できる
  • ノモスとピュシス ― 法は自然ではなく人間の合意による取り決めだという政治哲学

プロタゴラスはプラトンによる批判を通じて後世に知られるが、その相対主義は近代の認識論・言語哲学・民主主義理論に通じる問いを先取りしていた。著作のほぼ全てが散逸した今、彼の真の姿は部分的な断片と批判者の言葉の間にしか見えない。それ自体が、彼の問いの皮肉ひにくな証明でもある。

晩年と死の詳細は不詳である。『神々について』が公に焼かれてアテナイから追放され、シキリアへ向かう航海の途中で海に没したという古代の伝承が残るが、いずれも確証には乏しい。

つながり

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さらに読むならFurther Reading

プロタゴラスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

プロタゴラスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • アブデラ古代遺跡ゆかり

    アブデラ, ギリシャ

    プロタゴラスが生まれた古代ギリシア植民市アブデラの遺跡

    地図で見る →確認 2026-04-19

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