プロティノス
「外を見るな、内へ帰れ」。 その内側に、何があるというのか。
プラトン主義を究極の一元論へ、新プラトン主義の創始者
- 新プラトン主義
- 一者
- 流出
- エネアデス
- 観想
戦と疫病でぐらつくローマ帝国。人々はそれぞれの「救い」を探していた。 — ひらく
時代の空気
三世紀のローマ帝国は「危機の時代」にあった。二三五年から二八四年の軍人皇帝期、内戦と外敵の侵入が帝国を揺るがし、貨幣の改鋳と疫病が日常を蝕む。哲学の舞台はエジプト・アレクサンドリアのヘレニズム伝統に深く根を張り、アンモニウス・サッカス周辺の私塾でプラトンが新たに読み直されていた。キリスト教徒、グノーシス諸派、ヘルメス文書がそれぞれの救済を語る競合のなか、プロティノスはローマで皇帝ガッリエヌスの庇護を受け、弟子ポルフュリオスがその遺稿を編んでいく。
01ただ一人、カンパーニアで
二七〇年、ローマの南、カンパーニア地方。旧友ゼトスの別荘で、一人の老人が死の床にあった。名はプロティノス、六十五歳。ローマでは、皇帝夫妻に愛された哲学の教師だった。
彼の塾には元老院議員も、医師も、女性市民もいた。だがこの日、臨終の床で看取ったのは弟子のエウストキオス一人だけだった。急ぎ駆けつけた彼が、師の最期の言葉を聞く。弟子のは、その言葉をこう伝えている。
「私の中にある神的なものを、宇宙の中にある神的なものにさせようと試みている」
多くの人に囲まれて生きた人が、なぜほとんど一人で死んだのか。そして死にゆく人が、なぜ「帰る」と言ったのか。この言葉を、彼は一生かけて準備してきた。時は、四十年近く前のアレクサンドリアに戻る。
02「これこそ、探していた人だ」
二三二年ごろ、エジプトの港町アレクサンドリア。二十八歳のプロティノスは、哲学の学校を次々に渡り歩いていた。どの先生にも満足できない。彼は失意のなかにいた。
彼の生まれについては、ほとんど分からない。上エジプトのリュコポリス(今のアシュート)で、二〇四年か二〇五年ごろに生まれた。しかし本人は、自分の出自について一生語らなかった。誕生日も祝わせなかった。
弟子のポルフュリオスは、後に『プロティノス伝』の冒頭にこう書く。「師は身体に関する一切を恥じていたかのようだった」。肖像画や彫像を作らせることも、頑として拒んだ。「自然が我々に与えた像でさえ我慢ならぬのに、なぜ像の像を後に残さねばならぬのか」と語ったと伝わる。
名前はギリシア語である。ローマ市民権を持つ、ギリシア化したエジプト人だった可能性が高い。だが彼自身は、そうした「外側」の話を人に語らせたくなかったようだ。
そんな彼に、ある友人が一人の男を紹介した。市井(しせい)の荷担ぎ、である。本を一冊も書かず、弟子にも教えを書き留めることを禁じた人物だった。その教えに触れたとたん、プロティノスは叫んだと伝わる。「これこそ私が探していた人だ」。
以後十一年、彼はアンモニウス・サッカスのもとで考え続けた。同じ門下には、後にキリスト教の神学者となるオリゲネスもいたとされる。ただし、同名の別人という説もある。十一年が過ぎたとき、彼はもっと遠くの知恵を求めた。ペルシアとインドである。
03皇帝の遠征、そしてローマ
二四二年、ローマ皇帝ゴルディアヌス三世がペルシアへ遠征する。プロティノスはこの軍に加わった。目的は戦いではない。ペルシアとインドの知恵に、直接触れるためだった。
だが翌年、皇帝はメソポタミアで殺害される。計画は消えた。彼は辛くもアンティオキアへ脱出する。そして二四四年ごろ、四十歳でローマにたどり着いた。
ローマで彼は哲学の塾を開く。生徒は元老院議員、医師、女性市民、そして孤児まで。当時のローマ上流社会では、めずらしい知的な集まりだった。皇帝(在位253-268)と妃のサロニナも、熱心な支持者になった。
彼は皇帝に、ひとつの願いを出した。カンパーニア地方に「」という町を作りたい。プラトンの『国家』に描かれた理想の都市を、哲学者の共同体として実現する計画である。しかし宮廷の反対で、この夢は実現しなかった。
暮らしは禁欲的だった。ポルフュリオスは「師は入浴を嫌い、誕生日を祝わず、医師の診断にも消極的だった」と書く。それでいて、生徒たちの実生活には細やかだった。遺産をめぐる争いの調停、孤児の後見、弟子との手紙のやりとり。教育者として、とても現実的な一面も持っていた。
体を軽んじ、それでも人の暮らしを大事にする。この二つは、彼のなかでどうつながっていたのだろう。その手がかりは、五十歳を過ぎて初めて書かれた文章のなかにある。
04書き直さない哲学者と、若い弟子
五十歳を過ぎてから、プロティノスはようやく自分の考えを文章にし始めた。視力が衰えていたので、一度書いた原稿を読み返さなかった。書き直すことも嫌った。短い論文を書き、弟子たちに回し読みさせる。その文章は凝縮と飛躍に富み、後の読者を長く悩ませることになる。
二六三年、ティュロス出身の若い弟子、ポルフュリオスが入門する。プロティノスの執筆はこの出会いのあとに集中した。五十四篇の大半が、この時期に生まれている。
師の死後、ポルフュリオスはこの五十四篇を主題ごとに整理した。九篇ずつ、六つのまとまりに並べる。ギリシア語で「九のひとまとまり」を意味する言葉から、と呼ばれる。三〇〇年ごろの編纂(へんさん)と推定される。
その中身をひとことで言えば、「すべてはどこから来て、どこへ帰るのか」である。いちばん上に、(いっしゃ、ト・ヘン)がある。すべての源であり、言葉ではとらえられない。「ある」とすら言えない、とプロティノスは言う。
その一者から、光がこぼれるように、(知性)が(りゅうしゅつ)する。ヌースは、プラトンのが言う「ものごとの本当の姿」を全部そのなかに持っている。ヌースからさらに、(魂)が流れ出る。魂が世界に秩序を与え、そのいちばん遠い端に、私たちの体や物がある。
太陽が光を放ち、光が熱を与える。それと同じで、この三つは順番に生まれたのではなく、いつも同時にある。では、いちばん端にいる私たちは、どうすれば源に近づけるのか。その道は外にはない、と彼は言う。
05内へ帰れ
魂よ、外を見てはならない。内へ帰れ。そして見よ――もしまだ自らを美しく見いださないなら、彫刻家のように、自らを刻み、磨き、光らせよ。余分なものを削ぎ落とし、曲がったものを正し、暗いものを照らせ。そうして、どこまでも清められた美徳の光をおまえが見いだすまで、けっしてやめるな。
魂は、外へ向かって下りてきた。だから、その動きを反転させればいい。内へ帰り、ヌースを通って、一者へ還る。この「内なる道」を、彼は帰還(きかん、エピストロフェー)と呼んだ。プロティノス哲学の、実践の中心である。
ポルフュリオスは『プロティノス伝』で、こう証言する。師は生涯に四度、一者との合一(ごういつ)を経験した、と。これをと呼ぶ。自分を失うことではない。自分のいちばん奥、「内なる人」のところで、自分を超えていくことだ。
だから彼にとって、善とは一者へ帰る道のりそのものだった。入浴を嫌い、体を軽んじたのも、苦行が目的ではない。魂の注意を内へ向けるための手段だった。ストア派(ローマで人気だった哲学の一派)の禁欲とも、キリスト教の苦行とも違う。ここにあるのは、「内なる静けさ(ヘスキア)」の倫理である。
同じ時代、と呼ばれる人々がいた。この世界は悪い造り主が作ったもので、物質は悪だ、と説く。プロティノスは、これに真正面から反論した。『エンネアデス』第二部第九論文、いわゆるである。世界は一者の光のいちばん遠い延長であり、だからこそ善である、と。
体を軽く見た人が、世界を呪わなかった。この二つは矛盾ではなかった。どちらも、光の源はただ一つだと信じたからこそだった。では、その光は彼の死後、どこへ流れていったのか。
06流出の体系と、千年の継承
『エンネアデス』の構成を確認しておく。第一部は倫理・美・幸福、第二部は宇宙論、第三部は運命・時間・永遠、第四部は魂論、第五部は知性(ヌース)と一者(ト・ヘン)、第六部は存在論と超越論を扱う。体系の中心にある三位格は次のとおり――
- 一者(ト・ヘン、τὸ ἕν) ― すべての根源。存在すらそこから流出するため「存在」とすら言えない。語ること自体を拒む「語りえぬもの」。
- 知性(ヌース、νοῦς) ― 一者から最初に流出する位格。プラトン的イデアの総体をその内に抱く。自らが一者を観想することで存在する。
- 魂(プシュケー、ψυχή) ― 知性からさらに流出した第三の位格。世界魂と個別魂の二層を持ち、物質界の秩序を与える。
流出は時間的なプロセスではなく、永遠の存在論的関係である。太陽が光を放ち、光が熱を与えるように、一者・知性・魂は同時に階層をなし、その下降の果てに感覚世界・物質が置かれる。そして魂は、外に向かう下降の運動を反転させ、内へ帰り、知性を経て一者へ還る――この帰還(エピストロフェー)が、プロティノス哲学の実践的核心である。
ヘノーシスは忘我ではなく、むしろ自己の最深部(「内なる人」)で自己を超える方向へ浸透することであり、神秘体験を哲学の正当な頂点に位置づけた最初の体系となった。後世のキリスト教神秘神学――アウグスティヌス第七巻の「われ内に帰り、おのれの奥深くに汝を見いだしき」、エックハルトの「」、の「魂の暗夜」――すべての語彙の源流である。倫理もまた内面化される。身体的禁欲は目的ではなく、魂の注意を内へ向けるための手段にすぎず、後のストア派的禁欲とも、キリスト教的苦行とも異なる「内なる静けさ(ヘスキア)」の倫理がここにある。
プロティノスの影響は弟子ポルフュリオス、ついでシリアのを経て、五世紀のによりとして体系化された。ラテン世界には、アフリカ出身の修辞家が『エンネアデス』の一部をラテン語訳し、それを読んだ若きアウグスティヌス(北アフリカ出身の神学者)が384-386年のミラノ期、回心の直前に受け取る。『告白』第七巻は、プラトン主義の書によって「物体的でない実在」が在り得ることを初めて理解した、と明言する。
中世を通じて『エンネアデス』自体は西方で読まれず、偽ディオニュシオス(5-6世紀シリア)の著作と『原因論』(アラビア語圏を経由したプロクロス『神学綱要』の抜粋)が、プロティノス的流出論の乗り物となった。トマス・アクィナスは『原因論』に注解を書き、その著者がプロクロスであることを看破している。
1400年代、フィレンツェのメディチ家は希土ビザンツからギリシア語写本を移入し、マルシリオ・フィチーノ(1433-1499)が1492年にラテン語全訳を完成させた。この翻訳を基盤に、の『』、ジョルダーノ・ブルーノの、さらに後のケンブリッジ・プラトン主義(ラルフ・カドワースら)までが展開していく。
彼は「汚れた肉体から解放されて一者へ還ろうとする」態度を生涯貫きながら、同時に世界そのものを呪わなかった。物質は一者から最も遠いが、それでも一者の光の末端として存在する。この両義性――身体からの離脱と、世界への肯定――が、後世の神秘神学と自然哲学の双方を育て、彼を「肯定の神学」の父とした。プロティノスなしにはアウグスティヌスの神学はなく、フィチーノのルネサンス神学も、ブルーノの無限宇宙論もない。プラトンとキリスト教の間に横たわる沈黙の千年を、ほとんど一人の哲学者が埋めているのである。古代末期から近世への橋を一人で架けた哲学者、と言ってよい。
07もう一度、カンパーニアへ
二六九年、病が重くなった。弟子エウストキオスの勧めで、彼はカンパーニア地方の旧友ゼトスの別荘に療養に移る。ローマの塾からも、宮廷からも離れた場所だった。翌二七〇年、六十五歳で没した。看取ったのは、急ぎ駆けつけたエウストキオス一人だけだった。
これは生の飛翔である ― ただ一人なるものから、ただ一人なるものへの飛翔(phyge monou pros monon)
「私の中にある神的なものを、宇宙の中にある神的なものに帰還させようと試みている」。ポルフュリオスが伝えるこの最期の言葉は、もう謎ではないはずだ。彼にとって死は、おそらく終わりではなかった。ローマで四半世紀あまり語り続けた「帰還」の、最後の一歩だった。肖像を拒み、誕生日を祝わず、体を軽んじた人。彼は外側のものを、最初から自分だと思っていなかった。
ただ一人で死んだのではない。ただ一人なるものへ、帰ろうとしていた。少なくとも彼自身は、そう考えていたはずだ。
では、あなたはどうだろう。外を見るのをやめて内へ帰ったとき、そこに何が見つかると思うか。それは、彫刻家のように刻み続けるに値するものだろうか。
08主要な出来事と著作
- エジプト・リュコポリスに誕生(出自不詳)
- 28歳で哲学に向かい、アレクサンドリアでアンモニウス・サッカスに師事(11年間)
- ゴルディアヌス三世のペルシア遠征に従軍、皇帝暗殺で頓挫
- 40歳でローマ到着、私塾を開く
- 皇帝ガッリエヌスとサロニナの庇護、プラトノポリス構想(未実現)
- 50歳前後から54篇の論文を執筆開始(視力弱、推敲せず)
- ティュロスのポルフュリオス入門、以後執筆と編集を託される
- 病により引退、エウストキオスの勧めでカンパーニアへ
- カンパーニアで没、享年65。エウストキオスが看取る
- ポルフュリオスが『エンネアデス』を編纂・校訂
- アウグスティヌスがミラノで『エンネアデス』(ラテン訳)を読む
- フィチーノが『エンネアデス』ラテン語全訳を完成、ルネサンス新プラトン主義へ
残した思想の輪郭
- 一者(ト・ヘン) ― 存在を超えた最高原理、語りえぬものとしての神性の原型
- 流出論 ― 一者→知性→魂→物質の永遠の階梯、近世までの西洋宇宙論の骨格
- 内なる道 ― 魂は下降の運動を反転させ、一者へ還る。中世神秘神学の源
- ヘノーシス(合一) ― 神秘体験を哲学の正当な頂点に位置づけた最初の体系
- プラトンの最深の継承者 ― プラトン主義が千五百年生き延びた媒体
- アウグスティヌス・フィチーノ・ピコ・ブルーノ ― 古代末期からルネサンスへの橋
つながり
- プラトン
先駆 — 「一者」の体系の土台に横たわる、イデア論と『パルメニデス』の対話篇の主。
- アウグスティヌス
継承 — 『エネアデス』をラテン訳で読み、回心の直前に「われ内に帰りぬ」と記した人。
- ジョルダーノ・ブルーノ
継承 — 一者の系譜の遠い先で、「一」を無限宇宙と結び直した思想家。
さらに読むならFurther Reading
プロティノスの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門善なるもの一なるもの
プロティノス / 訳: 田中美知太郎 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
プロティノスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- オスティア・アンティカゆかり
ローマ, イタリア
ローマの外港遺跡。プロティノスが晩年を過ごしたカンパーニャはこの近郊
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プロティノスを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「プロティノス」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Plotinus"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "Plotinus"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Plotinus (204—270 C.E.)"