日蓮
法華経を、 どこまで貫けるか?
南無妙法蓮華経の題目を立て、『立正安国論』で国家を諫め四度の法難を貫いた鎌倉の僧
- 南無妙法蓮華経
- 立正安国論
- 法華経
- 日蓮宗
時代の空気
13世紀の日本は、北条氏が執権として幕政を握る鎌倉中期にあった。正嘉元年(1257)の鎌倉大地震、翌年の大風、正元元年(1259)の大飢饉と大疫病が続き、末法到来の実感が民衆と武士に染みた。京都の朝廷は名目化し、法然の専修念仏、栄西・道元の禅、叡尊・忍性の律が新仏教として広がる。1268年に蒙古国書が到来、1274年文永の役、1281年弘安の役と元の二度の襲来が国を震わせた。安房の漁村から比叡山・高野山まで、寺院と街道が宗派論争と布教の現場となっていた。
01安房小湊、漁師の子
貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現千葉県鴨川市小湊)で生まれた。姓は俗称重忠とも伝わるが確証なく、父は漁業を生業とする貫名重忠、母は梅菊とされる(諸説あり)。幼名は善日麿(ぜんにちまろ)。後年の日蓮自身の表現で「海辺の旃陀羅が子」(『佐渡御書』)と、漁師(当時最下層の一つと見られた)の子であることを隠さず記している。
12歳(天福元年、1233年)で、近くの清澄寺(せいちょうじ、現清澄寺)に入り、道善房のもとで天台系の学びを始めた(正式な出家は16歳で、このとき是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と名乗った)。清澄寺は安房の小さな地方寺院だが、天台と真言の両方を学べる場だった。
02比叡山遊学、諸宗を学び尽くす
少年期の蓮長は「日本第一の智者とならしめたまえ」と虚空蔵菩薩に祈願したと、のちの自伝的書簡に記す。知への渇望を抑えられず、蓮長は諸国の寺院を巡る遊学の旅に出る。
嘉禎4年(1238年)頃から建長5年(1253年)の清澄寺帰山まで、前後十数年にわたり鎌倉、比叡山、園城寺、高野山、奈良、東寺の諸大寺で、天台・真言・浄土・禅・律・華厳・三論・法相の諸宗の教学を遊学した。比叡山では天台本覚思想を修め、法華経が諸経の王であるとする天台教学の根本に触れた。
各宗派を比較しながら、蓮長は確信を深めていく ― 末法(釈尊滅後2000年以降の、正法・像法を経て仏法が衰える時代)の衆生を救うのは、法華経以外にない。念仏(浄土)は他力の迂回、真言は儀礼の奥、禅は自力の錯覚 ― すべてが法華経の核心である南無妙法蓮華経の題目にはかなわない、と。これは他宗への激しい批判を内包する立場だった。
03立宗宣言、清澄寺の朝日
建長5年(1253年)4月28日、32歳。蓮長は清澄寺に戻り、旭が昇る頃、清澄山頂で初めて「南無妙法蓮華経」のを唱えたと伝える(立宗宣言、『宗祖御伝土代』など)。同日、清澄寺の南面山中の持仏堂で、住職道善房と弟子たちの前で初めて法華経の専修と念仏・禅・律・真言への批判を説いた。
この説法は、念仏信者だった地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)の怒りを買った。景信は蓮長を寺から追放しようとし、弟子たちの機転で身を隠して清澄寺を離れた。以後、蓮長は日蓮と改名する(日は「智慧の日」、蓮は「法華経」を象徴する)。鎌倉に下り、松葉ヶ谷(まつばがやつ、現鎌倉市大町)に小庵を結び、辻々で題目を唱え始めた。
04『立正安国論』― 幕府への諫言
1250年代後半、鎌倉は災害と疫病に見舞われた。正嘉元年(1257年)の鎌倉大地震、正嘉2年(1258年)の大風、正元元年(1259年)の大飢饉と大疫病。民衆と武士の間に末法の実感が広がっていた。
文応元年(1260年)7月16日、39歳の日蓮は『立正安国論』を、宿屋入道(宿屋左衛門入道)を介して前執権・北条時頼(事実上の最高権力者)に建白した。同書の批判の主軸は法然の『選択本願念仏集』による専修念仏の流行にあり、これが正法の法華経を退ける邪法として天災地変を招いていると論じた(真言・禅・律を対等に並べて断じる「」の定式化は門流の手による後代の通称)。このまま邪法を捨てなければ、外国侵略(他国侵逼難)と内乱(自界叛逆難)の二難が起こる、と警告した。
上呈から1ヶ月後の8月27日、日蓮の松葉ヶ谷の草庵が念仏信者に襲撃された(松葉ヶ谷法難)。日蓮は辛うじて逃れ、一時下総に身を隠す。翌弘長元年(1261年)5月12日、幕府は日蓮を伊豆伊東へ流罪とした(伊豆流罪、第二法難)。『』の「他国侵逼・自界叛逆」の予言は、上呈から約12年後の二月騒動(1272年、北条時輔の乱)と、約14年後の文永の役(1274年、元寇一次侵攻)でほぼ的中することになる。
05竜の口、首を斬られかける
伊豆流罪が解けても、日蓮の歩みは止まらなかった。布教を再開した日蓮に、迫害はさらに重なる。文永元年(1264年)、小松原(現鴨川市)で再び東条景信の襲撃を受け、弟子の鏡忍房と檀越の工藤吉隆が討死、日蓮自身も額に傷を負い左手の骨を折った(小松原法難、第三法難)。
文永8年(1271年)9月12日、50歳。平頼綱(たいらのよりつな、幕府の侍所所司)が武士団を率いて日蓮の草庵を襲い、日蓮を捕らえた。蒙古国書の到着も重なる時期ではあったが、直接の契機は平頼綱ら幕府による逮捕・弾圧である。竜の口(たつのくち、現神奈川県藤沢市)の刑場で首を斬られようとした ― 竜の口法難(第四法難)。
『種種御振舞御書』などによれば、刑執行の直前、夜空を一条の光が走り、首を斬る役の武士が震えて刀を落としたという。後世この現象を「江ノ島の明星」「竜口の奇跡」と呼ぶ(ただし当該記述は日蓮自身の書簡中に見え、客観的な史料では確認されていない)。斬首は延期され、佐渡島への流罪に処された。
06佐渡、『開目抄』『観心本尊抄』
文永8年(1271年)11月、日蓮は佐渡の塚原三昧堂(現新潟県佐渡市)に送られた。冬の佐渡の草堂は吹雪に吹き晒され、食糧も乏しかった。念仏信者から投石され、日蓮の命は何度も危うかった。弟子阿仏房、千日尼、そして鎌倉から多くの弟子が文を送り、物資を運んだ。
この苛酷な環境で、日蓮は二つの根本的な書を著した。文永9年(1272年)2月、『』 ― 日蓮自身が誰であるかを明かす宣言書。「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」と誓い、自らを末法の本化の菩薩(釈尊が法華経で予言した、末法に法華経を広める地涌の菩薩)に位置づけた。文永10年4月、『』 ― 法華経本門の題目を末法の本尊として受持することを明かす、日蓮教学の根本書。
文永11年(1274年)2月、赦免。3月26日に鎌倉へ戻り、4月8日に平頼綱と会見して北条時宗政権に三度目の諫言を行なうが聴かれず、5月17日に身延山(現山梨県南巨摩郡身延町)へ入山した。同年10月、文永の役(元寇の一次侵攻)が勃発。日蓮の「他国侵逼難」の予言は、時の人々を震撼させた。
07身延山9年、題目を日本に刻む
身延山(現・久遠寺)は日蓮の檀越波木井実長(はきいさねなが)の所領内にある山で、人里離れた地だった。日蓮はここに草庵を結び、1274年入山から1282年下山まで足かけ9年を過ごす。弟子の教育、曼荼羅本尊の書写、書簡の執筆、この三つが身延時代の日々の主な活動だった。
日蓮の(御本尊)は、中央に「南無妙法蓮華経」の題目、その左右に諸仏・諸菩薩・諸天・諸神を配した独自の本尊である。身延在山中に日蓮が書いたとされる大曼荼羅は100幅以上が現存する。弟子や檀越に授ける形で流布され、日蓮宗の信仰対象として今日まで続いている。
身延時代の書簡(御消息)と著作には、『上野殿御返事』『千日尼御前御返事』『諸法実相抄』『撰時抄』『報恩抄』など名文が多く残る(『観心本尊抄』は前年1273年の佐渡期の著作で、ここには含まれない)。書簡は門徒への教え、末法の位置づけ、法華経の意義、人生の苦しみへの励ましを含む。とくに女性信徒への書簡は、当時としては極めて先駆的に女性と男性を対等に扱い、「竜女成仏」(法華経提婆達多品の竜女が女身のまま成仏する場面)を根拠に女性の成仏を確信的に説いた。
弘安5年(1282年)秋、日蓮は病が重くなり、身延を下山して常陸の湯へ湯治に向かう途上、武蔵国池上(現東京都大田区、信徒池上宗仲の屋敷)に立ち寄り、そこで容態が悪化した。10月13日辰の刻(午前8時頃)、池上で没した。61歳。遺骨は弟子日朗らにより身延山に運ばれ、久遠寺(くおんじ)が墓所・総本山として整備された。
日蓮の直弟子として六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)が遺されたが、日蓮自身が単一の後継者を定めたわけではなく、没後は各門流に分かれた。とくに日興は身延山を離れて富士大石寺を開き、後の日蓮正宗の祖となる。他派に日蓮宗(久遠寺を総本山、六老僧のうち日興以外の系統)、顕本法華宗、法華宗本門流など、日蓮門下から多数の宗派が枝分かれして現代まで続く。日蓮の法華経専修と題目唱和は、武士・農民・商人・女性を問わず広がり、室町・戦国・近世・近代を通じて常に日本の宗教・政治の重要な軸であり続けている。
南無妙法蓮華経。
08主要な出来事と著作
- 安房国小湊の漁家に生まれる。幼名善日麿
- 12歳、清澄寺で道善房のもと学び始める。16歳で正式に出家し是聖房蓮長と名乗る
- 比叡山・園城寺・高野山・東寺・奈良・鎌倉を歴遊し諸宗を学ぶ
- 4月28日、清澄山頂で題目を唱え立宗宣言。日蓮と改名
- 7月16日、『立正安国論』を宿屋入道を介し前執権北条時頼に建白。8月、松葉ヶ谷法難
- 5月12日、伊豆伊東に流罪(第二法難)
- 11月、小松原法難で左手を折り弟子鏡忍房と檀越工藤吉隆が討死(第三法難)
- 9月12日、竜の口法難(第四法難)、刑執行が延期され佐渡流罪に
- 佐渡塚原三昧堂で『開目抄』
- 『観心本尊抄』、法華経本門の題目を末法の本尊として受持することを明かす根本書
- 2月、赦免。5月身延山入山。10月、文永の役(元寇一次侵攻)
- 身延山9年、大曼荼羅本尊の書写と御消息の執筆に集中
- 弘安の役(元寇二次侵攻)、予言の的中と受け止められる
- 10月13日、武蔵国池上で没。享年61。遺骨は身延山に葬られる
残した思想の輪郭
- 南無妙法蓮華経 ― 法華経の経題そのものを成仏の種子とする題目唱和
- 立正安国論 ― 正法を立て国を安んずる、宗教と国家の根本的結びつき
- 末法本化の菩薩 ― 釈尊が予言した末法の上行菩薩に自らを重ねる強烈な自覚
- 法華経の専修 ― 念仏・真言・禅・律を退け、法華経のみを末法の救いの経と立てる
- 大曼荼羅本尊 ― 題目を中央に諸仏諸天を配する、日蓮独自の本尊の図像構造
- 四度の法難 ― 松葉ヶ谷・伊豆・小松原・竜の口/佐渡、身体で法華経を生きる
- 他国侵逼・自界叛逆の予言 ― 元寇と二月騒動でほぼ的中し時の人を震撼させた
- 女性の成仏 ― 竜女成仏を根拠に女性信徒にも男性と対等な救いの道を説く
出典と確認メモ
8件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: この説法は、念仏信者だった地頭東条景信(とうじょうかげのぶ)の怒りを買った。景信は蓮長を寺から追放しようとし、弟子たちの機転で身を隠して清澄寺を離れた。以後、蓮長は日蓮と改名する(日は「智慧の日」、蓮...
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一次資料を開く日蓮宗祖山久遠寺 公式 — 建長5年(1253)4月28日、清澄寺で「南無妙法蓮華経」題目を初めて唱える、立宗宣言 を記録。philoglyph pullquo...
- 出典原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: nichiren.mdx pullsource '日蓮が打ち立てた題目(建長5年4月28日、清澄寺における立宗宣言)' は正確な書誌。建長5年(西暦1253年)4月28日、日蓮32歳が安房国清澄寺旭ヶ...
一次資料を開く創価学会公式 — 4月28日は「立宗の日」。建長5年(1253)4月28日早朝、清澄山旭ヶ森山頂で太平洋から昇る朝日に向かって「南無妙法蓮華経」題目を高らかに唱...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: quotes.ts nichiren-2 source '日蓮『異体同心事』(建治2年、1276年頃、富木常忍宛書状)' は宛先・年代に factual error。当該書状『異体同心事 (報太田氏書...
一次資料を開く『異体同心事(報太田氏書)』、文永11年(1274年)8月、太田氏宛、執筆地 身延。本文に「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶事なしと申事は外典三千...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: quotes.ts nichiren-2 text『異体同心なれば万事を成し、同体異心なれば諸事叶う事無し』(textHashSha256 1b01419e78818897…) は日蓮『異体同心事 (...
一次資料を開く創価学会御書検索: 高橋入道殿御返事 (異体同心事) 中の「異体同心なれば万事を成じ同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候」を聖寿54歳作...
- 文脈伝承として記録伝承
伝承: 建長5年(1253)4月28日の早朝、安房国清澄寺の旭ヶ森で朝日に向かい、日蓮が初めて高らかに唱えたと伝わる題目である。天台の教観を学びながら、末法の世には経典の題目そのものに全てが摂まるとして、『法...
一次資料を開く日蓮宗公式年表、建長5年(1253)4月28日 安房国清澄寺旭ヶ森での立宗宣言。32歳で南無妙法蓮華経を初唱と確定
- 文脈伝承として記録伝承
伝承: 建長5年(1253)4月28日の早朝、安房国清澄寺の旭ヶ森で朝日に向かい、日蓮が初めて高らかに唱えたと伝わる題目である。天台の教観を学びながら、末法の世には経典の題目そのものに全てが摂まるとして、『法...
つながり
- 最澄(伝教大師)
先駆 — 建長5年(1253)に清澄寺(安房)で立教開宗、その後比叡山で12年間天台宗を学ぶ。日蓮は自らを「伝教大師(最澄)の末流」と位置づけ、『立正安国論』(1260)『開目抄』(1272)で最澄の法華一乗主義を受け継ぎつつ、題目(南無妙法蓮華経)による専修法華の独自路線へ展開。「四箇格言」は天台以外の鎌倉仏教諸派への激しい排他的批判
- 親鸞
対比 — 日蓮『立正安国論』(1260)『開目抄』(1272)で法然・親鸞系統の専修念仏を「念仏無間」として烈しく批判、「四箇格言」(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)の筆頭に置く。阿弥陀他力の念仏(南無阿弥陀仏)と法華一乗の題目(南無妙法蓮華経)は、鎌倉新仏教のうち末法観・救済観を最も対照的にした二大潮流
- 道元
対比 — 日蓮『立正安国論』『撰時抄』で禅宗を「禅天魔」として批判、「四箇格言」の一つに数えるほど鋭い敵視を示す。道元の只管打坐(坐禅そのものが悟りとする修証一等)と日蓮の唱題(南無妙法蓮華経の唱題こそが唯一の救済)は、鎌倉仏教の修行観の二大極点として並置される
- 栄西
先駆 — 鎌倉新仏教の起点としての栄西は、日蓮が主要批判対象とする「四箇格言」(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)の「禅天魔」の対象に含まれるが、同時に日蓮は『立正安国論』(1260)で鎌倉幕府への直諌書のモデルとして栄西『興禅護国論』(1198)の「護国」という政治的宗教書の形式そのものを受け継いだ。批判と形式継承が並走する典型
さらに読むならFurther Reading
日蓮の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
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日蓮が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
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WikipediaWikipedia 日本語版「日蓮」項
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日蓮が鎌倉幕府に提出した主著
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日蓮を宗祖とする仏教宗派の解説
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