栄西
国を護る仏法と、 一杯の茶は、 なぜ同じ人の手から出たのか?
二度の入宋で臨済禅を日本に移植し、建仁寺を開き、宋から持ち帰った茶の種を鎌倉の将軍に献じた鎌倉新仏教の火付け役
- 臨済宗
- 興禅護国論
- 喫茶養生記
- 宋への二度の入宋
- 建仁寺
貴族の世が武士の世へ変わる中、古い仏教は揺れ、海の向こうから禅の噂が届いていた — ひらく
時代の空気
平安末から鎌倉初へ、貴族の世が武家の世に組み替わる激動の時期である。保元・平治の乱(1156・1159)を経て平清盛が政権を握り、源平合戦(1180-85)と平家滅亡を経て源頼朝が鎌倉に幕府を開いた。1180年の南都焼き討ちで東大寺・興福寺は焼け、重源の勧進で復興に向かう。比叡山の天台密教は儀軌の硬直に苦しみ、達磨宗(大日房能忍)系の在野禅は異端視された。海の向こうの南宋では臨済・曹洞・雲門・法眼の宋禅が最盛を迎え、北条政子と源実朝は新しい仏法に静かに耳を澄ませはじめていた。
01病の将軍と一杯の茶
1214年2月4日、鎌倉。3代将軍のは、床についていた。前の夜の酒が残り、体の不調の原因もはっきりしない。その病の将軍に、一人の老僧が茶を献じた。70歳を超えた明庵栄西である。
栄西が差し出したのは、茶の一葉と、一冊の書だった。書の名は『喫茶養生記』。自分で書いた、日本で最も古い茶の本である。実朝はその茶を飲み、体が楽になった。幕府の記録『吾妻鏡』は、この日のことをそう記している。
茶は末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術なり
ここで一つ、不思議なことがある。栄西は茶の商人ではない。宋から禅を持ち帰った、日本で最初の正式な禅の僧である。16年前には『興禅護国論』という本を書いていた。禅こそ国を護るための仏法だ、と論じた本である。
国を護る仏法を説いた僧が、なぜ将軍の二日酔いに茶を運ぶのか。禅と茶は、この人の中でどうつながっていたのか。答えは、比叡山に登った一人の少年の時代まで戻らなければ見えてこない。時は63年前、1151年に戻る。
02比叡山の少年と、届かない渇き
栄西は1141年、備中国(今の岡山県岡山市)に生まれた。吉備津神社の神官、賀陽氏の子である。幼名は千寿丸。父の賀陽貞遠は神社の禰宜、母は田氏の娘だった。吉備の国は、中国山地と瀬戸内海のあいだに広がる豊かな米どころである。古くから鉄と稲と神社の文化が交わる土地だった。
神社の家に育ちながら、幼い千寿丸は仏教に心を引かれた。8歳で『倶舎論』『婆沙論』という仏教の教理の書の初歩を読んだと伝わる。1151年、千寿丸は比叡山延暦寺に登った。千命(ちめい)阿闍梨という師について、の教えを学び始める。1154年には髪を剃って正式な僧となり、静心の名を受けた。後に明庵栄西と名乗る。「ようさい」と読むこともある。
比叡山では二つの学びが並んでいた。一つは経典を読み解く顕教。もう一つは、儀式と真言で仏に近づく密教である。比叡山の密教はと呼ばれ、空海の真言宗(東密)と競い合っていた。当時の比叡山は、まさに台密の実践が大きく伸びる時期だった。若い栄西は特に密教の灌頂と儀式の作法に打ち込み、頭角を現していく。
けれど20代の栄西には、深い不満があった。海の向こうの宋(当時は南宋)から、禅という仏教の噂が届いていた。決められた儀式を繰り返すだけでは、心の奥にまっすぐ届かない。栄西はそう感じ始めていた。その渇きが、やがて彼を海へ向かわせる。
03最初の海 — 天台山と天童山
1168年、栄西は博多の港から船に乗った。着いた先は明州、今の寧波である。生まれて初めての入宋だった。この旅にはが同行していた。後に焼けた東大寺の大仏を再建することになる僧で、この時は栄西より20歳ほど年上の同行者だった。
二人はまず天台山に登った。天台宗が生まれた土地である。そこで天台の書物や儀式の記録を集めた。次に栄西は重源と別れ、明州の近くの天童山と阿育王山を続けて訪ねた。どちらも南宋の禅の中心地で、臨済宗との名だたる流派が並び立っていた。
天童山で栄西は初めて、生きた禅を目の前で見た。坐禅の姿。師が弟子を直に導くやりとり。と呼ばれる、答えのない問いの使い方。書物で読む禅とはまるで違った。しかし滞在は短かった。禅の師から正式な印可、つまり「法を継いだ」という認めを受けるには至らない。
同じ年の秋、6か月の旅を終えて栄西は日本へ帰朝した。持ち帰ったのは、天台山で集めた典籍『新章疏60巻』と、禅の強い印象である。比叡山に戻って本を整理しながら、栄西は一つの決意を温めた。本当に禅を学ぶには、もう一度宋に渡るしかない。だがその機会は、19年待たなければならなかった。
04二度目の海 — 虚庵懐敞の印可
1187年、栄西は再び海を渡った。である。今度の目的ははっきりしていた。本格的な禅の修行と、を受けること。最初はインドまで行き、釈迦の足跡を辿るつもりだった。しかし宋の政府がインド行きを許さなかった。栄西は南宋にとどまる道を選ぶ。
栄西が門を叩いたのは、天台山万年寺の虚庵懐敞だった。臨済宗黄龍派の禅僧である。臨済宗は、唐の臨済義玄から続く禅の流れの一つ。黄龍派はその中の一派で、黄龍慧南に始まり、はその9代目にあたる。栄西はこの師のもとで4年間、坐禅に打ち込んだ。
1191年、虚庵懐敞は栄西に印可を与えた。栄西は臨済宗黄龍派の法を継ぐ者として、正式に認められた。これは日本の仏教にとって大きな出来事だった。それまで日本に伝わっていた禅は、宋の師から直接に法を受けたものではなかった。同じ頃、日本で独自に禅を広めていた大日房能忍の達磨宗も同じである。栄西の印可は、日本で最初の正式な禅の法脈となった。
同じ1191年7月、栄西は博多に帰り着いた。荷物の中には、茶の種子があったと伝わる。平戸と博多の人々の助けを得て、栄西は1195年に博多にを開く。日本で最初の正式な禅寺の一つである。今も「扶桑最初禅窟」の額が掛かる。扶桑とは日本のことだ。だが、正式な法脈を持ち帰ったことが、そのまま歓迎されたわけではなかった。
05禁止令と『興禅護国論』
帰国した栄西の前に、比叡山が立ちはだかった。1194年頃、比叡山延暦寺は朝廷に訴えた。栄西の禅の布教を禁じてほしい、と。栄西はと一括りにされ、禁止令が出た。栄西には言い分があった。自分は虚庵懐敞から印可を受けた、正統な禅の僧である。師からの印可を持たない達磨宗とは違う。
1198年、栄西は『』全3巻を書いた。題名がそのまま主張である。禅は、国を護るための仏法だ。栄西は禅を新しい宗派としては出さなかった。釈迦から直に伝わる、正統な教えとして示した。序文では自分を「比叡山出身の天台僧」と名乗っている。古い顕密の仏教を追い出すのではない。それらと並んで、国の平安を支える第一の教えだと論じたのである。全10門(心論・戒論・道論・教論など)にわたり、禅と戒律、禅と密教、禅と旧仏教が両立することを論じ尽くした。
この本は、歴史を動かした。1200年、鎌倉幕府の北条政子が栄西に帰依した。源頼朝の未亡人で、幕府の実質的な最高権力者の一人である。政子は頼朝の菩提を弔うため、鎌倉の亀ヶ谷に寿福寺を建て、栄西を開山に迎えた。日本で最初の禅寺の一つで、後の鎌倉五山の第三位となる寺である。
1202年には2代将軍の源頼家が、京都に建仁寺を建てた。寺の名は頼家の年号「建仁」から取られている。開山はもちろん栄西である。ただしは、天台・真言・禅の三つの宗を兼ねる寺として出発した。これは政治的な妥協だった。しかしこの妥協が、比叡山からの攻撃をかわす盾になった。この寺は以後およそ800年、京都の禅の中心であり続ける。今も臨済宗建仁寺派の大本山として、俵屋宗達の『風神雷神図』を伝えている。禅の寺は建った。一方、博多に持ち帰った茶の種子は、別の場所で静かに芽を出しはじめていた。
06茶の種と一冊の書 — ふたたび病の将軍へ
栄西が持ち帰った茶の種子には、二つの説がある。種そのものを持ち帰ったという説と、種は持ち帰らず宋式の茶の飲み方だけを伝えたという説である。いずれにしても、種はの手に渡ったと伝わる。明恵は華厳宗を立て直した僧で、栄西より30歳あまり年下だった。明恵は京都北山の栂尾(とがのお)にある高山寺で、茶を育て始めた。栂尾の茶は「本茶」と呼ばれ、後の宇治茶の源流になる。
1211年、栄西は『』全2巻を書いた。日本で最も古い茶の本である。上巻は茶の効き目を、陰陽五行と漢方医学の枠で整理する。心臓は五つの臓器の君主であり、茶の苦味はその心臓を養う。茶はただの嗜好品ではない。体の陰陽を整える、命の技である。下巻には桑の効き目、酒の害、中風や脚気などへの処方が並ぶ。宋の医学の知識を、日本に移す仕事でもあった。
茶は末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術なり
そして1214年2月4日、話は冒頭の場面に戻る。病の将軍源実朝に、栄西は茶と『喫茶養生記』を献じた。ここまで辿れば、もう不思議ではないだろう。禅の坐法を持ち帰った同じ手が、茶の種子を持ち帰った。『喫茶養生記』は茶を、薬として、宗教の営みとして、人の生き方として、三つの面から位置づける書だった。『興禅護国論』の「護国」と、『喫茶養生記』の「養生」は、同じ一人の僧から出ている。
将軍が茶で快癒したことは、武家の社会に茶の権威を与えた。以後、茶は武士の暮らしへ広がっていく。翌1215年、栄西は京都の建仁寺で、座したまま静かに生涯を閉じた。
一杯の茶を前にしたとき、あなたはそれを薬と呼ぶだろうか。それとも、心を調える作法と呼ぶだろうか。栄西なら、どちらも同じ答えだと言ったかもしれない。
07法脈の位置と後継者たち — 道元・日蓮への先駆
栄西が持ち帰った臨済宗黄龍派の印可は、日本最初の正式な禅の法脈である。日本にそれまで渡来していた禅(道昭・最澄・円仁・道銓らが部分的に伝えた)も、栄西と同時代に独自布教していた大日房能忍の達磨宗も、いずれも正式な師資相承の法脈を宋から直接受けてはいなかった。後年、道元が曹洞宗(宏智派)を伝え、円爾弁円・蘭渓道隆らが臨済宗楊岐派を伝えるが、時系列的には栄西の黄龍派が最初となる。栄西自身は最期まで比叡山の天台僧としての立場を手放さず、三宗兼修(天台・真言・禅)の形式的妥協を受け入れた。しかし彼が宋から持ち帰った臨済禅の法脈と茶の種子は、以後の日本仏教の展開に決定的な影響を与える。
道元(1200-1253、曹洞宗開祖)との関係は直接的かつ象徴的だった。道元は1217年から1223年までの6年間、建仁寺で栄西の直弟子(1184-1225)に師事して修行した。明全は栄西から直接禅の法脈を受け継いだ弟子で、道元は明全を通じて栄西の禅の伝統に触れた。1223年、道元は明全と共に入宋し、天童山で如浄(宏智派の曹洞宗禅僧)から曹洞宗の印可を受ける。道元自身は栄西との直接面会についても伝承があるが、史料的には確定できない(栄西は道元が建仁寺に入る2年前に示寂している)。『正法眼蔵』随聞記に「栄西僧正のおきて」への言及があり、栄西が宋から持ち帰った禅院清規は道元の永平寺清規の遠い源流となった。
日蓮(1222-1282)との関係は批判と形式継承の二重構造だった。日蓮は「」(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)で全体を「天魔」として斥けた、その批判対象に栄西以降の臨済禅は含まれる。他方、『』(1260)で幕府に直諌するという書物の形式は、栄西『興禅護国論』(1198)の「護国を題とする仏書を権力に献ずる」形式そのものを受け継いでいる。批判しつつ継承する──鎌倉新仏教内部の複雑な血縁関係の一例である。
他に円爾弁円(1202-1280、東福寺開山、臨済宗楊岐派)、蘭渓道隆(1213-1278、建長寺開山、中国僧)、無学祖元(1226-1286、円覚寺開山、中国僧)ら、鎌倉・南北朝期の臨済禅系諸師はすべて、栄西が開いた「宋禅の日本受容」の道を辿る後継者として位置づけられる。
茶についても同じ構図が見える。茶そのものは平安期の最澄・空海らによって既に日本にもたらされ、一部の寺院・貴族階層で細々と消費されていた(『日本後紀』弘仁6年・815年の嵯峨天皇への献茶記事など)。栄西の仕事はこの既存の茶文化の継承の上に、宋式の粉末茶(抹茶)の喫し方と医薬的=霊的位置づけの体系を重ねた点にある。以後、武家茶・室町期東山文化の闘茶・15世紀村田珠光の・16世紀千利休の茶の湯へと続く系譜のうえで、1211年の『喫茶養生記』と1214年の将軍献上は大きな結節点として記憶される。
08主要な出来事と著作
- 備中吉備津神社の神官賀陽氏の子として生まれる
- 11歳で比叡山延暦寺に登る
- 14歳で剃髪得度、天台の教学と密教を修める
- 28歳で最初の入宋、天台山と天童山を訪問、6か月の短期滞在
- 47歳で二度目の入宋、天台山万年寺で虚庵懐敞に師事
- 臨済宗黄龍派の印可を受領、帰国して茶種を持参、聖福寺を開山
- 比叡山の奏上で禅布教禁止令、弾圧を受ける
- 『興禅護国論』撰述、禅擁護の論書
- 北条政子の帰依で鎌倉寿福寺を開山、関東禅の橋頭堡
- 源頼家の帰依で京都建仁寺を開山、京都禅の拠点
- 『喫茶養生記』撰述、日本最古の茶書
- 将軍源実朝に『喫茶養生記』と茶を献上、武家茶の出発点
- 7月5日、建仁寺塔頭で座したまま示寂、享年75
残した思想の輪郭
- 臨済宗黄龍派の正式な日本移植 — 虚庵懐敞から印可を受領した日本最初の禅の正統法脈
- 『興禅護国論』(1198) — 顕密旧仏教との両立を説く禅擁護の論書、護国の仏法として禅を位置づける
- 建仁寺開山(1202) — 京都禅の出発点、800年続く京都五山文化の核、三宗兼修の政治的妥協
- 『喫茶養生記』(1211) — 日本最古の茶書、茶を末代養生の仙薬として医薬的・倫理的に位置づける
- 将軍源実朝への茶献上(1214) — 武家茶の起点、以後の侘び茶・千利休・現代茶道の遠い源流
- 明恵への茶種譲渡 — 栂尾本茶から宇治茶への系譜、日本茶文化の地理的起点
- 道元への先駆 — 弟子明全を通じた曹洞宗への禅院清規の継承、永平寺清規の源流
- 日蓮への形式継承 — 『立正安国論』のモデルとしての『興禅護国論』、批判と形式継承の並走
- 宋文化の日本移植 — 禅・茶・医学・典籍の総合的な宋文化の伝達者
- 三宗兼修の戦略的妥協 — 比叡山からの攻撃をかわしつつ禅を日本に定着させた政治的知性
- 二度の入宋 — 28歳と47歳、19年の間隔、日本仏教の中で最も深い宋文化の直接体験
- 千光祖師の諡号 — 明治天皇による追贈、近代に至るまで続く歴史的評価
つながり
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栄西の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門栄西 喫茶養生記
栄西 / 訳: 古田紹欽 全訳注 / 講談社学術文庫
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生きた跡を辿るPlaces
栄西が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 建仁寺ゆかり
京都市, 日本
1202年、栄西を開山として創建された京都最古の禅寺。日本臨済宗の本山の一つ
- 聖福寺(博多)ゆかり
福岡市, 日本
1195年、栄西が開山した日本最初の禅寺。源頼朝の庇護を受けた博多の臨済宗寺院
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さらに辿るならExternal References
栄西を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「栄西」項
WikipediaWikipedia 日本語版「喫茶養生記」項
栄西が記した日本最古の茶書
WikipediaEnglishWikipedia English — "Eisai"