スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
家が貧しくなったとき、 なぜ彼は金ではなく「見る目」を願ったのか?
ラーマクリシュナの愛弟子として村の聖者の声を胸に、シカゴの舞台から「姉妹兄弟たちよ」と呼びかけて近代ヒンドゥー教を世界に開いたサンニヤーシン
- ヴェーダーンタ
- 1893シカゴ
- 実践的ヴェーダーンタ
- ラーマクリシュナ
- ヒンドゥー近代化
イギリスに支配されたインドで、西洋の学問と自分の国の神のどちらを信じるか、若者たちが揺れていた時代 — ひらく
時代の空気
19世紀後半の英領インドは600の藩王国に分裂した亜大陸を植民地体制が覆い、独立も統一もない時代だった。ブラーフモ・サマージなどの改革派ヒンドゥーが西洋合理主義との折衷を進める一方、農村ではアンタッチャブルとされた人々がカースト制最下層に置かれ、西洋教育で母国を侮蔑する知識人もいた。ダクシネーシュワルでは聖者ラーマクリシュナが宗教平等を説いていた。1893年のシカゴ万国宗教会議はコロンブス到達400周年万国博の一部として、世界の宗教指導者が初めて一堂に会する場となった。
01金ではなく、眼差しを
1884年、コルカタ(当時の呼び名はカルカッタ)。町の近くのダクシネーシュワルに、の寺院がある。その女神の前に、21歳の青年が立っていた。名をナレンドラナート・ダッタ、愛称はナレンという。
この年、父ヴィシュワナートが突然亡くなった。父は弁護士だった。その父を失い、ダッタ家は一気に貧しくなった。ナレンは職探しに追われた。貧しさと、神を求める心とのあいだで、彼は引き裂かれていた。
寺院には、という聖者がいた。ナレンが師と仰ぐ人である。師はこの苦しみを深く受け止めた。そして「母カーリーに祈れ、必ず助けてくださる」と、繰り返し諭した。だからナレンは、女神の前に立ったのである。
けれど彼が口にした願いは、金でも仕事でもなかった。「私に識別の知恵を、献身を、そして神ご自身への直接の眼差しを」。家が貧しさに沈んでいるのに、彼は神を見る目を求めた。師は、この祈りの中身に深く満足したと伝えられる。
なぜ、貧しさに追われた青年は、金を求めなかったのか。そしてこの祈りは、のちに7,000人を立ち上がらせる一言へつながってゆく。手がかりは、3年前の出会いにある。時は1881年に戻る。
02「あなたは神を見たことがありますか」
1881年11月、コルカタ。18歳の大学生ナレンが、ダクシネーシュワルの寺院を初めて訪ねた。彼こそのちのヴィヴェーカーナンダである。だがこのとき、彼はまだ迷いの中にいた。
ナレンは1863年、この町の弁護士の家に生まれた。家はカーヤスタという、書記や法律家を多く出す共同体に属していた。父ヴィシュワナートは英語やペルシア語の詩を愛した。西洋の合理主義(理屈で考える立場)を信じる人だった。母ブヴァネーシュワリーは信心深く、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』の物語を幼い息子に語り続けた。
少年は驚くほど頭がよく、体も屈強で、同時に深い信仰心を持っていた。大学(スコティッシュ・チャーチ・カレッジ)では西洋の哲学と論理学、歴史を学んだ。ヒューム、ミル、スペンサーといったイギリスの思想家を読み込んだ。一方でという改革派のヒンドゥー教団体に入った。若いリベラル知識人の仲間に加わったのである。
頭は西洋の理屈を、心はインドの神を求めていた。青年は、その二つのあいだで引き裂かれていた。だから彼は、会う人ごとに同じ問いを投げた。「あなたは神を見たことがありますか」。答えられる人は、誰もいなかった。
寺院には、ラーマクリシュナという聖者がいた。学校の教育をほとんど受けていない、カーリー女神を一心に信じる神秘家である。僧も知識人もふつうの人も区別なく受け入れた。「すべての宗教は同じ至高の実在に通じる道である」と説いていた。ナレンは、この人にも例の問いを投げた。
ラーマクリシュナは即座に答えた。「ある。この身体で、あなたを見るよりもはっきりと」。この一言が、ナレンの人生を変えた。以後5年間、彼はコルカタの学業と下宿を続けながら、何度もダクシネーシュワルに通った。師の足元で神秘主義と、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(すべては一つだと説く非二元論の哲学)を直接学んだ。
この5年の途中に、父の死と、あのカーリー女神への祈りがあった。そして祈りの2年後、今度は師が、彼の前から去ってゆく。
03オレンジ色の法衣
1886年8月16日、ラーマクリシュナが喉の癌で亡くなった。場所はコシポルの庭園、師が最後の日々を過ごした家である。ナレンを含む十数人の若い弟子たちが、その最期を看取った。
師を失った弟子たちは、北コルカタ近くのバラーナガルにある古い屋敷に集まった。そこで共同生活を送り、1887年の初めにそろっての誓いを立てた。家も財産も捨て、旅をしながら生きる出家の誓いである。ナレンはその筆頭だった。
彼はサフランのオレンジ色の法衣をまとった。そして旅の途中で、ヴィヴェーカーナンダという僧の名を選んだ。「識別の至福」という意味である(名が確定したのは1893年のアメリカ渡航の前後という説が有力)。女神の前で願った「識別の知恵」と同じ言葉が、名前に入っている。
師から受け取ったものは、悟りへの道だった。だが、そのままではインドの民衆にも、インドの外にも届かない。それを彼に教えたのは、書物ではなく自分の足だった。
04水瓶と法衣だけで
1888年から1892年まで、ヴィヴェーカーナンダはインド各地をひとりで歩いた。持ち物は水瓶と法衣だけ。名前も明かさずに旅をした。北はヒマラヤのリシケーシ、ハルドワール、バドリナート。西はラージプターナ、マハーラーシュトラ。南はケーララ、タミルナードゥ。東はチッタゴン(いまのバングラデシュ)まで、インド全土を自分の足で踏んだ。
この3年間で、彼はインドの現実と向き合った。イギリスの支配の下で貧しさにあえぐ農民。「アンタッチャブル(触れてはならぬ者)」と呼ばれ、カースト制のいちばん下に押し込められた人々(のちにダリットと総称される共同体)。西洋の教育を受け、自分の国を見下す知識人。そして独立も統一もなく、600の藩王国に割れたまま、「インド」という一つの国の観念すらないこと。
聖者としてひとりで悟る。それだけでは、この民族の呼吸は続かない。ヴェーダーンタを、山の中の悟りから、人々の生活の実践に変える。その構想が、歩きながら少しずつ形になってゆく。
旅の終点は1892年12月、インド亜大陸の最南端カンニャクマリだった。彼は沖の岩礁(いまのヴィヴェーカーナンダ・ロック)まで泳いで渡った。そこで3日3晩瞑想した。この岩の上で、インドの姿が全体像として目の前に開けた、と後年に記している。「インドは貧困を抜け出すために、まず精神の自負を取り戻さねばならない。それには古代ヴェーダの知恵を、現代の実践として甦らせねばならない」。
岩の上でインドの全体を見た男は、次にインドの外へ向かう。半年後、彼を乗せた船は神戸を経て、アメリカへ向かっていた。
05シカゴ、1893年9月11日
行き先は、アメリカのシカゴで開かれる万国宗教会議だった。コロンブスのアメリカ到達400年を記念する万国博覧会の一部である。世界中の宗教の指導者が一堂に会する、史上初めての催しだった。
じつは彼は、この会議に出られなくなりかけていた。招待の手続きにミスがあったのである。ハーヴァード大学のJ・H・ライト教授が力を尽くした。直前になってようやく、正式な代表に加わった。旅の資金は、マドラス(いまのチェンナイ)の若い知識人たちが集めた。ケートリーの藩王(インドの小国の王)アジート・シングも出してくれた。その年の5月、彼は神戸を経由してアメリカに向かった。
1893年9月11日の午後。会議の初日、最後の発言者が壇に立った。オレンジ色の法衣をまとった、30歳のインド人の僧である。彼は用意していた原稿を捨てた。そして開口一番、こう呼びかけた。「Sisters and Brothers of America!(アメリカの姉妹兄弟たちよ!)」。会場の7,000人が立ち上がった。拍手は2分間やまなかった。
この一言のあと、彼は3週間の会議で計6つの講演を行った。説いたのは、ヒンドゥー教の非二元論と、宗教どうしの寛容だった。「真理は一つであり、賢人はそれを様々に語る(エーカ・サド・ヴィプラー・バフダー・ヴァダンティ、1.164.46)」。会議が終わるころ、彼は最も人気のある発言者として、全米の新聞に取り上げられていた。
そこから4年間、彼はアメリカの東部・中西部とイギリスを回って講演を続けた。ニューヨーク、ボストン、デトロイト、シカゴ、ロンドン、オックスフォード、ケンブリッジ(サンフランシスコなど西海岸での本格的な講演は、主に1899年からの二度目の訪米の仕事になる)。聴衆は延べ数十万人、新聞記事は数千本にのぼった。彼の英語は、古典のような格調と、その場で生まれる熱を併せ持っていた。原稿なしで、記憶だけを頼りに長時間の講演を繰り広げることができた。
弟子たちはこの講演を速記で残した。それがのちに本になった。『ヴェーダーンタ哲学』(Vedanta Philosophy)、(Karma-Yoga、奉仕のヨーガ)、(Jnana-Yoga、知のヨーガ)、(Bhakti-Yoga、献身のヨーガ)、(Raja-Yoga、瞑想のヨーガ)である。
1896年、ロンドンでの連続講演で、彼は古い聖典の一節を英語に訳し、聴衆に投げかけた。
立ち上がれ、目覚めよ、そして目的を達するまで歩みを止めるな
1897年1月、4年ぶりの帰国の船が、スリランカのコロンボに着く。そこで彼を待っていたのは、想像を超える光景だった。
06帰国、祈りと奉仕
コロンボから、マドラス、カルカッタへ。その道のりは熱狂的な凱旋だった。イギリスに支配されたインドの、無名の若い僧が帰ってきた。しかも帝国の本国ロンドンでも、新世界ニューヨークでも尊敬を集めて。植民地の屈辱に苦しむインド人にとって、それは計り知れない励ましだった。
同じ年の5月1日、コルカタのバララム・ボース邸でを発足させた。慈善・教育・医療の社会活動を行う組織である。翌1898年にはベルールに土地を手に入れ、修道院の本院をそこへ移した。これがである。いまもマトとミッションの本部だ(現在の本堂シュリー・ラーマクリシュナ・テンプルの完成は1938年)。掲げた言葉は「Atmano mokshartham jagad hitaya cha」、「自分の解脱のために、そして世界の福利のために」。祈りと奉仕、この二本柱だった。
1899年から1900年にかけて、短い期間だが再び西洋を訪れて講演した。しかし4年間の激務で、身体は急速に衰えていた。糖尿病(当時は診断されておらず、後の推定)と慢性の喘息があった。それに巡礼のころの過労が積み重なっていた。1902年の春から体調ははっきりと悪化した。彼は弟子たちに繰り返し告げた。「39歳を越えない」。
自分の終わりを口にしながら、なぜ彼は歩みを止めなかったのか。その答えは、彼が西洋で語り続けた思想の中にある。
07悟りを人々の生活へ — 実践的ヴェーダーンタ
ヴィヴェーカーナンダの核心的貢献は、(Practical Vedanta、実践的ヴェーダーンタとも)の提示だった。伝統的なは山中の出家者の悟りを理想としたが、彼は「家庭で働く人の中にも、市場で売買する人の中にも、ヴェーダーンタの真理は生きている」と説いた。神を人々の中に見出し、特に(Daridra Narayana、神)に奉仕することを、最高のヨーガとして位置づけた──「人類への奉仕は神への礼拝である」。この思想は後のガンディーのサルヴォーダヤ(万人の福祉)、テレサ修道女の貧者への奉仕、解放の神学と並ぶ、20世紀の実践的霊性の基本姿勢となる。
この転換は、師ラーマクリシュナの宗教平等と、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ()の非二元論の伝統とを、植民地インドの社会的現実に接続するものだった。カンニャクマリの岩礁で結晶した「精神の自負の回復」と「古代ヴェーダの知恵の現代的実践」という二重の課題は、祈りと奉仕を二本柱とするラーマクリシュナ・ミッションとベルール・マトの制度設計に翻訳され、近代ヒンドゥー修道院の範型となった。
西洋での講演録群は、20世紀の西洋のヨーガ・ヒンドゥー教受容の基礎テクストとなった。この近代化・普遍主義化された形式は、のちにと呼ばれる。『ラージャ・ヨーガ』はパタンジャリのヨーガ・スートラの注釈であり、ジュニャーナ・バクティ・カルマ・ラージャの四ヨーガを西洋の語彙で再定式化したこの体系は、クリストファー・イシャーウッド、オルダス・ハクスリー、ロマン・ロラン、ウィリアム・ジェイムズ(『』で引用)など、以後の西洋知識人のヒンドゥー理解の水源となった。
で掲げた「真理は一つであり、賢人はそれを様々に語る」というリグ・ヴェーダの一節は、当時の西洋で一般的だった「キリスト教こそ唯一真理」の姿勢への、最も優雅で確固たる反論だった。そして帰国後の凱旋は、タゴール、、マハトマ・ガンディー(1901年ベルール・マト訪問時には病臥中で面会できず)など、以後の独立運動の世代に、ヴィヴェーカーナンダの姿を「インドが世界に立ち上がった最初の声」として刻んだ。
081902年7月4日、そしてカーリーの寺へ
1902年7月4日。アメリカの独立記念日と同じ日付だった。ヴィヴェーカーナンダはベルール・マトで、いつもどおり瞑想し、経を読み、弟子たちを教えた。それから自室に戻り、瞑想に入った。午後9時10分、深い瞑想のうちに息を引き取った。39歳だった。遺体はベルール・マトの敷地内、ガンジス河の岸で荼毘に付された。のちにその場所へ、ヴィヴェーカーナンダ寺院が建てられた。
ここで、1884年のカーリー女神の寺に戻ろう。家が貧しさに沈んだ青年が願ったのは、金ではなく「神ご自身への直接の眼差し」だった。そのあとの人生を、もう一度たどってみてほしい。水瓶ひとつでインドを歩き、貧しい人の中に神を見た。シカゴでは、初めて会う7,000人を「姉妹兄弟たちよ」と呼んだ。当時の西洋の宗教大会では、発言は「Ladies and Gentlemen」で始まるのが慣例だった。「姉妹兄弟」という家族の言葉は珍しかった。
貧しい人の中に神を見た男にとって、シカゴの客席も他人ではなかった。この呼びかけは、ヒンドゥー教の普遍主義を、最も親密な家族の言葉で開いた。西洋の観客には「知らない他者」ではなく「忘れていた親族」として届いた。寺で願った眼差しは、インドの貧しい人にも、アメリカの客席にも、同じように向けられていた。
立ち上がれ、目覚めよ、そして目的を達するまで歩みを止めるな
師ラーマクリシュナは、「彼は長くは生きない」と予言していた。彼は本当に、目的を達するまで歩みを止めなかった。そして39歳で止まった。あなたなら、あの寺の前で何を願うだろうか。そして願って手に入れたものを、誰に手渡すだろうか。
09主要な出来事と著作
- コルカタの弁護士家に生まれる、本名ナレンドラナート・ダッタ
- 18歳でラーマクリシュナに初対面、「神を見たか」の問いへの応答
- 父の死で家が経済的窮地に、カーリー女神への独特の祈り
- 師ラーマクリシュナ没、バラーナガルの中核弟子たちと共同生活、サンニヤーサの誓いを順次立てる
- インド全土を徒歩で巡礼する数年間、民衆の現実と向き合う
- カンニャクマリ岩礁での3日3夜の瞑想、インド全体像の開け
- シカゴ万国宗教会議で「姉妹兄弟たちよ」、全米メディアの注目
- 米英欧で連続講演、『ラージャ・ヨーガ』『カルマ・ヨーガ』の講義録誕生
- 帰印、5月1日コルカタ・バララム邸でラーマクリシュナ・ミッション発足
- ベルールへ用地取得しマト本院を移転、再度の西洋訪問
- 7月4日ベルール・マトで死去、享年39、ガンジス河岸で火葬
残した思想の輪郭
- 実践的ヴェーダーンタ — 山中の出家者ではなく日常生活の中で生きるヴェーダーンタ、近代ヒンドゥー教の核心
- カルマ・ヨーガ(奉仕のヨーガ) — 「人類への奉仕は神への礼拝である」、後のガンディー・解放の神学への水源
- 貧者の中のナーラーヤナ — Daridra Narayana、神は貧者の姿で現れる、社会的奉仕を霊性の核に据える神学
- 1893シカゴ講演 — 「姉妹兄弟たちよ」、西洋でヒンドゥー教が他者ではなく親族として迎えられた瞬間
- 立ち上がれ、目覚めよ — 『カタ・ウパニシャッド』の呼びかけを近代インドの精神的覚醒の標語として翻訳
- ラーマクリシュナ・ミッションとマト — 祈りと奉仕の二本柱、近代ヒンドゥー修道院の範型
- ヴェーダーンタの英語化 — ジュニャーナ・バクティ・カルマ・ラージャの四ヨーガを西洋の語彙で再定式化
- 非二元論と宗教的寛容 — 「真理は一つ、賢人はそれを様々に語る」、キリスト教排他主義への応答
- 民族の精神的覚醒 — 植民地支配下のインドに「自分の遺産への誇り」を取り戻す、独立運動世代への精神的基盤
- 39歳の短命 — 巡礼と講演の激務で身体を使い尽くした、ラーマクリシュナの「彼は長くは生きない」の予言
- ガンディー・オーロビンド・タゴールへの先駆 — 近代インドの三巨人の共通の精神的出発点、ベンガル・ルネサンス第二波の核
つながり
- シュリー・オーロビンド
継承 — その実践的ヴェーダーンタを、インテグラル・ヨガの準備段階として受け継いだ人。
- マハトマ・ガンディー
継承 — 1901年ベルール・マトを訪ねたが病臥中で会えず、以後その著作を生涯愛読した人。
生きた跡を辿るPlaces
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
スワーミー・ヴィヴェーカーナンダを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ヴィヴェーカーナンダ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Swami Vivekananda"