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シュリー・オーロビンド

Sri Aurobindo·1872–1950·インド(ベンガル)·

政治闘争の炎から、 人は静かな沈潜へ、 どう折り返すのか?

英領インド独立運動の激しい筆を握りしめた手を解いて、ポンディシェリーのアシュラムで生命の全層を統合する哲学を紡いだ詩人=思想家

  • インテグラル・ヨガ
  • 生命の神聖
  • スーパーマインド
  • ポンディシェリー
  • 独立運動からヨガへ

時代の空気

1872年生まれのオーロビンドが生きた英領インドは、東インド会社統治を1858年に引き継いだ大英帝国の直接支配下にあり、ベンガル管区コルカタが行政の中心だった。1905年カーズン総督によるベンガル分割を発端にスワデーシー(国産)運動が燃え上がり、過激派と漸進派が対立、1908年のムザッファルプル爆弾事件を機に弾圧が強まる。彼自身も同年アリポア事件で1年勾留された。1910年、英領管轄外の仏領ポンディシェリーへ亡命、第一次・第二次世界大戦と1947年の独立をこの小さな港町から見送った。

01コルカタのバラモン医師家、そしてケンブリッジへ

1872年8月15日(75年後にインドが独立する、まさにその日)、英領インド・ベンガル管区コルカタで、父クリシュナ・ダン・ゴーシュ(英国帰りの医師、完全な西洋化主義者)と母スワルナラタ・デーヴィ(ベンガル改革派ブラーフモ・サマージの指導者ラージナラーヤン・ボースの娘)の三男として生まれた。本名オーロビンド・アクロイド・ゴーシュ(アクロイドは父が敬愛した英国医師の名)。父は息子たちをベンガル文化と完全に切り離して英国式に育てることを決意していた。

7歳の1879年、兄たちと共に英国に送られ、マンチェスターのドルーエット牧師家に寄宿きしゅく。父の厳命でベンガル語もインド文化も遠ざけられ、ラテン語と英文学の中で育った。1884年セント・ポールズ・スクール(ロンドン)、1890年ケンブリッジ大学キングス・カレッジで古典学を修めた。ラテン語・ギリシア語の韻律いんりつ、ホメロス・ウェルギリウス・ダンテ・シェイクスピアの全体系が、この少年の内面の言語となった。

1890年、インド高等文官(ICS)競争試験に上位合格したが、1892年の試用期間末に最終の乗馬試験を意図的に欠席して失格となった(父の望みを表向きかなえつつ、父の望まぬ「植民地統治への関与」を避ける二重の戦略だった)。1893年、21歳で14年ぶりにインドに帰国。下船した瞬間、「深い静けさと大地の温かさ」が全身を包んだ、と後年記す。西洋で育った少年が、母国を初めて発見する瞬間だった。

02バローダの役人時代、ベンガル語とサンスクリットの再発見

1893-1906年、バローダ藩王国はんおうこく(グジャラート州、ガーイクワード家治世)の役人として13年間を過ごす。歳入部・藩王秘書局での勤務を経て、後年はバローダ・カレッジの英文学教授・副校長を務めつつ、空いた時間のすべてをベンガル語・サンスクリット・ヒンディー・マラーティー・グジャラーティー・タミルの学習に注ぎ込んだ。西洋で失った母語と古典言語を、20代で全力で取り戻す作業だった。

この時期、ウパニシャッド・バガヴァッド・ギーター・カーリダーサ・バルトリハリなどの古典を原典で読み込み(ヴェーダの本格的な解読は後年ポンディシェリー期に始まる)、同時にベンガル革命運動の地下組織と接触する。1902年、アジア最大の革命結社けっしゃアヌシーラン・サミティ(鍛錬たんれん協会、コルカタ)に資金と思想的指導を提供、秘密ネットワークの陰の中心人物となる。1906年、ベンガル分割(カーズン総督による1905年10月施行)に応えて全インドで燃え上がったスワデーシー(国産運動)の波に乗り、バローダを辞してコルカタへ移った。34歳での政治家=理論家としての登壇だった。

03『バンデ・マータラム』と独立運動の理論家

1906-08年の2年間、オーロビンドは過激派(Extremists、漸進主義の穏健派に対して「完全独立」を求める派)の中心理論家として怒涛どとうの筆を握った。英字日刊紙『バンデ・マータラム(Bande Mataram)』の主筆として、毎日のように社説を書き、帝国への完全な独立・スワラージ(自治)・ボイコット・国民教育の四本柱を定式化した。社説の文体は冷静な論理と燃えるような情熱を併せ持ち、若い世代に決定的な影響を与えた。バール・ガンガーダル・ティラク(マハラシュトラ)、ラーラー・ラージパト・ライ(パンジャーブ)、ビピン・チャンドラ・パール(ベンガル)の「ラール・バール・パール」三頭政治に肩を並べる理論家として、英領インドの独立運動に独立=精神的覚醒という霊的次元を加えた。

しかし彼の革命観は、ガンディー的非暴力でもなく、マルクス主義的階級闘争でもなかった。オーロビンドにとって、独立は国家の覚醒であり、それは民族の魂(soul of the nation)が自らを発見する霊的過程だった。政治的闘争と霊的修養は同じ一つの覚醒の二面であり、カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)としての政治参画が彼の基本姿勢だった。同時代の過激派を主導した「ラール・バール・パール」(Lal-Bal-Pal、ラージパト・ライ=ティラク=ビピン・チャンドラ・パール)の三人組の隣で、オーロビンドはベンガル派の理論家として独自の位置を占める。

1908年5月、(Alipore Bomb Case)で逮捕される。直接の発端は同年4月30日のムザッファルプル爆弾事件(ビハール州、キングスフォード判事を標的にした爆弾投擲とうてき、誤爆で英国人女性2名が死亡)で、実行犯は弟バリン・ゴーシュらマーニックトラ庭園の若い革命家グループだった。英国官憲はこの事件の捜査を通じてカルカッタの革命組織全体に網をかけ、オーロビンドを「陰謀の頭脳」として起訴した。1年間、アリポア中央刑務所の独房どくぼう勾留こうりゅうされ、死刑の可能性もあった。

04アリポア刑務所の独房 — 政治から霊性へ

独房の1年間で、オーロビンドの人生は根本的に変わったと、本人は後年繰り返し証言する。裁判を待つ極度の緊張の中で、彼はバガヴァッド・ギーターをひたすら読み、ヨーガの行を集中的に実践した。釈放後にベンガル語誌『スプラバート』に寄せた獄中回想(後に『獄中記(Tales of Prison Life / Kara Kahini)』として纏められた)や1909年ウットルパラ講演の中で、彼はこの時期を「ヴァスデーヴァ(クリシュナ)の声」に導かれた期間として語る──「お前は私の道具である。外に何があっても動じるな」。さらにこの内なる声は独房の看守、判事、検察官、傍聴席の人々、そして被告席に並ぶ弟たちのすべてに重なり、宇宙全体が一人のクリシュナの現れとして体験された、とも記されている。彼自身がヴィーシュヴァルーパ(宇宙形相)の直接体験と呼ぶこの集中的な霊的体験が、以後40年間の出発点となったと、本人は位置づけている。

1909年5月、弁護士チッタランジャン・ダース(後の独立運動指導者)の名弁論べんろんにより全面無罪判決。刑務所から出たオーロビンドは、もはや同じ人ではなかった。1909年5月30日ウットルパラ(ベンガル語で「北の街」)で行われた釈放後の最初の公開講演(通称ウットルパラ演説)で、彼は獄中で聞いた内なる声の導きに言及し、いずれ公の政治活動から退きサナータナ・ダルマとしてのヨーガの道に進むと予告した。この予告の通りの人生が、それから41年続く。

1910年2月、彼はカルカッタから仏領チャンデルナゴルへ密かに退避し、同年4月4日、海路ポンディシェリーに到着する。イギリスの管轄の届かないこの小さな南インドの港町で、以後1950年の死までの40年間、一度もポンディシェリーを離れなかった。政治活動を完全に停止し、書斎とヨーガの行者室に引きこもった。

05ポンディシェリーとインテグラル・ヨガ — 生命の神聖

1914年、フランス人女性ミラ・アルファッサ(1878-1973、後に「マザー(ラ・メール)」と呼ばれる)がポンディシェリーのオーロビンドを訪ね、師弟関係が始まる(ミラは1920年から定住、1926年アシュラムを正式に運営する)。同年1914年8月、彼は英語の月刊誌『アーリヤ(Arya)』を創刊、1921年1月の終刊まで6年半にわたりほぼすべての主要著作をこの雑誌に連載した。

主著『(The Life Divine)』(1939-40単行本、『アーリヤ』連載1914-19)は、オーロビンド哲学の中核である。宇宙は下降と上昇の二重運動からなる──サッチダーナンダ(存在・意識・至福)が自らをマインド(心)・ライフ(生命)・マター(物質)へと下降させ、物質から植物・動物・人間へと上昇する進化の過程で、意識が自己自身へと還ってゆく。しかし人間の意識は(超意識)にまだ到達しておらず、人類はまだ進化の途上にある。ヨーガはこの進化を個人の身体と心において加速する営みである──これがインテグラル・ヨガ(Integral Yoga、統合ヨーガ)の基本構図である。

他の柱となる著作は、『(The Synthesis of Yoga)』(行為のヨーガ・知のヨーガ・愛のヨーガ・自己完成のヨーガの四部構成による統合論、ハタ・ラージャ・タントラは自己完成篇の中で取り込まれる)、『社会進化の理想(The Ideal of Human Unity)』(国家・文明・人類統一論)、『人間の周期(The Human Cycle)』(歴史哲学)、そして叙事詩『(Savitri)』(24,000行、『マハーバーラタ』の一挿話を宇宙進化論的に再構成した生涯の詩作)。英語で書かれたこれらの著作群は、ヴェーダ・ウパニシャッドの伝統とヘーゲル進化論・ベルクソン生気論・ダーウィン進化論とを統合する、20世紀最大の哲学的総合の一つである。

06アシュラムの沈黙とマザーの継承 — 1926年以降

1926年11月24日、オーロビンドは「シッディ(完成)の日」を迎え、公の場から完全に退いた。以後、アシュラムの運営はマザーが全面的に担い、オーロビンドは書斎に籠もって著作と弟子への書簡のみに集中する。年に数回の公式ダルシャン(聖なる眼差し、当初は年3回、1939年以降は年4回)だけが、弟子たちがオーロビンドの身体に直接触れる機会となった。

1928-38年、彼は弟子たちへ膨大な個人書簡を書き送り、これらはまず『On Yoga II: Letters on Yoga』として1958年に二大巻で刊行され、後に全集(CWSA)の『Letters on Yoga』四巻としてまとめ直される。ヨーガの具体的指導、弟子の霊的問題への応答、哲学的質問への回答が、日常的な文通の中で展開された。

タゴールは1928年、ポンディシェリーのアシュラムを訪問しオーロビンドと面会、後に『Modern Review』に寄せた文章で「彼の沈黙の奥から響く言葉を受け取った」と印象を記した。若い日に『バンデ・マータラム』の社説を読んで独立運動を志した者たちが、今や世界の霊的覚醒の中心を南インドのこの小さな町に見出していた。

1950年12月5日、身体の不調(前立腺肥大症とも尿毒症とも諸説)にもかかわらず医師の治療を断り、78歳で息を引き取った。マザーは「身体は自ら選んで去った。ポンディシェリーでの仕事は終わった」と弟子たちに告げた。遺体は4日間腐敗ふはいの兆候を見せず、1万人を超える弟子と信者が最後の礼を捧げた。

アシュラムは現在も運営され、併設の実験都市(Auroville、1968年マザーが創設)と共に、世界中から訪問者を受け入れ続けている。

07主要な出来事と著作

  1. コルカタのバラモン医師家に生まれる(8月15日、後のインド独立記念日)
  2. 7歳で英国に送られ、ベンガル文化から完全に切り離されて育つ
  3. ケンブリッジ大学キングス・カレッジで古典学、ICS試験合格も乗馬を辞退
  4. 21歳で帰印、バローダ藩王国の役人として13年を過ごす
  5. 革命結社アヌシーラン・サミティに参加、地下組織の陰の中心
  6. ベンガル分割に応えてコルカタへ、過激派指導者として登壇
  7. 『バンデ・マータラム』主筆、ティラク・ラージパト・ライ・パールの傍らで理論家として登壇
  8. アリポア爆弾事件で逮捕、独房で集中的な霊的体験
  9. 無罪判決、ウットルパラ講演で「静かな声」を宣言
  10. 2月チャンデルナゴル経由で4月4日ポンディシェリー到着、以後40年間離れず
  11. ミラ・アルファッサ(マザー)と出会う、月刊『アーリヤ』創刊
  12. 『アーリヤ』誌に『生命の神聖』(14-19)『社会進化の理想』(15-18)『ヨーガの統合』(14-21)などを連載
  13. 「シッディの日」、公の場から完全に退き書斎生活に入る、アシュラム正式設立
  14. 『生命の神聖』単行本刊行、インテグラル・ヨガの中核文書
  15. 12月5日、ポンディシェリーで死去、78歳。アシュラム中庭のサマーディに安置

残した思想の輪郭

  • インテグラル・ヨガ — 行為・知・愛・自己完成の四部からなる道を統合、伝統的出家志向を乗り越えて現世の変容を目指す
  • スーパーマインド — 人類の進化が到達すべき上位の意識の層、まだ地上には現れていない未来の可能性
  • 生命の神聖 — 宇宙は神的意識の下降と上昇の二重運動、物質と精神は同一過程の両端
  • 『バンデ・マータラム』主筆 — ベンガル独立運動の理論的骨格、完全独立・スワラージ・ボイコット・国民教育
  • アリポア刑務所の独房体験 — クリシュナの声との遭遇、政治から霊性への転回の決定的瞬間
  • ポンディシェリー40年 — 英領外のフランス植民地に亡命し、一度も離れず沈潜ちんせんした隠遁いんとん
  • 叙事詩『サーヴィトリー』 — 24,000行の英語韻文、生涯の詩作、進化論的形而上学の叙事詩的結晶
  • マザーとの共働 — ミラ・アルファッサとの師弟共同、アシュラムの運営とオーロヴィルの実験都市
  • ヴェーダ・ウパニシャッドの再解釈 — 古代サンスクリット文献を進化論的に読み直す長大な注釈の仕事
  • タゴール・ガンディーとの対比 — 国際主義のタゴール、非暴力のガンディーと並ぶベンガル近代の第三の極、内面的統合へ収斂した静かな道
1950年12月5日午前1時26分、ポンディシェリーのアシュラム本館二階の書斎兼寝室で静かに息を引き取った。78歳。ミラ・アルファッサ(「マザー」)は「身体は自ら選んで去った」と弟子たちに告げ、遺体は4日間腐敗の兆候を見せなかった。遺体は同アシュラム中庭の**サマーディ**(聖廟)に安置され、今も毎日献花が絶えない。
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  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 1908年アリポア爆弾事件で逮捕され独房で1年を過ごすまで、オーロビンドはベンガル独立運動の最前線で『バンデ・マータラム』の筆を握っていた。無罪判決後の1910年、内なる声に従って仏領ポンディシェリー...

    一次資料を開くSri Aurobindo Ashram 公式 CWSA 全集第 21-22 巻 The Life Divine の critical_edition。Book...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 生命は神的なものの遊びであり、進化は意識がそれ自身へと還っていく道である

    一次資料を開くBook I, Chapter 1 'The Human Aspiration': 'Life is already involved in Matter an...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 『生命の神聖(The Life Divine)』第一部第一章(月刊『Arya』連載1914-19、単行本1939-40)の論旨の邦語意訳

つながり

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さらに読むならFurther Reading

シュリー・オーロビンドの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

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生きた跡を辿るPlaces

シュリー・オーロビンドが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • シュリ・オーロビンド・アシュラムゆかり

    ポンディシェリー, インド

    1926年創設、オーロビンドと「マザー」の共同体。白大理石のサマーディ(墓所)に二人の遺骨が眠る

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