シュリー・オーロビンド
独立運動の先頭にいた人が、 なぜ突然すべてを捨てて 小さな港町に消えたのか?
英領インド独立運動の激しい筆を握りしめた手を解いて、ポンディシェリーのアシュラムで生命の全層を統合する哲学を紡いだ詩人=思想家
- インテグラル・ヨガ
- 生命の神聖
- スーパーマインド
- ポンディシェリー
- 独立運動からヨガへ
イギリスに支配されたインドで、自由を求める声が燃え上がり、取り締まりが厳しくなっていった時代 — ひらく
時代の空気
1872年生まれのオーロビンドが生きた英領インドは、東インド会社統治を1858年に引き継いだ大英帝国の直接支配下にあり、ベンガル管区コルカタが行政の中心だった。1905年カーズン総督によるベンガル分割を発端にスワデーシー(国産)運動が燃え上がり、過激派と漸進派が対立、1908年のムザッファルプル爆弾事件を機に弾圧が強まる。彼自身も同年アリポア事件で1年勾留された。1910年、英領管轄外の仏領ポンディシェリーへ亡命、第一次・第二次世界大戦と1947年の独立をこの小さな港町から見送った。
01独房の中で、判事の顔が神に見えた
1908年5月、コルカタのアリポア中央刑務所。独房に、一人の男が入れられた。名はオーロビンド・ゴーシュ、35歳。かけられた疑いは、爆弾事件の「陰謀の頭脳」。有罪なら、死刑もありえた。
彼は、イギリスからの独立を求める運動の書き手だった。それも、最も激しい書き手だった。毎日のように新聞に社説を書いた。その言葉は、若者たちの心に火をつけていた。その手が、いま独房の壁の中にある。
裁判を待つ一年。彼は(古代インドの聖典)を読み続けた。ヨーガの行も続けた。そのとき、内なる声を聞いたと、後に彼は語る。「お前は私の道具である。外に何があっても動じるな」。
声はそれだけでは終わらなかった。看守の顔、判事の顔、検察官の顔。傍聴席の人々。被告席に並ぶ弟たち。そのすべてが、一人のクリシュナ(ヒンドゥーの神)に見えた。そう彼は記している。
無罪で牢を出たあと、この男はやがて政治を離れた。イギリスの手が届かない南の港町へ移った。そして40年間、一度もそこを出なかった。革命の先頭にいた人が、なぜ沈黙を選んだのか。時は36年前、1872年に戻る。
02英国で育てられたインドの少年
1872年8月15日、コルカタ。医師の家に三男が生まれた。父クリシュナ・ダン・ゴーシュは、英国帰りの医師だった。父は西洋のやり方を深く信じていた。息子たちをインドの文化から切り離し、英国式に育てると決めていた。名前にも、父が尊敬した英国人医師の名「アクロイド」が入れられた。
1879年、7歳。兄たちと共に英国へ送られた。マンチェスターの牧師の家に寄宿した。父の命令で、ベンガル語もインドの文化も遠ざけられた。代わりに、ラテン語と英文学の中で育った。、ウェルギリウス、ダンテ、シェイクスピア。西洋の古典が、この少年の心の言葉になった。
1890年、ケンブリッジ大学キングス・カレッジに入った。学んだのは古典学だった。同じ年、インド高等文官(ICS)の試験に上位で合格する。ICSとは、植民地を治める役人のことだ。父の望みどおりの道だった。
ところが1892年、彼は最後の乗馬試験をわざと欠席した。そして失格になった。父の望みを、表向きはかなえていた。しかし「植民地を治める側」に立つことだけは、避けたのである。
1893年、14年ぶりにインドの土を踏んだ。船を降りた瞬間、「深い静けさと大地の温かさ」が全身を包んだ。後に彼はそう書いている。西洋で育った青年が、母国を初めて見つけた瞬間だった。しかし彼は、母国の言葉をまだ持っていなかった。
03母語を取り戻す13年
1893年から1906年まで、彼はバローダ藩王国の役人として働いた。藩王国とは、インド西部にあった、王が治める国である。役所の仕事のかたわら、後にはカレッジで英文学を教えた。そして空いた時間のすべてを、言葉の学び直しに使った。
ベンガル語、サンスクリット、ヒンディー、マラーティー。さらにグジャラーティー、タミル。西洋で失った母語と古典の言葉を、20代で全力で取り戻す作業だった。ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター。詩人カーリダーサやバルトリハリ。インドの古典を、原文で読み込んだ(ヴェーダの本格的な読み解きは、後のポンディシェリー時代に始まる)。
同時に、もう一つの動きが始まっていた。1902年、革命結社に、資金と考えを提供した。コルカタの「鍛錬協会」という名の、秘密の組織である。表は役人、裏は秘密の組織の陰の中心。二つの顔が、ここで生まれた。
1905年10月、カーズン総督がを実行した。ベンガルを二つに割る決定に、インド中が怒った。国産品を使い、英国製品を拒む(国産運動)が燃え上がる。1906年、彼はバローダを辞め、コルカタへ向かった。役人の生活は終わった。政治の表舞台が、ここから始まる。
04『バンデ・マータラム』の筆
1906年から1908年の2年間、彼は英字の日刊紙『』の主筆を務めた。主筆とは、新聞の論を決める中心の書き手のことだ。毎日のように社説を書き、四つの柱を打ち出した。完全な独立、(自治)、英国製品のボイコット、そして国民の教育。文体は冷静な論理と燃える情熱を併せ持っていた。若い世代に、決定的な影響を与えた。
当時の運動には、二つの流れがあった。ゆっくり進む穏健派と、完全独立を求める過激派である。彼は過激派の中心理論家だった。マハラシュトラの、パンジャーブのラージパト・ライ、ベンガルのビピン・チャンドラ・パール。この三人「ラール・バール・パール」と肩を並べる位置に、ベンガル派の理論家として立った。
ただし、彼の考えは仲間とも少し違っていた。ガンディーの非暴力でもなく、マルクスのでもない。独立とは国家の目覚めである。民族の魂が、自分自身を発見することだ。そう彼は考えた。政治の闘いと心の修行は、同じ一つの目覚めの二つの面。行為のヨーガ(カルマ・ヨーガ)として政治に関わる。それが彼の姿勢だった。
1908年4月30日、ビハール州ムザッファルプルで爆弾が投げられた。標的は英国人判事キングスフォードだった。だが誤って、英国人女性2名が死んだ。実行したのは、弟バリン・ゴーシュら若い革命家のグループだった。英国当局はこの事件を使い、コルカタの革命組織全体に網をかけた。
翌5月、オーロビンドは「陰謀の頭脳」として逮捕される。の始まりだった。冒頭の独房へ、道はこうしてつながった。
05牢を出た男は、同じ人ではなかった
独房の一年は、冒頭に見たとおりである。裁判を待つ緊張の中で、彼はギーターを読み、ヨーガの行を続けた。聞こえた声は「お前は私の道具である。外に何があっても動じるな」。看守も判事も弟たちも、宇宙のすべてが一人のクリシュナに見えた。
彼はこれを、ヴィーシュヴァルーパ(宇宙の姿)の直接の体験と呼ぶ。以後40年の出発点だった、と本人は位置づけている。この体験は、釈放後にベンガル語の雑誌に書いた獄中回想で語られた(後に『獄中記』)。1909年の講演の中でも語られた。
1909年5月、全面無罪となった。弁護士(後の独立運動の指導者)の名弁論によるものだった。刑務所を出たオーロビンドは、もはや同じ人ではなかった。5月30日、コルカタ近くの町ウットルパラで、釈放後初めての演説をした。彼は獄中で聞いた声にふれた。そして、いずれ政治から退いてヨーガの道に進むと予告した。
1910年2月、彼はコルカタからフランス領のチャンデルナゴルへ密かに移った。4月4日、船でポンディシェリーに着く。英国の手が届かない、フランス領の小さな港町。政治活動を完全に止め、書斎と行者の部屋にこもった。死ぬまでの40年間、ここを出ることは一度もなかった。
革命家は逃げたのか。それとも、独房で聞いた声を最後まで信じることにしたのか。答えは、その40年で書かれたものの中にある。
06ポンディシェリーとインテグラル・ヨーガ — 生命の神聖
1914年、フランス人女性ミラ・アルファッサ(1878-1973、後に「マザー(ラ・メール)」と呼ばれる)がポンディシェリーのオーロビンドを訪ね、師弟関係が始まる(ミラは1920年から定住、1926年アシュラムを正式に運営する)。同年1914年8月、彼は英語の月刊誌『アーリヤ(Arya)』を創刊、1921年1月の終刊まで6年半にわたりほぼすべての主要著作をこの雑誌に連載した。
主著『(The Life Divine)』(1939-40単行本、『アーリヤ』連載1914-19)は、オーロビンド哲学の中核である。宇宙は下降と上昇の二重運動からなる──(存在・意識・至福)が自らをマインド(心)・ライフ(生命)・マター(物質)へと下降させ、物質から植物・動物・人間へと上昇する進化の過程で、意識が自己自身へと還ってゆく。しかし人間の意識は(超意識)にまだ到達しておらず、人類はまだ進化の途上にある。ヨーガはこの進化を個人の身体と心において加速する営みである──これが(Integral Yoga、統合ヨーガ。インテグラル・ヨガとも)の基本構図である。
生命は神的なものの遊びであり、進化は意識がそれ自身へと還っていく道である
他の柱となる著作は、『(The Synthesis of Yoga)』(行為のヨーガ・知のヨーガ・愛のヨーガ・自己完成のヨーガの四部構成による統合論、ハタ・ラージャ・タントラは自己完成篇の中で取り込まれる)、『社会進化の理想(The Ideal of Human Unity)』(国家・文明・人類統一論)、『人間の周期(The Human Cycle)』(歴史哲学)、そして叙事詩『(Savitri)』(24,000行、『マハーバーラタ』の一挿話を宇宙進化論的に再構成した生涯の詩作)。英語で書かれたこれらの著作群は、ヴェーダ・ウパニシャッドの伝統とヘーゲル進化論・ベルクソン生気論・ダーウィン進化論とを統合する、20世紀最大の哲学的総合の一つである。
政治の炎を捨てた男が、今度は宇宙全体の進化を書き始めた。だが、書く人の姿を、弟子たちはやがて見られなくなる。
07沈黙のアシュラム、そして最後の日
1926年11月24日、オーロビンドは「」を迎えた(シッディ=完成)。この日を境に、公の場から完全に退いた。以後、アシュラムの運営はマザーが全面的に担った。オーロビンドは書斎にこもり、著作と弟子への手紙だけに集中する。弟子たちが彼の身体に直接ふれる機会は、年に数回の公式ダルシャン(聖なる眼差し)だけになった。当初は年3回、1939年以降は年4回である。
1928年から1938年、彼は弟子たちへ膨大な個人書簡を書き送った。これらはまず『On Yoga II: Letters on Yoga』として1958年に二大巻で刊行された。後に全集(CWSA)の『Letters on Yoga』四巻としてまとめ直される。ヨーガの具体的な指導。弟子の心の問題への応答。哲学的な質問への回答。それらが、日常の文通の中で展開された。
詩人タゴールは1928年、ポンディシェリーのアシュラムを訪問し、オーロビンドと面会した。後に『Modern Review』に寄せた文章で、印象をこう記している。「彼の沈黙の奥から響く言葉を受け取った」。若い日に『バンデ・マータラム』の社説を読み、独立運動を志した者たち。彼らは今や、世界の霊的な目覚めの中心を、南インドのこの小さな町に見出していた。
1950年12月5日。身体の不調(前立腺肥大症とも尿毒症とも諸説)にもかかわらず、医師の治療を断った。そして78歳で息を引き取った。マザーは弟子たちに告げた。「身体は自ら選んで去った。ポンディシェリーでの仕事は終わった」。遺体は4日間腐敗の兆候を見せず、1万人を超える弟子と信者が最後の礼を捧げた。アシュラムは現在も運営されている。併設の実験都市(Auroville、1968年マザーが創設)と共に、世界中から訪問者を受け入れ続けている。
生命は神的なものの遊びであり、進化は意識がそれ自身へと還っていく道である
冒頭の独房に戻ろう。死刑もありえた牢の中で、彼は「動じるな」という声を聞いた。そして牢を出て、やがて革命の筆を置いた。40年を、一つの港町で過ごした。政治の闘いから、沈黙の書斎へ。それは逃げだったのか。それとも、別の形の闘いだったのか。あなたなら、どちらと呼ぶだろうか。
08主要な出来事と著作
- コルカタのバラモン医師家に生まれる(8月15日、後のインド独立記念日)
- 7歳で英国に送られ、ベンガル文化から完全に切り離されて育つ
- ケンブリッジ大学キングス・カレッジで古典学、ICS試験合格も乗馬を辞退
- 21歳で帰印、バローダ藩王国の役人として13年を過ごす
- 革命結社アヌシーラン・サミティに参加、地下組織の陰の中心
- ベンガル分割に応えてコルカタへ、過激派指導者として登壇
- 『バンデ・マータラム』主筆、ティラク・ラージパト・ライ・パールの傍らで理論家として登壇
- アリポア爆弾事件で逮捕、独房で集中的な霊的体験
- 無罪判決、ウットルパラ講演で「静かな声」を宣言
- 2月チャンデルナゴル経由で4月4日ポンディシェリー到着、以後40年間離れず
- ミラ・アルファッサ(マザー)と出会う、月刊『アーリヤ』創刊
- 『アーリヤ』誌に『生命の神聖』(14-19)『社会進化の理想』(15-18)『ヨーガの統合』(14-21)などを連載
- 「シッディの日」、公の場から完全に退き書斎生活に入る、アシュラム正式設立
- 『生命の神聖』単行本刊行、インテグラル・ヨガの中核文書
- 12月5日、ポンディシェリーで死去、78歳。アシュラム中庭のサマーディに安置
残した思想の輪郭
- インテグラル・ヨガ — 行為・知・愛・自己完成の四部からなる道を統合、伝統的出家志向を乗り越えて現世の変容を目指す
- スーパーマインド — 人類の進化が到達すべき上位の意識の層、まだ地上には現れていない未来の可能性
- 生命の神聖 — 宇宙は神的意識の下降と上昇の二重運動、物質と精神は同一過程の両端
- 『バンデ・マータラム』主筆 — ベンガル独立運動の理論的骨格、完全独立・スワラージ・ボイコット・国民教育
- アリポア刑務所の独房体験 — クリシュナの声との遭遇、政治から霊性への転回の決定的瞬間
- ポンディシェリー40年 — 英領外のフランス植民地に亡命し、一度も離れず沈潜した隠遁
- 叙事詩『サーヴィトリー』 — 24,000行の英語韻文、生涯の詩作、進化論的形而上学の叙事詩的結晶
- マザーとの共働 — ミラ・アルファッサとの師弟共同、アシュラムの運営とオーロヴィルの実験都市
- ヴェーダ・ウパニシャッドの再解釈 — 古代サンスクリット文献を進化論的に読み直す長大な注釈の仕事
- タゴール・ガンディーとの対比 — 国際主義のタゴール、非暴力のガンディーと並ぶベンガル近代の第三の極、内面的統合へ収斂した静かな道
つながり
- スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ
先駆 — 『覚醒のインドの最初の声』と繰り返し引用された、ベンガル・ルネサンスの宗教的軸。
- タゴール
伴走 — オーロビンドを『ベンガル民族魂の詩人』と世に紹介し、後年アシュラムに訪ねた詩人。
さらに読むならFurther Reading
シュリー・オーロビンドの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
原著 / 英訳The Life Divine
Sri Aurobindo / Lotus Press
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生きた跡を辿るPlaces
シュリー・オーロビンドが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- シュリ・オーロビンド・アシュラムゆかり
ポンディシェリー, インド
1926年創設、オーロビンドと「マザー」の共同体。白大理石のサマーディ(墓所)に二人の遺骨が眠る
さらに辿るならExternal References
シュリー・オーロビンドを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「オーロビンド・ゴーシュ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Sri Aurobindo"
Internet ArchiveEnglishThe Life Divine(Sri Aurobindo 著) — Internet Archive
『神の生命』英語原著