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ヒュパティア

Hypatia of Alexandria·355頃–415·古代ローマ(アレクサンドリア)·

幾何と星を教えていた一人の先生が、 なぜ街の暴徒に狙われたのか?

アレクサンドリアで新プラトン主義と数学を教え、暴徒に惨殺された古代末期の哲学者

  • 新プラトン主義
  • 数学
  • 殉教
古い学問の都に、新しい信仰の力が押し寄せ、街を二つに割ろうとしていた。 — ひらく

時代の空気

4世紀末のアレクサンドリアは、ヘレニズム文化の最後の砦と急速に膨張するキリスト教勢力が重なり合う、ローマ帝国属州の都市だった。391年、皇帝テオドシウスの勅令でセラペイオン神殿が破壊され、異教の学芸の物理的象徴が崩れた。412年着任のキュリロス総主教が教会権力で街の完全なキリスト教化を進め、市政長官オレステスがローマ世俗権力を代表して対抗、抗争には修道士集団パラボラノイの暴力が持ち込まれた。ムセイオンの記憶を継ぐ数学・天文学・新プラトン主義の講壇は残り、異教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒が同じ街に混在する、地中海最後のヘレニズム都市の黄昏だった。

01415年3月、馬車を止められた日

415年3月のある日、アレクサンドリア。一人の女性が講義を終え、馬車で帰る途中だった。年はおよそ60。この街で数学と哲学を教える先生である。

その馬車が止められた。と呼ばれる修道士の集団に率いられた暴徒が、彼女を馬車から引きずり下ろした。先頭に立った人物として、史料にはペトロスという読師(教会で聖書を読む係)の名が出る。暴徒は彼女をカイサレイオン教会へ引き込んだ。かつて皇帝を神としてまつった神殿を、教会に転用した建物である。

そこで彼女は衣服を剥はがれ、陶器(焼き物)の破片で肌を削がれて殺された。遺骸いがいは街路を引き回され、キナロンの丘で焼かれた。細かな点は、史料によって違う。だが、暴徒が公然と連れ去り、教会の建物の中で殺したという骨格は一致している。

殺された女性の名は、ヒュパティア。軍を持たず、役職も持たなかった。持っていたのは、弟子たちの信頼と、数学と哲学の名声。そして、街の権力者が意見を聞きに来るという立場だった。幾何と星の動きを教える先生が、なぜ教会の中で殺されなければならなかったのか。その問いに近づくために、時をおよそ60年前に戻す。

弟子シュネシオスが「最も至福な哲学者」と呼んだ、自筆の言葉が一句も残らない教師

— 弟子シュネシオスの手紙より(4-5 世紀)。彼女自身が書いた言葉は、一句も残っていない

02計算の間違いを直す家で

ヒュパティアは355年ごろ、アレクサンドリアに生まれたとされる。地中海に面したこの街は、古代世界でもっとも名高い学問の都だった。父は、つまりアレクサンドリアのテオンである。(王室付属の研究所)の最後の時代を代表する数学者・天文学者だった。天文学の大著に、(本文を説明する解説書)を残した。『便覧』の注解も残している。

母のこと、幼いころのこと、誰に学んだのかは、史料がほとんどない。わかるのは、育った家の性質である。本を読むだけの家ではなかった。写本の間違いを直し(これを校訂という)、図を引き、星の表を写し、計算の誤りを正す家だった。娘はその仕事場で育ち、やがて父を越える研究者になる。

彼女がおよそ36歳になった391年、街の空気が大きく変わる。皇帝テオドシウスの命令で、神殿が破壊された。古代ギリシアの神々と学問の、目に見える象徴が崩れたのである。ヒュパティアはその光景を目撃していた。それでも研究をやめなかった。

父と協力して、プトレマイオス『アルマゲスト』の第三巻に注解をつけた。、アポロニオス『円錐曲線論』の注解も編んだと伝わる。『アルマゲスト』第三巻の一部の写本には、父テオンの言葉が残る。「わが娘、哲学者ヒュパティアにより校訂された」と記した形の伝承である。ただし、どこまでが彼女の筆で、どこまでが父の手伝いかは確定しない。

ディオファントスへの注解も、本物は残っていない。けれども後の時代のビザンツやアラビア語圏の写本に、手がかりがある。問題を整理し、数の例を補い、解き方の手順をはっきりさせた箇所が見えるのだ。ヒュパティアの学派を通じて、古典の数学が読みやすく組み直された可能性が論じられている。プロクロス(5世紀の哲学者)の『プトレマイオス便覧注解』にも、教科書の扱いが見える。これもこの街の注解の文化を伝える。ここでの哲学者とは、言葉だけを扱う人ではない。星の表を読み、曲線を描き、写本の行間に計算の筋道を残す人だった。

古代世界で、女性が数学や天文学の専門家として公然と活動した記録はごく少ない。ヒュパティアはその代表的な一人である。しかも彼女は、珍しい才女として宮廷に飾られたのではない。都市の講壇を預かり、男性の役人や聖職者が出入りする学びの場の中心にいた。その講壇で、彼女は何を、どのように教えていたのだろうか。

03街の真ん中で教える

ヒュパティアの哲学の立場は、新プラトン主義だった。プラトンの思想を受け継ぎ、世界の根本にある一つの源を考える流れである。プロティノス、、という三人の哲学者の系譜に連なる。ただし彼女の講義は、イアンブリコス流の神託や呪術に傾いてはいなかった。プラトンとアリストテレスの本を、数学の秩序のもとで冷静に読み直す方向だったと推測される。この街に根づいた流れを、と呼ぶことがある。

後世の哲学者は、こう伝える。彼女は哲学者の外套(マント)をまとい、街の中心で誰にでも講義したという。誇張が混じっている可能性はある。だが、家の奥に隠れた読書人ではなく、街の往来に現れる先生だったという輪郭は動かない。

弟子の一人に、シュネシオスという若者がいた。地方の名家の出で、後にキュレネの司教になる人物である。彼が残したは、当時の講堂の空気を垣間見せる貴重な史料である。シュネシオスはキリスト教の洗礼せんれいを受けていた。それでもヒュパティアを「わが母、姉妹、師、そして恩人」と呼んだ。哲学の疑問を手紙で相談し、自分の著作を送って判断を求めた。友人の紹介状を頼み、病と政治の不安のなかで「あなたの声を聞きたい」と訴えた。師弟の関係は、教室の時間割で閉じていなかった。司教となった後も、彼はアレクサンドリアの女性の先生に、知の上での承認を求め続けたのである。

手紙には、水時計の改良や、の設計についての相談もある。アストロラーベは、丸い天球を平らな面に写し、星の高さや時刻を読む器械である。シュネシオスが求めた「ヒュドロスコピオン」は、水の重さの比を測る器具と考えられる。井戸や貯水槽の管理、薬の調合にも関わる、実用の道具だった。ヒュパティア自身が工具を握って工房に立った、とは言い切れない。だが数学を器具に移す仕組みを理解し、弟子に助言できる知識を持っていたことは、手紙から読み取れる。

彼女は独身を貫いた。しばしば公の場で「男装」したとも伝えられる。これは哲学者の外套を意味した可能性が高い。性別を偽ったというより、哲学者としての公の姿を選んだと読むべきである。そして市政長官(皇帝が置いた街の行政のトップ)オレステスら、有力者の相談役にもなった。一人の女性の先生が、帝国の重鎮たちと並んで政治を語る。4世紀末の地中海世界では、まったく異例の姿だった。だからこそ尊敬を集め、同時に強い反感も呼び込んだ。その反感は、やがて形を持って街に現れる。

04引き裂かれる街

412年、ヒュパティアがおよそ57歳のとき、キュリロスがアレクサンドリアの総主教になった。総主教とは、この地域の教会でいちばん上に立つ指導者である。キュリロスは激しい性格の教会政治家だった。異端(教会が正しくないと決めた教え)を討うち、街を完全にキリスト教の街にしようとした。対する市政長官オレステスは、ローマ帝国の世俗の権力を代表していた。彼は、いろいろな宗教が混ざり合う街の状態を守ろうとした。二人は激しくぶつかる。これがである。

アレクサンドリアには、力を張り合う者が多かった。教会、総督府、ユダヤ人の共同体、劇場に集まる群衆、そして修道士の集団である。議論は机の上では終わらず、市場や街路に降りて暴力に変わった。発端の一つは、街の騒ぎと、ユダヤ人共同体の追放をめぐる対立だった。キュリロスは総督府の許可なしに強硬な手を打ち、オレステスは皇帝に訴えた。

するとニトリアの修道士たちが街へ下り、オレステスを取り囲んだ。修道士アンモニオスが石を投げ、長官に傷を負わせる。アンモニオスは捕らえられ、拷問を受けて死んだ。キュリロスは彼を殉教者(信仰のために死んだ聖なる人)として扱おうとした。だが穏やかなキリスト教徒のあいだにも、ためらいがあった。歴史家は、そう記している。411年から415年にかけて、街は宗教の熱気というより、権力の境目が壊れていく緊張の中にあった。

ヒュパティアは、オレステスの親しい助言者だった。キュリロス派の修道士集団、パラボラノイは、彼女への中傷ちゅうしょうを始める。「妖術ようじゅつで市政長官を惑まどわす女」というのである。彼女は古代ギリシアの学問の象徴であり、異教徒ではないが、はっきりしたキリスト教徒でもなかった。そして女性でありながら、公の権威を持っていた。この三重の異質さが、彼女を標的にした。

彼女がキュリロスへの敵対を指揮した、という証拠はない。むしろ危険だったのは、別のことだった。オレステスがキュリロスと和解しない理由を、群衆が「彼女のせいだ」と読み込んだのである。ソクラテス・スコラスティコスは『教会史』に、この時期の煽動せんどうが「報復への酷い熱」に燃えていたと記す。彼はキリスト教徒であり、異教を守るために筆を取った人ではない。それでも、この熱は彼の目にも異常に映っていた。恐怖は、誰か一人の「原因」を探し始めていた。そして415年3月、それは講義帰りの一台の馬車に向かう。

05ふたたび、415年3月

ここで、冒頭の場面に戻る。講義から帰る馬車。パラボラノイに率いられた暴徒。カイサレイオン教会。もう一度その場面を見ると、いくつかのことが見えてくる。

殺害の直前の街の空気を、史料は長い情景としては残していない。だが、これまでの出来事を並べてみる。オレステスへの投石。ユダヤ人共同体への攻撃。修道士たちの街路への進出。そしてヒュパティアへ集まる噂。恐怖が誰か一人の「原因」を求めていたことは、はっきりわかる。彼女は軍を持たず、役職も持たなかった。持っていたのは、弟子たちの信頼と、数学と哲学の名声。そして市政長官が意見を聞きに来るという、人目につく立場だった。暴徒はそこに、話の通じない敵を見たのである。

殺害の細部は、史料ごとに違う。ソクラテス、ダマスキオス、後代のヨハネス・マララスに連なる年代記で、それぞれ差がある。だが骨格は一致する。かつて皇帝を神としてまつった神殿を転用した教会。その建物の中で、数学と哲学の先生の命は絶たれた。

事件のあと、キュリロスは教会の権力をさらに広げた。後に聖人にも列せられた。オレステスは、その後の記録から姿を消す。事件の直接の責任者は裁かれなかった。帝国政府はパラボラノイの人数と行動を制限する命令を出した。だが、街の力関係を根本から変えるほどではなかった。病人や貧しい人の世話をするはずの集団が、政治の暴力の担い手として恐れられた。そのこと自体が、この街の仕組みの疲れを示している。

ソクラテス・スコラスティコスはこう記している。「これは教会と都市、そしてキュリロスその人にとって、少なからぬ不名誉をもたらした」。彼の筆は、異教の殉教者を美しく飾るものではない。むしろ、キリスト教徒の歴史家が、教会側に残る汚点として事件を記録した。そこに重みがある。ヒュパティアの死は、単に古い学問とキリスト教の衝突ではなかった。司教の権力、街の行政、群衆の暴力。その三つが、一人の先生の身体に集中した事件だった。

弟子シュネシオスが「最も至福な哲学者」と呼んだ、自筆の言葉が一句も残らない教師

— 同じ言葉を、もう一度。惨殺のあとに残ったのは、彼女自身の文章ではなく、弟子の手紙の中の呼び名だけだった

06講壇はその後も続いた

アレクサンドリアの哲学の講壇は、彼女の死後も続いた。彼女の死で古代の学問が一夜に滅びた、と言えば単純すぎる。けれども、異教とキリスト教の境をまたぐ場があった。数学と哲学を街の公の言葉として保つ場である。それは大きく損なわれた。7世紀のアラブ人による征服を待たずに、この古代の街は別の時代に入っていく。

幾何と星を教える先生が、なぜ教会の中で殺されなければならなかったのか。ここまで読んだあなたには、答えの材料がそろっているはずである。では、もう一つだけ。自分の声が誰かの標的になると知ったとき、あなたなら、それでも講義を続けるだろうか。

07主要な出来事と残した思索の輪郭

  1. アレクサンドリアで生まれる。父テオンはムセイオンの数学者
  2. 父とともにプトレマイオス『アルマゲスト』の注釈を編む
  3. セラペイオン神殿破壊。異教学芸の大きな象徴を失う
  4. 新プラトン主義の講壇を開き、弟子シュネシオスらが集う
  5. キュリロスがアレクサンドリア総主教に就任、オレステスと対立
  6. 3月、暴徒に襲われ惨殺、60歳前後

残した思索の輪郭

  • 新プラトン主義の数学的展開 ― プラトン‐アリストテレスの注釈を幾何学と天文学の精度で読む
  • 観測と工作の哲学 ― アストロラーベ、水時計、幾何器具を伴う実践的知の教場
  • 教室の非宗派性 ― 異教・キリスト教徒・ユダヤ教徒が同じ講堂に集まる場の維持
  • 公的な女性知識人の先例 ― 古代末期地中海における例外的な知的権威のかたち
  • 真理と死のあいだ ― 学芸を貫くことが身の安全を保証しない時代の象徴

死後の像は一つではない。ソクラテス・スコラスティコスは、教会史の内部からこの殺害を都市と教会の汚点として記した。新プラトン主義者ダマスキオスは、彼女を哲学の徳を体現した人物として描き、キュリロスへの敵意を隠さない。後代のヨハネス・マララスやヨハネス・ニキウスに連なる伝承では、彼女は魔術師、あるいは政治的混乱の原因として敵対的に描かれることもある。史料そのものが、アレクサンドリアの記憶の分裂を映している。

近代に入ると、ヒュパティアは再発見される。エドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』で彼女の死を古代文明の悲劇として叙述し、ヴォルテールは宗教的不寛容を告発する象徴として名を挙げた。19世紀の小説や絵画は、しばしば彼女を殉教の乙女として美化した。そこでは、数学者としての地味な校訂作業より、白い衣と暴力的な死が前面に出た。20世紀以降のフェミニズム史は、その美化を点検しながら、女性が学術制度の中心に立った稀な記録として彼女を読み直した。

ただし、彼女を近代的な科学者、近代的な自由思想家、あるいは反宗教の旗手としてそのまま置き換えることはできない。ヒュパティアは古代末期の新プラトン主義者であり、天文学と数学を哲学的秩序の一部として教えた。弟子にはキリスト教徒もいた。敵対の軸は、単純な「科学対宗教」では収まらない。後世の像はそれぞれの時代の願望をまとっている。そこから余分な装飾を外しても、なお残るものがある。書物を校訂し、器具を設計し、弟子の手紙に答え、政治の荒れた街で講義を続けた教師の姿である。その姿に、あなたはどんな名前を付けるだろうか。

415年3月、アレクサンドリアの街頭で暴徒に襲われ、教会に引き込まれ陶片で肌を削がれて惨殺された。享年60前後と伝わる。

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  • 副読ヒュパティア ― 後期ローマ帝国の女性知識人

    エドワード・J・ワッツ / 訳: 中西恭子 / 白水社

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