ウィリアム・ハーヴィー
千年信じられてきた心臓の説明を、 実験と計測で どう書き換えるか?
パドヴァのファブリツィオから静脈弁を受け取り、心臓ポンプ説と血液循環論でガレノス以来1400年の体液説を書き換えた実験生理学の創始者
- 血液循環
- ファブリツィオの弟子
- パドヴァ
- 実験生理学
- 心臓の運動
時代の空気
エリザベス朝末からステュアート朝へ移る転換期だった。ヘンリー八世勅許の王立内科医師会(一五一八)が医学の権威を握り、ヴェサリウス『ファブリカ』(一五四三)以降パドヴァ解剖学が欧州の最高峰となり、ハーヴェイ自身もファブリツィオに師事して弁付き静脈の観察を受け継いだ。ガレノスの肝臓血製造説と動脈・静脈二系統独立説が千五百年支配し、セルヴェトゥス・コロンボらが小循環を示唆していた。一六二八年『デ・モトゥ・コルディス』を経て一六四二年内戦勃発、王党派の侍医としてオックスフォードに退避、一六四八年にはロンドン蔵書を失う。王立協会(一六六〇)発足直前、近代生命科学の地ならしの時代である。
01ケント州フォークストンの長男、ケンブリッジへ
1578年4月1日、イングランド南東部ケント州フォークストンの商家トマス・ハーヴィの長男として生まれた。父トマスはフォークストンの有力な市民で、ケント州の治安判事、長子制商人、市長(ジュラート)を歴任した地元名望家だった。母ジョアンは地元の教会牧師ジョン・ハルクの娘。ウィリアムの下に6人の弟と2人の妹がおり、弟たちのうち5人は後にレヴァント会社の交易商人となり、ジョン・ハーヴィ(ロンドン商人、王党派財政家)、ダニエル・ハーヴィ(駐トルコ大使)などイギリス商業資本主義の有力者を輩出した。ハーヴィ家は、ウィリアムの医学研究を後半生にわたり経済的に支援する家族的基盤だった。
10歳でカンタベリー・キングス・スクール(Canterbury King's School、古い公立グラマースクール)に入学、6年間でラテン語・ギリシア語・古典文学を修めた。1593年、15歳でケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ(Gonville and Caius College)に入学。同カレッジは15世紀末から医学研究の伝統で知られ、ジョン・キーズ(1510-1573、同カレッジの復興者、解剖学者、エリザベス1世の侍医)が16世紀に築いた医学教育の基盤があった。キーズ自身がパドヴァで学んだ医学者で、カレッジの奨学生にはパドヴァ大学での解剖学研修を奨励する制度があった。ハーヴィはこの伝統の直系の受益者となる。
1597年、19歳で文学士号(BA)を取得した後、1599年からヨーロッパ大陸の医学研修に赴いた。目指すは当時ヨーロッパ最高の医学部と称されたパドヴァ大学だった。
02パドヴァ大学 — ファブリツィオから静脈弁を受け取る
1599年秋、21歳のハーヴィはパドヴァ大学医学部に入学した。当時のパドヴァはヴェネツィア共和国領下にあり、ローマ教皇領や神聖ローマ帝国領と異なり異端審問の影響が相対的に小さい学術的自由の場として、ヨーロッパ中の優秀な医学生・哲学生を集めていた。同時期にパドヴァで学んだ・教えたのはガリレオ・ガリレイ(1592-1610年数学教授)、チェザーレ・クレモニーニ(アリストテレス主義哲学教授)、そして解剖学者ヒエロニムス・(1533-1619)。
ハーヴィはファブリツィオのもとで解剖学を学んだ。ファブリツィオはヴェサリウス(パドヴァ、1537-46)→ファロッピオ(パドヴァ、1551-62)→ファブリツィオ(パドヴァ、1562-1613)と続くパドヴァ解剖学の第三世代の最高峰だった。ヴェサリウス以来の「教授自ら執刀する」伝統は、このパドヴァ解剖劇場(Teatro Anatomico、1594年ファブリツィオ設計で建設、現存)で完成していた。
ファブリツィオが1603年に刊行した『静脈の弁について』(De Venarum Ostiolis)は、ハーヴィの生涯の方向を決定づける書物となった。ファブリツィオは、静脈に一方向だけ開く小さな弁(半月弁)があることを解剖観察で証明した。しかし彼はこの弁を、「血液が末梢で滞留しないための停止装置」と解釈していた──ガレノス体系では血液は肝臓から末梢へ一方向に流れ消費されるので、弁の存在意義は不明瞭だった。
ハーヴィはこの弁を別の目で見た。静脈の弁は、血液が末梢から心臓に向かって一方向に流れることを示しているのではないか。この直感が、以後28年の研究の種となる。
1602年4月25日、ハーヴィはパドヴァ大学から医学博士号(Doctor of Medicine)を授与された。授与式の印刷された学位免状は現存し、紋章には弦に乗った矢(真理への直進の象徴)が描かれている。同年帰国後にはケンブリッジ大学からも医学博士号(MD)を授与され、ロンドンでの開業資格を整えた。
03ロンドン開業、王立内科医師会、ジェイムズ1世・チャールズ1世侍医
1602年秋、24歳のハーヴィはロンドンに帰って医業を開始した。1604年、ロンドンの有力医師ランスロット・ブラウン(エリザベス1世侍医の一人)の娘エリザベス・ブラウンと結婚、ロンドンの医学界に正式に位置付けられた。同年、(Royal College of Physicians of London、1518年ヘンリー8世勅許の医師会)の検閲官(censor、医療実践を監督する役職)に選ばれ、1607年正会員(Fellow)となる。
1609年、31歳でロンドン最古の病院セント・バーソロミュー病院(St Bartholomew's Hospital、略称バート、1123年創設)の医師に任命された。同病院は貧困者のための慈善病院として機能し、ハーヴィは朝の往診で週2回貧困患者を無償で診療する義務を負った。この職務は彼の生涯続き、彼の家計の中心ではなく、奉仕の仕事だった。同時に王室・貴族層の開業医として、裕福な顧客からの診療費で家計を維持していた。
1615年、37歳で(Lumleian Lecturer、王立内科医師会の解剖学・外科学終身講師、1582年ラムリー卿遺贈設立)に選ばれ、年6回の解剖学講義を以後約35年連続して務めた。1616年4月の講義ノート(Prelectiones Anatomiae Universalis、現在大英博物館所蔵)には、心室の収縮で血液が動脈へ送り出され末梢から戻るというの早期定式が既に書きとめられていた──刊行の12年前である。
1618年、40歳でジェイムズ1世の侍医(Physician Extraordinary)に任命された。1625年にジェイムズ1世が死去すると、続くチャールズ1世(1600-1649)の侍医に継続任命され、以後24年間、王の個人医として政治的激動の中心近くで生きた。王は狩猟好きで、ハーヴィはしばしば鹿狩りに同伴し、鹿の心臓を即座に取り出して心房と心室の動きを観察する機会を得た──この特権的な解剖実験が、血液循環論の動物実験的基盤の一部となった。
041628年『心臓と血液の運動について』 — 実験生理学の誕生
1628年、50歳のハーヴィはフランクフルト・アム・マインのウィリアム・フィッツァー(英国系印刷業者)のもとで、『心臓と血液の運動について』(Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus、通称『デ・モトゥ・コルディス』)を刊行した。全72ページ、全17章の薄い書物だが、内容は科学史の転換点となる。
中心命題は簡潔である──心臓は血液を押し出すポンプである。血液は心臓から出て動脈を通じて全身に送られ、静脈を通じて心臓に戻り、再び心臓から出る。この運動は循環する円環(circular motion)である。ガレノス(129頃-216頃)以来1400年、心臓は自然熱(innate heat)の炉として血液を温める器官であり、血液は肝臓で絶えず新生されて末梢で消費されるという(精神気・生命気・自然気の三気と併存する)体液=気質の体系が生理学の標準だった。ハーヴィが提案したのは、この体系の数量的整合性を問い直し、同じ血液が循環していると考えなければ観察結果が説明できない、という新しい論理だった。
論証の核心は三段階の実験と計測である。第一に、動物(犬・豚・羊・魚・カエル)の生きた心臓の観察──拍動の方向、心室と心房の収縮順序、弁の動作。第二に、結紮実験──上腕を結紮して静脈血の流れる方向を観察し、ファブリツィオの静脈弁を逆向きに機能解釈する。第三に、定量的計測──これが決定的だった。心臓の一回拍出量を約2オンス(約57ml)と推定し、毎分72回の心拍数と掛け合わせて1時間当たりの送血量を約540ポンド(約245kg)と計算する。この量が1時間で生産・消費されるはずはない。したがって血液は同じものが繰り返し循環しているのでなければならない。
この計算論法は生理学史上画期的だった。身体内の現象を定量的に計測し、計算結果から理論的結論を導く方法は、ガリレオが物理学で確立した数量化による自然科学を生理学に応用する最初の事例であり、『デ・モトゥ・コルディス』は単なる事実の発見ではなく、実験生理学の方法論そのものの誕生を告げる書物となった。ただし毛細血管(動脈と静脈をつなぐ微小血管)の直接観察は顕微鏡の限界で果たせず、末梢での血流連結の細部は空白として残った。
05イギリス内戦と『動物発生論』 — 王党派の医師の後半生
1642年10月23日、イギリス内戦(議会派対王党派)最初の野戦で、64歳のハーヴィは王から王太子チャールズ(後のチャールズ2世、当時12歳)と弟ジェイムズ(後のジェイムズ2世、当時9歳)の身辺護衛を命じられた。書を読みながら生垣の陰で待機していたが砲弾の着弾で移動を強いられたと、後に同行者ジョン・オーブリーが伝えている。以後ハーヴィは王党派の侍医としてチャールズ1世に同行してオックスフォードに退避、1646年4月マートン・カレッジ学長(Warden)に任命された。だが同年6月オックスフォード陥落で議会派の手に落ち、ハーヴィは数か月後に職を失う。
1648年、内戦下のロンドン中心部の邸宅(ホワイトホール近く、王立内科医師会の事務局も兼ねる)が議会派軍により接収・略奪され、長年蓄積した実験記録・動物観察日記・発生学研究ノートの蔵書の多くが散逸・焼失した。本人は後にこれを「自分の生涯で最も悲しい損失」と語ったとされ、後半生の研究は既に書き上げた原稿『』の完成に集中せざるを得なくなった。1649年1月30日のチャールズ1世処刑は、24年仕えた王の個人医として深い陰影を残す出来事で、ハーヴィはクロムウェル体制下で公職を退いた。
1651年、73歳で『動物発生論』(Exercitationes de Generatione Animalium)を刊行。受精・胎児発生・卵生と胎生の比較を経験的観察に基づいて分析する発生学の先駆的著作で、「すべての動物は卵から生まれる」(Ex ovo omnia)の標語はアリストテレス的自然発生説への批判を凝縮する。ただし顕微鏡の限界で精子の役割は未解明のまま残された。
06受容と論争、そして晩年 — デカルトと並んで機械論の生理学部門を担う
『デ・モトゥ・コルディス』の受容は激しい論争を巻き起こした。パリ医学部のジャン・リオラン(1580-1657)は1648年に反論書を書き、ハーヴィは『ジャン・リオランへの二書簡』(1649)で応戦した。ガレノス派との最後の紙上の対決である。
デカルト(1596-1650)は『方法序説』(1637)第五部で血液循環論に明示的に賛同し、機械論的自然観の生理学的裏付けとして採用した。しかし心臓運動の動力源については意見を異にし、デカルトは熱による膨張説(心臓の熱で血液が沸騰して拍動を生む)を主張、ハーヴィの筋肉ポンプ説とは対立した。1648年メルセンヌ宛書簡に「ハーヴィ氏の観察は正しいが、その原因の説明は誤っている」と記している。機械論の共通基盤と具体的機序の対立が並走する、17世紀同時代関係の典型である。
1660年代の王立協会(Royal Society)設立期、ボイル・フック・リチャード・ロウアー・クリストファー・レンらオックスフォード実験学派はハーヴィの方法を受け継いだ。マルチェロ・マルピーギは1661年カエルの肺で毛細血管を直接観察し、ハーヴィが空白として残した動脈→静脈の末梢連結を埋めた(ハーヴィ死後4年)。
1654年、76歳で王立内科医師会総裁に選出されたが、高齢と病を理由に固辞、代わりに医師会に土地と建物を寄贈した。晩年は兄ダニエルの邸宅(ローハンプトン)で静かに過ごし、1657年6月3日、79歳で脳卒中により死去、ケント州ヘンプステッドの教会に家族と共に埋葬された。
歴史的位置は明確である──コペルニクス・ヴェサリウス・ガリレオ・ケプラー・ベーコン・デカルトと並ぶ科学革命の世代として、生理学の科学化を担当する位置。実験・定量化・ガレノス体系の克服という点で、医学史上最大級の転換点を刻み、18世紀までに生理学はハーヴィ的方法の上に完全に再建された。
07主要な出来事と著作
- ケント州フォークストンの富農ハーヴィ家に長男として生まれる
- カンタベリー・キングス・スクール入学、6年間古典教育
- ケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジ入学
- ケンブリッジ文学士号、以後ヨーロッパ大陸医学研修へ
- パドヴァ大学医学部入学、ファブリツィオに師事
- パドヴァ大学医学博士号取得、ケンブリッジMD、ロンドンで開業
- ランスロット・ブラウンの娘エリザベスと結婚、医師会検閲官
- 王立内科医師会正会員(Fellow)に選出
- セント・バーソロミュー病院医師、週2回の無償診療
- ルムリアン講師(年6講義)、以後約35年連続で務める
- ジェイムズ1世侍医、後にチャールズ1世侍医に継続
- 『デ・モトゥ・コルディス』フランクフルトで刊行、血液循環論
- エッジヒル戦で王太子チャールズと弟ジェイムズを護衛
- イギリス内戦、王党派の侍医としてオックスフォードに退避
- オックスフォード大学マートン・カレッジ学長、半年で失職
- ロンドン邸宅接収、実験記録・蔵書の多くが散逸・焼失
- リオランへの二書簡で反論、チャールズ1世処刑
- 『動物発生論』刊行、発生学の先駆
- 王立内科医師会総裁選出、高齢を理由に固辞
- 6月3日ロンドン郊外ローハンプトンで死去、79歳
残した思想の輪郭
- 血液循環論 — 1628年『デ・モトゥ・コルディス』、ガレノス以来1400年の体液説を覆す
- — 心臓の筋肉収縮を動力源とする機械論的説明、デカルトの熱膨張説との論争
- 定量的計測の方法 — 毎時心送血量の計算による循環論の証明、ガリレオ的数量化の生理学への応用
- ファブリツィオ静脈弁の機能再解釈 — 末梢→心臓の一方向流の証拠として再定式化
- 実験生理学の創始 — 生きた動物の心臓観察、結紮実験、定量計測の統合的方法論
- 『動物発生論』(1651) — 発生学の先駆、「すべての動物は卵から生まれる」
- ルムリアン講師40年 — 王立内科医師会での解剖学講義の継続、英国医学教育への直接的貢献
- パドヴァ解剖学の結実 — ヴェサリウス→ファロッピオ→ファブリツィオ→ハーヴィの4世代継承
- 科学革命の生理学部門 — コペルニクス・ヴェサリウス・ガリレオ・ケプラーと並ぶ科学革命の世代
- 毛細血管の未解決問題 — マルピーギによる1661年の直接観察まで残された空白
- 王党派医師としての政治的位置 — ジェイムズ1世・、内戦期のオックスフォード
- デカルトとの同時代関係 — 機械論的自然観の共通基盤と具体的機序での対立
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1628年『心臓と血液の運動について(De Motu Cordis)』、1651年『動物発生論』の二大著の基調を凝縮した表現であり、一句の逐語引用ではない。チャールズ1世の侍医ハーヴィは、古代ガレノス...
一次資料を開く1628 Frankfurt 初版 Latin full scan。Cap. 9-14 で心拍数/一回拍出量 quantitative argument、Cap...
- 文脈一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: harvey-1 context は、William Harvey 『Exercitatio Anatomica de Motu Cordis et Sanguinis in Animalibus』 ...
一次資料を開くHarvey De Motu Cordis 1628 Frankfurt 初版 Latin full text。Cap. XIV 'Conclusio Demo...
- 引用一次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 血液は動物の体内で円環運動をなし、絶えず動かされている。
一次資料を開くHarvey, De Motu Cordis (1628) Latin full text。Cap. VIII / IX / XIV で Galen の権威に対...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 血液は絶えず循環し、円環の運動をなしている。この運動は心臓の働きによって果たされる
一次資料を開くDe Motu Cordis (1628) Cap. XIV 'Conclusio Demonstrationis de Sanguinis Circuitu'...
- 出典一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: harvey.mdx pullsource '『心臓と血液の運動について(De Motu Cordis)』第十四章(1628)' は William Harvey, Exercitatio Anato...
一次資料を開くHarvey, De Motu Cordis (Frankfurt: Wilhelm Fitzer, 1628) Latin 初版 facsimile/full...
つながり
- アンドレアス・ヴェサリウス
継承 — ヴェサリウスのパドヴァ解剖学の系譜(ヴェサリウス→ファロッピオ→ファブリツィオ・ダ・アクアペンデンテ)の最終的な結実としてハーヴィは1600-02年パドヴァ大学でファブリツィオに師事、ファブリツィオが発見した静脈弁(1603)を出発点に血液循環論を構築。『ファブリカ』第二版(1555)の「心室中隔に孔はない」という記述が血液循環を左心→右心ではなく全身循環として再定位する伏線となった
- ガリレオ・ガリレイ
同時代 — 1600-02年ハーヴィのパドヴァ留学期は、ガリレオがパドヴァ大学数学教授(1592-1610)として望遠鏡観測の準備を進めていた時期と重なる。直接の面会記録はないが、両者はパドヴァのアリストテレス自然哲学研究の空気を共有し、実験=数量化の科学方法論を別領域で並行して確立した同時代人。『心臓と血液の運動について』(1628)の実験的計測(「毎時心臓から送り出される血液量」計算)はガリレオ的方法の生理学への応用
- デカルト
同時代 — デカルトは『方法序説』(1637)第五部で血液循環論に明示的に賛同しハーヴィの発見を機械論的自然観の生理学的裏付けとして採用した一方、心臓の運動の動力源については意見を異にする(デカルト=熱による膨張説、ハーヴィ=筋肉ポンプ説)。1648年書簡でメルセンヌに「ハーヴィ氏の観察は正しいが、その原因の説明は誤っている」と記した。機械論の共通基盤と、具体的機序での対立が並走する17世紀同時代関係
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「ウィリアム・ハーヴェイ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "William Harvey"
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