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エンゲルス

Friedrich Engels·1820–1895·ドイツ/イギリス·

他者の仕事を支え続けることは、 自分の仕事を持つことと両立するか?

マンチェスターの労働者街を歩いて『労働者階級の状態』を書き、家族・国家・自然哲学の独自著作を残した思想家・事業家

  • 共産党宣言
  • 家族・私有財産・国家の起源
  • イギリスにおける労働者階級の状態
  • 自然弁証法
  • 反デューリング論

時代の空気

1820年バルメンの紡績工場主の家に生まれる。敬虔派(ピエティスムス)の厳格な家庭で、聖書朗読と工場の煤煙が同居した。1840年代のドイツはまだ三月前期の検閲下、ベルリンではヘーゲル左派の青年たちが宗教批判から社会批判へ歩み出していた。一方マンチェスターは産業革命のただ中で、児童労働と裏庭長屋がヴィクトリア朝の繁栄を支えていた。父はその両極を商社で結び、息子を商人に仕立てようとした。革命と亡命、商社経営と遺稿編纂という二重生活が、ここから39年の協働の前段に置かれる。

01バルメンの工場主の家 ― 敬虔主義と反抗の少年期

1820年11月28日、プロイセン王国ライン州の工業都市バルメン(Barmen、現ヴッパータールの一部)に生まれた。父フリードリヒ・エンゲルス・シニア(1796-1860)は綿紡績ぼうせき工場「」の共同経営者で、バルメンとマンチェスターの両方に工場を持つ事業家だった。母エリーゼ・ファン・ハール(1797-1873)は古くからのヴェストファーレン市民階級出身。家は8人きょうだいの長男で、兄弟姉妹との親密な関係は生涯続いた。

バルメンは「ヴッパータールの谷」と呼ばれる工業地帯で、敬虔主義(敬虔けいけん派、Pietismus)改革派の強い地域だった。父は狂熱的な敬虔派で、家庭は厳格なプロテスタント規律で統御されていた。朝晩の聖書朗読、安息日厳守、小説や世俗的文学の禁止。少年フリードリヒは、父の工場で働く労働者たちの長時間労働と劣悪な衛生状態を、子どもの目で毎日見ていた ― この光景が、後のの原風景となる。

14歳でバルメンのギムナジウムに入学。古典語・歴史・文学に強かったが、父は大学進学を許さず、1837年(満16歳)、ギムナジウムを中途退学ちゅうとたいがくさせて翌1838年からブレーメンの商社に見習い商人しょうにんとして送り出した。「神学者・詩人ではなく商人になれ」という父の命令だった。

ブレーメン見習い期、エンゲルスは夜と日曜を使って独学を進めた。ダーヴィト・フリードリヒ・シュトラウスの『イエスの生涯』(1835、聖書の歴史批判)を読んで宗教的確信を崩し、ハイネ、ゲーテ、バイロン、シェリーを読んだ。匿名で「フリードリヒ・オスヴァルト」のペンネームで『テレグラフ・フュア・ドイッチュラント』『ドイツ年誌』に寄稿し、の立場から父の工場を含むバルメンの工業の非人道性を告発した(1839-40、「ヴッパータール便り」)。父は息子の正体に長く気づかなかった。

02ベルリン兵役、ヘーゲル左派との遭遇

1841年秋、21歳のエンゲルスはベルリンの親衛砲兵ほうへい連隊に一年志願兵役へいえきとして入隊した。プロイセンの兵役義務を果たす一方、ベルリン大学に聴講生として登録し、夜の講義に出席した。ちょうどフリードリヒ・シェリングが、ベルリン大学に「ヘーゲル主義への解毒剤」として招聘されて講義を始めた時期だった(1841年11月から)。シェリング講義にはキルケゴール、バクーニン、ブルクハルト、そしてエンゲルスが出席していた。

エンゲルスはヘーゲル左派の立場からシェリングを批判する小冊子を3冊、匿名で刊行した(1842年)― 『シェリングとの告別』、『シェリング ― キリストにおける哲学者』、『シェリング ― 啓示の哲学者』。これらは若いエンゲルスの最初の哲学的出版で、20代前半のヘーゲル左派青年としての彼の声が立ち上がる。この時期の仲間にブルーノ・バウアー、マックス・シュティルナー、モーゼス・ヘスがいた。マルクスとは、ヘスを介してケルンで短く出会っているが(1842年11月)、最初の印象は互いに冷淡だった(エンゲルスは後に「バウアー派の青臭い連中の一人」と思ったと回想している)。

1842年秋、兵役を終えたエンゲルスは、父の命令でマンチェスターの「エルメン・アンド・エンゲルス」共同出資紡績工場で働き始めた。22歳。父は息子を英国産業の現場で教育しようとしたが、結果的にこの派遣が、若い息子を英国の労働者階級の現実に直接触れさせ、父の意図とは逆の方向へ彼を動かした。

03マンチェスター1842-44 ― 『イギリスにおける労働者階級の状態』

1842年11月から1844年8月までの約20か月、エンゲルスはマンチェスターに住んだ。会社の事務員として日中は働き、夜と週末は、アイルランド系労働者街で暮らしていた伴侶メアリ・バーンズ(1823-63、生涯の伴侶。ただし正式な結婚はしなかった)に案内されて、リトル・アイルランド(マンチェスター南部のスラム)、アンコーツ、ソルフォードといった労働者居住区を歩き回った。二人の同棲どうせいは、上司の家の事務員と同社で働くアイルランド系紡績工女こうじょという、当時の市民道徳が真っ向から非難する組み合わせのうえに成り立っていた。

メアリは、10代で紡績工場に入り、やがてエンゲルスの工場でも働いた女性である。彼女は地元の労働者コミュニティの中で信頼される若い案内人として、エンゲルスを中産階級のよそ者としてではなく、自分の隣人の一人として、労働者家庭の内側へ連れていった。エンゲルスは後に「私がマンチェスターで見たものは、他のどの中産階級の旅行者にも見えなかったものだ。なぜなら私はメアリと一緒だったからだ」と書いている。

調査記録と統計資料(英国工場調査委員会報告書、児童労働調査報告書1843、英国国勢調査)を突き合わせながら、エンゲルスは1844年秋から翌1845年3月までに、『イギリスにおける労働者階級の状態 ― 著者自身の観察と真正の資料による(Die Lage der arbeitenden Klasse in England)』をドイツ語で書き上げた。1845年、ライプツィヒで刊行。当時の彼は24歳である。

本書はイギリス産業革命の現場の状態を、具体的な通り名、具体的な家屋、具体的な家族の数字で記録した。結核で十代のうちに死ぬ繊維工の平均寿命、パン一斤の価格の日雇い賃金に対する比率、下水道のない住宅密集地の水質、6歳児の炭鉱での労働時間、これらが冷静な表とともに並べられている。それらの事実を提示した後に、彼は資本主義の構造的帰結としてこの状態を分析する。

本書は後のマルクス『』の経験的下地の一つとなった(マルクス自身、『資本論』第1巻第15章「労働時間」で繰り返しエンゲルスの調査に言及する)。また、英語圏のヴィクトリア朝社会改良運動、チャールズ・ディケンズ、エリザベス・ギャスケルの社会小説、後のビアトリス・ウェッブらフェビアン協会の社会調査の遠い前駆でもある。

041844年パリ ― マルクスとの再会、39年の協働の始まり

1844年8月28日、エンゲルスはマンチェスターからドイツへ戻る途中、パリに立ち寄った。26歳のマルクスがそこに滞在していた。ケルンで2年前に会った二人は、短い文通と『ドイツ=フランス年誌』(1844年2月)でのエンゲルス寄稿論文「国民経済学批判大綱」を介して、互いの仕事を認識していた。

パリの10日間(8月28日から9月6日頃まで、カフェ・ド・ラ・レジャンスで連日議論)は、二人の生涯の協働の起点となった。マンチェスターでの経験的調査を携えたエンゲルスと、パリで『経済学・哲学草稿』と『ユダヤ人問題によせて』を書き上げたばかりのマルクスは、翌朝も翌朝も議論を重ねた。「すべての点で、完全に一致を見た」とマルクスは後に振り返る。

1844年秋、エンゲルスはバルメンへ帰郷し、翌1845年春からブリュッセル(マルクスのパリ追放後の住地)へ移ってマルクスと合流した。以後、共著の時代が始まる。

  • 『聖家族(Die heilige Familie)』(1845年2月) ― バウアー兄弟の批判的批判への反論、共著の第一作。
  • (Die deutsche Ideologie)』(1845-46執筆、生前未刊、1932モスクワ公刊) ― 史的唯物論の基礎が初めて体系化された草稿、「鼠の論評にかじらせた」と二人は半ば諧謔的に語る。
  • (Manifest der Kommunistischen Partei)』(1848年2月、ロンドンにて刊行) ― 共産主義者同盟の綱領として依頼された文書、実質的にマルクスの起草をエンゲルスが支え、序論部と結語部にエンゲルスの筆が強く残る。

1848年2月の『共産党宣言』刊行後、革命の波が中央ヨーロッパに広がると、エンゲルスはケルンに戻りマルクスとともに『新ライン新聞(Neue Rheinische Zeitung)』を創刊し、軍事面の副編集ふくへんしゅうとして戦況を論じた(1848年6月-1849年5月)。新聞が当局に弾圧されると、彼は南ドイツ革命軍(バーデン=プファルツ蜂起ほうき)に参加し、砲兵将校として数か月戦った(1849年6-7月)― 後年「軍事問題」を論じる素養をここで得た(『ポーと・ライン(Po und Rhein)』1859、クリミア戦争・米南北戦争・普仏戦争の評論記事で「将軍(General)」の愛称を得る)。革命は敗北し、エンゲルスはスイス・イタリア経由で英国に亡命した。

05マンチェスターの20年 ― マルクスを送金で支えた歳月

1850年11月、エンゲルスは再び父のマンチェスター「エルメン・アンド・エンゲルス」商社で働き始めた。当初は事務職、1864年に父の遺産で多額の持分を相続して共同経営者となる。1850年から1869年までの20年間、エンゲルスは日中は商社を運営し、夜と週末は執筆と、ロンドンのマルクスへの定期的な送金を続けた。同じ1864年9月、彼はロンドンの(国際労働者協会)の創立にもマルクスを通して関わり、ドイツ語圏向けの綱領的文書の起草で陰の編集者を務めた。

マルクスは『資本論』執筆のため、ロンドンで定職を持たず、貧困の中にあった。エンゲルスの送金はマルクス家の生計の主柱だった。送金額は1850年代初期には年200ポンド程度、1860年代後半には年350ポンドに達した(当時の英国中産階級年収の2-3倍)。送金はしばしば10ポンド紙幣を二つに裂いて別便で送る(強盗対策)といった慎重な手続きで行われた。往復書簡(全MEGA²版で4000通以上)には、マルクスからの金銭的相談、エンゲルスの「この額なら出せる」という冷静な計算、そして同時に哲学・経済学・国際政治・自然科学の議論が、同じ手紙のなかで並んで進んでいる。

1863年1月、エンゲルスの内縁の妻メアリ・バーンズが心臓発作で急死した(享年40)。エンゲルスは深く悲嘆した。その週マルクスから届いた書簡は、メアリの死への短い弔意の後、自分の金銭的窮状についての長い訴えだった ― エンゲルスは激怒し、「きみがこの人の死よりも金銭の問題を重く扱うのなら、私たちの友情は終わりだ」と返信した。マルクスは一週間後、手紙で深く謝罪した。二人の関係は危機を越えて続いた。この挿話は、協働関係の個人的摩擦と乗り越えの記録として、書簡集の読者を静かに打つ。

1869年7月1日、エンゲルスは49歳で「エルメン・アンド・エンゲルス」の持分を売却し、「商業からの引退」を達成した。年金は年350ポンド、当時の英国上層中産階級年収の二倍に相当する額で、残り26年を執筆と政治活動に充てる自由を得た。翌1870年9月、彼はロンドンのリージェンツ・パーク・ロード122番地、マルクス家からプライムローズ・ヒルを越えて徒歩圏の家に引っ越し、毎日のように行き来する近所付き合いが始まった。メアリの妹リディア(リジー)・バーンズが以後のエンゲルスのパートナーとなり、1878年9月11日、彼女の臨終の前夜に正式結婚した。姉メアリの思い出と共に、二人で穏やかな晩年を築いた。

06独自著作の時期 ― 『反デューリング論』『家族の起源』『自然弁証法』

1870年代以降、エンゲルスは独自の主著を書いた。マルクスの『資本論』が第1巻で止まっていた間、エンゲルスはマルクス主義の体系化と個別領域への拡張を引き受けた。

『反デューリング論(Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft)』(1878)。ベルリンの私講師オイゲン・デューリング(1833-1921)が独自の「社会主義」を提唱し、ドイツ社会民主党内部で影響力を持ち始めたのに対する論駁書。エンゲルスはデューリング批判の形式で、哲学(弁証法・唯物論)、政治経済学、社会主義の三領域を体系的に叙述した。この本は以後、マルクス主義の教科書として、19世紀末から20世紀のドイツ社民党、、ロシアのプレハーノフ・レーニン、そしてソ連マルクス主義哲学の主要な参照文献となった。本書から抽出された小冊子『空想より科学へ(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft)』(1880)は、マルクス主義の入門書として世界で最も読まれた小冊子の一つとなった。

『自然弁証法(Dialektik der Natur)』(1873-82執筆、生前未刊、1925ソ連で遺稿公刊)。ヘーゲル弁証法を自然科学(力学・物理学・化学・生物学)に拡張する試み。量の質への転化、対立物の浸透、否定の否定の三法則を、同時代の自然科学(ダーウィンの進化論、マイヤーのエネルギー保存則、メンデレーエフの元素周期表)の成果と結ぶ。本書は1920年代以降のソ連版弁証法的唯物論の土台となったが、マルクス自身の方法(『資本論』のヘーゲル的弁証法)とは別の、エンゲルス独自の読みであることが20世紀後半の学界で繰り返し指摘されている(西欧マルクス主義のルカーチ、コルシュ、フランクフルト学派の批判)。

『家族・私有財産・国家の起源(Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staats)』(1884)。米国の人類学者ルイス・ヘンリー・モーガン『古代社会』(1877)と、マルクスが残したモーガン抜粋ノートをもとに、家族形態の歴史的変遷(群婚→対偶婚→一夫一婦制)を、私有財産の発生と国家の形成にリンクして論じた。一夫一婦制を女性に対する男性の階級的勝利として読むフレーズ(「世界史における最初の階級対立は、対偶婚における男女の敵対の展開と一致する」)は、後の社会主義フェミニズム(クララ・ツェトキン、アレクサンドラ・コロンタイ、アウグスト・ベーベル)の主要な参照文献となった。

『ルートヴィヒ・フォイエルバッハと古典的ドイツ哲学の終焉(Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie)』(1886)。ヘーゲルからマルクスへの哲学史的移行を、エンゲルス自身が書き残した唯一の体系的哲学史叙述。1888年の一体化単行本版には、マルクスの未公刊草稿「フォイエルバッハ・テーゼ」(1845)を付録として初めて世に出した ― 「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのは、それを変えることである」の第11テーゼが公にされたのはこのときである。

07『資本論』第2巻・第3巻の編集、国際運動の指導、1895年の死

1883年3月14日、マルクスがロンドンで没した。65歳。3月17日、ハイゲイト墓地での葬儀で、エンゲルスは弔辞を読んだ。「ダーウィンが有機的自然の発展法則を発見したように、マルクスは人間の歴史の発展法則を発見した」という言葉は、以後のマルクス主義がマルクスを語るときの一つの定型として繰り返されてゆく。

マルクスの死後、エンゲルスは12年間、最大の仕事として『資本論』第2巻・第3巻の遺稿編纂へんさんに没頭した。マルクスが残した遺稿いこうは大半が未完の草稿で、しかも悪筆(妻ジェニー、娘エレノアのみが読める字)だった。エンゲルスは老眼と迫り来る視力低下のなか、一章ずつ草稿を再構成し、注釈を加え、時には自分の執筆で補った。

  • 『資本論』第2巻(1885)― 資本の流通過程
  • 『資本論』第3巻(1894)― 資本主義的生産の総過程、利潤率の傾向的低下の法則

特に第3巻は、原稿の状態が悪く、エンゲルスは1885年から1894年までの9年間をこの一冊に注いだ。1894年に刊行された時、エンゲルスは74歳。「私の最大の仕事が今日完成した」と書簡(ベーベル宛)に記した。

並行して、エンゲルスは第二インターナショナル(1889年7月14日、フランス革命百周年のパリで設立)の国際的な助言者として、各国の社会主義政党(ドイツSPDのベーベル、カウツキー、フランスのラファルグ〔マルクスの次女ラウラの夫〕、イタリアのトゥラーティ、ロシアのプレハーノフ)と数多くの書簡を交わした。1893年8月、ロンドンのチューリヒ大会でかつての世界主義の論敵たちが彼を最年長の長老として迎え、彼は閉会演説を独・仏・英の三言語で行った。1895年時点で彼は仲間うちに「将軍(der General)」と親しまれ、長老の一人として若い世代の相談を受け続けていた。

1894年12月、喉に違和感を訴え、医師の診断は喉頭癌こうとうがんだった。1895年前半、症状は急速に悪化した。1895年7月、物を飲み込むことも話すこともほぼできなくなったが、手書きのメモで意思を伝え続けた。1895年8月5日夜、ロンドンのリージェンツ・パーク・ロード122番地(1870年以来の住居)で74歳の生涯を閉じた。

遺言により、遺体は火葬され、8月27日に遺灰がイングランド南岸のイーストボーン沖(ビーチー・ヘッド付近)の海上で、親友のエレノア・マルクス(マルクスの末娘、エンゲルスが自分の娘のように慈しんだ)とエドワード・エーヴリング、ベーベル、ラファルグらによって散骨さんこつされた。マルクスのハイゲイト墓地とは異なる、海への見送りだった。

08主要な出来事と著作

  1. バルメンの紡績工場主の家に誕生、敬虔主義の家庭
  2. ギムナジウム中退、父の命でブレーメン商社見習い
  3. 匿名で「ヴッパータール便り」を発表、父の工場を含む工業の非人道性を告発
  4. ベルリン砲兵兵役、ベルリン大学シェリング講義聴講、ヘーゲル左派
  5. マンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルスへ出向、メアリ・バーンズと出会う
  6. パリでマルクスと10日間の再会、39年の協働の始まり
  7. 『イギリスにおける労働者階級の状態』(24歳)
  8. ブリュッセルでマルクスと『ドイツ・イデオロギー』草稿
  9. 『共産党宣言』、新ライン新聞副編集、南ドイツ革命軍に砲兵将校として参加
  10. 革命敗北で英国に亡命
  11. マンチェスター商社で20年、マルクスへの送金を続ける
  12. 内縁の妻メアリ・バーンズ急死、マルクスとの一時的な亀裂と和解
  13. 第一インターナショナル創立、共同経営者となる
  14. 49歳で商業から引退、年金350ポンド、翌年ロンドンへ
  15. 『反デューリング論』― マルクス主義の体系的叙述。リジー・バーンズ臨終結婚
  16. 『空想より科学へ』(『反デューリング論』抽出版)
  17. マルクス没。『資本論』遺稿編纂の12年が始まる
  18. 『家族・私有財産・国家の起源』― モーガンとマルクス抜粋ノート
  19. 『資本論』第2巻編集刊行
  20. 『フォイエルバッハ論』、1888年版に「フォイエルバッハ・テーゼ」を初公開
  21. 第二インターナショナル設立に関与
  22. 『資本論』第3巻編集刊行(9年の作業完遂)
  23. ロンドンで喉頭癌のため死去、74歳。遺灰はイーストボーン沖の海へ

残した思想の輪郭

  • 『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845) ― 産業革命下の労働者生活の調査記録、後のヴィクトリア期社会小説や社会調査にも遠く響く
  • 家族形態の歴史化(1884) ― 家族の形を歴史と経済に接続して読む試み。後の社会主義フェミニズムが参照する
  • 自然への弁証法の拡張(『自然弁証法』1873-82、1925公刊) ― ヘーゲル弁証法を自然科学に当てる試み。ソ連版弁証法的唯物論の土台となった一方、西欧マルクス主義からの批判もある独自の読み
  • 19世紀社会主義の体系的叙述(1878/『空想より科学へ』1880) ― デューリング批判の形を借りて哲学・経済学・社会主義の三領域を並べた書き方
  • ヘーゲルからマルクスへの哲学史叙述(『フォイエルバッハ』1886/「テーゼ」付録版1888) ― 若い頃のベルリン体験から晩年までの一貫した関心
  • 『資本論』第2・3巻の編集刊行 ― マルクスの未完草稿を12年かけて読める本に整えた編集の仕事
  • 長い協働 ― 書簡・共著・編集・送金を通じたマルクスとの39年の関係。思想の独立性と切り離して読むことはできないが、彼の独自の関心はその関係の外にも広がっていた
1895年8月5日、ロンドンのリージェンツ・パーク・ロード122番地(1870年以来の住居)で喉頭癌のため死去。74歳。遺言により遺体は火葬され、翌月27日、イングランド南岸イーストボーン沖の海上(ビーチー・ヘッド付近)で、エレノア・マルクスら親しい者の手によって遺灰が撒かれた。マルクスのハイゲイト墓地とは異なる、海への見送りだった。
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  • 解釈二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 父の紡績工場の経営修行のためマンチェスターに送られた 22 歳のエンゲルスが、アイルランド人恋人メアリー・バーンズの案内でスラム街「リトル・アイルランド」や地下室住居を歩き、一軒ずつ書き留めた観察記録...

    一次資料を開くMEW 第2巻所収の Die Lage der arbeitenden Klasse in England (1845)。Manchester 編 'Die g...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)、マンチェスター・リトル・アイルランド記述より(大意)

    一次資料を開くBayerische Staatsbibliothek (BSB) München の digital library で Engels 1845 Leipzi...

  • 抜粋二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: これらの家に住むのは、市民的な意味では「家」と呼ぶにふさわしくない空間である。しかし人々は、そこで生き、働き、愛し、笑い、死んでいる

    一次資料を開くMarxists Internet Archive 'The Great Towns' chapter (Manchester 詳細記述)。リトル・アイルランド...

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: engels.mdx pullsource (rewrite 後): '『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)マンチェスター・リトル・アイルランド章を踏まえた編者要旨(逐語ではない)'。これ...

    一次資料を開くBayerische Staatsbibliothek München digital library で Engels 1845 Leipzig Wigand...

  • 引用原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 自由とは、夢に描かれた自然法則からの独立ではなく、それらの法則を認識することにある

    一次資料を開くMarxists Internet Archive 公式 digital。Anti-Dühring 第一部第11章 'Moral und Recht. Frei...

  • 出典一次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 『イギリスにおける労働者階級の状態(Die Lage der arbeitenden Klasse in England)』(1845)、マンチェスター・リトル・アイルランド記述より(大意)

    一次資料を開く1844 年 Manchester Little Ireland 記述全文 (line 2543-2570: 'lies on the Manchester s...

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生きた跡を辿るPlaces

エンゲルスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • エンゲルス=ハウス(生家博物館)生誕

    ヴッパータール(旧バルメン), ドイツ

    1820年誕生の生家を含むエンゲルス・ブロック。現在は市立歴史センターの博物館として公開

  • ビーチー・ヘッドゆかり

    イーストボーン, イギリス

    1895年没、遺志により遺灰が海に撒かれたドーバー海峡の白亜の断崖

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

エンゲルスを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。

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