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エンゲルス

Friedrich Engels·1820–1895·ドイツ/イギリス·

友との縁を切ると言った人が、 なぜその友の本に12年をささげたのか?

マンチェスターの労働者街を歩いて『労働者階級の状態』を書き、家族・国家・自然哲学の独自著作を残した思想家・事業家

  • 共産党宣言
  • 家族・私有財産・国家の起源
  • イギリスにおける労働者階級の状態
  • 自然弁証法
  • 反デューリング論
工場の煙が国を富ませ、その足もとで働く人々がますます貧しくなっていった時代 — ひらく

時代の空気

1820年バルメンの紡績工場主の家に生まれる。敬虔派(ピエティスムス)の厳格な家庭で、聖書朗読と工場の煤煙が同居した。1840年代のドイツはまだ三月前期の検閲下、ベルリンではヘーゲル左派の青年たちが宗教批判から社会批判へ歩み出していた。一方マンチェスターは産業革命のただ中で、児童労働と裏庭長屋がヴィクトリア朝の繁栄を支えていた。父はその両極を商社で結び、息子を商人に仕立てようとした。革命と亡命、商社経営と遺稿編纂という二重生活が、ここから39年の協働の前段に置かれる。

011863年、友情が終わりかけた週

1863年1月、マンチェスター。メアリ・バーンズが心臓発作で急死した。エンゲルスと20年近く暮らした女性だった。彼は42歳。深く悲しんだ。

その週、ロンドンの友から手紙が届いた。カール・マルクスである。短いお悔やみの言葉があった。そのあとに、長い金銭の訴えが続いていた。

エンゲルスは激怒した。「きみがこの人の死よりも金銭の問題を重く扱うのなら、私たちの友情は終わりだ」。マルクスは一週間後、手紙で深く謝罪した。友情は危機を越えて続いた。

それだけではない。エンゲルスはその後も、この友を支え続けた。友が死んだあとの12年は、友が書き残した草稿を整えることに使った。そして「私の最大の仕事が今日完成した」と書いた。自分の本ではない。友の本のことである。

なぜ、彼はここまでこの友に尽くしたのか。縁を切ると言ったその友の本を、なぜ自分の最大の仕事と呼んだのか。答えは彼の人生の中にある。時は43年前、1820年のバルメンに戻る。

02煙と聖書の谷

1820年11月28日、エンゲルスはバルメンに生まれた。今のドイツ西部、ヴッパータールの一部である。父は綿紡績ぼうせき工場「」の共同経営者だった。工場はバルメンとマンチェスターの両方にあった。母エリーゼは古い市民の家の出で、彼は8人きょうだいの長男だった。

バルメンは「ヴッパータールの谷」と呼ばれる工業地帯だった。同時に、敬虔けいけん主義の強い土地でもあった。とは、聖書の教えを厳しく守るプロテスタントの一派である。父はその熱心な信者だった。

朝と晩に聖書を読む。日曜は働かない。小説は禁止。家はそういう決まりで動いていた。

少年は毎日、父の工場で働く人々を見ていた。長い労働時間。汚れた空気と水。この光景が、のちのの原風景になる。

14歳でギムナジウムに入った。大学へ進むための中等学校である。古典語や歴史や文学が得意だった。だが父は大学へ行かせなかった。1837年、16歳の彼は学校を途中でやめさせられた。

翌年、ブレーメンの商社に見習いとして送られた。「神学者・詩人ではなく商人になれ」。それが父の命令だった。

ブレーメンで、彼は夜と日曜に独学を続けた。シュトラウスの『イエスの生涯』を読んだ。聖書への信仰が崩れた。ハイネ、ゲーテ、バイロン、シェリーも読んだ。

そして「フリードリヒ・オスヴァルト」の名で新聞に文章を書いた。の立場からである。ヘーゲル左派とは、ヘーゲル哲学から出発して宗教や社会の批判へ進んだ若者たちだ。「ヴッパータール便り」(1839-40)では、故郷の工業が人をどう扱っているかを告発した。父の工場も、その中に含まれていた。父は長いあいだ、書き手が息子だと気づかなかった。

商人として育てられた少年が、商人の世界を告発している。この二重の生活は、どこまで続くのか。

03ベルリンの夜の講義

1841年秋、20歳のエンゲルスはベルリンに行った。親衛砲兵ほうへい連隊に一年志願兵として入るためだ。プロイセンの兵役へいえきを果たす一方、ベルリン大学に聴講生として登録した。正式な学生ではなく、講義だけを聴く身分である。夜の講義に通った。

ちょうどその11月、哲学者シェリングが大学で講義を始めた。ヘーゲル哲学への「解毒剤」として招かれた老哲学者だった。教室にはキルケゴール、バクーニン、ブルクハルトがいた。そしてエンゲルスもいた。

翌1842年、彼はシェリングを批判する小冊子を3冊、匿名で出した。『シェリングとの告別』などである。これが彼の最初の哲学の出版だった。仲間には、マックス・シュティルナー、がいた。みなヘーゲル左派の若者たちだった。

同じ年の11月、ケルンでマルクスと短く会った。ヘスを介しての出会いだった。だが、最初の印象は互いに冷たかった。「バウアー派の青臭い連中の一人」。後年のエンゲルスの回想に、その言葉が残っている。

1842年秋、兵役を終えた。父の命令で、マンチェスターの「エルメン・アンド・エンゲルス」で働くことになった。父は息子を英国の産業の現場で鍛えるつもりだった。だがこの派遣は、父の狙いとは逆の方向へ息子を動かすことになる。

04メアリと歩いた通り

1842年11月から1844年8月まで、約20か月、彼はマンチェスターに住んだ。昼は会社の事務員として働いた。夜と週末は、街を歩いた。案内したのはメアリ・バーンズ。冒頭の1863年に亡くなる、あの女性である。

彼女はアイルランド系の若い女性だった。10代から紡績工場で働き、やがてエンゲルスの工場でも働いた。二人は生涯の伴侶となったが、正式な結婚はしなかった。共同経営者の息子である事務員と、同じ会社で働くアイルランド系の紡績工女こうじょ。当時の市民道徳が真っ向から非難する組み合わせだった。二人の同棲どうせいは、そのうえに成り立っていた。

メアリは労働者たちの中で信頼されていた。彼女はエンゲルスを、労働者の家の内側へ連れていった。よそ者ではなく、隣人の一人として。リトル・アイルランド、アンコーツ、ソルフォード。マンチェスターの労働者街を、二人は歩いた。エンゲルスは後に書いている。「私がマンチェスターで見たものは、他のどの中産階級の旅行者にも見えなかったものだ。なぜなら私はメアリと一緒だったからだ」。

これらの家に住むのは、市民的な意味では「家」と呼ぶにふさわしくない空間である。しかし人々は、そこで生き、働き、愛し、笑い、死んでいる

— 『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)リトル・アイルランド章を踏まえた編者要旨(逐語ではない)。メアリに案内されて歩いたマンチェスター南部のスラムを記した箇所

彼は見たことを、政府の調査報告や国勢調査の数字と突き合わせた。そして1844年秋から翌年3月までに、一冊の本を書き上げた。『イギリスにおける労働者階級の状態』。1845年、ライプツィヒで刊行。24歳だった。

本には具体的な通りの名、家、家族の数字が並ぶ。十代のうちに結核で死ぬ繊維工。パン一斤の値段と日雇い賃金の比率。下水道のない住宅密集地の水。炭鉱で働く6歳の子どもの労働時間。冷静な表の後で、彼はこの状態を分析した。資本主義の仕組みが生む結果として、である。

工場主の息子が、工場の犠牲になった人々の本を書いた。この本を手に、彼はドイツへ帰る。その途中に立ち寄った街が、彼の残りの人生を決めた。

05パリの10日間、そして革命

1844年8月28日、パリ。マルクスがそこにいた。26歳だった。二人は2年前にケルンで会ったきりだ。だがエンゲルスは『ドイツ=フランス年誌』に経済学の論文を書いていた。互いの仕事は、もう知っていた。

カフェ・ド・ラ・レジャンスで、二人は連日議論した。8月28日から9月6日ごろまで、約10日間。マンチェスターの現実を見てきたエンゲルス。パリで『経済学・哲学草稿』を書き上げたばかりのマルクス。「すべての点で、完全に一致を見た」とマルクスは後に振り返る。ここから39年の協働が始まった。協働とは、力を合わせて一つの仕事をすることだ。

1845年春、エンゲルスはブリュッセルでマルクスと合流した。共著の時代が始まる。『聖家族』(1845)はバウアー兄弟への反論だった。『』(1845-46)は草稿のまま残った。の基礎を初めて体系にしたものである。史的唯物論とは、歴史を動かす力についての見方だ。思想より先に、人が生きるための生産の仕組みが歴史を動かす、と考える。この草稿は生前に出版されなかった。二人は「鼠の論評にかじらせた」と冗談めかして語った。

そして1848年2月、『』。共産主義者同盟の綱領として依頼された文書だった。綱領とは、目指すことを書いた文書のことである。起草はマルクスが主だが、序論と結語にはエンゲルスの筆が強く残る。

宣言が出た直後、革命の波がヨーロッパに広がった。二人はケルンに戻り、『』を作った。エンゲルスは軍事面の副編集ふくへんしゅうとして戦況を論じた。新聞が当局に弾圧されると、彼は南ドイツの革命軍に加わった。バーデン=プファルツ蜂起ほうきである。1849年、砲兵将校として数か月戦った。この経験が、後年の軍事評論の土台になる。仲間は彼を「将軍(General)」と呼ぶようになる。

革命は敗れた。エンゲルスはスイス、イタリアを経て英国へ逃れた。書く人であり、戦う人でもあった。その彼が次に選んだ場所は、意外なところだった。

06二つの時間 ― 商社の20年

1850年11月、彼はマンチェスターに戻った。父の「エルメン・アンド・エンゲルス」で、もう一度働くためだ。初めは事務職。1864年に父の遺産で持分を相続し、共同経営者になった。1869年までの20年間、昼は商社を運営した。夜と週末は書いた。そして、ロンドンのを続けた。

マルクスは『』を書くため、定職を持たなかった。貧しかった。エンゲルスの送金が、マルクス家の生計の柱だった。金額は1850年代初めで年200ポンドほど。1860年代後半には年350ポンドに達した。当時の英国の中流家庭の年収の2-3倍である。10ポンド紙幣を二つに裂き、別々の便で送ることもあった。強盗対策である。

往復の手紙は4000通を超える。そこでは金の相談と、哲学や経済学や自然科学の議論が並んで進んでいる。同じ手紙の中で、である。

そして1863年1月がやってくる。冒頭の、あの週だ。メアリの死。届いた手紙。怒り。一週間後の謝罪。友情は続いた。送金も続いた。

1864年9月、ロンドンで(国際労働者協会)が生まれた。エンゲルスはマルクスを通してその創立に関わり、ドイツ語圏向けの文書を陰で支えた。

1869年7月1日、彼は商社の持分を売った。「商業からの引退」である。残りの人生を、書くことと政治に使う自由を得た。翌1870年9月、ロンドンのリージェンツ・パーク・ロード122番地に移った。マルクスの家まで、丘を越えて歩ける距離だった。毎日のように行き来する日々が始まった。

メアリの妹リジー・バーンズが、以後の伴侶となった。1878年9月11日、彼女の臨終の前夜に、二人は正式に結婚した。姉の思い出と共に、二人で穏やかな晩年を築いた。

50歳を前にして手に入れた自由。彼はそれで、何を書いたのか。

07四冊の骨格 ― 体系化・自然・家族・哲学史

1870年代以降、エンゲルスは独自の主著を書いた。マルクスの『資本論』が第1巻で止まっていた間、エンゲルスはマルクス主義の体系化と個別領域への拡張を引き受けた。

『反デューリング論(Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft)』(1878)。ベルリンの私講師オイゲン・デューリング(1833-1921)が独自の「社会主義」を提唱し、ドイツ社会民主党内部で影響力を持ち始めたのに対する論駁書。エンゲルスはデューリング批判の形式で、哲学(・唯物論)、政治経済学、社会主義の三領域を体系的に叙述した。この本は以後、マルクス主義の教科書として、19世紀末から20世紀のドイツ社民党、、ロシアのプレハーノフ・レーニン、そしてソ連マルクス主義哲学の主要な参照文献となった。本書から抽出された小冊子『空想より科学へ(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft)』(1880)は、マルクス主義の入門書として世界で最も読まれた小冊子の一つとなった。

自由とは、夢に描かれた自然法則からの独立ではなく、それらの法則を認識することにある

— 『反デューリング論』(1878)第1篇「自由と必然」の章。デューリング批判の形を借りて、ヘーゲルを引き継ぎつつ自由を「法則の認識」として定義した一節

『自然弁証法(Dialektik der Natur)』(1873-82執筆、生前未刊、1925ソ連で遺稿公刊)。ヘーゲル弁証法を自然科学(力学・物理学・化学・生物学)に拡張する試み。量の質への転化、対立物の浸透、否定の否定の三法則を、同時代の自然科学(ダーウィンの進化論、マイヤーのエネルギー保存則、メンデレーエフの元素周期表)の成果と結ぶ。本書は1920年代以降のソ連版弁証法的唯物論の土台となったが、マルクス自身の方法(『資本論』のヘーゲル的弁証法)とは別の、エンゲルス独自の読みであることが20世紀後半の学界で繰り返し指摘されている(西欧マルクス主義のルカーチ、コルシュ、の批判)。

『家族・私有財産・国家の起源(Der Ursprung der Familie, des Privateigentums und des Staats)』(1884)。米国の人類学者『古代社会』(1877)と、マルクスが残したモーガン抜粋ノートをもとに、家族形態の歴史的変遷(群婚→対偶婚→一夫一婦制)を、私有財産の発生と国家の形成にリンクして論じた。一夫一婦制を女性に対する男性の階級的勝利として読むフレーズ(「世界史における最初の階級対立は、対偶婚における男女の敵対の展開と一致する」)は、後の社会主義フェミニズム(クララ・ツェトキン、アレクサンドラ・コロンタイ、アウグスト・ベーベル)の主要な参照文献となった。

『ルートヴィヒ・フォイエルバッハと古典的ドイツ哲学の終焉(Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie)』(1886、通称)。ヘーゲルからマルクスへの哲学史的移行を、エンゲルス自身が書き残した唯一の体系的哲学史叙述。1888年の一体化単行本版には、マルクスの未公刊草稿「フォイエルバッハ・テーゼ」(1845)を付録として初めて世に出した ― 「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけだ。肝心なのは、それを変えることである」の第11テーゼが公にされたのはこのときである。

なお、若き日の『イギリスにおける労働者階級の状態』は、後のマルクス『資本論』の経験的下地の一つとなった(マルクス自身、『資本論』第1巻第15章「労働時間」で繰り返しエンゲルスの調査に言及する)。また、英語圏のヴィクトリア朝社会改良運動、チャールズ・ディケンズ、エリザベス・ギャスケルの社会小説、後のビアトリス・ウェッブらフェビアン協会の社会調査の遠い前駆でもある。四冊の独自著作と、24歳の調査記録。それらは同じ人の仕事でありながら、支える仕事と自分の仕事のあいだで、どんな位置を占めていたのか。

081894年、ふたたび ― 友の本、自分の本

1883年3月14日、マルクスがロンドンで死んだ。3月17日、ハイゲイト墓地の葬儀で、エンゲルスは弔辞を読んだ。「ダーウィンが有機的自然の発展法則を発見したように、マルクスは人間の歴史の発展法則を発見した」。この言葉は、後のマルクス主義がマルクスを語るときの定型の一つになってゆく。

それからの12年、彼の最大の仕事は『資本論』第2巻・第3巻の編集だった。マルクスが残した遺稿いこうは、大半が未完の草稿だった。しかも悪筆で、読めるのは妻ジェニーと娘エレノアだけだった。エンゲルスは老眼と視力の低下のなか、一章ずつ草稿を組み立て直した。注を加え、時には自分の筆で補った。第2巻(資本の流通過程)は1885年に出た。第3巻(資本主義的生産の総過程)は原稿の状態がとくに悪かった。1885年から1894年まで、9年を要した。

1894年、第3巻が世に出た。彼は74歳になっていた。ベーベル(ドイツの社会主義者)に手紙を書いた。「私の最大の仕事が今日完成した」。

こうして、冒頭の1863年に戻る。友情が終わりかけたあの週から、彼は31年、この友を支え続けた。なぜか。ここまでの人生を見ると、少し見え方が変わる。若い日のマンチェスターで、彼は労働者の現実を先に見た。パリで二人は「すべての点で」一致した。20年の送金は、『資本論』を書く時間をマルクスに与えるためのものだった。つまり第3巻は、他人の本である。同時に、彼が39年かけて支えてきた仕事の完成でもあった。そしてその第2巻と第3巻のあいだに、彼は自分の四冊を書いている。支えることと、自分の問いを持つこと。二つは彼の中で対立していなかったのかもしれない。

並行して、彼は国際運動の長老でもあった。1889年7月14日、パリで第二インターナショナルが生まれた。フランス革命から百年目の日だった。彼は各国の社会主義者たちと手紙を交わし、助言を続けた。ドイツのベーベル、カウツキー。フランスのラファルグ(マルクスの次女ラウラの夫)。イタリアのトゥラーティ、ロシアのプレハーノフ。1893年8月のチューリヒ大会では、かつての論敵たちも彼を迎えた。最年長の長老として、である。彼は閉会の演説を独・仏・英の三言語で行った。仲間は彼を「将軍(der General)」と呼び、若い世代の相談を受け続けた。

1894年12月、喉に違和感を覚えた。診断は喉頭癌こうとうがんだった。翌1895年、症状は急速に悪化した。7月には飲み込むことも話すこともほぼできなくなった。それでも手書きのメモで意思を伝え続けた。1895年8月5日夜、リージェンツ・パーク・ロード122番地の自宅で息を引き取った。74歳だった。

遺言により、遺体は火葬された。8月27日、遺灰はイングランド南岸イーストボーン沖の海に撒かれた。ビーチー・ヘッド付近である。手を貸したのはたちだった。マルクスの末娘で、エンゲルスが娘のように慈しんだ人である。エーヴリング、ベーベル、ラファルグもいた。マルクスのハイゲイト墓地とは異なる、海への散骨さんこつだった。

他人の仕事を支え続けた時間は、自分の仕事を奪った時間だったのか。それとも、それ自体が自分の仕事だったのか。あなたが誰かを支えている時間を、あなたは何と呼ぶだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. バルメンの紡績工場主の家に誕生、敬虔主義の家庭
  2. ギムナジウム中退、父の命でブレーメン商社見習い
  3. 匿名で「ヴッパータール便り」を発表、父の工場を含む工業の非人道性を告発
  4. ベルリン砲兵兵役、ベルリン大学シェリング講義聴講、ヘーゲル左派
  5. マンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルスへ出向、メアリ・バーンズと出会う
  6. パリでマルクスと10日間の再会、39年の協働の始まり
  7. 『イギリスにおける労働者階級の状態』(24歳)
  8. ブリュッセルでマルクスと『ドイツ・イデオロギー』草稿
  9. 『共産党宣言』、新ライン新聞副編集、南ドイツ革命軍に砲兵将校として参加
  10. 革命敗北で英国に亡命
  11. マンチェスター商社で20年、マルクスへの送金を続ける
  12. 内縁の妻メアリ・バーンズ急死、マルクスとの一時的な亀裂と和解
  13. 第一インターナショナル創立、共同経営者となる
  14. 49歳で商業から引退、年金350ポンド、翌年ロンドンへ
  15. 『反デューリング論』― マルクス主義の体系的叙述。リジー・バーンズ臨終結婚
  16. 『空想より科学へ』(『反デューリング論』抽出版)
  17. マルクス没。『資本論』遺稿編纂の12年が始まる
  18. 『家族・私有財産・国家の起源』― モーガンとマルクス抜粋ノート
  19. 『資本論』第2巻編集刊行
  20. 『フォイエルバッハ論』、1888年版に「フォイエルバッハ・テーゼ」を初公開
  21. 第二インターナショナル設立に関与
  22. 『資本論』第3巻編集刊行(9年の作業完遂)
  23. ロンドンで喉頭癌のため死去、74歳。遺灰はイーストボーン沖の海へ

残した思想の輪郭

  • 『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845) ― 産業革命下の労働者生活の調査記録、後のヴィクトリア期社会小説や社会調査にも遠く響く
  • 家族形態の歴史化(1884) ― 家族の形を歴史と経済に接続して読む試み。後の社会主義フェミニズムが参照する
  • 自然への弁証法の拡張(『自然弁証法』1873-82、1925公刊) ― ヘーゲル弁証法を自然科学に当てる試み。ソ連版弁証法的唯物論の土台となった一方、西欧マルクス主義からの批判もある独自の読み
  • 19世紀社会主義の体系的叙述(1878/『空想より科学へ』1880) ― デューリング批判の形を借りて哲学・経済学・社会主義の三領域を並べた書き方
  • ヘーゲルからマルクスへの哲学史叙述(『フォイエルバッハ』1886/「テーゼ」付録版1888) ― 若い頃のベルリン体験から晩年までの一貫した関心
  • 『資本論』第2・3巻の編集刊行 ― マルクスの未完草稿を12年かけて読める本に整えた編集の仕事
  • 長い協働 ― 書簡・共著・編集・送金を通じたマルクスとの39年の関係。思想の独立性と切り離して読むことはできないが、彼の独自の関心はその関係の外にも広がっていた
1895年8月5日、ロンドンのリージェンツ・パーク・ロード122番地(1870年以来の住居)で喉頭癌のため死去。74歳。遺言により遺体は火葬され、翌月27日、イングランド南岸イーストボーン沖の海上(ビーチー・ヘッド付近)で、エレノア・マルクスら親しい者の手によって遺灰が撒かれた。マルクスのハイゲイト墓地とは異なる、海への見送りだった。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

エンゲルスが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • エンゲルス=ハウス(生家博物館)生誕

    ヴッパータール(旧バルメン), ドイツ

    1820年誕生の生家を含むエンゲルス・ブロック。現在は市立歴史センターの博物館として公開

  • ビーチー・ヘッドゆかり

    イーストボーン, イギリス

    1895年没、遺志により遺灰が海に撒かれたドーバー海峡の白亜の断崖

    地図で見る →確認 2026-04-19

さらに辿るならExternal References

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