杜甫
国が破れるとき、 詩人にできるのは何か?
安史の乱を生き、民の苦しみをまなざしの芯に据えた「詩聖」、中国詩史の最高峰の一人
- 国破山河在
- 詩聖
- 三吏三別
- 少陵野老
時代の空気
唐玄宗の開元・天宝期、長安と洛陽は人口百万を擁する世界都市の頂点にあった。科挙は形骸化し李林甫が「野に遺賢なし」と全員を落とし、楊貴妃の寵愛が国の繁栄と腐敗を同時に象徴した。755年、安禄山の挙兵から八年の戦乱が華北を焼き、戸籍上の人口は推定5300万から1700万へと崩落する。肅宗・代宗の朝廷は地方節度使に権を切り売りし、塩税が国家を支える新財源となる。四川は避難地、陶淵明・謝霊運の山水詩は遠い手本、十一歳年上の李白は同じ盛唐に立ち、もう一つの詩を歌っていた。
01鞏県の杜家 ― 詩の家柄
先天元年(712年)、河南府鞏県(現河南省鞏義市)で生まれた。姓は杜、名は甫(あわせて杜甫)、字は子美、号は少陵野老(しょうりょうやろう、のち晩年の自称)、杜工部(工部員外郎の官を得たことから)。士大夫の家系で、祖父は初唐の高名な宮廷詩人杜審言、「吾が祖、詩は古今の冠たり」と子美自身も誇っている。父杜閑は兗州司馬・奉天県令を務めた地方官だった。
母崔氏を幼くして亡くし、洛陽の叔母(義姉)裴氏に育てられた。後年、杜甫が叔母のために書いた『唐故万年県君京兆杜氏墓誌』には、自分が天然痘を病んだ際に叔母が我が子と杜甫の薬を取り違え、自分の子を死なせて杜甫を救った、と記されている。事実か脚色かを越えて、父母の手を早く失った少年の生涯のはじまりが、他者の慈愛に支えられていた事実だけは確かだ。
7歳で詩を作り、14〜15歳で洛陽の名士に謁見し詩会に出入りした、と自ら述懐する(『壮遊』)。20歳前後から開元18年(730年)頃まで、呉越(現江蘇・浙江)を漫遊した。開元23年(735年)、24歳で進士試を受けたが落第する。当時の科挙は宰相李林甫の専権下で実質的に閉ざされており(後の天宝6載の制挙では李林甫が「野に遺賢なし」と全員を落とした)、杜甫は二度目の受験にも成らず、正規の官途を生涯手に入れにくい身になる。
02洛陽の夏 ― 李白との出会い
天宝3載(744年)夏、洛陽で杜甫33歳は李白44歳と出会った。李白は玄宗のもとを賜金放還で去った直後、杜甫は科挙に敗れて無官。二人は斉魯・梁宋の地を高適(45歳、のちの名将・詩人)とともに漫遊し、狩猟と飲酒と詩作を共にした。「醉眠秋共被、携手日同行」(酔うて秋の被に眠り、手をとって日々共に行く)と杜甫は後年詠む。
翌年、兗州で再会した二人は別れ、以後直接会った確証はない。杜甫は李白を追想する詩を十数首遺している。「筆落驚風雨、詩成泣鬼神」(筆落つれば風雨を驚かし、詩成れば鬼神を泣かしむ、『寄李十二白二十韻』)、「白也詩無敵、飄然思不群」(李白は詩に敵なく、その思は群を抜く、『春日憶李白』)。11歳年上の謫仙人への畏敬と愛情が、杜甫の生涯を通じて変わらない。
03長安の十年 ― 不遇の客
天宝5載(746年)頃、杜甫は長安に上京した。玄宗末期の宮廷は李林甫・楊国忠が実権を握り、官吏登用の道は塞がれていた。天宝6載(747年)の制挙(特別選考)では李林甫が「野に遺賢なし」と称して全員落第させた。杜甫はこの時も席を得なかった。
以後10年、杜甫は長安で貧窮のなかにあった。富豪や高官の門を訪ねて詩を献じ、細々と生活の糧を得た。「朝叩富児門、暮随肥馬塵、残杯与冷炙、到処潜悲辛」(朝に富児の門を叩き、暮には肥馬の塵に従う。残杯と冷炙、至るところに悲辛を潜める、『奉贈韋左丞丈二十二韻』)。
天宝10載(751年)正月、玄宗の三大祀(太清宮・太廟・南郊)を称える『三大礼賦』を献上、玄宗の目に留まり集賢院での試を受けた。天宝14載(755年)、ようやく河西尉(地方武官)に任じられたが、辺境に出ることを拒んで右衛率府胄曹参軍(東宮警備の兵器倉庫管理職)に改めて任じられた。同時代の士大夫の間では、この武官の下級職は厩務まで触れる「馬糞清掃官」と揶揄され、杜甫自身「不作河西尉、凄涼為折腰」(河西尉と為らず、凄涼として腰を折る)と詠む。
任地に向かう前、奉先県(現陝西省蒲城)に避難させていた家へ様子を見に戻ると、末子が餓死していた。『自京赴奉先県詠懐五百字』に、この痛恨が刻まれる ―「朱門酒肉臭、路有凍死骨」(朱門には酒肉の臭い、路には凍死の骨)。長安の貴族の門と路傍の凍死とを一行に並べたこの対句は、が勃発する一カ月前の唐の矛盾そのものを記録している。
04安史の乱、鄜州から長安捕囚へ
天宝14載(755年)11月、節度使安禄山が范陽で挙兵。翌年6月、長安が陥落し、玄宗は蜀に逃げた。杜甫は奉先から家族を鄜州(ふしゅう、現陝西省富県)の羌村に再度避難させ、自身は皇太子改め粛宗(霊武で即位)のもとへ駆けつけようとしたが、途中で反乱軍に捕らえられ、長安に連行された。
捕囚の身のまま、杜甫は長安の廃墟を見て回り、『春望』を詠む ―「国破山河在、城春草木深。感時花濺涙、恨別鳥驚心。烽火連三月、家書抵万金」(国破れて山河在り、城春にして草木深し。時に感じては花にも涙を濺ぎ、別を恨んでは鳥にも心を驚かす。烽火は三月に連なり、家書は万金に抵(あた)る)。国家の崩壊と個人の離散が、五言律詩40字のなかに完全に圧縮される。中国文学史で最も引用される一首となった。長安幽閉の半年余、彼が綴った詩は「月夜」「哀江頭」「悲陳陶」など、いずれも私的悲嘆と国家の崩落を重ねる声となっている。
至徳2載(757年)4月、杜甫は長安を脱出して鳳翔の行在(粛宗の臨時の朝廷)に辿り着き、左拾遺(門下省の諫官、従八品上)に任じられた。しかし宰相房琯の罷免を諫める直言が粛宗の不興を買い、乾元元年(758年)6月、華州司功参軍(華州の教育人事を管る官)に左遷された。
05三吏三別、民の苦しみ
乾元2年(759年)、華州から洛陽へ旅した杜甫は、戦後復興の徴兵と民の苦を間近に見た。この旅で彼は三吏(新安吏・潼関吏・石壕吏)と三別(新婚別・垂老別・無家別)の六篇を詠む。
『石壕吏』は、ある夜の宿の老夫婦の悲劇を描く ―夜中に吏が兵を徴収に来る。老爺は塀を越えて逃げ、老婆が応対する。「三人の息子のうち二人は戦死、一人だけが戦っている。家にはもう男がいない。乳飲み子がいるだけ」と訴えるが、吏は老婆自身を炊事夫として徴発した。翌朝、杜甫が別れの挨拶を言う相手は、ただ老爺一人だった。6組12句の古詩体が、戦争という巨大な機械の末端で人が一つ一つ崩れていく姿を、誇張も感傷もなく刻む。
この徹底したドキュメンタリーの詩心こそ、杜甫を「」たらしめる理由である。李白が天から降りて舞う謫仙なら、杜甫は大地に立ち民の涙を拭う聖人。中国詩史の二つの頂は、互いを欠くことなく並び立つ。
06成都草堂、厳武の庇護
乾元2年(759年)冬、華州の官を辞して秦州・同谷を経て、年末に成都に辿り着いた。友人の厳武(のち剣南節度使)の庇護のもと、成都の浣花渓のほとりに草堂を建てた(上元元年、760年)。以後足掛け5年、草堂時代が杜甫の生涯で最も安定した時期となる。
草堂時代の詩風は柔らかく、自然と生活の細部を慈しむ作が多い。『江村』『客至』『春夜喜雨』『』など、杜甫の人間味あふれる名詩が生まれた。特に『茅屋為秋風所破歌』は、秋風に屋根の茅を吹き飛ばされた自分の困窮から、「安得広厦千万間、大庇天下寒士倶歓顔」(どうにかして千万間の広い家を得て、天下の寒士(貧しい士人)を皆ともに笑顔にできれば)という社会的想像力へと転じる杜甫ならではの展開を示す。
広徳2年(764年)、厳武が節度使に復帰、杜甫は検校工部員外郎を兼ねたため、以後「杜工部」の通称を得る。永泰元年(765年)に厳武が急逝すると、杜甫は庇護を失い、草堂を離れて再び長江を下る旅に出る。
07夔州の秋興、湘江の舟
大暦元年(766年)、夔州(現重慶奉節)に移住。長江三峡の入り口の山中の町で、杜甫は約2年間集中的に詩を作った。の作は約430首、杜甫の詩集の三分の一近くがこの時期の作品である。『』『諸将五首』『詠懐古跡五首』『登高』など、晩年の代表作がここで生まれた。
『秋興八首』は七言律詩八首の連作で、夔州の秋の景に長安への憂思、王朝の興亡、個人の老いを重ねる。律詩としての完成度は唐詩の最高峰とされる。「玉露凋傷楓樹林、巫山巫峡気蕭森」(玉の露が楓の林を凋(しぼ)ませ傷つけ、巫山巫峡の気は蕭然として森のごとし)の冒頭は、七律の格調の極致として千年読み継がれている。
大暦3年(768年)、夔州を出て江陵・岳州・衡州を転々。最晩年は湘江の水上を舟で漂泊した。大暦5年(770年)冬、湘江の舟中で没した。59歳。『旧唐書』『新唐書』本伝はいずれも病没と記す。耒陽で洪水に遭い五日間食糧を得られなかった後、県令が送った牛肉白酒を一気に食べて胃腸を壊して没した、という伝説が北宋以降に広まるが、これは『醴陵志』などの地方志や筆記に由来する後代の付会で、正史には見えない。墓所は元和8年(813年)に孫の杜嗣業が河南偃師の祖塋へ改葬したと墓誌銘にあるが、湖南耒陽・河南鞏県・湖北襄陽など別伝も多く、確証は薄い。
国破山河在、城春草木深。感時花濺涙、恨別鳥驚心。
08主要な出来事と著作
- 河南府鞏県に生まれる。祖父は初唐の詩人杜審言
- 呉越漫遊、24歳で進士試に落第
- 洛陽で李白と出会い、梁宋を高適とともに漫遊
- 兗州で李白と再会、これが二人の最後の直接の対面
- 長安での不遇の10年、詩を献じて富豪の門を叩く
- 玄宗に『三大礼賦』を献上、集賢院の試を受けるも官は得ず
- 右衛率府胄曹参軍に任じ、奉先で末子餓死。『自京赴奉先県詠懐五百字』執筆。11月安史の乱勃発
- 長安陥落、杜甫は捕らえられ長安に連行。『春望』『哀江頭』
- 行在鳳翔に脱出、左拾遺に。諫言で粛宗の不興を買い左遷
- 華州から洛陽への旅で『三吏三別』六篇を詠む。冬に成都へ
- 浣花渓に草堂を築く(成都草堂時代の始まり)
- 検校工部員外郎を兼ね、以後「杜工部」と呼ばれる
- 厳武急逝、草堂を離れて東下
- 夔州(現重慶奉節)に滞在、『秋興八首』『登高』など晩年の傑作
- 江陵・岳州・衡州を漂泊、湘江の舟上で日々を過ごす
- 冬、湘江の舟中で没。享年59
残した思想の輪郭
- 詩聖 ― 李白の詩仙と並ぶ中国詩の頂点、徹底した現実凝視の倫理
- 三吏三別 ― 戦時徴発と民の苦を飾らず刻む、ドキュメンタリー詩の古典
- 国破山河在 ― 国家と自然と個の三層を五言律詩に凝縮、最も引用される一首
- 秋興八首 ― 七言律詩の極致、晩年夔州での自伝的風景詩の連作
- 広厦千万間 ― 自分の茅屋の破れから天下の寒士へと想像力を広げる社会性
- 少陵野老 ― 長安郊外少陵の野老を自称、民の中に身を置く自己認識
- 李杜並称 ― 李白の自由な歌行と杜甫の緻密な律詩、中国詩の二つの柱
- 1500首の集成 ― 『』として宋代に整理され、以後の東アジア詩の基礎教本
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: dufu-1 context は、杜甫『春望』(至徳二載 757 年春、安禄山の乱で陥落した長安に幽閉中の 46 歳作) の冒頭四句「国破山河在、城春草木深。感時花溅泪、恨別鳥驚心」を指す解説として正...
一次資料を開く原文「国破山河在、城春草木深、感時花溅泪、恨別鳥驚心、烽火連三月、家書抵万金、白頭搔更短、渾欲不勝簪」と創作背景 (杜甫 46 歳、長安幽閉、家人羌村滞在、肅宗...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 国破山河在、城春草木深。感時花濺涙、恨別鳥驚心
一次資料を開く『春望』全8句五言律詩全文確認。「國破山河在、城春草木深。感時花濺淚、恨別鳥驚心。烽火連三月、家書抵萬金。白頭搔更短、渾欲不勝簪」(WebFetch 2026-...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 国破山河在、城春草木深。感時花濺涙、恨別鳥驚心。
一次資料を開くfrontmatter pullquote と同一テキスト (末尾句点付加 variant)。詳細は c-dufu-pullquote-spring-view-...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: dufu.mdx pullsource '杜甫『春望』(至徳2載、757年、長安にて)' は学術 standard 通りの正確な書誌帰属。至徳二年=757年 (唐肅宗) は安史の乱期の長安拘禁期に対応...
一次資料を開く『春望』全文 + 出典 (『唐詩三百首』所収) 確認 (WebFetch 2026-05-04)。philoglyph pullsource『杜甫『春望』』帰属...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 好雨、時節を知り、春に当たりて乃(すなわ)ち発生す
一次資料を開く『春夜喜雨』全8句五言律詩。冒頭2句『好雨知時節、當春乃發生』を確認 (WebFetch 2026-05-04)。philoglyph featured quo...
つながり
- 李白
伴走 — 天宝3載(744)洛陽で出会い、高適を加えて梁宋(開封近郊)を旅し詩の盟を結ぶ。杜甫『春日李白を憶う』『冬日李白を懐う』『夢に李白を見る二首』など十数首が現存、李白から杜甫への贈詩は『魯郡東石門にて杜二甫を送る』等。詩仙と詩聖の友情として中国詩史で最も有名な出会いの一つ
- 蘇軾(蘇東坡)
先駆 — 蘇軾は杜甫を「集大成の詩人」として尊崇し、『書黄子思詩集後』などで「杜子美の詩はなおも古今を越ゆる」と評価。憂国・諷諭と民の苦を詠む士大夫詩の範型を継承しつつ、蘇軾は宋詩特有の議論性と禅的達観を加える。江西派(黄庭堅ら)が師と仰ぐのも同じく杜甫で、宋代詩学の主軸となる
- 孔子
共鳴 — 祖父杜審言以来の士大夫の家系で儒教的教養を身につけ、安史の乱(755-763)を挟む戦乱期に「三吏三別」「北征」「自京赴奉先県詠懐五百字」など民の苦と政治の乱れを詠む。儒家の「詩は志を言う」(『尚書』堯典)の伝統を体現し、後世「詩聖」と呼ばれる儒者的詩人の頂点
さらに読むならFurther Reading
杜甫の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門杜甫詩選
杜甫 / 訳: 黒川洋一 編 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
杜甫が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 杜甫草堂博物館記念館
成都(四川省), 中国
759年に杜甫が草堂を結び240余首を詠んだ地。1961年国家重点文物、1985年博物館化。約24エーカーの公園に書斎が復元されている
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
杜甫を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「杜甫」項
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