アショーカ王
戦に勝ったあとで、 悔いから統治は立て直せるか?
マウリヤ朝第3代の王、カリンガ戦役の殺戮ののち仏教に帰依し、法(ダルマ)による統治へ舵を切って岩と柱に詔勅を刻んだインド古代最大の君主
- 法勅
- カリンガ戦役
- ダルマ
- アショーカ柱
- 仏教の拡大
- 非暴力統治
- マヒンダ
時代の空気
アレクサンドロス侵攻(BC327-325)が北西インドに残した余韻のなか、祖父チャンドラグプタがマガダ国ナンダ朝を倒しマウリヤ朝を立て、宰相カウティリヤの『アルタシャーストラ』が冷徹な統治論を編んでいた時代である。父ビンドゥサーラの代に北はガンダーラ、東はベンガルまで版図が伸び、ジャイナ教・アージーヴィカ教・バラモン教・上座部仏教が競っていた。デカン以南、ベンガル湾岸のカリンガだけが征服を拒み、王子は地方都市タクシラとウッジャインで副王として統治の実務に触れていた。西方ではセレウコス朝アンティオコス2世、エジプトのプトレマイオス2世らヘレニズム諸王が同時代を生きていた。
01ビンドゥサーラ王の子、暴君時代
紀元前304年頃、(祖父チャンドラグプタ・マウリヤが紀元前321年頃にマガダ国ナンダ朝を倒して建国、北インド全域を統一)の首都パータリプトラ(現パトナ、ビハール州)で生まれた。父は第2代ビンドゥサーラ王、母については北伝仏教の『アショーカヴァダーナ』が後宮のスバドラーンギー(Subhadrāṅgī)、上座部伝承では「ダルマー(Dhammā)」と異なる名で伝え、いずれも後代史料の人物造形に近い。
幼名はアショーカ(Aśoka、「悲しみなき者」の意、漢訳仏典では阿育王と表記)、碑文で自称する語はデーヴァーナーンピヤ・ピヤダッシ(Devanampiya Piyadasi、「神々に愛されし、見目麗しき者」)である。岩勅の大半はこの称号で始まる。「アショーカ」の名が登場するのは一部の小岩勅(マースキ、グジャラ、ネットゥール、ウデゴーラム)に限られ、この一致によって19世紀の碑文解読(ジェームズ・プリンセップによる1837年のマガディ・プラークリット解読)以降、ピヤダッシ=アショーカの同一性が確定した。
少年時代についてはセイロン年代記『ディーパワンサ』(紀元後5~6世紀編纂)と漢訳『阿育王伝』『阿育王経』が伝える逸話群があるが、いずれも彼の仏教帰依を正統化するために書かれた後代史料である。そこには若きアショーカが「粗野で容貌醜く、父王に愛されなかった」「100人の兄弟を弑殺して即位した」(ディーパワンサ)「地獄のような獄舎を造らせて人を苛んだ」(阿育王経)といった記述が並ぶ。これを歴史的事実として鵜呑みにはできない ― 仏教側の史料が「暗から明への転回」を劇的に描くための文学的誇張を含むからだ。ただし、以前の彼が武断的な王であったこと自体は、岩勅自身の第13勅の悔悟の深さから逆算すれば、一定の裏付けを持つ。
即位前、彼はタクシラ(現パキスタン、パンジャーブ)の副王としてタクシラ反乱の鎮圧にあたり、のちウッジャイン(マーラヴァ地方)の副王として十数年を過ごしたと伝わる。この時期にウッジャインの王女デーヴィー(シャーキヤ族出身とされる)と結ばれ、長男マヒンダと娘サンガミッタをもうけた。この二人の子は、のちセイロン布教の中心となる。
紀元前273年頃ビンドゥサーラ王が没し、数年の権力闘争を経て、紀元前268年頃アショーカはマガダ国王として正式に即位した(即位と戴冠の間に数年の空白があったと『アショーカヴァダーナ』は記す)。なお岩勅自体は兄弟争いに触れず、王位継承の暴力性は後世の劇的物語装置と見るのが現代の主流である。
02カリンガ戦役の殺戮と回心
即位から8年目、紀元前261年頃、アショーカは東岸の独立王国カリンガ(現オディシャ州、ベンガル湾に面する)を侵攻した。カリンガはマウリヤ朝成立以降も独立を保ち、海上交易で栄えていた。祖父チャンドラグプタも父ビンドゥサーラも征服し切れなかった土地である。
戦役の経過について岩勅は詳しい戦況は記さない。ただし第13岩勅(カリンガ岩勅)は、戦争の「結果」を異例なほど率直に記録する ― 「十五万人が捕囚として連れ去られ、十万人が殺され、そしてその何倍もの者が(病・飢餓で)命を落とした」。これは戦勝の誇示ではない。自分の行為の悲惨な数字を、王自らが公共の石に刻ませた、戦勝記念碑としては世界史に類例が薄い記述である。
第13勅はさらに続ける ― 「神々に愛されし王(ピヤダッシ)は、カリンガを征服したのち、深い悔い(アヌタパ)と苦しみに沈んだ。独立した民が征服され、殺され、連れ去られるという事態は、王にとって深く痛ましいものであった。…戦争で命を落としたのは戦士だけではない。婆羅門、修行者、在家信者、年長者、家族の愛に結ばれて生きていた人々 ― そのすべてが、征服の暴力のもとに斃れた。かれらの悲しみを思うと、王は心重い」(第13岩勅、Hultzsch 1925 本、渡辺照宏ほか邦訳による意訳)。
この悔悟(アヌタパ、anutāpa)が、以後の統治転換の核になった。アショーカは武力による征服(ヴィジャヤ・バイラーマ、bhārama vijaya)を放棄し、「ダルマ・ヴィジャヤ」(dhamma vijaya、法による征服)という新しい統治原理を掲げる。第13勅は次の一行で締めくくられる ― 「真の征服は、法(ダンマ)による征服である」。
仏教との正式な関係は、彼自身の記述によれば、カリンガ戦役の少し前から始まっていた。小岩勅第1によれば、「わたしは在俗信者(ウパーサカ)となって2年半ほど熱心ではなかった。その後、一年余り出家者(サンガ)に親しく近づき、熱心に精進した」と語る。つまり仏教帰依→戦役→深い悔悟→本格的転換、という段階的経過が、彼自身の言葉で確認できる。
03法勅柱と道路整備 ― ダルマの公共実装
仏教に帰依したアショーカは、内面の信仰告白にとどまらず、「ダルマ(法)」を帝国統治の公共原則として制度化することに踏み出した。ここでのダルマは、狭義の仏教教義ではなく、仏教・ジャイナ教・アージーヴィカ教・バラモン教のすべての人々が共有できる公共的倫理として設計されている。
不殺生(生類の不殺傷)、父母と年長者への敬意、真実を語ること、奴隷と使用人への親切、貧困者・病者への援助、諸宗派への寛容、狩猟・動物犠牲の制限 ― 岩勅に繰り返し現れるこれらの徳目は、特定の宗派の専有物ではなく、どの信徒も合意できる倫理の最大公約数として組まれている。第12岩勅は「自分の宗派を称えるだけで他宗派を貶す者は、自分の宗派を傷つけている」と踏み込んで、宗派間の対話と相互尊重を王の名で命じている。
公共実装のために、アショーカはダルマ・マハーマートラ(法の大官、dhamma-mahāmātra)という新しい官職を設置した。この官吏は税を取り立てる役人ではなく、諸宗派の状況、囚人の待遇、困窮者の窮状、生類保護の進捗を巡察し、報告する。第5岩勅は「在位第13年にダルマ・マハーマータを任じた、諸宗派を助け、囚人を訪れ、老人と孤児を助けるためである」と記す。
インフラ整備の規模も大きかった。第2岩勅は「人と家畜のための医療所(チキッツァー)を、帝国内および近隣のチョーラ・パーンディヤ・サティヤプトラ(南インド)、タームラパルニー(スリランカ)、ギリシア王アンティオコス(二世テオス、セレウコス朝)の領域にまで設けた。薬草を輸入し植えた。道路に沿って井戸を掘り、果樹と日陰の樹を植えた」と伝える。王の道路(ラージャ・マールガ)はパータリプトラからタクシラ(北西辺境、現パキスタン)まで全長およそ2600キロに及び、一定の距離ごとに休憩所・水場・樹木が整備された。のちのグランド・トランク・ロード(現インドのGT Road)の原型の一つに数えられる。
石柱と岩面への刻字は、この公共倫理を帝国のどこにいても王の言葉に触れられるようにする装置だった。14の大磨崖勅(14 Major Rock Edicts、帝国辺境の14か所に並行して刻まれる主要岩勅群)、7本の石柱勅(7 Pillar Edicts、中央インド~ガンジス流域の主要柱に刻まれる)、小岩勅・小柱勅・洞窟勅と、現在までに40箇所以上で発見されている。言語はマガディ・プラークリット(東部標準)、カンダハール(アフガン)ではギリシア語とアラム語の二言語碑文を、北西シャーバーズガリー/マンシェーラではガンダーラ・プラークリット、ギルナール(グジャラート)では西部プラークリットと、受け手の地域の言語に合わせて刻まれた。
石の柱(アショーカ柱)は、高さ10~15メートル、重量40~50トン、マトゥラーとチュナールの石切場から切り出され、磨き上げられた砂岩に、動物の柱頭(ライオン、象、牛、馬)を戴いて立てられた。特にサールナート(初転法輪の地)に立てられた四頭獅子柱頭は、背中合わせに座る4頭の獅子の下にダルマ・チャクラ(法輪)を配した意匠で、後の1950年にインド共和国の国章として正式採用されることになる。紙幣と公文書の上部にあるあの四頭のライオンは、紀元前3世紀のアショーカの磨いた石から、二千数百年後の共和国に受け継がれた姿そのものである。
04仏教拡大と王子マヒンダのセイロン派遣
アショーカは自ら仏教徒であったが、岩勅の公式言語は「ダンマ」という超宗派的な徳目に留め、他宗派を排除しなかった。第6岩勅以降は、王が特定宗派の庇護者として動く場面も記される。ボードガヤー(ブッダが悟りを開いた地)、ルンビニー(降誕の地)、カピラヴァストゥ(釈尊の育ち)、クシナガラ(涅槃の地)を巡礼し、各地に柱を立てた。ルンビニー柱には「神々に愛されし王ピヤダッシは、即位20年にここに親しく訪れ、敬意を払い、石柵を建てた。ここでブッダが生まれたがゆえに、ルンビニー村の税を免じ、八分の一とする」と刻まれる。これは釈尊の降誕地を特定する考古学史上きわめて重要な一次史料であり、1896年ネパールのターライで発見されて以降、ルンビニーの位置比定の決定的証拠となった。
帝国内での最大の仏教事業は、第三結集(the Third Buddhist Council)の開催(伝・BC250年頃、パータリプトラ、長老モッガリプッタ・ティッサ主宰、上座部伝承)とその後の布教師団派遣である。ただし第三結集の歴史性は学派により論争があり、アショーカ自身の岩勅には言及がなく、上座部スリランカ系史料(ディーパワンサ・マハーワンサ)が後代に教団正統化の文脈で書き留めた行事という慎重な読み方も併存する。『ディーパワンサ』『マハーワンサ』の記述によれば、結集終了後、モッガリプッタ・ティッサは九つの地域に布教師団を派遣した。カシミール、ガンダーラ、マヒーサ地方、アパランタカ、マハーラッタ、ヨナカ地方(ギリシア人居住地)、ヒマヴァンタ地方、スワンナブーミ(黄金の地、ビルマ~東南アジア説あり)、そしてスリランカ(タームラパルニー、セイロン)。
セイロン伝道の中心となったのは、アショーカ自身の息子マヒンダ長老(Mahinda Thera)である。『マハーワンサ』はマヒンダを「アショーカの第一子」と記し、若くしてサンガに出家してパータリプトラで修学し、成年後に使節団を率いてセイロンへ渡ったと伝える。紀元前247年頃(諸説あり)、セイロン王デーヴァーナンピヤ・ティッサ(ピヤダッシと同じ称号を名乗ったセイロン王、アショーカと親交があった)の治下、マヒンダ一行はミヒンタレーの岩山で王に出会い、仏法を説き、王と王族の帰依を得た。続いてアショーカの娘サンガミッタ長老尼(Sanghamitta Therī)が、ブッダが悟りを開いたボードガヤーの菩提樹の分枝を携えてセイロンに渡った。この枝はアヌラーダプラのスリ・マハー・ボーディとして根付き、現存する世界最古の人の手で植えられ記録された樹木(植樹年が文献記録に残るものとして)と位置づけられ、現在も礼拝されている。
この派遣は、仏教がインド亜大陸の外に宗教的共同体として制度的に定着した最初の事例である。のちの東南アジア上座部仏教(ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア)の源流はこのセイロン上座部に遡り、その源流をさらに遡れば、アショーカの政策的布教派遣に行き着く。
西方への布教派遣については、第13岩勅がギリシア諸王への使節を記している ― アンティオコス(セレウコス朝アンティオコス2世テオス、在位BC261–246)、プトレマイオス(プトレマイオス2世フィラデルフォス、エジプト、在位BC285–246)、アンティゴノス(アンティゴノス2世ゴナタス、マケドニア、在位BC277–239)、マガス(キュレネ)、アレクサンダー(エピロス、BC272–255)。ヘレニズム世界の主要五王に仏教的ダルマの使節を送った、という記述である。西方での定着は確認されていないが、ガンダーラからアレクサンドリアまでを思考範囲に置く王として、アショーカの帝国認識のスケールが測れる記録である。
05近代インドに受け継がれた国章 ― 三頭ライオン(正確には四頭)
アショーカは紀元前232年頃(即位から約40年を経て)、首都パータリプトラで没したと推定される。崩年は『プラーナ』群と仏教伝承で若干の揺れがあり、BC232年~BC238年の範囲で議論されている。彼の直系の孫ダシャラタ(Dasharatha、アージーヴィカ教徒のため仏教側史料では影が薄い)が東方を、もう一人の孫サンプラティ(Saṃprati、ジャイナ教側史料が顕彰する人物)が西方を継いだと伝えられるが、マウリヤ朝は半世紀のうちに急速に衰退し、紀元前185年頃、将軍プシャミトラ・シュンガによる簒奪でシュンガ朝に取って代わられる。
アショーカの直接的な政治的遺産は、帝国の形としては長く続かなかった。しかし、彼が石に刻ませた岩勅と柱勅は、約千年にわたって忘却された後、19世紀に再発見された。ジェームズ・プリンセップ(ベンガル・アジア協会、カルカッタ)が1837年にブラフミー文字とマガディ・プラークリットを解読し、「デーヴァーナーンピヤ・ピヤダッシ」という共通の称号を持つ王の岩勅群が亜大陸全域に散在していることを示した。その後、シルポン考古学調査、インド考古学調査局(ASI)、セイロン年代記との照合により、「ピヤダッシ=アショーカ」の同一性が確定した。
1931年、サールナートの四頭獅子柱頭(サルナート博物館現存)は、英国植民地期インドの考古学的誇りとして広く紹介されていた。1947年、インドが英国から独立した。1950年、共和国憲法の発効にあたり、サールナート柱頭が国章として正式採用された。正面から見えるのは三頭のライオン(背面の一頭は隠れる)、下部にダルマ・チャクラが配される。インドの紙幣、公文書、パスポートの上部に刻まれる三頭ライオンと輪は、紀元前3世紀にサールナートの石工が磨いた柱頭が、共和国の象徴として二千年以上を跨いで帰還した姿である。
モットーは『ムンダカ・ウパニシャッド』からの「サティヤメーヴァ・ジャヤテー」(Satyameva Jayate、「真理のみが勝つ」)。アショーカが「ダンマによる征服こそ真の征服」と言ったことと、ウパニシャッドの「真理のみが勝つ」が、共和国憲法の下でもう一度重ねられた。
さらに1950年、インド国旗中央のダルマ・チャクラ(青色の24本の輻を持つ法輪)も、アショーカ柱頭の法輪意匠を転用したものである。国旗の中心にあるあの輪は、アショーカの石柱に彫り刻まれていた輪そのものである。
20世紀インドの近代国民国家は、ネルーの「寛容・多宗教・非暴力」という建国理念のうえに立った。ガンディーの非暴力運動、ネルーのセキュラリズム、タゴールのベンガル・ルネサンスとの連続のなかで、アショーカは古代インドがすでに到達していた公共倫理の原型として位置づけ直された。ネルー自身が『インドの発見』(1946)で繰り返しアショーカに言及し、「アショーカの遺言は、今日のインドにとってなお呼びかけである」と書いた。
戦争で十万の人を殺した王が、悔悟から始めて書いた統治の言葉。その言葉は、二千二百年を経て、独立したインドの国章に戻ってきた。
真の征服は、法(ダンマ)による征服である。
06主要な出来事と遺産
- マウリヤ朝第2代ビンドゥサーラ王の子として首都パータリプトラに生まれる(諸説あり)
- タクシラ、のちウッジャインの副王を務める、ウッジャインで后デーヴィーと結ばれ子マヒンダ・サンガミッタをもうける
- 父ビンドゥサーラ崩御、数年の権力闘争
- マガダ国王として正式即位(戴冠は即位の数年後)
- 仏教在俗信者(ウパーサカ)となるが当初は熱心ではなかった、と小岩勅第1で告白
- カリンガ戦役。十万余の戦死、十五万の捕囚、それ以上の病死と飢餓死。王は深い悔悟(アヌタパ)に沈む
- 仏教帰依を深め、武力征服を放棄、「ダルマ(法)による征服」という統治原理を掲げる
- 第1~第14の大岩勅を帝国辺境14か所に刻む、ダルマ・マハーマータ(法の大官)を任命
- 第13岩勅(カリンガ悔悟勅)でヘレニズム諸王(セレウコス朝アンティオコス、プトレマイオス2世ほか)への法の使節を記録
- パータリプトラで第三結集、モッガリプッタ・ティッサ主宰(上座部伝承)
- ルンビニーを親しく訪れ柱を立て、釈尊降誕地の村税を八分の一に減免する(ルンビニー柱碑文)
- 王子マヒンダがセイロン(タームラパルニー)へ布教、デーヴァーナンピヤ・ティッサ王の帰依、続いて王女サンガミッタが菩提樹の分枝を携えて渡る
- 7本の柱勅を中央インドに立てる、王の道路(ラージャ・マールガ)、医療所、井戸、樹木植栽の整備
- パータリプトラで没したと推定(崩年は議論あり)。享年70前後
- 将軍プシャミトラ・シュンガの簒奪でマウリヤ朝滅亡、シュンガ朝成立
- ジェームズ・プリンセップがブラフミー文字とマガディ・プラークリットを解読、ピヤダッシ=アショーカの同一性を示す
- ネパール領ルンビニーでアショーカ柱が発見され、釈尊降誕地が確定する
- インド共和国憲法発効、サールナート四頭獅子柱頭が国章として正式採用、法輪が国旗中央に配される
残した思想の輪郭
- カリンガ悔悟 ― 戦勝を誇るのではなく、自分の引き起こした死者数と悲惨を岩に刻んだ、世界史的に稀な自己省察の公共記録
- ダルマによる征服 ― 武力ではなく倫理的説得と共存による統治という原理、非殺生・真実・寛容・相互尊重の徳目
- 諸宗派の相互尊重 ― 第12岩勅「自分の宗派を称えるだけで他宗派を貶す者は、自分の宗派を傷つけている」という超宗派的公共倫理
- 法の大官(ダルマ・マハーマータ) ― 税を取らず諸宗派・囚人・困窮者を訪れる巡察官の新設、統治の倫理化の制度的実装
- 公共インフラ ― 帝国幹線道路、医療所、井戸、樹木、休憩所の整備。統治の愛は制度と配備で測られる
- 仏教の国際化 ― マヒンダ・サンガミッタによるセイロン派遣、菩提樹の分枝の移植、のちの東南アジア上座部仏教の源流
- 石の言葉の千年 ― 岩勅・柱勅という「王の肉声を帝国のどこでも読める形で配置する」公共通信、19世紀再発見を経て近代インドの国章に帰還
- 非暴力の先駆としての再発見 ― ネルーの『インドの発見』、ガンディーの非暴力運動の背景にあるインド古代の公共倫理の原型
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 紀元前261年頃、マウリヤ朝アショーカ王は東岸の独立王国カリンガ(現オディシャ州)を征服した。第13岩勅は戦勝記念碑としては世界史に類例が薄く、十五万人の捕囚と十万人の死者、さらに病と飢餓による多数の...
- 文脈二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: 紀元前261年頃、マウリヤ朝アショーカ王は東岸の独立王国カリンガ(現オディシャ州)を征服した。第13岩勅は戦勝記念碑としては世界史に類例が薄く、十五万人の捕囚と十万人の死者、さらに病と飢餓による多数の...
- 文脈伝承として記録伝承
伝承: 帝国内での最大の仏教事業は、第三結集(the Third Buddhist Council)の開催(伝・BC250年頃、パータリプトラ、長老モッガリプッタ・ティッサ主宰、上座部伝承)とその後の布教師団...
- 引用校訂版で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 真の征服は、法(ダンマ)による征服である
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: ashoka-1.source 表記『アショーカ第13岩勅(カリンガ悔悟勅)シャーバーズガリー・ギルナール両碑文による並行テキスト(BC257頃)、日本語訳は Hultzsch/渡辺照宏ほかによる』は...
つながり
- ゴータマ・シッダールタ
継承 — ブッダ入滅からおよそ250年後、アショーカは即位第13年頃に仏教在俗信者(ウパーサカ)として熱心に帰依し、カリンガ戦役(BC261頃)の悔悟を経て「ダンマ(ダルマ)」を統治原理として公共化した。第三結集(BC250頃、パータリプトラ、長老モッガリプッタ・ティッサ主宰)を支援し、経典の保存と布教団の派遣を制度化。「法(ダンマ)」は特定宗派の専有ではなく諸宗共有の徳目として再定式化されたが、仏教三宝を守護する王権の原型として後世東南アジア上座部仏教(スリランカ・ビルマ・タイ)の政教関係の範型を提供
- マハトマ・ガンディー
先駆 — ガンジーは『自叙伝』およびハリジャン誌の諸論説でアショーカ柱とダンマを「インド古代が近代に遺した非暴力と諸宗共存の原型」として繰り返し参照。ネルー『インドの発見』(1946)と合わせて、独立運動期のインドがアショーカを非暴力運動の古代的自己像として発見する流れを作った。1950年サールナート四頭獅子柱頭の国章採用・国旗中央のダルマ・チャクラ配置は、ガンジー=ネルー路線のアショーカ再発見の制度的結実。ガンジーの非暴力(アヒンサー)は直接の仏教経由ではなくジャイナ教的背景が強いが、公共倫理としてのアショーカ像は近代インドのアヒンサー言説と分かちがたく結び付いている
さらに読むならFurther Reading
アショーカ王の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門アショーカ王碑文
塚本啓祥 / レグルス文庫(第三文明社)
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生きた跡を辿るPlaces
アショーカ王が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サールナート考古学博物館記念館
サールナート(ヴァーラーナシー郊外), インド
アショーカ王がブッダ初転法輪の地に建てた石柱の「獅子柱頭」を所蔵。インド国章の原形
- サーンチー第1塔(大塔)ゆかり
サーンチー, インド
アショーカ王が紀元前3世紀に築造した仏教石塔群。ユネスコ世界遺産
さらに辿るならExternal References
アショーカ王を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アショーカ王」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ashoka"
WikipediaEnglishWikipedia English — "Edicts of Ashoka"
アショーカ王の勅令碑文に関する解説
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一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
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