アショーカ王
勝ったはずの戦を、 王はなぜ「悔い」として石に刻んだのか?
マウリヤ朝第3代の王、カリンガ戦役の殺戮ののち仏教に帰依し、法(ダルマ)による統治へ舵を切って岩と柱に詔勅を刻んだインド古代最大の君主
- 法勅
- カリンガ戦役
- ダルマ
- アショーカ柱
- 仏教の拡大
- 非暴力統治
- マヒンダ
祖父が剣で建てた帝国を、孫は何で支えるのか。まだ誰も答えを持たない時代だった — ひらく
時代の空気
アレクサンドロス侵攻(BC327-325)が北西インドに残した余韻のなか、祖父チャンドラグプタがマガダ国ナンダ朝を倒しマウリヤ朝を立て、宰相カウティリヤの『アルタシャーストラ』が冷徹な統治論を編んでいた時代である。父ビンドゥサーラの代に北はガンダーラ、東はベンガルまで版図が伸び、ジャイナ教・アージーヴィカ教・バラモン教・上座部仏教が競っていた。デカン以南、ベンガル湾岸のカリンガだけが征服を拒み、王子は地方都市タクシラとウッジャインで副王として統治の実務に触れていた。西方ではセレウコス朝アンティオコス2世、エジプトのプトレマイオス2世らヘレニズム諸王が同時代を生きていた。
01岩に刻まれた、勝者の数字
紀元前257年ごろのことである。インドの北西の果てシャーバーズガリーと、西の果てギルナール。二つの土地の岩の面に、同じ王の言葉が刻まれた。の第3代の王、アショーカの言葉である。王はこのとき、47歳前後だった。
刻ませたのは、自分が勝った戦のことだった。数年前、王は東の海に面した国カリンガを攻め、勝った。岩はその結果を数字で記す。十五万人が連れ去られ、十万人が殺され、さらにその何倍もの人が病と飢えで命を落とした、と。
ふつう、王が石に残すのは勝ちほこる言葉だ。だがこの岩に、それはない。あるのは死んだ人の数と、王自身の「深い悔い」の告白だった。自分の引き起こした悲惨を、王が自分の名で公共の石に刻ませた例は、世界史でもきわめて少ない。
なぜ勝った王が、自分の戦の悲惨をわざわざ石に残したのか。そもそも、その王はどんな人物だったのか。答えを知るには、時を四十数年前に戻さなければならない。
02「悲しみなき者」と呼ばれた王子
紀元前304年ごろ、アショーカは首都パータリプトラ(今のパトナ)に生まれた。父はマウリヤ朝の第2代、ビンドゥサーラ王。祖父は・マウリヤ。紀元前321年ごろにマガダ国のナンダ朝を倒し、北インドを初めて一つにした王である。母の名は史料ごとに異なり、はっきりしない。
アショーカという名は「悲しみなき者」という意味だ。漢訳の仏典では阿育王(あいくおう)と書かれる。だが彼が岩勅(岩に刻んだ王の布告)で名乗るのは、別の呼び名だった。デーヴァーナーンピヤ・ピヤダッシ(Devanampiya Piyadasi)、「神々に愛されし、見目麗しき者」である。岩勅の大半は、この称号で始まる。
若い日の彼を、後の仏教史料は悪く描く。セイロン(スリランカ)の年代記などは、こう伝える。粗野で顔が醜く、父に愛されなかった。100人の兄弟を殺して王になった。地獄のような牢を造って人を苦しめた。ただし、これらは彼が仏教徒になったあとに、その「暗から明へ」の転回を劇的に見せるために書かれた物語だ。そのまま事実とは受け取れない。
それでも、戦を頼みにする王だったこと自体は、疑いにくい。のちに彼が岩に刻んだ悔いの深さから、逆に推しはかれるからだ。即位前の彼は、北西のタクシラ(今のパキスタン)で副王を務め、反乱をしずめた。その後、ウッジャインの副王として十数年を過ごした。そこで王女デーヴィーと結ばれ、息子と娘が生まれた。この二人の子は、のちに海を渡ることになる。
紀元前273年ごろ、父王が没した。数年の争いを経て、紀元前268年ごろ、36歳前後でマガダ国の王として即位した。帝国は北のガンダーラから東のベンガルまで広がっていた。ただ一つ、東の海に面したカリンガだけが、祖父にも父にも屈していなかった。
03カリンガ戦役 ― 十万の死と、深い悔い
即位から8年目、紀元前261年ごろ。43歳前後の王は、カリンガに攻め込んだ。カリンガは今のオディシャ州、ベンガル湾に面した独立の王国で、海の交易で栄えていた。戦の細かい経過を、岩勅は記していない。記されているのは、冒頭で見たあの結果だけだ。十五万の捕囚、十万の死者、それ以上の病死と飢え死に。
実は仏教との縁は、この戦の少し前から始まっていた。小岩勅第1で、王はこう告白する。「わたしは在俗信者(ウパーサカ)となって2年半ほど熱心ではなかった。その後、一年余り出家者()に親しく近づき、熱心に精進した」。仏教徒になる、戦をする、深く悔いる、本気で変わる。この順番は、王自身の言葉で確かめられる。
第13岩勅(カリンガ岩勅)は、王の心をこう記す。「神々に愛されし王(ピヤダッシ)は、カリンガを征服したのち、深い悔い(アヌタパ)と苦しみに沈んだ。独立した民が征服され、殺され、連れ去られるという事態は、王にとって深く痛ましいものであった。…戦争で命を落としたのは戦士だけではない。婆羅門、修行者、在家信者、年長者、家族の愛に結ばれて生きていた人々 ― そのすべてが、征服の暴力のもとに斃れた。かれらの悲しみを思うと、王は心重い」(第13岩勅、Hultzsch 1925 本、渡辺照宏ほか邦訳による意訳)。
この悔い(アヌタパ)が、以後の王の統治を変えた。王は武力による征服(ヴィジャヤ・バイラーマ)を捨てた。代わりに掲げたのが「ダルマ・ヴィジャヤ」、法(ダンマ)による征服である。第13勅は、次の一行で締めくくられる。
真の征服は、法(ダンマ)による征服である。
04石に刻み、道を敷く
だが「法による征服」とは、何をすることなのか。剣を置いた王には、帝国を支える別の道具が要った。王が掲げた「ダルマ(法)」は、仏教だけの教えではなかった。仏教、、アージーヴィカ教、バラモン教。どの信徒も受け入れられる、共通の生き方の決まりとして組まれていた。
不殺生(生きものを殺さないこと)。父母と年長者への敬い。真実を語ること。奴隷と使用人への親切。貧しい人と病人への助け。他の宗派への寛容。狩りと動物のいけにえの制限。岩勅にくり返し現れるのは、こうした徳目だ。第12岩勅はさらに踏み込む。「自分の宗派を称えるだけで他宗派を貶す者は、自分の宗派を傷つけている」。宗派どうしが話し合い、たがいを敬うことを、王の名で命じたのである。
これを実行するため、王は新しい役職を作った。ダルマ・マハーマートラ、「法の大官」である。税を取り立てる役人ではない。各宗派の様子、囚人の待遇、困っている人の状況、生きもの保護の進み具合を見て回り、報告する。第5岩勅は「在位第13年にダルマ・マハーマータを任じた、諸宗派を助け、囚人を訪れ、老人と孤児を助けるためである」と記す。
道と医療も整えた。人と家畜のための医療所を、帝国の内にも外にも置いた。薬草を植え、道に沿って井戸を掘り、果樹と日陰の木を植えた。首都から北西のタクシラまで、王の道路はおよそ2600キロ。一定の距離ごとに休憩所と水場があった。のちのグランド・トランク・ロードの原型の一つに数えられる。
そして、石である。王の言葉を帝国のどこにいても読めるように、岩と柱に刻んだ。14の大岩勅(14 Major Rock Edicts)は帝国の辺境14か所に。7本の柱勅(7 Pillar Edicts)は中央インドからガンジス流域の柱に。小岩勅や洞窟勅も合わせ、今までに40か所以上で見つかっている。言葉も、読む人の土地に合わせて変えた。アフガニスタンのカンダハールでは、ギリシア語とアラム語で刻まれている。
アショーカ柱は高さ10〜15メートル、重さ40〜50トン。磨きあげた砂岩の上に、ライオン、象、牛、馬の柱頭(ちゅうとう、柱の頂の飾り)をのせた。なかでも、ブッダが初めて教えを説いたの地サールナート。ここに立てた柱には、四頭の獅子が背中合わせに座る柱頭がのった。その下には法輪(ダルマ・チャクラ)。この獅子は、二千年以上のちに思いがけない場所へ帰ってくる。
05息子と娘を、海の向こうへ
王自身は仏教徒だった。岩勅の言葉は宗派を越えた「ダンマ」に留めたが、ブッダゆかりの地を巡る姿も記されている。ボードガヤー(悟りの地)、ルンビニー(生まれた地)、カピラヴァストゥ(育った地)、クシナガラ(の地)。各地に柱を立てた。ルンビニーの柱にはこう刻まれる。「神々に愛されし王ピヤダッシは、即位20年にここに親しく訪れ、敬意を払い、石柵を建てた。ここでブッダが生まれたがゆえに、ルンビニー村の税を免じ、八分の一とする」。ブッダの生まれた場所を示す、最も重要な手がかりの一つだ。
上座部(じょうざぶ)仏教の伝えでは、紀元前250年ごろ、首都で第三結集(Third Buddhist Council)が開かれた。長老モッガリプッタ・ティッサが主宰した、教えを整える大きな集まりである。その終わりに九つの地方へ布教の使節が送られた、と『マハーワンサ』は伝える。カシミール、ガンダーラ、ギリシア人の住む地方、黄金の地スワンナブーミ、そしてセイロン。
セイロンへ向かったのは、王の息子マヒンダ長老だった。『マハーワンサ』はマヒンダを「アショーカの第一子」と記す。若くしてサンガ(出家者の集団)に入り、首都で学んだ。紀元前247年ごろ、一行はミヒンタレーの岩山でセイロン王デーヴァーナンピヤ・ティッサに出会った。仏の教えを説き、王と王族を帰依(信仰に入ること)させた。
続いて娘のサンガミッタ長老尼が海を渡った。携えていたのは、ブッダが悟りを開いたの分枝である。枝はアヌラーダプラで根付き、スリ・マハー・ボーディと呼ばれ、今も礼拝されている。植えた年が記録に残る樹木として、世界最古のものとされる。
仏教がインドの外に、共同体として根を下ろした最初の例がこれだった。のちのビルマ、タイ、ラオス、カンボジアの上座部仏教は、このセイロンの流れをくむ。王は西にも目を向けた。第13岩勅は、シリア、エジプト、マケドニアなど、ギリシアの五人の王に使節を送ったと記す。西方に仏教が根付いた証拠はない。だが王の頭の中の地図が、ガンダーラからアレクサンドリアまで広がっていたことは確かだ。
では、王が死んだあと、この帝国と石はどうなったのか。
06忘れられた石、帰ってきた獅子
紀元前232年ごろ、王は即位から約40年を経て、首都パータリプトラで没した。孫たちが東と西を分けて継いだと伝わるが、マウリヤ朝は半世紀のうちに衰えた。紀元前185年ごろ、将軍プシャミトラ・シュンガに王位を奪われ、マウリヤ帝国は終わる。
帝国は消えた。だが石は残った。岩勅と柱勅は、およそ千年のあいだ誰にも読めない文字として忘れられていた。1837年、カルカッタのジェームズ・プリンセップがブラフミー文字を解読した。すると亜大陸のあちこちに散る岩が、同じ「ピヤダッシ」という王の言葉だと分かった。やがてセイロンの年代記との照合から、ピヤダッシ=アショーカと確定した。
1947年、インドはイギリスから独立した。1950年1月26日、共和国憲法とともに、サールナートの四頭獅子柱頭が国章に選ばれた。正面からは三頭が見え、下に法輪が配される。国旗の中央にある青い輪も、アショーカ柱の法輪をもとにしている。紀元前3世紀の石工が磨いた獅子が、二千年以上を越えて、共和国の紙幣とパスポートに帰ってきたのである。
新しいインドを作った人々は、彼を古代の先例として読み直した。ガンディーの非暴力運動、ネルーの宗教を越えた国づくり。ネルーは(1946)でくり返しアショーカに触れ、「アショーカの遺言は、今日のインドにとってなお呼びかけである」と書いた。
ここで、冒頭の岩に戻ろう。勝った王が、自分の引き起こした死者の数を石に刻んだ。あれは戦勝の記録ではなかった。自分の悲惨を直視するところから、新しい統治を始めるという宣言だった。だから数字のすぐあとに、王はあの一行を置いたのである。
真の征服は、法(ダンマ)による征服である。
07こだま
一度ふるった剣の重さを、彼は隠さずに背負い直した。戦勝の美化ではなく、自分の悲惨を認めるところから、公共の仕事を続けた。
では、あなたが誤った手段で何かを勝ち取ってしまったとき。その数字を、人の目に見える場所に置くことができるだろうか。
08史料を読む ― 石の肉声と後代の物語
アショーカ像は、二系統の史料の緊張のうえに立つ。一方は彼自身の岩勅・柱勅という同時代の一次史料、他方はセイロン年代記『ディーパワンサ』『マハーワンサ』(紀元後5〜6世紀編纂)と漢訳『阿育王伝』『阿育王経』(北伝の『アショーカヴァダーナ』系)という後代史料である。母の名ですら、『アショーカヴァダーナ』は後宮のスバドラーンギー(Subhadrāṅgī)、上座部伝承は「ダルマー(Dhammā)」と異なる名で伝え、いずれも後代史料の人物造形に近い。
「粗野で容貌醜く、父王に愛されなかった」「100人の兄弟を弑殺して即位した」(ディーパワンサ)、「地獄のような獄舎を造らせて人を苛んだ」(阿育王経)といった暴君伝承は、彼の仏教帰依を正統化するために書かれた後代史料であり、「暗から明への転回」を劇的に描くための文学的誇張を含む。岩勅自体は兄弟争いに触れず、王位継承の暴力性は後世の劇的物語装置と見るのが現代の主流である。『アショーカヴァダーナ』は即位と戴冠の間に数年の空白を記す。ただし、以前の彼が武断的な王であったこと自体は、第13勅の悔悟の深さから逆算すれば、一定の裏付けを持つ。
「アショーカ」の名が碑文に登場するのは一部の小岩勅(マースキ、グジャラ、ネットゥール、ウデゴーラム)に限られる。ジェームズ・プリンセップ(ベンガル・アジア協会、カルカッタ)による1837年のブラフミー文字とマガディ・プラークリットの解読は、「デーヴァーナーンピヤ・ピヤダッシ」という共通の称号を持つ王の岩勅群が亜大陸全域に散在していることを示した。その後、インド考古学調査局(ASI)、セイロン年代記との照合、上記小岩勅における名の一致によって、ピヤダッシ=アショーカの同一性が確定した。1896年ネパールのターライで発見されたルンビニー柱碑文は、釈尊の降誕地を特定する考古学史上きわめて重要な一次史料であり、ルンビニーの位置比定の決定的証拠となった。
第13岩勅のテキストは、シャーバーズガリーとギルナールの両碑文による並行テキストとして復元される(Hultzsch 1925 本、渡辺照宏ほか邦訳)。戦況ではなく「結果」を記録する点で、戦勝記念碑としては世界史に類例が薄い。小岩勅第1の告白と合わせると、仏教帰依→戦役→深い悔悟→本格的転換という段階的経過が、彼自身の言葉で確認できる。武力征服(bhārama vijaya)の放棄と「ダルマ・ヴィジャヤ」(dhamma vijaya)の宣言は、この告白の帰結である。
岩勅の「ダルマ」は狭義の仏教教義ではなく、仏教・ジャイナ教・アージーヴィカ教・バラモン教のすべての人々が共有できる公共的倫理として設計されている。不殺生(生類の不殺傷)、父母と年長者への敬意、真実、奴隷と使用人への親切、貧困者・病者への援助、諸宗派への寛容、狩猟・動物犠牲の制限という徳目は、特定の宗派の専有物ではなく、どの信徒も合意できる倫理の最大公約数である。ダルマ・マハーマートラ(dhamma-mahāmātra)の新設は、この倫理を巡察と報告という行政手続きに翻訳した制度的実装だった。
公共インフラの規模は第2岩勅が伝える。「人と家畜のための医療所(チキッツァー)を、帝国内および近隣のチョーラ・パーンディヤ・サティヤプトラ(南インド)、タームラパルニー(スリランカ)、ギリシア王アンティオコス(二世テオス、セレウコス朝)の領域にまで設けた。薬草を輸入し植えた。道路に沿って井戸を掘り、果樹と日陰の樹を植えた」。王の道路(ラージャ・マールガ)はパータリプトラからタクシラまで全長およそ2600キロに及び、現インドのGT Roadの原型の一つに数えられる。
碑文の言語分布は帝国の多言語性を示す。14の大磨崖勅は帝国辺境の14か所に並行して刻まれ、7本の石柱勅は中央インド〜ガンジス流域の主要柱に刻まれる。言語はマガディ・プラークリット(東部標準)を基本に、カンダハール(アフガン)ではギリシア語とアラム語の二言語碑文、北西シャーバーズガリー/マンシェーラではガンダーラ・プラークリット、ギルナール(グジャラート)では西部プラークリットと、受け手の地域の言語に合わせて刻まれた。柱はマトゥラーとチュナールの石切場から切り出された砂岩で、サールナート(初転法輪の地)の四頭獅子柱頭は、背中合わせに座る4頭の獅子の下にダルマ・チャクラ(法輪)を配した意匠を持つ。
第三結集(伝・BC250年頃、パータリプトラ、長老モッガリプッタ・ティッサ主宰、上座部伝承)の歴史性は学派により論争がある。アショーカ自身の岩勅には言及がなく、上座部スリランカ系史料が後代に教団正統化の文脈で書き留めた行事という慎重な読み方も併存する。『ディーパワンサ』『マハーワンサ』によれば、結集終了後に九つの地域(カシミール、ガンダーラ、マヒーサ地方、アパランタカ、マハーラッタ、ヨナカ地方、ヒマヴァンタ地方、スワンナブーミ、タームラパルニー)に布教師団が派遣された。セイロン伝道の中心マヒンダ長老(Mahinda Thera)は、『マハーワンサ』で「アショーカの第一子」とされ、紀元前247年頃(諸説あり)、ピヤダッシと同じ称号を名乗ったセイロン王デーヴァーナンピヤ・ティッサの治下で王と王族の帰依を得た。サンガミッタ長老尼(Sanghamitta Therī)が携えたボードガヤーの菩提樹の分枝は、アヌラーダプラのスリ・マハー・ボーディとして根付き、植樹年が文献記録に残る現存最古の樹木と位置づけられる。この派遣は、仏教がインド亜大陸の外に宗教的共同体として制度的に定着した最初の事例であり、東南アジア上座部仏教の源流はここに遡る。
西方への使節について、第13岩勅はアンティオコス(セレウコス朝アンティオコス2世テオス、在位BC261–246)、プトレマイオス(プトレマイオス2世フィラデルフォス、エジプト、在位BC285–246)、アンティゴノス(アンティゴノス2世ゴナタス、マケドニア、在位BC277–239)、マガス(キュレネ)、アレクサンダー(エピロス、BC272–255)というヘレニズム世界の主要五王を挙げる。西方での定着は確認されていないが、ガンダーラからアレクサンドリアまでを思考範囲に置く王として、アショーカの帝国認識のスケールを測る記録である。
崩年は『プラーナ』群と仏教伝承で若干の揺れがあり、BC232年〜BC238年の範囲で議論されている。直系の孫ダシャラタ(Dasharatha、アージーヴィカ教徒のため仏教側史料では影が薄い)が東方を、もう一人の孫サンプラティ(Saṃprati、ジャイナ教側史料が顕彰する人物)が西方を継いだと伝えられるが、マウリヤ朝は半世紀のうちに急速に衰退し、紀元前185年頃、将軍プシャミトラ・シュンガの簒奪でシュンガ朝に取って代わられる。
近代における再発見は二段階である。1931年、サールナートの四頭獅子柱頭(サルナート博物館現存)は英国植民地期インドの考古学的誇りとして広く紹介されていた。1950年の共和国憲法発効にあたり国章として正式採用され、モットーには『ムンダカ・ウパニシャッド』の「サティヤメーヴァ・ジャヤテー」(Satyameva Jayate、「真理のみが勝つ」)が添えられた。アショーカの「ダンマによる征服こそ真の征服」と、ウパニシャッドの「真理のみが勝つ」が、共和国憲法の下でもう一度重ねられたことになる。同年、国旗中央のダルマ・チャクラ(青色の24本の輻を持つ法輪)もアショーカ柱頭の法輪意匠を転用した。20世紀インドの近代国民国家は、ガンディーの非暴力運動、ネルーのセキュラリズム、タゴールのベンガル・ルネサンスとの連続のなかで、アショーカを古代インドがすでに到達していた公共倫理の原型として位置づけ直した。ネルーの『インドの発見』(1946)はその代表的な読み直しである。
09主要な出来事と遺産
- マウリヤ朝第2代ビンドゥサーラ王の子として首都パータリプトラに生まれる(諸説あり)
- タクシラ、のちウッジャインの副王を務める、ウッジャインで后デーヴィーと結ばれ子マヒンダ・サンガミッタをもうける
- 父ビンドゥサーラ崩御、数年の権力闘争
- マガダ国王として正式即位(戴冠は即位の数年後)
- 仏教在俗信者(ウパーサカ)となるが当初は熱心ではなかった、と小岩勅第1で告白
- カリンガ戦役。十万余の戦死、十五万の捕囚、それ以上の病死と飢餓死。王は深い悔悟(アヌタパ)に沈む
- 仏教帰依を深め、武力征服を放棄、「ダルマ(法)による征服」という統治原理を掲げる
- 第1~第14の大岩勅を帝国辺境14か所に刻む、ダルマ・マハーマータ(法の大官)を任命
- 第13岩勅(カリンガ悔悟勅)でヘレニズム諸王(セレウコス朝アンティオコス、プトレマイオス2世ほか)への法の使節を記録
- パータリプトラで第三結集、モッガリプッタ・ティッサ主宰(上座部伝承)
- ルンビニーを親しく訪れ柱を立て、釈尊降誕地の村税を八分の一に減免する(ルンビニー柱碑文)
- 王子マヒンダがセイロン(タームラパルニー)へ布教、デーヴァーナンピヤ・ティッサ王の帰依、続いて王女サンガミッタが菩提樹の分枝を携えて渡る
- 7本の柱勅を中央インドに立てる、王の道路(ラージャ・マールガ)、医療所、井戸、樹木植栽の整備
- パータリプトラで没したと推定(崩年は議論あり)。享年70前後
- 将軍プシャミトラ・シュンガの簒奪でマウリヤ朝滅亡、シュンガ朝成立
- ジェームズ・プリンセップがブラフミー文字とマガディ・プラークリットを解読、ピヤダッシ=アショーカの同一性を示す
- ネパール領ルンビニーでアショーカ柱が発見され、釈尊降誕地が確定する
- インド共和国憲法発効、サールナート四頭獅子柱頭が国章として正式採用、法輪が国旗中央に配される
残した思想の輪郭
- カリンガ悔悟 ― 戦勝を誇るのではなく、自分の引き起こした死者数と悲惨を岩に刻んだ、世界史的に稀な自己省察の公共記録
- ダルマによる征服 ― 武力ではなく倫理的説得と共存による統治という原理、非殺生・真実・寛容・相互尊重の徳目
- 諸宗派の相互尊重 ― 第12岩勅「自分の宗派を称えるだけで他宗派を貶す者は、自分の宗派を傷つけている」という超宗派的公共倫理
- 法の大官(ダルマ・マハーマータ) ― 税を取らず諸宗派・囚人・困窮者を訪れる巡察官の新設、統治の倫理化の制度的実装
- 公共インフラ ― 帝国幹線道路、医療所、井戸、樹木、休憩所の整備。統治の愛は制度と配備で測られる
- 仏教の国際化 ― マヒンダ・サンガミッタによるセイロン派遣、菩提樹の分枝の移植、のちの東南アジア上座部仏教の源流
- 石の言葉の千年 ― 岩勅・柱勅という「王の肉声を帝国のどこでも読める形で配置する」公共通信、19世紀再発見を経て近代インドの国章に帰還
- 非暴力の先駆としての再発見 ― ネルーの『インドの発見』、ガンディーの非暴力運動の背景にあるインド古代の公共倫理の原型
つながり
- ゴータマ・シッダールタ
先駆 — その死から250年後、一人の王が戦の悔悟の果てにすがった教えがある。
- マハトマ・ガンディー
継承 — 二千年前の王の柱に、非暴力運動の原型を見出した独立運動の指導者がいた。
さらに読むならFurther Reading
アショーカ王の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門アショーカ王碑文
塚本啓祥 / レグルス文庫(第三文明社)
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生きた跡を辿るPlaces
アショーカ王が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- サールナート考古学博物館記念館
サールナート(ヴァーラーナシー郊外), インド
アショーカ王がブッダ初転法輪の地に建てた石柱の「獅子柱頭」を所蔵。インド国章の原形
- サーンチー第1塔(大塔)ゆかり
サーンチー, インド
アショーカ王が紀元前3世紀に築造した仏教石塔群。ユネスコ世界遺産
さらに辿るならExternal References
アショーカ王を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「アショーカ王」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Ashoka"
WikipediaEnglishWikipedia English — "Edicts of Ashoka"
アショーカ王の勅令碑文に関する解説