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道元·1200–1253·日本

有時といふは、時すでにこれ有なり、有はみな時なり

道元『正法眼蔵』有時巻(1240)

この言葉の背景

仁治元年(1240)、京都興聖寺で道元が示衆した『正法眼蔵』有時巻の要となる一句。時間を、物とは別に流れる容れ物と見る日常の感覚を、道元は一度ほどく。薪が灰になるように時が流れるのではなく、薪は薪の時として、灰は灰の時として、その都度まるごと現れる ― 存在と時間を別物に分けない言い換えである。近代哲学への安易な先取り読みより、道元自身の修行と思索の時間論として読むほうが原文の呼吸に近い。

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  • 文脈原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: dogen-1 context は『正法眼蔵』現成公案巻 (1233 年、九州博多の俗弟子楊光秀 [Koshu Yō] のために書かれた) の冒頭近くを指す解説として正確。「仏道をならふといふは、自己...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするる也

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするる也。

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: dogen.mdx pullsource '道元『正法眼蔵』現成公案巻' は学術 standard 通りの正確な書誌帰属。現成公案巻は天福元年(1233年)に俗弟子楊光秀宛て書簡として執筆され、のち7...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: 有時といふは、時すでにこれ有なり、有はみな時なり

道元の別の一句