鄭和
陸の帝国は、 海のむこうに何を求めて出るのか?
雲南のイスラム教徒の家に生まれ、靖難の役に永楽帝の宦官として仕え、1405年から28年で七度の南海遠征を率いて東アフリカまで至った明初の大航海者
- 七度の南海遠征
- 宝船
- 永楽帝
- イスラム教徒の宦官
- 海上シルクロード
- 靖難の役
時代の空気
明初、洪武帝(1368-98)が建国の基礎を整え、靖難の変(1399-1402)を経て叔父の燕王が永楽帝(1402-24)として即位した時代である。建文帝は南京陥落のなかで行方を絶ち、新帝は北京遷都(1421)とモンゴル親征を重ねつつ、南海へは下西洋の大船団を七度送り出した。インド洋ではマラッカ・カリカット・ホルムズ・アデン・モガディシュ・マリンディが交易圏を結び、メッカ巡礼路とも交差する。明は朝貢制度のもと絹と磁器を贈り、香辛料・象牙・キリン(麒麟)を迎えた。宣徳帝(1425-35)期の1431年に第七次が最後となり、1433年の鄭和の死後、海禁強化と海軍解体への大きな転回が始まる。
01雲南のイスラム教徒家系、宦官として燕王に仕える
1371年(洪武4年)頃、雲南省昆陽州(現昆明市晋寧区)の村に生まれた。本名は馬和(マー・ハー)、後に鄭姓を賜って鄭和(チェン・ハー)となる。家は西域系の回教徒馬氏(Ma 氏、アラビア語ムハンマド Muhammad の音訳から)で、祖先はモンゴル帝国・元代にブハラ(現ウズベキスタン)から雲南に移り住んだサイイド・アジャッル・シャムス・アッディーン(Sayyid Ajall Shams al-Din、元雲南行省平章政事、1211-1279)の末裔と『明史』鄭和伝は記す。
サイイド・アジャッルは預言者ムハンマドの末裔と称する中央アジア・ペルシア語圏のイスラム官僚で、雲南に移って以降、中国化しつつイスラム信仰を守った一族を残した。馬和の父馬哈只(マー・ハージー、「ハージー」はメッカ巡礼を済ませた者の称号、アラビア語حاجي)と祖父馬察爾もそれぞれハージーの称号を持ち、家は代々メッカ巡礼を達成した由緒ある一族だった。父哈只は1344年生まれ、39歳で没。故郷の雲南省昆陽(現・雲南省昆明市晋寧区の鄭和公園内)に現存する馬哈只墓碑(1405年、碑文は南京で鄭和自身が撰文し、昆陽に送って建立)には「父は公正で寛大であり、老若を問わず敬われた。祖父も父も、ともにメッカに詣でて来た」と記される。
洪武14年(1381年)、明の朱元璋(洪武帝)が雲南を制圧するため傅友徳・沐英らに30万の遠征軍を派遣した。当時まだ10歳だった馬和は、明軍により捕囚された。少年捕虜の多くは宮刑(去勢)を施されて宦官とされ、帝国各地の王府に配属された。馬和は南京の王宮を経て、北平(現北京)の燕王府に送られ、燕王朱棣(後の永楽帝、洪武帝の四男、当時22歳)に家僕として仕えることになった。
燕王府での少年期の詳細は史料が乏しいが、馬和は体格に優れ(『明史』は「身長九尺、腰十囲、眉目分明、耳白過面、歯如編貝、聲洪達」と記す、誇張あり)、漢籍・軍事・地理を燕王のもとで学んだと見られる。燕王朱棣は北方辺境でモンゴル対策に従事した軍事派の王で、府には多くの宦官・武官・学者が集まっていた。馬和はこの環境で、軍事指揮・航海・外交・異文化接触の複合的教養を身につけていく。
02靖難の役 ― 燕王から永楽帝へ
1398年、洪武帝崩御。皇太孫朱允炆(建文帝、当時21歳)が即位した。建文帝は即位直後、削藩策(諸王国の権限剥奪)を強行し、洪武帝の息子たちである諸王を次々に廃した。北平の燕王朱棣は粛清を恐れ、1399年7月、靖難の役(靖難の変、「君難を靖んず」の名義)を起こして反旗を翻した。これは王朝内の内戦であり、3年間にわたって華北~華中で激戦が続いた。
馬和は燕王軍の一員として、この3年間の戦役に参加した。伝えられる最大の軍功は、1399年末~1400年の北平~鄭村壩の戦い(北平南方)での奮戦である。永楽帝がのちに馬和に鄭姓(鄭村壩の地名から)と三保(サンバオ、「三宝」の意、仏教語で仏・法・僧の三宝を指すが、回教徒であっても明代宦官の敬称として広く使われた)の称号を与えたのは、この戦役での功績と伝わる。
1402年6月、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝は行方不明(焼死説と逃亡説が並立、『明史』は確定せず)となった。燕王朱棣は即位して永楽帝となった。馬和は鄭姓を賜り、三宝太監(サンバオ・タイジェン、「太監」は宦官の最高位)として、内官監事として宮中の典礼・外交・軍需を統括する立場に登った。
永楽帝即位後、明はそれまでの洪武帝の海禁政策(私貿易禁止)とは正反対の、積極的な海外進出へと舵を切った。永楽帝の動機は複数解釈される ― ①行方不明の建文帝を海外まで捜索する(『明史』が一説として記す)、②永楽帝即位の正統性を朝貢諸国に示す、③宝船を実際に運用することで大型造船と遠洋航海の技術を確立する、④北のモンゴル戦線と並行して南海経路でティムール朝・ホルムズ・オスマンに接触する地政学的包囲、⑤香辛料・宝石・珍獣(キリン=「麒麟」)の調達。いずれも単独では全体像を説明しきれず、複合的動機と見るのが通説である。
船団総司令官には、皇帝が最も信頼する宦官という条件が課されていた。宦官は外戚・武家・文官から独立した皇帝直属の存在であり、かつ遠征中に皇位簒奪の野心を抱きようがない。さらにイスラム教徒であることが、イスラム世界(インド洋・アラビア半島・東アフリカ)との接触には有利に働く。鄭和はこの条件を完璧に満たしていた。1405年、34歳。永楽3年の命により、鄭和は第一次下西洋(遠征)の総司令官に任命された。
03第1~3次南海遠征 ― ジャワからセイロン、インド西海岸
第一次下西洋(1405-1407)は、その規模だけで既に桁違いだった。宝船62隻を旗艦とする大船団、総乗組員約27800人、兵士・水夫・通訳・医師・占星家・書記・料理人・仏教/イスラム僧侶が乗り込んだ。出発地は蘇州府太倉州劉家港(リウチアガン、現江蘇省太倉市浏河鎮、長江河口近く)。鄭和はここで天妃(媽祖)に航海の無事を祈り、出航した。
第一次の行程は、福建泉州での最終補給 → 占城国(チャンパ、現ベトナム中部)→ 爪哇(ジャワ)→ 旧港宣慰司(スマトラ東岸パレンバンに置かれた明の出先機関)→ 蘇門答剌(スマトラ)→ 錫蘭山(セイロン)→ 古里(カリカット、インド西海岸ケーララ州)。往路と復路を合わせて約2年を要した。
この遠征で鄭和は、パレンバンで中国人海賊陳祖義を捕獲(現地の中国人社会から協力を得て)、南京に連行して処刑した。これは南海諸国に対する「明の法は海を超えて及ぶ」という政治的メッセージだった。カリカットでは、ザモリン王(当時のカリカットの支配者、ヒンドゥー系)と明の朝貢関係を樹立し、磁器・絹と宝石・香辛料・インド馬を交換した。
第二次下西洋(1407-1409)、第三次下西洋(1409-1411)は、第一次で築いた朝貢ネットワークの強化と拡張に当てられた。セイロンでは第三次遠征の際、鄭和は現地の支配者アラガッコナーラ王と衝突、戦闘ののち王を捕虜として南京に連行した(後に永楽帝により釈放、帰国を許された)。これは鄭和遠征のなかでも珍しい明側からの軍事行使だった。
セイロンからは、中国産磁器、絹と並んで、鄭和自身が建立した三言語石碑(1409年、現コロンボ国立博物館所蔵)が興味深い。碑は漢文、タミル語、ペルシア語の三言語で同じ内容を刻む。漢文面は仏教の如来(釈迦牟尼仏)に、タミル語面はヒンドゥー教の神ヴィシュヌに、ペルシア語面はイスラムのアッラーに、それぞれ同等の敬意を払いながら、中国からの贈り物を捧げる旨を記している。「三つの宗教の神に、それぞれの信者の言葉で、同じ誠意を伝える」というこの多言語同時並行の礼拝表現は、鄭和の外交の質を象徴する。
04第4次以降、アラビア・東アフリカ ― 海洋シルクロードの極点
第四次下西洋(1413-1415)以降、船団は従来の錫蘭までを越え、ペルシア湾のホルムズ(現イランのホルムズ海峡)、アラビア海南岸(アデン、現イエメン)、そして東アフリカ海岸までの航路に踏み出した。
第四次は鄭和にとって個人的にも重要な遠征だった。彼は1413年、故郷雲南昆陽に立ち寄り、父馬哈只の墓に参った(途中で西安の清真寺=イスラム・モスクにも詣でた、との伝承あり)。このときの通訳馬歓(マー・ファン、回教徒、杭州仁和県出身)は、第四次~第七次遠征の全旅程の記録を『』(インヤイ・ションラン、1416年~後年増補)にまとめた。これは鄭和遠征の一次史料として現存する貴重な旅行記である。
ホルムズでは、真珠、珊瑚、瑪瑙、ダイヤモンド、香辛料、ペルシア馬を交換した。ホルムズは当時ティムール朝の影響下にあり、明の船団の到達は、ユーラシア大陸の東西で明とティムールの勢力圏が海上ルートで接触した、という大きな地政学的出来事だった(永楽帝はティムールと敵対的だった)。
アラビア半島へは、第五次(1417-1419)、第六次(1421-1422)、第七次(1431-1433)で到達した。祖法児(ズファール、現オマーン)、阿丹(アデン)、天方(ティアンファン、アラビア=メッカ周辺)に寄港。第七次遠征の分遣隊は、馬歓を含むイスラム教徒の乗組員がメッカ(ジッダ経由)まで巡礼を果たしたと『瀛涯勝覧』天方国条が記す。これは中国船団によるメッカ接触の初の公式記録である。鄭和自身が最終的にメッカに達したかは史料上確定していないが(第七次航海中の1433年に没した可能性もある)、船団としてのメッカ巡礼は成立した。
東アフリカでは、第四次~第五次が木骨都束(ムガディシュ、現ソマリア)、竹歩(ジュバ、現ソマリア)、卜剌哇(ブラーヴァ、現ソマリア)、麻林(マリンディ、現ケニア)に寄港した。麻林地区(ケニア北部)からは、麒麟(キリン)が明の宮廷に進献された。永楽12年(1414年)の瑞獣献上式では、ベンガル王国経由で輸入されたキリンが「麒麟」(古代中国の瑞獣)として朝廷に披露され、永楽帝の徳治を象徴する瑞兆として画家沈度が『瑞応麒麟頌』の絵を残した(現在、台北故宮博物院に摹本現存)。儒教的瑞兆神話とアフリカのキリンが実物として出会う、という文明史的な瞬間だった。
2010年代以降、ケニア北岸ラム諸島(Lamu)、マリンディ、キルワ(タンザニア)で明代青花磁器の破片が多数発掘され、鄭和船団の実際の寄港を物質的に裏付けている。
05宝船という規模 ― 船と組織の桁違い
鄭和船団の中核を担ったのが、宝船(バオチュアン、「宝の船」)と呼ばれる大型帆船である。『明史』鄭和伝と馬歓『瀛涯勝覧』は、最大の宝船は長さ44丈4尺、幅18丈(中国尺換算で全長約127メートル、幅約52メートル、一説には全長137メートル)、九本マスト、十二枚帆、乗員500人超、と記す。ただしこの寸法には現代の木造船工学の観点からの懐疑説も根強く、長年議論が続いてきた。
同時代のポルトガルのカラヴェル船(15世紀後半のエンリケ航海王子期の船)は全長20-25メートル、コロンブスのサンタ・マリア号(1492年)は全長18-24メートルであり、史書の記すままの127メートル級が事実なら、その数倍のスケールになる。宝船を史書の寸法のまま復元することは現代の木造船工学では困難とする見積もりがあり、寸法の誇張説、あるいは「丈」の尺度の解釈違いを指摘する論もある。2005年南京竜江宝船廠遺跡(鄭和船団の造船所跡)の発掘では、長さ11.07メートルの舵柱が出土した。この舵柱のサイズだけから推定すると全長60-90メートル級の船を支えうると見られ、従来の懐疑派の最小値見積もりを塗り替えた。現在の研究の主流は「中核型は全長60-90メートル、特大型の指揮艦のみ127m級の可能性」という分層説に傾いている。いずれにせよ、同時代の他文明圏の遠洋帆船と比べれば桁違いの大型船であったことは疑えない。
船団は単なる宝船の集まりではなく、機能別の艦種で構成されていた ― 宝船(指揮艦・貴賓艦)、馬船(馬と馬具輸送)、糧船(食糧・水)、坐船(兵士輸送)、戦船(軍事艦)。各遠征で200隻前後、人員27000-28000人規模。当時の地球上で他に確認されていない規模の海上組織である。
航海技術も先進的だった。磁気羅針儀(南針、水に浮かべた磁針)、星図(牽星板で星の高度を測る原始的な六分儀)、砂漏時計、水深測鉛。『鄭和航海図』(明末の『武備志』に収録、現存、22図)は、出発地劉家港からホルムズまでの全航路を、沿岸地形、寄港地、航程日数、針路方位(24方位システム)、さらに主要な遠洋区間では牽星板で観測する恒星の高度値まで含めて詳細に描いている。ヨーロッパ側のプトレマイオス地図よりも、実際の航海に即した運用図である。
組織管理も桁違いだった。27000人の乗組員は、兵士、水夫、通訳(アラビア語、ペルシア語、ベンガル語、タミル語、マレー語)、医師、薬剤師、仏教僧、イスラム教僧、占星家、書記、料理人、大工、鍛冶、呪師、合計を数百の職種で分ける。これを28年間にわたり7回、一人の司令官が統率し続けた。現代の海軍史でも類例の少ない規模の継続運用である。
06宣徳帝死後の海禁 ― 記録の焼失と復元
1424年永楽帝崩御、息子洪熙帝が即位したが、わずか1年で崩御。孫の宣徳帝(朱瞻基)が継いだ。宣徳帝は祖父永楽帝の海洋政策をおおむね継承し、1430年第七次下西洋を鄭和に命じた。これが鄭和最後の遠征となる。1431年12月、60歳の鄭和は再び劉家港を出航、『婁東劉家港天妃宮石刻通番事蹟記』(劉家港、自ら建立した出航記録碑、以下「通番事蹟記」)と、同時期の『天妃之神靈應記』(福建長楽南山寺、以下「天妃靈應記」)を残した。二つの碑は、過去六回の遠征の成果と第七次の決意を刻む、鄭和の自筆資料としての重要性が極めて高い一次史料である。
第七次は1433年に帰国したが、その前後の時点で鄭和自身はインド西海岸の古里(カリカット)で病没した(享年62前後)。遺体は船中で死去し、海に葬られたという説と、遺体を中国に運び帰り南京牛首山に葬られたという説が並立する。牛首山の鄭和墓(衣冠墓の可能性あり、現存、南京市江寧区)は現在も祭祀の場となっている。彼の出身が回教徒であることを受け、墓にはアラビア語の「アッラー・アクバル」が刻まれ、仏教・道教と並ぶイスラムの祈りが捧げられている。
鄭和死後、明朝は急速に海禁政策に回帰した。1436年正統帝の即位とともに、新たな遠征は打ち切られた。さらに深刻なのは、鄭和船団の航海記録・造船図面・航海日誌の多くが失われたことである。成化年間(1465-1487)、兵部尚書劉大夏(項忠の後任)が、成化帝(憲宗)が鄭和遠征を再開しようとした際に、「三保下西洋、費銭糧数十万、軍民死者万計、縦得奇宝而回、於国家何益?」(三保の下西洋は金銭と人命の浪費で、珍宝を得ても国家に利益はない)として、兵部の書庫から鄭和関連文書を隠匿または焼却したと『国榷』『殊域周咨録』が伝える。
劉大夏の行為の史実性には議論があるが、実際に現在確認できる鄭和遠征の詳細史料は、馬歓『瀛涯勝覧』、費信『』、鞏珍『西洋番国志』という随行員の旅行記、そして『明史』鄭和伝と二つの碑文、『鄭和航海図』に限られる。永楽帝の宮廷が持っていたはずの詳細な航海日誌・造船台帳・寄港地報告書の大半は、現在までに出土していない。宣徳以後の明・清両朝を通じて、中国の海洋進出は15世紀前半の鄭和遠征を超える規模のものを二度と送り出さなかった。
その空白の300年ののち、ヴァスコ・ダ・ガマ(1498年カリカット到達)、マゼラン(1519-1522世界一周)、オランダ東インド会社(1602年設立)が、かつてが通った航路に別の船団を走らせることになる。15世紀の東アジアが取りえた別の歴史 ― 中国主導の海上交易圏の可能性が、鄭和の船団の記憶と共に閉じられ、ヨーロッパの航海時代が始まる。
近代以降、鄭和は中国・インドネシア・マレーシア・ケニアなど各地で再評価された。インドネシアでは三宝公(サンバオ・コン、三保太監の中国福建方言音)の名でイスラム系の守護聖人として祀られ、スマラン、ジャカルタ、ジャワ各地に三宝廟(サム・ポー・コン・ビオ)が建つ。2005年は鄭和下西洋600周年として中国・インドネシア・マレーシアで大規模な記念事業が営まれた。2010年代以降は、中国の「一帯一路」構想との関連で、鄭和の「海上シルクロード」が新たな参照点として呼び戻されている。
鄭和の仕事の核は、武力の誇示ではなく、贈与と対話の儀礼で関係を結ぶ外交だった、と彼自身の建立した二つの碑文は強調する。現代の海洋史・国際関係史の観点からは、15世紀初頭の東アジアが選びえた、武力以外の国際秩序の形として、彼の28年の仕事は読み直され続けている。
帝命を奉じて西洋を渡り、凡そ蕃邦の貢ぐ者あり、辺遠未だ化せざる者を柔遠の徳もて懐かしめ、畏威の兵もて撫す。
07主要な出来事と遺産
- 雲南省昆陽州(現昆明市晋寧区)にイスラム教徒の家の次子として生まれる、本名馬和、祖はサイイド・アジャッル・シャムス・アッディーン
- 明による雲南征服、10歳で捕囚、宮刑を受けて宦官に、後に北平の燕王府に送られ燕王朱棣に仕える
- 靖難の役、燕王軍に従って各戦役に参加、1400年鄭村壩の戦いで功、後に鄭姓と三保太監の称号を賜る
- 燕王朱棣が南京を陥落させ永楽帝として即位、鄭和は内官監事として宮廷外交の中枢に
- 第一次下西洋、宝船62隻、27800人、劉家港出航、ジャワ・スマトラ・セイロン・カリカット、パレンバン海賊陳祖義捕縛
- 第二次下西洋
- 第三次下西洋、セイロンで三言語石碑(漢文・タミル語・ペルシア語)建立、アラガッコナーラ王との衝突
- 第四次下西洋、ホルムズ・アデンまで到達、通訳馬歓が『瀛涯勝覧』を書き始める
- 麻林(マリンディ、現ケニア)から麒麟(キリン)が明の宮廷に進献、永楽帝の徳治の瑞兆として『瑞応麒麟頌』が作られる
- 第五次下西洋、東アフリカ(モガディシュ・ブラーヴァ・マリンディ)
- 第六次下西洋、アデン・メッカ方面
- 永楽帝崩御、洪熙帝即位するも翌年崩御
- 宣徳帝即位
- 宣徳帝の命により第七次下西洋が決定、鄭和60歳、劉家港と長楽南山寺に天妃宮碑を建立
- 第七次下西洋出航、最後の遠征
- 第七次遠征の帰路、古里(カリカット)で鄭和病没、享年62前後、遺体は海葬または南京牛首山へ
- 宣徳帝崩御、正統帝即位
- 新たな遠征の打ち切り、明の海禁政策への回帰
- 成化帝が鄭和遠征再開を提案、兵部尚書劉大夏が関連文書を隠匿または焼却したと伝わる
- ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット到達、ヨーロッパのインド洋進出開始
- ケニア・マリンディ・ラム諸島・キルワで明代青花磁器破片出土、鄭和船団の寄港を物質的に裏付け
- 鄭和下西洋600周年、中国・インドネシア・マレーシアで記念事業
残した思想の輪郭
- 武力ではなく贈与と対話の外交 ― 27000人、宝船200隻、28年間の七度の遠征で、略奪や植民ではなく朝貢と多言語儀礼を主務としたこと
- 三言語碑文の外交作法 ― セイロン石碑における漢文=釈迦牟尼仏、タミル語=ヴィシュヌ、ペルシア語=アッラー、三つの宗教への同等の敬意
- 回教徒宦官という複合的アイデンティティ ― 中央アジア系ムスリム家系、中国の宮廷宦官、仏教式の称号「三保」、最後のメッカ巡礼への関与、この積層が多宗派外交の質を支えた
- 宝船と運用組織の規模 ― 全長60-127mの大型帆船、200隻前後の艦隊、27000人の乗組員、機能別艦種、磁気羅針儀と牽星板による航海術。同時代世界最大の海上組織
- 海洋シルクロードの極点 ― 東シナ海~南シナ海~インド洋~ペルシア湾~アラビア海~東アフリカに至る、15世紀前半の世界最長級の海上ネットワーク
- 閉ざされた可能性 ― 宣徳帝死後の海禁、劉大夏による記録の隠匿または焼失、中国主導の海上交易圏の断絶。以後はヨーロッパの航海時代へ
- 物質的痕跡の発見 ― 南京竜江宝船廠の舵柱、ケニア沿岸の青花磁器、多言語碑文の現存が、500年後に失われた史料の空白を少しずつ埋め続けている
つながり
- 孔子
先駆 — 明の朝貢体制は儒家の「礼(li)」の制度化と不可分で、永楽帝・宣徳帝の朝貢外交ならびに鄭和の七度の下西洋も、『礼記』『儀礼』が説く天子と諸侯・蕃邦の位階的礼と「柔遠の徳」の政治倫理を海の彼方に延長する営みとして遂行された。鄭和自身が建立した劉家港・長楽南山寺の二碑は、遠征の成果を「蕃邦の貢を帝命の徳で懐かしめる」という儒家的定型で記録している。鄭和はイスラム教徒であったが、公的な外交言語は明朝の儒家的礼制であり、この二重性が多宗派接触における柔軟さの源となった
- 孫文
先駆 — 孫文は『建国方略』(1917-1919)実業計画篇で、中国の海軍建設・港湾整備・海上交易ルートの再建を論じる際、鄭和下西洋を「中国が過去に持ち、その後喪った海洋国家としての可能性」の歴史的参照点として位置づけた。同書「吾國於十四世紀之初、有鄭和七次下西洋之擧、其規模之大、實為世界航海史上空前之偉業」。辛亥革命後の中華民国が自らを近代海洋国家として再定義する際の古代的自画像として、鄭和が復権するのはこの流れの一環。20世紀後半の中国海洋史学(鄭鶴声・鄭一鈞らの鄭和研究)もこの孫文=梁啓超の再発見の系譜を受け継ぐ
生きた跡を辿るPlaces
鄭和が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 鄭和公園(牛首山)墓所
南京, 中国
伝承上の鄭和の衣冠塚がある公園。大航海者を偲ぶ南京の記念地
地図で見る →確認 2026-04-19
さらに辿るならExternal References
鄭和を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「鄭和」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Zheng He"
修正を提案する Send a correction
一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
修正フォームを開く ▸