孫文
国をひっくり返した人が、 死ぬ前の日に「まだ終わっていない」と書いた。 何が、終わっていなかったのだろう?
ハワイの学校で西洋を覚え、香港の医学校で革命家になり、40年かけて清朝を倒し中華民国を建てた国父
- 三民主義
- 辛亥革命
- 中華民国
- 国共合作
- 興中会・同盟会
外国に負け続ける古い帝国のなかで、若者たちが「国を作り直す」と言い始めた時代 — ひらく
時代の空気
19世紀後半、清は第二次アヘン戦争(1856-60)に敗れ、甲午戦争(1894-95)で日本に屈し、義和団事件(1900)では八カ国連合軍が北京を踏んだ。1905年に科挙が廃され、1911年武昌起義が清朝を倒す。中華民国成立(1912)後も袁世凱の独裁と帝政復活未遂(1915-16)、軍閥混戦、五四運動(1919)、第一次国共合作(1924-27)、北伐(1926-28)が続く。海外華僑がホノルル・横浜・倫敦・河内・新嘉坡に広がり、犬養毅・宮崎滔天・梅屋庄吉ら日本の支援者と1923年ヨッフェ宣言以後のソ連が、革命の資金と思想を支えた。
01北京、1925年3月11日
1925年3月11日、北京。鉄獅子胡同(てつししこどう)の行邸(あんてい、仮の住まい)に、一人の男が病に伏していた。孫文(そんぶん)。中華民国を建てた人である。医師団は、肝臓のがんと診断していた。
そばには妻のがいた。三通の遺言書が用意されていた。家族あて、党あて、ソビエト政府あて。孫文は妻に支えられ、そこに署名した。
党あての遺言は、こう始まっていた。
革命はいまだ成功せず、同志は須らく努力せよ
原文は「、同志仍須努力」。この八字は、のちに党の合言葉になる。だが、考えてみてほしい。孫文は清(しん)という帝国を倒した人だ。中華民国の初代の大総統(だいそうとう)にもなった。前の年には、40年待ち続けた自前の軍隊も持ち始めていた。それなのに、なぜ「まだ成功していない」と書いたのか。
翌12日の午前9時半、孫文は息を引き取った。答えは、彼の歩みの中にある。時は59年前、1866年。南の小さな村に戻る。
02翠亨村の少年、海をわたる
1866年11月12日、孫文は広東省(かんとんしょう)香山県の翠亨村(すいきょうそん)に生まれた。香港に近い、貧しい農家だった。父は孫達成、母は楊氏。兄の孫眉(そんび)は1871年にハワイへ渡り、牧場で成功していた。
村には戦争の記憶が残っていた。アヘン戦争(1840-42)とアロー戦争(1856-60)で、清はイギリスやフランスに負けていた。すぐ隣の広西・広東では、太平天国の乱(1850-64)が起きていた。客家(ハッカ)と呼ばれる農民たちが、清に反旗をひるがえした大きな反乱である。少年は村の年寄りから、その英雄たちの話を聞いて育った。指導者の洪秀全(こうしゅうぜん)にあこがれた、と後に語っている。
1879年、12歳で兄のいるハワイのホノルルへ渡った。入ったのはイオラニ・スクール。イギリス国教会系の英語学校で、ハワイ王家の子も学んだ学校だ。4年で英語とキリスト教と西洋の学問を吸収し、首席で卒業した。次のオアフ・カレッジ(後のプナホウ・スクール)にも進んだ。
だが兄は心配した。弟が、キリスト教にのめり込んでいく。兄は弟を中国へ送り返した。1883年、孫文は香港に戻る。西洋を知ってしまった少年は、もう村の少年ではなかった。
03医者になり、医者をやめる
香港では中央書院(後のクイーンズ・カレッジ)で学んだ。1884年、キリスト教の洗礼を受けた。会衆派という教派で、牧師はアメリカ人宣教師のシャルル・ハガーだった。洗礼名は「逸仙(いっせん)」。英語で書けば Yat-sen。孫逸仙(Sun Yat-sen)という名は、ここから来ている。家の信仰、村の信仰から離れることを、自分で決めた瞬間だった。
1887年、広州のキリスト教系の医学校に入った。翌1888年、新しくできた香港西医書院(せいいしょいん)に第一期生として移る。後の香港大学医学部のもとになった学校だ。院長はジェームズ・キャントリー。スコットランド出身の医師で、この人の名前は、あとでもう一度出てくる。
1892年、孫文は首席で卒業し、医師の資格を得た。マカオと広州で、短いあいだ病院を開いた。医者としての人生は、ここから始まるはずだった。しかし彼は、その道を選ばなかった。
人の体を治す道ではなく、国を変える道を選んだのだ。1894年、孫文はもう一度ハワイへ渡る。今度は学ぶためではなく、仲間を集めるためだった。
04興中会、そしてロンドンの12日間
1894年11月24日、ホノルル。孫文は(こうちゅうかい)を結成した。「中国を興(おこ)す会」という意味だ。集まった同志は24人。宣言文には「駆除韃虜、恢復中華、創立合衆政府」と書かれた。満洲人の王朝を追い出し、中国を取り戻し、合衆国のような政府をつくる。目標は清を倒すことと、共和制をつくることの二つだった。手本はアメリカだった。
1895年、広州で最初の武装蜂起(ほうき)を計画した。だが計画は事前にもれ、失敗した。同志の陸皓東(りくこうとう)ら数名が処刑された。孫文は日本、ハワイを経由して、ロンドンへ逃れた。
1896年10月、ロンドン。孫文は清の公使館に連れ込まれ、閉じ込められた。ここで動いたのが、香港の恩師キャントリー医師だった。彼はイギリス政府と新聞に働きかけた。12日後、孫文は救い出された。(もうなんじけん)と呼ばれるこの出来事は、イギリスの新聞で大きく報じられた。孫文の名前は、初めて世界に知られた。
ロンドンにとどまった数か月、孫文は大英博物館の図書室に通った。マルクス、ミル、ダーウィンを読んだ。なかでも後に大きな意味を持ったのが、の『進歩と貧困』(1879)だった。土地にだけ税をかける、という考え方の本である。革命家が図書室で仕込んだこの種は、およそ30年後の講演で芽を出す。
05東京の同盟会と、十回の敗北
1897年から1911年まで、孫文の本拠地は日本だった。横浜と東京を足場に、世界中の仲間をつないだ。東南アジアの華僑(かきょう)、アメリカの華僑。華僑とは、海外に住む中国人のことだ。そして日本人の支援者たち。(みやざきとうてん)、頭山満(とうやまみつる)。実業家の梅屋庄吉も、資金で支えた。
1905年8月20日、東京・赤坂の内田良平の家で、(同盟会)が生まれた。興中会に、(こうこう)と(そうきょうじん)の華興会、章炳麟らの光復会が合流した。綱領は十六字。「駆除韃虜、恢復中華、創立民国、平均地権」。前の三つに「平均地権」、つまり土地の権利をならすことが加わった。民族・民権・民生。のちにと呼ばれる考えの骨組みが、ここでそろった。
1907年から1911年にかけて、同盟会は華南で10回以上の武装蜂起を試みた。鎮南関(ちんなんかん)、河口(かこう)、広州。ほとんどすべてが失敗し、多くの同志が処刑された。1911年4月の広州黄花岡(こうかこう)蜂起では、黄興が率いた精鋭72人が市中で死んだ。七十二烈士と呼ばれる。孫文は華僑に募金を求めて渡航を続け、そのたびに仲間の死を知らせる手紙の差出人になった。
それでも、蜂起が続くたびに、清の威信は削られていった。1911年10月10日、湖北省の武昌(ぶしょう)で、新軍の兵士たちが立ち上がった。武昌起義(きぎ)である。そのとき孫文はどこにいたか。アメリカのコロラド州デンバーにいた。彼は新聞で、自分の革命が始まったことを知った。
06三か月の大総統
武昌の蜂起から2か月で、14の省が清からの独立を宣言した。(しんがいかくめい)である。孫文は欧米と東南アジアを回り、12月25日に上海へ着いた。12月29日、17省の代表会議は彼をに選んだ。1912年1月1日、南京で就任を宣言した。中華民国の誕生である。2月12日、清の最後の皇帝溥儀(ふぎ)が退位した。268年続いた清の支配は、ここで終わった。
しかし、孫文が大総統だったのは、わずか3か月だった。北には(えんせいがい)がいた。清の内閣総理大臣で、北洋軍という大きな軍隊を率いてきた男だ。清の皇帝を平和に退位させるには、彼の力が要る。孫文は袁を味方につけるため、大総統の職を譲ることに同意した。2月15日、参議院は袁世凱を臨時大総統に選び、3月10日、袁は北京で就任した。首都も北京に移った。
同じ年の8月、同盟会など五つの党が合流してができた。組織をまとめたのは宋教仁だった。議会で政治を動かす仕組みを、彼が設計していた。だが袁世凱は、すぐに独裁へ向かった。1913年、宋教仁は上海駅で暗殺された。同盟会以来の戦友だった。知らせは、日本で遊説中の孫文に届いた。彼は急いで帰国し、袁を討てと呼びかけた。しかし軍隊を持たない革命家の声は、軍閥の前では空回りした。
1913年の第二革命は失敗した。袁世凱は1915年、自ら皇帝になると宣言する(翌1916年、反発の中で死去)。袁の裏切りは、孫文の読み違いだった。だが同時に、軍隊を持たない者は権力を保てない、という避けがたい結果でもあった。清は倒した。共和国もつくった。なのに、その共和国は他人の手に渡っていた。彼が失ったものは、いったい何だったのか。
07亡命、結婚、そしてソ連へ
孫文は再び日本へ亡命した。1914年、東京で中華革命党を結成する(1919年に中国国民党と改称)。大隈重信の内閣のころである。犬養毅・・梅屋庄吉らが、資金と連絡と隠れ家を用意した。
1915年10月25日、孫文は東京で宋慶齢と結婚した。宋慶齢は上海生まれ、22歳。孫文の英文秘書で、宋家三姉妹の二女だった。孫文は48歳。前の妻・盧慕貞(ろぼてい)との離婚の手続きも、教会での式も欠けていた。周囲と保守的な華僑社会は動揺した。それでも慶齢は、以後の政治活動から臨終の場まで、孫文のそばにいた。1917年、広東で護法運動の軍政府を立てた。漂う10年が続いた。
1919年の五四運動のあと、中国の若者のあいだにマルクス主義とレーニン主義が広まった。1921年、上海で中国共産党が生まれた。孫文は初め、共産党を警戒していた。だが国民党は組織が弱く、何より軍隊がなかった。彼はソ連の支援を求める道、連ソ路線へ傾いていく。
1923年1月、上海。孫文はソ連代表アドルフ・ヨッフェと共同声明を出した(孫文・ヨッフェ宣言)。ソ連の支援は受ける。だがソ連式の共産制は、中国に持ち込まない。この二つを確認した宣言だった。1924年1月、広州で国民党の第一回全国代表大会が開かれた。ソ連と手を組み、共産党員を受け入れ、労働者と農民を助ける。「連ソ・容共(ようきょう)・扶助工農」の方針が決まり、が成立した。毛沢東・周恩来・李大釗ら共産党員が、個人の資格で国民党に加わった。
同じ1924年、広州の郊外に黄埔(こうほ)軍官学校ができた。校長は蒋介石(しょうかいせき)。ソ連の軍事顧問ミハイル・ボロジンの指導で、近代的な革命軍づくりが始まった。40年かけて、孫文はようやく自分の軍隊を持ち始めた。この年、彼は広州で三民主義の連続講演も行っている。16回の講演は、自分の考えを一冊にまとめる、最後の仕事になった。
08三民主義──折衷の政治哲学
孫文の政治綱領三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)は、1905年同盟会結成時に原型が定式化され、1924年広州高等師範学校での連続講演(16回、講演録『三民主義』1925年刊)で体系化された。内容は折衷的で、一貫した理論書というよりも、実践的な政策パッケージに近い。
民族主義は、狭義には清朝=満洲族支配からの漢族解放を意味したが、辛亥革命後は「五族共和」(漢・満・蒙・回・蔵の共存)、さらに反帝国主義(列強からの民族独立)へと外延を広げた。単一の民族主義理論ではなく、状況に応じて主体を組み替える柔軟な定式だった。
民権主義は共和制・議会制・選挙を基盤とする。孫文独自の工夫は五権憲法論──モンテスキューの、すなわち三権(立法・行政・司法)に、中国伝統の考試権(官吏登用試験)と監察権(官吏弾劾)を加えた五権分立──である。中国の科挙・御史台の伝統を近代共和制の枠組みに翻訳した試みだった。ただし在世中に五権憲法は実装されず、1947年の中華民国憲法(台湾で現在まで運用)でようやく形式化される。
民生主義は最も独自性の強い部分で、平均地権(土地単一税・地価増収の国家吸収、ヘンリー・ジョージ由来)と節制資本(独占資本の国家管理)の二本柱から成る。マルクス主義と古典的自由経済の両方から距離を取り、「社会主義と資本主義の中間」を意図した折衷の経済哲学だった。この折衷性は、晩年の国共合作で共産党と資本家の双方を統一戦線に引き込む政治的余地として機能した。
天下を以て公と為す(天下為公)
思想的源流は多岐にわたる──(1)儒教、特に『礼記』礼運篇の「大同」思想と「天下為公」の語(孫文の座右の銘)、(2)キリスト教社会福音の平等・兄弟愛、(3)アメリカ合衆国憲法の共和制、(4)ヘンリー・ジョージの土地論、(5)後期にはマルクス・レーニンの階級論。これらを純粋な理論的整合性ではなく、実践的合成として束ねた。孫文は哲学者ではなく政治設計者だったが、その折衷性が20世紀中国の多層的な政治的現実に対応する柔軟さを生んだ。
その柔軟さを、彼は最後まで使い切れたのだろうか。1924年の末、孫文は講演の街・広州を離れ、北へ向かう。
09北京、再び──「いまだ成功せず」
1924年末、孫文は北京へ向かった。北京の軍閥、段祺瑞(だんきずい)との交渉のためである。国民会議を開き、国を一つにまとめる構想だった。1925年1月、北京に着いてまもなく、肝臓のがんと診断された。北京協和病院の、アメリカ帰りの医師団が開腹して確認した。
ここで、冒頭の場面に戻る。3月11日、遺言書三通への署名。翌12日午前9時半の死。彼はなぜ「革命はいまだ成功せず」と書いたのか。もう、読者には見えているはずだ。清は倒れた。けれど共和国は袁世凱に渡り、宋教仁は殺され、そのあとは軍閥が国を切り分けた。ようやく手に入れかけた軍隊は、生まれたばかりだった。北京での統一の交渉は、途中だった。彼が倒したのは帝国であって、建てるはずの国は、まだ形になっていなかった。
国民党あての遺言の冒頭「革命尚未成功、同志仍須努力」は、以後、国民党の永続的な標語となった。
3月19日、遺体は北京の碧雲寺(へきうんじ)に安置された。1929年6月1日、国民政府は南京・紫金山(しきんざん)の(ちゅうざんりょう)に改葬した。中山は孫文の号(ごう、別の呼び名)である。設計は国民党の建築家、呂彦直(りょげんちょく)。明の皇帝の陵墓の伝統と、ギリシア神殿の円柱を組み合わせた、近代中国の霊廟建築の最高作とされる。392段の石段、青と白の二色(青天白日の旗の色)、山腹を覆う広い敷地。それは、孫文がどれほど大きな象徴になったかを、目で見せる建築だった。
死後の遺産の二分化は急速だった。孫文の死後、国共合作は急速に緊張し、1927年4月の上海クーデター(蒋介石による共産党員大量殺戮)で破綻した。国民党と共産党の20年以上の内戦と、そこからの1949年中華人民共和国の成立を、孫文は生前には見なかった。しかし両者とも、互いに敵対しながら「孫文の後継者」を名乗り続けた。中華民国(台湾)では1930年代以降、蒋介石が三民主義を国家教義として整え、孫文を「国父」として神格化した。現在も台湾の公的儀礼・学校教育で中心的な位置を占める。中華人民共和国では毛沢東が孫文を「革命の先駆者」として継承した。天安門広場には毎年10月1日の国慶節に肖像が掲げられ、辛亥革命記念碑、中山市・中山路など全国に地名・機関名として残る。1949年以降の東西冷戦下でも、孫文は両岸の政治的連続性を担保する稀有な共通の祖先として機能した。両岸の正統性が同じ祖を共有する稀有な構図は、彼の折衷性と象徴的汎用性の結果でもあった。
思想的評価も両義的である。賛美する側は──(1)40年にわたる失敗の連続の後にようやく清朝打倒を達成した粘り強さ、(2)三民主義の折衷性が中国の多層的現実に柔軟に対応した適応力、(3)国共合作という20世紀最大の統一戦線の実装、(4)中山服・中山陵・中山路という象徴的景観の創出。批判する側は──(1)武装基盤を欠いたまま権力を袁世凱に譲位した戦略的脆弱さ、(2)三民主義の理論的統一性の欠如と実装の遅滞、(3)ソ連支援受け入れにおける主権的従属性、(4)宋慶齢との再婚(1915年、最初の妻盧慕貞との離婚手続きの不明朗さ)など私生活の矛盾。
孫文の生涯は、失敗した回数が成功した革命家より多い人の記録である。1895年から1911年まで10回以上の武装蜂起で敗れ、1912年の大総統在任は3ヶ月、1913年の第二革命も失敗、軍閥割拠期に何度も亡命し、最後に国共合作を組んで4年後に統一を見ずに死んだ。しかし清朝打倒という巨大な一つの果実を残し、三民主義という折衷的な政治哲学を残した。粘り強さそのものが、彼の最大の思想的遺産だった。
遺言の八字は、今も台湾と大陸の両方で読まれている。読む人ごとに、「まだ成功していない」の中身はちがう。では、あなたがこの八字を読むとき──何が、まだ成功していないのだろうか。
10主要な出来事と著作
- 広東省香山県翠亨村に貧農の次男として誕生
- ハワイのイオラニ・スクールに入学、西洋近代教育を受ける
- 香港でキリスト教の洗礼(会衆派)、西医書院入学
- 香港西医書院を首席で卒業、医師資格を取得するも医師の道を選ばず
- ホノルルで興中会を結成、清朝打倒と合衆政府創立を綱領に
- ロンドン蒙難事件、キャントリー医師の救援で生還、国際的に知られる
- 東京で中国革命同盟会結成、三民主義の原型を十六字綱領に
- 武昌蜂起で辛亥革命勃発、米国から帰国
- 中華民国臨時大総統に就任、3ヶ月で袁世凱に譲位
- 日本で中華革命党(1919年国民党に改称)結成
- 孫文・ヨッフェ宣言、連ソ路線へ
- 国民党第一回全国代表大会で連ソ・容共・扶助工農、第一次国共合作、黄埔軍官学校設立
- 3月12日北京で肝癌により59歳で死去、遺言『革命尚未成功』
- 南京・紫金山の中山陵に改葬
残した思想の輪郭
- 三民主義 ─ 民族・民権・民生の折衷的政治綱領、儒教大同思想とヘンリー・ジョージと憲政民主主義の統合
- 五権憲法 ─ 三権分立に考試権と監察権を加えた中国伝統からの創案、1947年中華民国憲法で実装
- 平均地権 ─ 土地単一税による地価増収の国家吸収、後の台湾土地改革(1949-53)の理論的源流
- 駆除韃虜から五族共和へ ─ 排満革命の初期綱領から、辛亥後の多民族共存への転換
- 連ソ・容共・扶助工農 ─ 1924年の新三民主義、第一次国共合作の方針
- 興中会・同盟会の国際的組織化 ─ 華僑・日本人支援者・東南アジア留学生を結ぶ革命ネットワーク
- ロンドン蒙難事件 ─ 国際的知名度の始点、西洋メディアとの最初の接点
- 10回以上の武装蜂起の失敗と辛亥の成功 ─ 粘り強さそのものが政治的資質となる稀な事例
- 袁世凱への譲位という妥協 ─ 武装基盤を欠いたまま共和制を維持する構造的困難
- 二つの中国の共通の祖先 ─ 国民党と共産党の双方が「孫文の後継者」を名乗り続ける象徴的汎用性
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入門三民主義
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孫文が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
孫文を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「孫文」項
WikipediaWikipedia 日本語版「三民主義」項
孫文が唱えた民族・民権・民生の三原則
WikipediaEnglishWikipedia English — "Sun Yat-sen"