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項
実践の知

項羽(項籍)

Xiang Yu·BC232–BC202·古代中国·

助かる舟が目の前にあるのに、 なぜ乗らなかったのか?

楚の覇王として秦を打ち倒しながら、漢王劉邦に敗れて烏江に自刎した、『史記』最大の悲劇的敗者

  • 楚漢戦争
  • 覇王
  • 垓下の戦い
  • 四面楚歌
  • 鴻門の会
秦がたおれ、次の天下をだれが取るのか、国じゅうが戦場になった時代 — ひらく

時代の空気

秦末、始皇帝の死(BC210)から十年で天下が再び沸騰した時代だった。BC209年陳勝呉広の蜂起に応じ、楚国旧名族が各地で立ち上がる。BC207年、項羽は巨鹿で秦軍主力三十万を破って秦帝国の野戦軍を消滅させ、咸陽に入って阿房宮を焼き、始皇帝陵を盗掘した。鴻門の会で劉邦を見逃したまま西楚覇王と号して諸侯十八王を分封したが、東進する劉邦と四年の楚漢戦争を戦い、垓下で四面楚歌に囲まれ、烏江に自刎した。

01烏江の渡し場で

BC202年の冬。長江のほとり、烏江うこうの渡し場に、一人の男がたどり着いた。名は項羽こうう。四年前、彼は天下を思いのままに分けていた人物である。いま従う兵は、わずか二十八騎。追ってくる漢の軍は数千。

渡し場には、舟が一そう用意されていた。土地の役人である烏江の亭長ていちょうが、項羽を待っていたのだ。亭長は言った。「江東は狭いが地千里・民数十万、王たるに足る、急ぎ渡りたまえ」。川の向こうの江東こうとうは、項羽が兵を挙げた故郷である。舟に乗れば、命は助かる。もう一度、王になれるかもしれない。

項羽は笑った。そして、舟に乗らなかった。

彼はそのあと、何と答えたのか。なぜ、目の前の舟を捨てたのか。答えを知るには、この男が歩いてきた道を見なければならない。時は八年前、秦の始皇帝がまだ生きていた頃に戻る。

02「あれに取って代わってやる」

BC210年、かつて楚(そ)の国だった土地の南、会稽かいけいの海辺。秦の始皇帝が、国じゅうを見て回る旅の途中でここを通った。きらびやかな車の列が、目の前を通り過ぎていく。それを見ていた二十二歳の若者が、思わずつぶやいた。「彼取りて代わるべきなり」。あれに取って代わってやる、という意味である。

そばにいた叔父の(こうりょう)は、あわてて若者の口をふさいだ。聞かれれば一族みな殺しになる言葉だった。だが『』は、叔父の目に光るものが宿っていたと伝える。若者の名は項籍こうせき、字あざなは羽。のちに項羽と呼ばれる男である。

項羽はBC232年、楚の下相かそう(現在の江蘇省宿遷市)に生まれた。祖父は楚の名将項燕こうえん。秦の王翦おうせんと戦い、蘄き(現在の安徽省宿州市)の地で敗れた将軍である。項氏は代々、楚の将軍の家柄だった。父を早くに亡くした項羽は、叔父の項梁に育てられた。楚は秦にほろぼされたばかりで、項羽の少年時代はその影のなかにあった。

『史記』項羽は、彼の体をこう記す。「身長八尺余、力能く鼎を扛ぐ、才気人に過ぐ」。秦や漢の時代の一尺は約23センチ、八尺は約184センチ。当時としては頭ひとつ抜けた大男だった。三度の鼎(さんどのかなえ)、つまり青銅の重い祭器を三つ持ち上げる怪力と、人並み外れた気迫。項羽は最初から、体の力で時代を押し返そうとする少年だった。

若い項羽は、字を習っても続かず、剣も途中で投げ出した。「書は姓名を記すに足るのみ。剣は一人の敵のみ。万人の敵を学ばん」。字は名前が書ければ十分、剣は一人しか倒せない、一万人を相手にする術を学びたい。そう言って兵法を志した(『史記』項羽本紀)。項梁は兵法を教えたが、項羽はだいたいを知ると、それ以上深く学ぼうとしなかった。

この一節は、のちの彼の戦い方を先取りしている。一人で千人をなぎ倒す力。しかし、戦う前に勝ち負けを計算する術(『孫子』のいう廟算)は、あえて避けた。「万人の敵」を求めながら、兵法の体系には最後まで向き合わなかった。

項羽がまだ少年の頃、項梁は人を殺す罪を犯した。叔父は項羽を連れ、会稽郡の呉中ごちゅう(現在の江蘇省蘇州市付近)に身をひそめた。叔父はそこで土地の有力者の葬式や労役を取りしきり、人望を集めた。ひそかに客人や若者たちを、兵法で組織していたと『史記』は記す。項羽はその叔父の姿を、戦う前に人をまとめる方法として、黙って見ていた。

行列を見送ったその年のうちに、始皇帝は死んだ。天下は、十年ももたずに再び沸き立つ。

03叔父と甥、八千人を率いて

BC209年7月、が起きた。大澤郷だいたくきょうで農民たちが秦に反旗をひるがえし、火は各地に広がった。9月、項梁と項羽は会稽の太守(郡の長官)殷通いんつうを斬り、兵を挙げた。集まった楚の遺民は八千人。二人はこの八千を率いて北へ向かった(『史記』項羽本紀)。

項梁は、楚の王族の血を引く少年を民間から探し出した。かつての楚王、懐王かいおうの孫で、名を心(しん)という。項梁は彼を楚王に立てた。のちに義帝ぎていと呼ばれる人物である。秦を倒す戦いに、楚の正しい旗を持つためだった。項羽は項荘こうそうら一族を率い、叔父とともに中原ちゅうげんへ向かった。二十三歳だった。

BC208年9月、項梁が定陶ていとうの戦いで秦の将軍章邯しょうかんに敗れ、戦死した。育ての親であり、人をまとめる術を見せてくれた叔父の死である。楚軍の指揮は、楚王が任命した上将軍の宋義そうぎと、次将の項羽に引きつがれた。

だが宋義は、安陽あんように46日間も留まって動かなかった。秦の主力はそのころ、北の趙ちょうの国を攻めていた。項羽は早朝、宋義の幕舎に踏みこんで「秦が趙を破れば次は楚だ」と詰め寄った。そして宋義を、独断で斬った。首を将軍たちに示して告げる。「宋義は斉と謀って楚に背いた、王の密命で誅した」。楚王が任命した上将軍を殺すという極端な手で、項羽は全軍を手中にした。後の世が、項羽の決断力と紙一重の危うさを読む、最初の場面である。

軍を握った項羽の前には、秦の主力三十万が待っていた。

04釜を割り、舟を沈める

BC207年12月、秦軍は鉅鹿きょろく(現在の河北省平郷県付近)で趙を囲んでいた。項羽は全軍を率いて北へ進み、章邯と王離おうりの秦軍三十万と向かい合った。ここで項羽が選んだのが、後の世に伝わる(はふちんしゅう)という戦い方である。

『史記』項羽本紀はこう記す。川を渡ると、項羽は飯を炊く釜を割り、舟を沈め、小屋を焼いた。兵には三日分の食べ物だけを持たせた。帰り道はない。勝つしかない。そういう形で、兵の戦う気持ちを限界まで研ぎすました。楚軍は九回戦って秦軍を大いに破り、王離を捕らえた。章邯も数か月にらみ合ったのち、降伏した。

このとき、趙を助けに来ていた諸侯の軍はおよそ四十万。彼らはとりでの壁の上から見ているだけだった。戦いのあと項羽が諸侯の将軍たちに会うと、「みな膝行して前に進み、敢えて仰ぎ見る者なし」(項羽本紀)。みな膝でにじり寄り、顔を上げる者はいなかった。鉅鹿の戦いで、項羽は秦の野戦軍をほぼ消し去った。事実上、力で天下を取る資格を手にしたのである。二十五歳だった。

しかし勝利の直後、項羽は降伏した秦兵およそ二十万を生き埋めにしたとされる。場所は新安しんあんの城の南(現在の河南省澠池県付近)、一夜のうちの出来事だった。新安の坑殺(こうさつ)である。兵の動揺を抑えるためだったと『史記』は記す。だがこれで、秦の本拠地である関中かんちゅうの人々の心は、項羽から離れた。のちに劉邦りゅうほうが関中で人気を集める、その伏線となる出来事である。司馬遷しばせんは数字を淡々と記し、論評を加えていない。

天才的な武将としての絶頂は、ここから三年しか続かない。そして項羽より先に、別の男が秦の都に入っていた。

05鴻門の会 ― 殺せなかった一夜

BC206年、秦王子嬰しえいは劉邦に降り、秦は滅んだ。劉邦は楚の陣営では、項羽より格下の将軍だった。先に関中に入った彼は、都の咸陽かんようの財宝にも宮殿にも手をつけなかった。そして秦の民に(やくほうさんしょう)を約束した。人を殺した者は死、傷つけ盗んだ者は罪に問う、そのほかの秦の法は廃す。たった三つの約束で、劉邦は民の心をつかんだ。

項羽は遅れて函谷関かんこくかんに着き、関を破って関中に入った。楚軍40万を鴻門こうもん(現在の陝西省臨潼区)に、劉邦の10万は覇上はじょうに置き、両軍は向かい合った。項羽の軍師は(はんぞう)という老人だった。項羽から亜父あふ(父に次ぐ人)と呼ばれるほど信頼されていた。范増は項羽に説いた。劉邦を、今殺すべきだと。劉邦を殺す大義名分は立たなかったが、范増は劉邦に天子の気があると見ぬいていた。

宴が開かれた。これが(こうもんのかい)である(BC206年冬)。范増は宴のあいだ、腰につけた玉玦ぎょっけつという飾りを三度も高くかかげた。「殺せ」の合図である。項羽は動かなかった。しびれを切らした范増は項荘を呼び、剣の舞を見せる口実で、劉邦を斬らせようとした。項荘が立つと、項伯こうはくもまた立って舞った。項羽の叔父だが、劉邦の参謀張良ちょうりょうと古いつきあいがあった人物である。項伯は自分の体で劉邦をかばい続けた。「項荘剣を舞わす、意は沛公にあり」。後の世に、この場面はそう言い習わされた。

劉邦は張良と武将樊噲はんかいの機転で、便所に立つふりをして陣を抜け出した。脇道を駆け、覇上へ戻った。項羽は追わなかった。范増は、劉邦側から贈られた玉斗(ぎょくと)という玉の器を剣で叩き割って言った。「豎子(ほんの小僧)、共に謀るに足らず」。そして「項王の天下を奪う者は必ず沛公ならん」と嘆いた(項羽本紀)。項王から天下を奪うのは、きっと沛公はいこう(劉邦)だ、と。鴻門の会は、項羽が劉邦を殺さなかった一夜として、二千二百年のあいだ語りつがれることになる。

殺す力は、あり余るほどあった。なぜ手を下さなかったのか。その答えは、次の一年で少しずつ形になっていく。

06覇王の分け前

項羽はそのあと咸陽に入った。宮殿を焼き、降伏していた子嬰を殺し、秦の財宝と女たちを楚へ持ち帰った。炎は三か月燃え続けたと伝わる。その火は(あぼうきゅう)にも及んだとされる。ただし近年の発掘では、阿房宮前殿の大規模な焼け跡は見つかっていない。そもそも未完成だったという説が有力である。驪山りざんの始皇帝陵(しこうていりょう)も、項羽軍に掘り荒らされたとされる。関中の長老たちは嘆いた。「沛公は宮室を秋毫も犯さず、項王は焚焼す」。沛公は宮殿を毛筋ほども傷つけなかったのに、項王は焼き払った、と。

BC206年2月、項羽は関中を捨て、彭城ほうじょう(現在の江蘇省徐州市)に都を置いた。自ら西楚覇王せいそはおうと名のり、手柄と血筋に応じて功臣を十八王に分封した。分封とは、土地を分け与えて王にすることである。劉邦には、山奥の巴蜀はしょく・漢中かんちゅうが与えられた。漢王という名で、遠くへ追いやられたのだ。

項羽は皇帝の称号を選ばなかった。国じゅうを役人が治める秦の郡県制をやめたのだ。王たちが土地を分け持つ、戦国時代の形に巻き戻したのである。だが、秦の仕組みを一度知った中国にとって、この統治観はすでに時代遅れだった。

同年4月、項羽は名ばかりで敬ってきたを、江南の郴ちんへ流した。そして英布えいふらにひそかに命じ、川の上で殺させた。義帝の死は、共に秦を倒した諸侯と楚の人々の心を、項羽から引き離す転機となった。劉邦は義帝の死を悼んで喪に服したと宣言する。それは東へ攻めのぼる、立派な大義名分になった。

戦いはここから四年続く。項羽はそのほとんどに勝ち、それでも人を失っていく。

07戦には勝ち、人は離れる

BC206年8月、劉邦は漢中から陳倉ちんそうを越えて関中に打って出た。章邯ら三人の秦王を破り、関中を奪う。同じ年、田栄でんえいが斉せいで反乱を起こし、項羽を北に釘づけにした。(そかんせんそう)の本格的な始まりである。

BC205年4月、劉邦は諸侯の兵五十六万を集め、項羽の都、彭城を落とした。北の斉で田栄を討っていた項羽は急報を受け、自ら三万の精鋭騎兵を率いて南へ駆けた。彭城の近くで漢の連合軍を急襲し、一日で壊滅させる。劉邦は数十万の兵を失い、自分は数十騎で逃げた。父の太公たいこうと妻の(りょこう)は捕虜にされた。三万で五十六万を破った(ほうじょうのたたかい)は、項羽の戦の天才を示す一戦である。同時に、劉邦本人を取り逃がした一日でもあった。

それから三年、項羽と劉邦は滎陽けいよう・成皋せいこう(現在の河南省滎陽市)をはさんでにらみ合った。戦えば、おおむね項羽が勝った。あるとき項羽は太公を高いまな板の上に載せ、釜ゆでにするぞと劉邦を脅した。劉邦は返した。「我が父は若の父でもある。煮るならその一杯を分けよ」。項羽は殺せなかった。戦場では強い。だが決定的な一手が下せない。その二つが、項羽のなかで何度でも重なった。

勝ち続けながら、項羽の陣営からは人が離れていった。BC204年、范増は劉邦側の陳平ちんぺいが仕組んだ、仲を裂く策にかかった。項羽に疑われた范増は職を辞し、帰る途中、背中のできものが悪化して死んだ。項羽はただ一人の知恵ある将を失った。(かんしん)はもともと項羽のもとで、郎中ろうちゅうという低い役についていた。だが重く用いられず、劉邦のもとへ去った。九江王の英布も寝返った。項羽は戦場では無敵だったが、人の心をまとめる術を持たなかった。

劉邦は逆だった。関中に蕭何しょうかを残し、兵と食糧を切れ目なく送らせた。韓信に北の戦線を任せ、魏・代・趙・燕・斉を順に平らげさせた。張良をつねにそばに置き、戦略を決めた。劉邦自身は負け続けだったが、この三人を生かす枠組みを崩さなかった。項羽が一人で戦う一方、劉邦は人の網の目で戦った。

BC203年9月、両軍は(こうこうのわやく)を結んだ。鴻溝こうこうという運河を境に、天下を東西に分ける。西を漢、東を楚とする約束である。項羽は捕虜にしていた太公と呂后を返し、東へ引き上げようとした。しかし劉邦は、張良と陳平の進言で約束を破った。東へ向かう楚軍の背中を、漢軍が追う。

08四方から、故郷の歌

BC202年12月、楚軍は垓下がいか(現在の安徽省霊璧県)で囲まれた。(がいかのたたかい)である。劉邦・韓信・彭越ほうえつの連合軍はおよそ三十万。楚軍は十万。指揮をとる韓信は、地形と陣形を計算しつくしていた。項羽は生まれて初めて、戦場で組みしかれる経験をした。食糧は尽き、兵の心は崩れかけていた。

その夜、四方の漢軍の陣から、楚の歌が聞こえてきた。降伏した楚の人々に歌わせる、心を折るための作戦である。項羽は驚いて言った。「漢皆すでに楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」(項羽本紀)。漢はもう楚をすっかり手に入れたのか、なぜこんなに楚の人間が多いのか。四方から故郷の歌が聞こえる。四面楚歌しめんそか。この四字熟語は、項羽のこの一夜から生まれた。

項羽は起き上がり、陣幕のなかで酒を飲んだ。愛する女性、(ぐびじん)と、愛馬の騅すいが前にいる。項羽は涙を流しながら歌った。(がいかのうた)である。

力は山を抜き気は世を蓋う。時利あらず騅逝かず。騅の逝かざるを奈何すべき。虞や虞や若を奈何せん

— BC202年冬、垓下の陣中で虞美人と愛馬騅を前に涙ながらに歌った「垓下の歌」(『史記』項羽本紀)

力は山を引き抜くほど、気迫は世をおおうほどだった。だが時は味方せず、騅も進まない。騅が進まないのを、どうすればいい。虞よ、虞よ、お前をどうすればいい。この歌が、項羽と虞美人の別れの宴となった。虞美人は歌を返し、自ら命を絶ったと後の世の物語は伝える。ただし返し歌の「漢兵已に地を略し、四方楚歌の声。大王意気尽く、賤妾何ぞ生を聊(やす)んぜん」には、後の時代の作という説がある。虞美人の自害も『楚漢春秋』系統の伝承で、正史『史記』項羽本紀には書かれていない。

項羽は八百余りの騎兵を率い、夜半に包囲を破って南へ走った。陰陵いんりょうで道に迷い、老いた農夫に「左」と嘘を教えられて大きな沼地にはまった。漢軍が追いつく。項羽は東城とうじょうで最後の突撃を行った。二十八騎で漢軍数千を蹴散らしながら、三度叫んだ。「これは天のわれを亡ぼすなり、戦の罪にあらず」。天が私をほろぼすのだ、戦い方が悪かったのではない、と。

その二十八騎とともに、項羽は長江のほとりへ出た。烏江である。

09ふたたび、烏江の渡し場で

舟は、そこにあった。亭長は言う。「江東は狭いが地千里・民数十万、王たるに足る、急ぎ渡りたまえ」。項羽は笑って答えた。「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡らん。八千子弟と江を渡り西したが、今一人も還らず。縦令(たと)い江東の父兄が憐れんで我を王とするとも、我何の面目あって之に見えん」(項羽本紀)。

天が私をほろぼすのに、どうして渡れよう。八千人の若者を連れて川を渡り、西へ向かった。今、一人も帰ってこない。たとえ江東の父や兄たちが、あわれんで私を王にしてくれたとしても、どんな顔で彼らに会えるというのか。

会稽で兵を挙げてから、七年。八千人は、叔父の項梁が人をまとめ、集めてくれた兵だった。その八千人を、項羽は一人残らず失っていた。舟に乗れば命は助かる。だが、帰るべき人々の前に立つ面目が、彼にはなかった。

項羽は騅を亭長に贈った。そして徒歩で向き直り、漢軍に突入した。数百人を斬り、自分も十か所あまりの傷を負った。そのとき、顔なじみの漢の将呂馬童りょばどうが馬でこちらへ来るのが見えた。項羽は言った。「若(なんじ)は吾が旧人なり。吾が首に千金・邑万戸が懸かっていると聞く、若に徳とさせよう」。お前は昔なじみだ。私の首には千金と一万戸の領地がかかっていると聞く。お前に手柄をやろう。

項羽は自ら首をはねて死んだ。(うこうじじん)である。数え年で三十一だった。首は呂馬童の手に渡った。体は王翳おうえいら漢の五人の将に分けられ、それぞれが侯こうに取り立てられたと『史記』は記す。烏江の自刎をもって、楚漢戦争は終わった。

鉅鹿でも、彭城でも、東城でも、項羽は負けなかった。それでも天下は、彼の手から滑り落ちた。舟に乗らなかったのは、天のせいか。それとも、人の心を束ねられなかった自分のせいか。項羽は最後まで「天」と言った。あなたなら、烏江の岸で、どちらの答えを選ぶだろうか。

力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。

— 「垓下の歌」原文 ― 司馬遷『史記』項羽本紀が伝える四句

10思想史的考察 ― 個の武の美学と敗者の尊厳

項羽は独立した思想を遺さなかった。兵法書も、政論も、語録も書かなかった。彼が遺したのは、一篇の短い歌と、無敵の武将にして敗れた肖像である。それなのに、中国思想史・文学史における項羽の重みは、しばしば思想家以上である。

第一に、彼は「個の力の美学」の原型となった。孔子の仁、老子の道、墨子の、韓非子の法、孫子の算術 ― 諸子百家はいずれも「個を超える何か」を立てて世界を秩序づけようとした。項羽はその対極である。個人の武勇と怒りと義だけで天下を動かそうとした最後の戦国人だった。彼が敗れたことで、「個の武だけでは天下を保てない」という中国統治の基本命題が歴史の実証として確定した。漢以後の王朝は、程度の差こそあれ、人事と制度とで国を動かすことを学ぶ。項羽は、その反対命題を命をもって示した。

第二に、項羽は「敗者の尊厳」という類型を作った。『史記』の作者司馬遷は、本来「本紀」は天子の記録だが、項羽は皇帝を称さなかったにもかかわらず項羽本紀を立てた。司馬遷の目に、項羽は天下を三年動かした者として、皇帝と同格の重みを持っていた。しかも描かれる項羽は、勝者としてではなく、敗れゆく者の美しさとして描かれる。鴻門で殺せない優しさ、垓下の涙、烏江の拒絶 ― これらはすべて「勝利の論理」から見れば愚行である。だが司馬遷はその愚行を敢えて引き延ばし、項羽に「天亡我、非戦之罪」と叫ばせた。

この「敗者の尊厳」の類型は、以後の東アジア文学の骨格となった。源義経の八艘飛び、楠木正成の桜井の別れ、西郷隆盛の城山 ― いずれも項羽の残した型の変奏である。勝てば官軍の冷徹さと並んで、敗者の美学もまた中国文化の半面をなす。項羽はその半面の原点である。

第三に、項羽は「天命」の両義性を体現した。鉅鹿で天命を得て秦を倒し、垓下で天命に見放された ― 彼自身「天亡我」と三度叫んだ。だが『史記』の筆は冷静である。司馬遷は項羽本紀の末で、「天の亡ぼすと自ら叫ぶ ― それは誤りではないか」と問い返す。天ではなく、人心が項羽を去らせたのだ、と。項羽は最後まで、自分の敗北が自分の統治のあり方に由来することを認めなかった。この認識の拒絶が、悲劇を悲劇たらしめている。

項羽は思想家ではない。だが彼は、思想家たちが論じた命題(個と全体、武と文、天命と人事)の人格化された反証として、思想史に位置を占める。漢の四百年、唐の三百年、宋明清の千年 ― 中国が「人を以て国を治む」統治哲学を洗練させ続けた背後に、項羽という敗れた個の武の記憶があった。

11主要な出来事と著作

  1. 下相(現江蘇省宿遷市)に生まれる。楚将項燕の孫、項梁の甥
  2. 会稽で始皇帝の巡幸を目撃、「彼取って代わるべし」と呟く
  3. 陳勝・呉広の乱。叔父項梁と会稽で挙兵(享年23)、楚王心(後の義帝)を擁立
  4. 項梁、定陶で章邯に敗死。宋義を斬り全軍を掌握
  5. 鉅鹿の戦い。破釜沈舟で秦主力を破り、章邯を降す。新安で秦降卒20万を坑殺
  6. 咸陽入城、宮殿を焼き子嬰を殺す。鴻門の会で劉邦を討ち損なう。西楚覇王を称し十八諸侯を封じる。義帝を江南に流し殺害
  7. 彭城の戦い。3万の騎兵で劉邦の56万を壊滅、太公・呂后を捕虜
  8. 范増、離間策により辞去、帰途に没。楚軍は智将を失う
  9. 鴻溝の和約。天下を東西に分ける ― 劉邦は和約を破り追撃
  10. 12月、垓下の戦い。四面楚歌、垓下の歌、烏江で自刎。享年31

残した思想の輪郭

  • 個の武の原型 ― 千人を敵とする武勇の最後の戦国的体現、兵法の体系を敢えて学ばなかった
  • 敗者の尊厳の類型 ― 司馬遷『史記』項羽本紀が樹立した「敗れゆく者の美しさ」の原型
  • 鴻門の会の型 ― 決定的な一手を下せない優しさと逡巡、後世の政治的修辞学の定型
  • 破釜沈舟 ― 退路を断って決戦する最後通牒の戦術、鉅鹿で一度だけ用いられた極限
  • 四面楚歌 ― 人心離反の極限状況を描く四字熟語、以後2200年読まれ続ける語
  • 垓下の歌 ― 力抜山兮気蓋世、「個」が時代に敗れる一行詩、漢詩の原型の一つ
  • 天亡我の自己認識 ― 敗北を人事ではなく天命に帰する拒絶、司馬遷が静かに反論した命題
  • 項羽本紀 ― 皇帝でない者を本紀に立てた司馬遷の破格、敗者の文学化の起点
BC202年12月、垓下で囲まれ、烏江亭長の舟を拒んで自刎。享年31。『史記』項羽本紀が肖像を遺す。

つながり

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