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実践の知

項羽(項籍)

Xiang Yu·BC232–BC202·古代中国·

力で奪った天下は、 なぜ力だけでは保てないのか?

楚の覇王として秦を打ち倒しながら、漢王劉邦に敗れて烏江に自刎した、『史記』最大の悲劇的敗者

  • 楚漢戦争
  • 覇王
  • 垓下の戦い
  • 四面楚歌
  • 鴻門の会

時代の空気

秦末、始皇帝の死(BC210)から十年で天下が再び沸騰した時代だった。BC209年陳勝呉広の蜂起に応じ、楚国旧名族が各地で立ち上がる。BC207年、項羽は巨鹿で秦軍主力三十万を破って秦帝国の野戦軍を消滅させ、咸陽に入って阿房宮を焼き、始皇帝陵を盗掘した。鴻門の会で劉邦を見逃したまま西楚覇王と号して諸侯十八王を分封したが、東進する劉邦と四年の楚漢戦争を戦い、垓下で四面楚歌に囲まれ、烏江に自刎した。

01下相の項氏、会稽の挙兵

秦王政29年(BC232年)、楚の下相かそう(現江蘇省宿遷市)に生まれた。姓はこう、諱はせき、字は。楚の名将項燕こうえんの孫である。項燕は秦の王翦と戦って蘄(現安徽省宿州市)で敗れた将軍として『史記』項羽本紀に記される。父を早くに失った項羽は、叔父項梁こうりょうに育てられた。項氏は楚の代々の将軍の家柄で、楚の滅亡の直後という時代の影のなかに項羽の少年期はあった。

『史記』項羽本紀は彼の体躯をこう伝える ― 「身長八尺余、力能く鼎を扛ぐ、才気人に過ぐ」。秦漢の一尺は約23センチ、八尺は約184センチに当たり、当時としては抜きん出た長身であった。三度の鼎さんどのかなえ(青銅祭器三器)を担ぎ上げる怪力と、人並み外れた気魄。項羽はその出発点から、身体の力で時代を押し返そうとする少年だった。

若い項羽は書を学ばず、剣も途中で投げ出し、「書は姓名を記すに足るのみ。剣は一人の敵のみ。万人の敵を学ばん」と言って兵法に志した(『史記』項羽本紀)。叔父は兵法を授けたが、項羽はその大略を知るや深く究めようとしなかった。この一節が後の彼の戦い方を予告する ― 個の武で千人を薙ぎ倒す力、しかし戦う前の算術(『孫子』の廟算)を敢えて避ける態度。彼は「万人の敵」を求めながら、兵法の体系には最後まで向き合わなかった。

項梁が殺人の罪を犯して項羽を連れ、会稽郡かいけいぐん呉中ごちゅう(現江蘇省蘇州市付近)に身を潜めたのは、項羽がまだ少年期の頃だった。叔父はそこで地元の豪族に喪事や徭役を采配して人望を集め、密かに賓客と子弟を兵法で組織していたと『史記』項羽本紀は記す。項羽はその叔父の姿を、戦う前の人の束ね方として黙って見ていた。

始皇帝37年(BC210年)、項梁に伴われていた項羽は、巡幸の始皇帝の鹵簿を会稽の沿岸で目撃した。壮麗な車駕を見た項羽は思わず「彼取りて代わるべきなり」と呟いた。項梁は慌てて口を塞いだが、その目は光るものを宿していたと伝える。秦の崩壊を予感する楚の遺臣たちの総意が、二十二歳の青年の口を借りた瞬間だった。

秦二世元年(BC209年)7月、陳勝・呉広の乱が大澤郷で勃発。9月、項梁と項羽は会稽の太守殷通を斬って挙兵、楚の遺民八千を糾合して北進した(『史記』項羽本紀)。項梁は楚の王族の末裔懐王の孫しんを民間から見つけ出して楚王に擁立し(後の義帝)、反秦の正統性を確保した。項羽は項荘こうそうら一族を率い、叔父とともに中原へと向かった。二十三歳である。

02鉅鹿の戦い ― 破釜沈舟

秦二世二年(BC208年)9月、項梁が定陶の戦いで秦将章邯に敗れて戦死した。楚軍の指揮は懐王の任命した上将軍宋義と次将項羽に委ねられたが、宋義は46日も安陽に逗留して進軍しなかった。項羽は早朝の幕中で「秦が趙を破れば次は楚だ」と詰め寄り、宋義を独断で斬って首を諸将に示した。「宋義は斉と謀って楚に背いた、王の密命で誅した」と告げ、楚王の任命した上将軍を殺すという極端な手段で全軍を掌握した。後の世が項羽の決断力と紙一重の専断を読む最初の場面である。

BC207年12月、秦の主力は鉅鹿の趙を囲んでいた。項羽は全軍を率いて北上、鉅鹿きょろく(現河北省平郷県付近)で章邯と王離の秦軍三十万と対峙した。このとき項羽が選んだのが、後世に伝わる破釜沈舟はふちんしゅうの決戦法である。

『史記』項羽本紀はこう記す ― 渡河後、項羽は飯を炊く釜を破り船を沈め、廬舎を焼き、士卒に三日分の糧のみを持たせた。退路はない。勝つしかない、という形で戦意を極限まで研ぎ澄ました。九戦して秦軍を大破、王離を捕虜とし、章邯は数か月の対峙の後降伏した。包囲を解きに来ていた諸侯軍およそ四十万の将たちは塁壁の上から見守るのみで、戦後項羽が諸侯の将に会うとき「みな膝行して前に進み、敢えて仰ぎ見る者なし」(項羽本紀)と伝えられる。

しかし戦勝の直後、項羽は降伏した秦兵およそ二十万を新安城南(現河南省澠池県付近)で一夜のうちに穴埋めにしたとされる。動揺を抑えるためと『史記』は記すが、関中の父老の心が項羽から離れ、後の劉邦人気の伏線となる坑殺こうさつである。司馬遷は数字に淡々と従い、論評は加えない。

鉅鹿の一戦で項羽は秦帝国の野戦軍を殲滅した。事実上、武力で天下取りの資格を獲得した。だがこのとき項羽は二十五歳。天才的武将としての絶頂は、このまま三年しか続かない。

03鴻門の会 ― 殺せなかった一夜

BC206年、秦王子嬰は劉邦りゅうほうに降り、秦は滅んだ。先に関中に入った劉邦は、咸陽の財宝と宮殿に手をつけず、秦民に約法三章やくほうさんしょう(人を殺した者は死、傷つけ盗んだ者は罪に問う、その余の秦の法は廃す)を約束して民心を掌握していた。

項羽は遅れて函谷関に至り、関を破って関中に入った。40万の楚軍を鴻門(現陝西省臨潼区)に、劉邦の10万を覇上はじょうに置き、両者は向かい合った。軍師范増はんぞう(項羽の尊称で亜父あふと呼ばれた)は項羽に劉邦を今殺すべしと説いた。劉邦は楚の上将として項羽より格下で、殺すことに大義名分は立たなかったが、范増は天子の気が劉邦にあると見て取っていた。

宴席が設けられた。これが鴻門の会こうもんのかいである(BC206年冬)。范増は項羽に玉玦を三度挙げて「殺せ」の合図を送ったが、項羽は動かなかった。焦れた范増は項荘こうそうを呼び、剣舞の余興を口実に劉邦を斬らせようとした。項荘が立つと、劉邦の従者項伯(項羽の叔父だが劉邦の参謀張良ちょうりょうと旧交があった)もまた立って舞い、身をもって劉邦を庇った ― 後世に「項荘剣を舞わす、意は沛公にあり」として凝縮される場面である。

劉邦の参謀張良ちょうりょうと武将樊噲の機転で、劉邦は厠に立つふりをして陣を脱出、脇道を駆けて覇上へ戻った。項羽は後を追わなかった。范増は「豎子(ほんの小僧)、共に謀るに足らず」と玉玦を叩き割り、「項王の天下を奪う者は必ず沛公ならん」と嘆いた(項羽本紀)。鴻門の会こうもんのかいは、項羽が劉邦を殺さなかった一夜として、以後二千二百年の中国人の記憶に残る。

項羽はこのあと咸陽に入城、宮殿を焼き払い、子嬰を殺し、秦の財宝と婦女を楚へ持ち帰った。三月燃え続けたと伝わる炎は阿房宮にも及び(近年の発掘では阿房宮前殿の大規模な焼失層は確認されておらず、未完説が有力)、驪山の始皇帝陵しこうていりょうも項羽軍の盗掘を受けたとされる。関中の父老は「沛公は宮室を秋毫も犯さず、項王は焚焼す」と嘆いた。

BC206年2月、項羽は関中を捨てて彭城(現江蘇省徐州市)に都を置き、自ら西楚覇王せいそはおうと号した。論功と血脈に従って功臣を十八王に分封し、劉邦は巴蜀・漢中の漢王へと追いやった。皇帝の称号を選ばず、戦国の封建秩序へ巻き戻すこの統治観は、秦の郡県制を経験した中華にとってはすでに時代遅れだった。同年4月、項羽は名のみ尊んだ義帝ぎてい(楚懐王熊心)を江南の郴へ流し、英布らに密命を下して江中で殺害させた。義帝の死は、秦を共に倒した諸侯と楚人の心を項羽から離反させる転機となった。劉邦は義帝の喪に服したと宣して、東進の大義名分を得る。

04楚漢戦争 ― 戦は勝てども人は離れる

BC206年8月、劉邦は漢中から陳倉を越えて関中に進出、章邯ら三秦王を破って関中を奪った。同年、田栄が斉で反乱を起こして項羽の北方を釘付けにした。楚漢戦争そかんせんそうの本格開戦である。

BC205年4月、劉邦は諸侯五十六万を糾合して項羽の都彭城を陥した。北方斉地で田栄を討っていた項羽は急報を受け、自ら三万の精騎を率いて南下、彭城近郊で漢連合軍を急襲し一日で壊滅させた。劉邦の損失は数十万、自身は数十騎で逃れ、父太公と妻呂后りょこうを捕虜にされた。三万で五十六万を破った彭城の戦いほうじょうのたたかいは、項羽の戦術的天才を象徴する戦いであり、同時に劉邦本人を仕留め損ねた一日でもあった。

以後三年、項羽と劉邦は滎陽・成皋(現河南省滎陽市)を挟んで対峙する。戦闘ではおおむね項羽が勝った。あるとき項羽は太公を高い俎の上に載せ、釜茹でにすると劉邦を脅したが、劉邦は「我が父は若の父でもある。煮るならその一杯を分けよ」と返し、項羽は殺せなかった。「戦場の強さ」と「決定的な一手を下せなさ」が、項羽のなかで何度でも重なった。

勝ち続けながら、項羽の陣営からは人が離れていった。BC204年、范増は劉邦の離間策(陳平ちんぺいの策)に嵌められ、項羽に疑われて辞去、帰途に背の腫物を発して没した。項羽は唯一の智将を失った。韓信かんしんはもともと項羽の麾下に郎中として仕えたが重用されず劉邦のもとに去り、九江王英布も寝返った。項羽は戦場では無敵だったが、人の心を束ねる術を持たなかった。

対する劉邦は、関中に蕭何を留めて兵と糧を切れ目なく送り、韓信に北方戦線を任せて魏・代・趙・燕・斉を順に制圧させ、張良を常に傍らに置いて戦略を決めた。劉邦自身は敗け続けだったが、三傑を生かす枠組みを崩さなかった。項羽が一人で戦う一方、劉邦はネットワークで戦った。

BC203年9月、両軍は鴻溝こうこうの和約を結び、天下を東西に分けた(西を漢、東を楚)。項羽は捕虜としていた太公・呂后を返還し、東へ引き上げようとした。しかし劉邦は張良・陳平の進言で和約を破り、東へ向かう楚軍を追撃した。

05垓下の歌、烏江の自刎

BC202年12月、楚軍は垓下がいか(現安徽省霊璧県)に囲まれた。劉邦・韓信・彭越の連合軍はおよそ三十万、対する楚軍は十万。韓信が指揮する漢軍は地形と陣形を計算し尽くし、項羽にはじめて戦場で組み敷かれる経験を強いた。糧が尽き、士気は崩れかけていた。

その夜、四方の漢軍の陣から楚の歌が聞こえてきた。降伏した楚人を歌わせる心理戦である。項羽は驚いて「漢皆すでに楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや」と呟いた(項羽本紀)。四方から故郷の歌が聞こえる ― 四面楚歌しめんそか。この四字熟語は、項羽のこの一夜から生まれた。

項羽は起きて帳中に飲み、寵姫の虞美人ぐびじん(虞姫)と駿馬すいを前に、涙しながら歌った ―

力は山を抜き気は世を蓋う 時利あらず騅逝かず 騅の逝かざるを奈何すべき 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん

垓下の歌がいかのうたである。これが項羽と訣別けつべつの宴となった。虞美人は和して歌い(「漢兵已に地を略し、四方楚歌の声。大王意気尽く、賤妾何ぞ生を聊(やす)んぜん」は後代の仮託説あり)、自害したと後世の物語は伝える ― ただし『楚漢春秋』系伝承であり、正史『史記』項羽本紀に虞美人の自害は明記されていない。項羽は騎兵八百余を率いて夜半に包囲を破り、南へ走った。

陰陵で道を迷い、田父(老農)に「左」と偽教を受けて大沢に陥り、漢軍に追いつかれた。項羽は東城で最後の突撃を行い、二十八騎で漢軍数千を蹴散らしながら「これは天のわれを亡ぼすなり、戦の罪にあらず」と三度叫んだ。

ついに烏江うこう(長江の渡し、現安徽省和県)に至った。烏江亭長が舟を用意して待っており、「江東は狭いが地千里・民数十万、王たるに足る、急ぎ渡りたまえ」と告げた。項羽は笑って答えた ― 「天の我を亡ぼす、我何ぞ渡らん。八千子弟と江を渡り西したが、今一人も還らず。縦令(たと)い江東の父兄が憐れんで我を王とするとも、我何の面目あって之に見えん」(項羽本紀)。

騅を亭長に贈り、徒歩で反転、漢軍に突入した。数百人を斬って自身も傷十余か所に達した頃、顔なじみの漢将呂馬童りょばどうが騎して向かってくるのを認め、項羽は「若(なんじ)は吾が旧人なり。吾が首に千金・邑万戸が懸かっていると聞く、若に徳とさせよう」と言って自刎じふんした。享年三十一。首は呂馬童の手に渡り、五体は王翳ら漢の五将によって分割され、それぞれ侯に封じられたと『史記』は記す。烏江自刎うこうじじんをもっては終わった。

力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。

項羽「垓下の歌」(『史記』項羽本紀)

06思想史的考察 ― 個の武の美学と敗者の尊厳

項羽は独立した思想を遺さなかった。兵法書も、政論も、語録も書かなかった。彼が遺したのは、一篇の短い歌と、無敵の武将にして敗れた肖像である。それなのに、中国思想史・文学史における項羽の重みは、しばしば思想家以上である。

第一に、彼は「個の力の美学」の原型となった。孔子の仁、老子の道、墨子の兼愛、韓非子の法、孫子の算術 ― 諸子百家はいずれも「個を超える何か」を立てて世界を秩序づけようとした。項羽はその対極である。個人の武勇と怒りと義だけで天下を動かそうとした最後の戦国人だった。彼が敗れたことで、「個の武だけでは天下を保てない」という中国統治の基本命題が歴史の実証として確定した。漢以後の王朝は、程度の差こそあれ、人事と制度と儒学で国を動かすことを学ぶ。項羽は、その反対命題を命をもって示した。

第二に、項羽は「敗者の尊厳」という類型を作った。『史記』の作者司馬遷は、本来「本紀」は天子の記録だが、項羽は皇帝を称さなかったにもかかわらず項羽本紀を立てた。司馬遷の目に、項羽は天下を三年動かした者として、皇帝と同格の重みを持っていた。しかも描かれる項羽は、勝者としてではなく、敗れゆく者の美しさとして描かれる。鴻門で殺せない優しさ、垓下の涙、烏江の拒絶 ― これらはすべて「勝利の論理」から見れば愚行である。だが司馬遷はその愚行を敢えて引き延ばし、項羽に「天亡我、非戦之罪」と叫ばせた。

この「敗者の尊厳」の類型は、以後の東アジア文学の骨格となった。源義経の八艘飛び、楠木正成の桜井の別れ、西郷隆盛の城山 ― いずれも項羽の残した型の変奏である。勝てば官軍の冷徹さと並んで、敗者の美学もまた中国文化の半面をなす。項羽はその半面の原点である。

第三に、項羽は「天命」の両義性を体現した。鉅鹿で天命を得て秦を倒し、垓下で天命に見放された ― 彼自身「天亡我」と三度叫んだ。だが『史記』の筆は冷静である。司馬遷は項羽本紀の末で、「天の亡ぼすと自ら叫ぶ ― それは誤りではないか」と問い返す。天ではなく、人心が項羽を去らせたのだ、と。項羽は最後まで、自分の敗北が自分の統治のあり方に由来することを認めなかった。この認識の拒絶が、悲劇を悲劇たらしめている。

項羽は思想家ではない。だが彼は、思想家たちが論じた命題(個と全体、武と文、天命と人事)の人格化された反証として、思想史に位置を占める。漢の四百年、唐の三百年、宋明清の千年 ― 中国が「人を以て国を治む」統治哲学を洗練させ続けた背後に、項羽という敗れた個の武の記憶があった。

07主要な出来事と著作

  1. 下相(現江蘇省宿遷市)に生まれる。楚将項燕の孫、項梁の甥
  2. 会稽で始皇帝の巡幸を目撃、「彼取って代わるべし」と呟く
  3. 陳勝・呉広の乱。叔父項梁と会稽で挙兵(享年23)、楚王心(後の義帝)を擁立
  4. 項梁、定陶で章邯に敗死。宋義を斬り全軍を掌握
  5. 鉅鹿の戦い。破釜沈舟で秦主力を破り、章邯を降す。新安で秦降卒20万を坑殺
  6. 咸陽入城、宮殿を焼き子嬰を殺す。鴻門の会で劉邦を討ち損なう。西楚覇王を称し十八諸侯を封じる。義帝を江南に流し殺害
  7. 彭城の戦い。3万の騎兵で劉邦の56万を壊滅、太公・呂后を捕虜
  8. 范増、離間策により辞去、帰途に没。楚軍は智将を失う
  9. 鴻溝の和約。天下を東西に分ける ― 劉邦は和約を破り追撃
  10. 12月、垓下の戦い。四面楚歌、垓下の歌、烏江で自刎。享年31

残した思想の輪郭

  • 個の武の原型 ― 千人を敵とする武勇の最後の戦国的体現、兵法の体系を敢えて学ばなかった
  • 敗者の尊厳の類型 ― 司馬遷『史記』項羽本紀が樹立した「敗れゆく者の美しさ」の原型
  • の型 ― 決定的な一手を下せない優しさと逡巡、後世の政治的修辞学の定型
  • ― 退路を断って決戦する最後通牒の戦術、鉅鹿で一度だけ用いられた極限
  • 四面楚歌 ― 人心離反の極限状況を描く四字熟語、以後2200年読まれ続ける語
  • ― 力抜山兮気蓋世、「個」が時代に敗れる一行詩、漢詩の原型の一つ
  • 天亡我の自己認識 ― 敗北を人事ではなく天命に帰する拒絶、司馬遷が静かに反論した命題
  • 項羽本紀 ― 皇帝でない者を本紀に立てた司馬遷の破格、敗者の文学化の起点
BC202年12月、垓下で囲まれ、烏江亭長の舟を拒んで自刎。享年31。『史記』項羽本紀が肖像を遺す。
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  • 解釈原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: 紀元前202年冬、垓下で劉邦の漢軍に包囲された西楚覇王項羽が、夜陣に響く四面楚歌を聴いて愛姫虞美人の前で歌ったとされる四句。山を抜く力と世を蓋う気を誇った三十一歳の将が、自身の武勇ではなく「時」が味方...

    一次資料を開く『史記』項羽本紀第七、垓下の場面 (CTEXT node 4890)。'項王軍壁垓下,兵少食盡,漢軍及諸侯兵圍之數重。夜聞漢軍四面皆楚歌,項王乃大驚曰:「漢皆已...

  • 抜粋原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: 力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何。

    一次資料を開く中文維基文庫 垓下歌 (項羽) entry。原典 (繁体字 canonical): 「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何。」WebF...

  • 抜粋原典で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 力は山を抜き気は世を蓋う。時利あらず騅逝かず。騅の逝かざるを奈何すべき。虞や虞や若を奈何せん

    一次資料を開く中文維基文庫 垓下歌 (項羽) entry。原典 exact text: 「力拔山兮氣蓋世,時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何,虞兮虞兮奈若何。」WebFetch ...

  • 出典原典で確認済み定本確認済み

    定本確認済み: xiangyu.mdx pullsource '項羽「垓下の歌」(『史記』項羽本紀)' は項羽『垓下歌』が司馬遷『史記』巻 7 項羽本紀所載であることを示す書誌として完全に正確。著者 (項羽) + 詩...

    一次資料を開くctext.org 史記項羽本紀 完全本文 (中華書局点校本ベース)。垓下歌は項羽本紀末尾の垓下戦場面に位置。philoglyph pullsource '『史...

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