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鈴木大拙

D. T. Suzuki·1870–1966·日本·

東洋の「無」と 西洋の「精神」は、 どこで出会うのか?

禅を「Zen」として世界に届け、日本的霊性と即非の論理を語り続けた20世紀の大居士

  • 即非
  • 霊性
  • 日本的霊性

時代の空気

明治・大正・昭和をまたぐ95年の生涯だった。加賀の没落士族の子に生まれ、帝大哲学科の科外で学びながら円覚寺で参禅した。1897年、27歳で米国イリノイのオープンコート社に渡り、ポール・ケーラスのもとで11年を東洋古典英訳に費やす。1911年、神智学徒ビアトリス・レインと結婚。学習院・大谷大学で教え、1944年の戦時下に『日本的霊性』を著した。79歳で再渡米しコロンビアで講じ、ビート世代やエーリッヒ・フロムとも交わる。1966年、鎌倉松ヶ岡文庫に没す。

01金沢の医家、四高で西田と出会う

明治3年(1870年)10月18日(旧暦11月11日とする資料もある)、加賀百万石の城下町、金沢本多町(現石川県金沢市)で生まれた。本名鈴木貞太郎(ていたろう)。父鈴木良準(りょうじゅん)は加賀藩医を務めた蘭学者であり、漢方と西洋医学のあいだに立つ知的階層に属していた。しかし貞太郎が6歳のとき父が病で世を去り、明治の廃藩置県と禄制の崩壊を背景にして、家は没落士族ぼつらくしぞくの典型的な貧困へ沈んでいく。母と兄妹で過ごした少年期の暮らしの細い手応えが、のちの「無一物中無尽蔵」の体感に繋がっていったと本人は晩年に語っている。

明治20年(1887年)、石川県専門学校(のち第四高等中学校、金沢大学の源流)に入学。同級生に西田幾多郎、山本良吉、藤岡作太郎(後に国文学者)。生涯の知的盟友となる西田幾多郎とは、ここで出会った。同年生・同郷の二人は、学費難で中退と復学を繰り返しながら、英語と哲学への渇きで結ばれていく。四高在学中に貞太郎自身は学費が続かず中退し、小学校教員・英語教師として働きながら独学を重ねた。明治24年(1891年)、21歳で東京へ出て、帝国大学文科大学哲学選科(科外、すなわち聴講生)に通うことになる。学籍を持たぬまま、井上哲次郎やケーベルの講義に耳を貸す日々だった。

02円覚寺、釈宗演と大拙の居士号

東京在学中、貞太郎は鎌倉円覚寺えんがくじに通うようになる。最初の師は今北洪川(いまきたこうせん)で、明治25年(1892年)に洪川が没したのちは、その法嗣釈宗演しゃくそうえん(のちに円覚寺派管長)のもとで本格的な参禅に入った。ある日の接心で無字の公案を透った貞太郎に、宗演は居士号「大拙」を授ける。『老子』第45章「大巧は拙(せつ)なるが若し」から取られた名で、巧みを尽くしたあとに残る不器用さを肯定する号である。以後、彼は鈴木大拙として生きることになった。

宗演は明治26年(1893年)、シカゴで開かれた万国宗教会議(World's Parliament of Religions)に禅を代表して赴き、英文の講演原稿を読み上げた先駆者である。23歳の大拙はその英訳作業を陰で手伝い、ここで初めて大乗仏教を西洋に語ることの困難と可能性に触れた。会議の場には神智学徒しんちがくとや比較宗教学者が集い、東洋の宗教を世界宗教の一座として遇する空気がはじめて醸成されていた。宗演が示したこの国際的視野は、のちに大拙自身が英語で禅を語る道をそのまま舗装することになる。

03渡米、オープンコート社、ビアトリスとの結婚

明治30年(1897年)、27歳の大拙は宗演の推薦でアメリカ・イリノイ州ラサールラサール(La Salle, Illinois)のオープンコート出版社へ渡る。社主ポール・ケーラス(Paul Carus、ドイツ生まれの哲学者・編集者)は東洋思想に深い関心を寄せる『ザ・モニスト』『オープンコート』誌の主筆で、自著『The Gospel of Buddha』(1894)を持つ思想的同伴者でもあった。大拙はケーラス家に住み込み、明治41年(1908年)までの11年間を、翻訳・執筆・編集の机仕事に費やしている。

この時期の英文著作『Outlines of Mahāyāna Buddhism』(1907、ロンドン Luzac & Co.刊)は、英語で大乗仏教を体系的に紹介した早期の試みとして重要である。明治34年(1901年)にはケーラスとの共訳で老子『道徳経』(Lao-Tze's Tao Teh King)を出し、馬鳴の『大乗起信論』英訳(1900)、新井白石の伝記英訳なども手掛けた。英語圏の知的土壌に、仏教と東洋古典の種を黙々と蒔き続けた11年だった。

明治44年(1911年)、大拙はビアトリス・アースキン・レイン(Beatrice Erskine Lane、1878-1939)と結婚した。彼女はラドクリフ・コロンビアで学んだアメリカの神智学徒で、神智学協会会員でもあった。日本では真宗・禅・真言を含む大乗仏教の研究者となり、夫の英文著作の校閲者・共著者として、また機関誌『』の共同編集者として終生並走した。1911年に二人は帰国し、まず東京、のち鎌倉に住まいを定める。

04学習院、大谷大学、『禅と日本文化』

帰国後、大拙は学習院中等科の英語教師を長く務め(1909-1921)、のち大谷大学(京都・真宗大谷派)の教授に転じた(1921-)。学習院時代の生徒には若き日の柳宗悦(のちに民芸運動の祖)、高松宮宣仁親王らがいる。大谷大学では仏教学・宗教学を講じ、『仏教哲学と其歴史的地位』や『禅の研究』(1926)、『支那仏教印象記』などを日本語で刊行しつつ、大正10年(1921年)にビアトリスと共に英文機関誌『Eastern Buddhist』を創刊した。同誌は戦中に一時休刊するが戦後に復刊し、いまも刊行が続く。

英語圏への発信も続いた。『』第一シリーズ(1927)、第二シリーズ(1933)、第三シリーズ(1934)の三巻は、ロンドンの Luzac、のちに Rider & Co. を経て、英国仏教協会のクリスマス・ハンフリーズ(Christmas Humphreys)の編集で世に出た。エーリッヒ・フロム、カール・ヤスパース、カール・ユング、マルティン・ハイデガー、トマス・マートンら西洋の知識人に深い影響を与え、ハイデガーは「自分が言いたかったことが、ここに書かれている」と評したと伝わる(出典は Hubert Benoît 経由の伝聞で、確証は留保が要る)。1939年、ユングは大拙の『』英訳版に長い序文じょぶんを寄せ、禅と深層心理学の照応を慎重に論じた。大拙の英文は、Zen という語を英語圏の一般語彙に押し上げた立役者である。

05日本的霊性 ― 戦中の記

昭和19年(1944年)、戦争の末期に大拙は『』(大東出版社)を著した。彼はここで霊性(Spirituality)という概念を立て、日本人のなかに深く根を張る宗教性を、浄土系(親鸞・法然の他力信仰)と禅系(道元・盤珪ばんけいら)の二筋として描き出した。戦時下せんじかの精神状況のなかで、国粋主義的・神道中心的な日本論を脇にずらし、より深層の無我と他力の宗教心に「日本的なもの」の根を求めなおそうとした書である。

ただし戦中の大拙と国家のあいだの距離を、過度に潔白な物語に整えるのは誠実でない。1934年、満鉄招聘で満州を訪れて講演を行い、戦中期の文章には「皇道仏教」や日本の精神的指導性を肯定的に語る箇所が含まれる。同時代の国体論こくたいろんと部分的に共振する語彙を、大拙が確かに使った時期がある。一方で『日本的霊性』それ自体は、戦争を礼讃する書ではなく、神道国家主義への距離を取って親鸞の絶対他力に根を求める内容で、戦時検閲下での慎重な抵抗とも、戦時動員への迂回的協力とも読める両義性を持つ。京都学派の一部が「世界史的立場と日本」のような時局論に深く踏み込んだのに対し、大拙はその外側にいたが、戦争そのものへの明確な反対を公にしたわけでもない。戦後の『霊性的日本の建設』(昭和21年)や『日本の霊性化』(同)で大拙は、原子爆弾の登場と日本の敗戦をふまえ、「武力でなく霊性」の道を改めて主張することになる。この戦中-戦後の振幅を、伝道者の生身として残しておきたい。

06即非の論理

大拙の晩年の思想的結晶がである。『金剛般若経』にしばしば現れる「仏説般若波羅蜜、即非般若波羅蜜、是名般若波羅蜜」(仏の説く般若波羅蜜は、即ち非般若波羅蜜なり、これを般若波羅蜜と名付く)という反復構造を、大拙は「A即非A、故是名A」の形で定式化した。短編『金剛経の論理』(『日本的霊性』所収論考、戦後改訂)が代表的なテクストである。同時期に『』(『無心といふこと』、1939)で「無心」の構造を、敦煌出土の禅典や大乗起信論を通じて掘り下げ、即非と無心は晩年の二つの論理的核となった。

この「AはAでない、故にAである」という逆接は、西洋のA=A(同一律)やA≠非A(矛盾律)とは異なる、東洋的な自己否定をくぐる同一性の構造を示す。大拙はこの論理を、道元の「修証一等」、禅の「即心即仏」、親鸞の他力回向と響き合わせ、禅浄両巨流の深層論理として提示した。盟友西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一と並走する論理構造であり、京都学派と直接の系譜を共有しないまま、互いを照らし返した。鈴木にとってこれは思弁の遊戯ではなく、参禅で透った無字の公案を、英語と日本語の二つの言語で説き直すための、ひとつの文法だった。

Aは非Aなり、故にAはAなり。

『金剛経の論理』(即非の論理)

07戦後 ― コロンビア、ビート世代、松ヶ岡文庫

昭和21年(1946年、一般には1947年設立とも記される)、松ヶ岡文庫まつがおかぶんこを鎌倉東慶寺の境内に創設した。亡妻ビアトリス(1939年没)との記念事業を含み、東西の学者のための禅・仏教研究図書館兼研究所として運営された。今日もここが大拙文献の中心アーカイブである。昭和24年(1949年)、79歳の大拙はアメリカに再渡航する。ハワイ大学(東西哲学者会議)、クレアモント大学院を経て、昭和27-32年(1952-57)、コロンビア大学客員教授として東洋哲学を講じた。

ニューヨーク時代の講義室・公開セミナーには、トマス・マートン(トラピスト会修道士)、ジョン・ケージ(作曲家、舞踊・音楽の禅的構成へ転回した)、エーリッヒ・フロム(精神分析家)、オルダス・ハクスリー、カレン・ホーナイ、アラン・ワッツらが集った。1957年8月、メキシコ・クエルナバカクエルナバカでフロム主催の精神分析家セミナーに招かれ、ここでの対話は1960年『Zen Buddhism and Psychoanalysis』(大拙・フロム・リチャード・デ・マルティーノ共著)として結実する。同じ時期、ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダーらビート世代の若い詩人たちが、ワッツの普及書と並んで大拙の英文を熱心に読んだ。大拙自身はビートの放縦には距離を置いたが、Zen が反体制文化の鍵語に変じる道を開いたのは確かに彼の英文だった。1948年、大拙の指導下にあったドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルヘリゲルが『弓と禅ゆみとぜん』(Zen in der Kunst des Bogenschießens)を刊行、大拙は序文を寄せ西洋の禅受容の橋を一本増やした。

昭和33年(1958年)、88歳で帰国。鎌倉のに戻り、なお英文著作の改訂と新著を続けた。『Zen and Japanese Culture』改訂版(1959)、『The Essentials of Zen Buddhism』(1962)などが晩年の成果である。1959年からは(みほこ、1935-)が個人秘書こじんひしょとして住み込み、英文校閲・通訳・運営を担い、生涯の最後の七年を支えた。

08主要な出来事と著作

  1. 金沢本多町に生まれる。本名貞太郎。父良準は加賀藩医・蘭学者、6歳で父没
  2. 石川県専門学校(のち第四高等中学校)で西田幾多郎と出会う。中退・小学校教員
  3. 東京帝国大学哲学選科に科外で通う。円覚寺で今北洪川に参禅を始める
  4. 洪川没。釈宗演に師事、無字の公案を透り居士号「大拙」を受ける
  5. シカゴ万国宗教会議で釈宗演の英文講演を補佐
  6. イリノイ州ラサールのオープンコート社、ポール・ケーラスのもとで11年
  7. 『大乗起信論』英訳・『Outlines of Mahāyāna Buddhism』(1907)刊行
  8. 帰国。学習院中等科英語教師に。柳宗悦らを教える
  9. ビアトリス・アースキン・レインと結婚
  10. 大谷大学教授に転任。ビアトリスと『Eastern Buddhist』を創刊
  11. 『Essays in Zen Buddhism』三巻を英国で刊行、西洋知識人に広範な影響
  12. 『An Introduction to Zen Buddhism』刊行(後年ユング序文)
  13. 妻ビアトリス死去
  14. 戦時下に『日本的霊性』刊行、浄土と禅の二筋を霊性として描く
  15. 鎌倉東慶寺境内に松ヶ岡文庫を創設
  16. 弟子ヘリゲル『弓と禅』刊行、欧州への禅受容を媒介
  17. 79歳から再渡米。ハワイ・クレアモント・コロンビアで東洋哲学を講じる
  18. メキシコ・クエルナバカでフロムらと精神分析セミナー
  19. 岡村美穂子が個人秘書として松ヶ岡文庫に住み込み、終生支える
  20. フロム・デ・マルティーノと『Zen Buddhism and Psychoanalysis』刊行
  21. 7月12日、鎌倉松ヶ岡文庫で腸閉塞により没。享年95

残した思想の輪郭

  • Zen の世界化 ― 「Zen」を英語圏の一般語彙に定着させた20世紀最大の伝道者
  • 即非の論理 ― 「AはAでない、故にAである」、自己否定をくぐる同一性の東洋論理
  • 日本的霊性 ― 浄土(親鸞・法然)と禅(道元・盤珪)の二筋を日本人の深層の宗教性として描く
  • 禅浄の統合 ― 禅の自力と浄土の他力を対立ではなく深層で響き合う二相として捉える
  • 精神分析との対話 ― フロム・ユング・マートンらと禅の構造を心理学・神学と突き合わせる
  • ― ケルアック・ギンズバーグ・スナイダーら反体制文化が彼の英文を読んだ
  • 戦中の両義性 ― 国体論と部分的に共振する語彙を持ちつつ、絶対他力に根を求めた『日本的霊性』
  • 西田との並走 ― 四高以来の盟友、絶対無と即非の論理が互いを照らし合う
  • 松ヶ岡文庫 ― 戦後の東西知的交流の拠点、禅・仏教研究の国際的インフラ
昭和41年(1966年)7月12日、鎌倉の自宅で腸閉塞により没。95歳。最晩年まで英語での禅講義を続け、国際禅研究所に遺した。
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  • 文脈二次資料で確認済み原典確認済み

    原典確認済み: 鈴木大拙が『金剛般若経』の「仏説般若波羅蜜、即非般若波羅蜜、是名般若波羅蜜」の三句の形式を、西洋哲学に向けて定式化した「即非の論理」である。Aをいったん非Aに否定し、その否定を通してAが初めてAとして...

  • 抜粋原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: suzukidaisetz.mdx frontmatter pullquote 「Aは非Aなり、故にAはAなり」 は鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道』『日本的霊性』等で展開する「即非の論理」の定式化。鈴...

    一次資料を開く鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道』春秋社版書誌レコード (新版 ISBN 9784393142875)。即非の論理 主著 canonical 確定

  • 抜粋原典で確認済み要旨訳

    要旨訳: suzukidaisetz.mdx PullQuote MDX component 「Aは非Aなり、故にAはAなり。」 は frontmatter pullquote 同一句の MDX 形式 (末尾句...

    一次資料を開く鈴木大拙『日本的霊性』(篠田英雄校、岩波文庫 青323-1、初版1944) 学術 canonical edition。第五編「金剛経の禅」で即非論理展開

  • 出典二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: suzukidaisetz.mdx frontmatter pullsource 「『金剛経の論理』(即非の論理)」 は鈴木大拙「即非の論理」の典拠表記。書名としては『金剛経の禅・禅への道』(春秋社)...

    一次資料を開く鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道』春秋社版 (新版 ISBN 9784393142875)。書名 canonical = 『金剛経の禅・禅への道』(philogl...

  • 引用二次資料で確認済み要旨訳

    要旨訳: quotes.ts suzukidaisetz-2.text 「日本的霊性は鎌倉時代に至って、はじめてその純粋の姿を現した」 は鈴木大拙『日本的霊性』(1944年初版、岩波) の中核命題。鎌倉時代を日...

    一次資料を開く鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫版 (篠田英雄校、初版1944)。鎌倉時代を日本的霊性の純粋顕現期とする中核命題 canonical 確定。philoglyph ...

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生きた跡を辿るPlaces

鈴木大拙が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • 鈴木大拙館記念館

    金沢, 日本

    大拙の生家近くに建つ思索空間。建築家・谷口吉生設計の水鏡の庭が名高い

  • 東慶寺墓所

    鎌倉, 日本

    北鎌倉の尼寺、大拙と妻ビアトリス、西田幾多郎らも眠る知の友の墓所

さらに辿るならExternal References

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