鈴木大拙
79歳の老人は、なぜ もう一度、海を渡ったのか。
禅を「Zen」として世界に届け、日本的霊性と即非の論理を語り続けた20世紀の大居士
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西洋の学問が押し寄せるなか、東洋の「無」を語る言葉は、まだ世界になかった。 — ひらく
時代の空気
明治・大正・昭和をまたぐ95年の生涯だった。加賀の没落士族の子に生まれ、帝大哲学科の科外で学びながら円覚寺で参禅した。1897年、27歳で米国イリノイのオープンコート社に渡り、ポール・ケーラスのもとで11年を東洋古典英訳に費やす。1911年、神智学徒ビアトリス・レインと結婚。学習院・大谷大学で教え、1944年の戦時下に『日本的霊性』を著した。79歳で再渡米しコロンビアで講じ、ビート世代やエーリッヒ・フロムとも交わる。1966年、鎌倉松ヶ岡文庫に没す。
0179歳、ふたたび太平洋を渡る
1949年。鈴木大拙(すずきだいせつ)は79歳になっていた。妻は10年前に亡くなっている。鎌倉の寺の境内には、妻の記念もこめた図書館を建てて間もない。東西の学者が禅を学ぶための場所である。ふつうなら、そこで本に囲まれて余生を送る年齢だ。
ところが彼は、その年にアメリカへ渡った。はじめはハワイ、次にクレアモントという大学院。やがてニューヨークのコロンビア大学で、客員教授として東洋の哲学を講じる。使う言葉は日本語ではなく、英語だった。日本へ帰ったのは1958年。九年後のことである。
聴きに来た人の顔ぶれも、ふつうではなかった。修道士、作曲家、家、作家。禅の寺とは縁のなさそうな人々が、老人の英語に耳を傾けた。彼らは何を聞きに来たのか。そして老人は、なぜ80歳を前にして、こんな旅に出たのか。
じつは彼が海を渡るのは、これが初めてではなかった。最初は27歳のとき。彼はそれから半世紀、東洋の「無」を英語で語ることに人生をかけてきた。その理由をたどるには、時をずっと巻き戻さなければならない。時は79年前、金沢の医者の家に戻る。
Aは非Aなり、故にAはAなり。
02金沢の医者の家、そして西田幾多郎
1870年、鈴木貞太郎(ていたろう)は金沢に生まれた。父の良準(りょうじゅん)は加賀藩の医者で、オランダ流の西洋医学も学んだ人だった。漢方と西洋医学のあいだに立つ、知識のある家である。だが貞太郎が6歳のとき、父は病で亡くなる。
時代は明治のはじめ。で藩がなくなり、武士の家の収入も消えた。家は没落士族の典型として、貧しさに沈んでいく。
貞太郎は母と兄妹とともに、細々と暮らした。晩年の彼は、この少年時代を振り返って語っている。何ひとつ持たない暮らしの、細い手応え。それがのちに「無一物中無尽蔵」という禅の言葉の実感につながった、と。
1887年、石川県専門学校に入る。のちの第四高等中学校で、いまの金沢大学のもとになった学校だ。同級生には山本良吉、藤岡作太郎(のちの国文学者)がいた。
そしてもう一人、同い年で同郷の西田幾多郎(きたろう)。のちに日本を代表する哲学者になる人物で、生涯の友となる。二人とも学費に困り、中退と復学をくり返した。それでも英語と哲学への渇きが、二人を結びつけた。
貞太郎は結局、学費が続かずに学校を去る。小学校の先生や英語の先生をして働きながら、ひとりで勉強を続けた。1891年、21歳で東京へ出る。帝国大学の哲学科に、正式の学生ではなく聴講生として通った。
井上哲次郎やケーベルといった先生の講義に、学籍のないまま耳を傾ける日々である。だが彼の心を本当にとらえたのは、東京の教室ではなかった。鎌倉の、ある寺だった。
03円覚寺、公案、「大拙」という名
東京にいるあいだ、貞太郎は鎌倉の円覚寺に通いはじめた。最初の師は(いまきたこうせん)という老僧である。1892年に洪川が亡くなると、その後を継いだ釈宗演のもとで、本格的な修行に入った。宗演はのちに円覚寺派の管長(かんちょう)、つまり一派の長となる人である。
禅の修行には(こうあん)がある。ふつうの理屈では解けない問いを、坐禅のなかで身体ごとくぐり抜ける課題だ。貞太郎が取り組んだのは「無字」の公案だった。ある日の接心(せっしん)、つまり集中修行の場で、彼はこの問いを透った。宗演は彼に「大拙」という号を授ける。
この名は『老子』の第45章、「大巧は拙(せつ)なるが若(ごと)し」から取られた。本当に巧みなものは、かえって不器用に見える。巧みを尽くしたあとに残る不器用さを、そのまま肯定する名である。以後、彼は鈴木大拙として生きることになった。
1893年、宗演はアメリカのシカゴへ向かった。という、世界の宗教の代表が集まる会議である。そこで禅を代表し、英語の講演原稿を読み上げるためだった。23歳の大拙は、その英訳を陰で手伝った。仏教を英語で語ることは、こんなにも難しく、こんなにも可能性があるのか。彼はそのことに、ここで初めて触れた。
会議には神智学徒(東西の宗教の奥に一つの真理を探す人々)や、比較宗教学者も集まっていた。東洋の宗教を世界の宗教の一つとして扱う空気が、ようやく生まれていた。宗演が示した世界への目は、のちの大拙の道をそのまま舗装(ほそう)することになる。四年後、その道は現実になる。
04イリノイの机、11年
1897年、27歳の大拙は宗演の推薦でアメリカへ渡った。行き先はイリノイ州ラサール(La Salle)の、オープンコート出版社である。社主のポール・ケーラス(Paul Carus)は、ドイツ生まれの哲学者だった。『ザ・モニスト』『オープンコート』という雑誌の主筆でもある。
東洋の思想に深い関心を持ち、『The Gospel of Buddha』(1894)という自著もある。大拙はケーラスの家に住み込んだ。そして1908年までの11年間を、翻訳と執筆と編集の机仕事に費やした。
この11年の仕事は地味だが、重い。1900年には馬鳴(めみょう)の『大乗起信論』を英語に訳した。1901年にはケーラスと共訳で、老子の(Lao-Tze's Tao Teh King)を出した。
1907年には『Outlines of Mahāyāna Buddhism』(ロンドン Luzac & Co.刊)を出した。大乗仏教を英語で体系的に紹介した、早い試みである。新井白石の伝記も英訳した。英語圏の土に、仏教と東洋の古典の種を黙々と蒔き続けた歳月だった。
1911年、大拙はビアトリス・アースキン・レイン(Beatrice Erskine Lane、1878-1939)と結婚する。ラドクリフとコロンビアで学んだアメリカ人で、の会員でもあった。彼女はのちに日本で、真宗・禅・真言をふくむ大乗仏教の研究者となる。夫の英語の本を校閲し、ともに書き、ともに雑誌を編集する。生涯にわたって並走する相手だった。
大拙自身は、その前の1909年に日本へ帰っていた。結婚した二人は、まず東京、のち鎌倉に住まいを定める。海の向こうで蒔いた種を、こんどは日本で育てることになる。
05学習院から大谷大学へ、Zen が英語になる
帰国後、大拙はの中等科で長く英語を教えた(1909-1921年)。生徒のなかには、若き日の柳宗悦(やなぎむねよし)がいる。のちに民芸運動を始めた人物だ。高松宮宣仁(のぶひと)親王も教えた。
1921年、京都の大谷大学の教授に転じる。真宗大谷派の大学である。ここで仏教学と宗教学を講じた。『仏教哲学と其歴史的地位』『禅の研究』(1926)『支那仏教印象記』などを日本語で刊行した。
同じ1921年、ビアトリスとともに英文の雑誌『』を創刊した。戦争中に一時休刊する。だが戦後に復刊し、いまも刊行が続いている。
英語の本も続いた。『』は1927年、1933年、1934年と三巻が出た。ロンドンの Luzac、のちに Rider & Co. から刊行された。英国仏教協会のが編集を担った。
この本は西洋の知識人に深く届いた。精神分析家のエーリッヒ・フロム、哲学者のカール・ヤスパース。心理学者のカール・ユング、哲学者のマルティン・ハイデガー。そして修道士のトマス・マートン。ハイデガーは「自分が言いたかったことが、ここに書かれている」と語ったと伝わる。ただしこれは人づて(Hubert Benoît 経由)の話で、確かな証拠はない。
1939年、ユングは大拙の『』の英訳版に長い序文を寄せた。禅と深層心理学の重なりを、慎重に論じたものである。Zen という語は、こうして英語のふつうの言葉になっていった。その立役者は、大拙の英文だった。
同じ1939年、妻ビアトリスが亡くなる。二十八年、並走してきた相手だった。そして世界は、戦争へ入っていく。
06戦争のなか、『日本的霊性』
1944年。戦争は末期に入っていた。74歳の大拙は『』(大東出版社)を書く。霊性(Spirituality)とは、彼がここで立てた言葉だ。人の宗教心の、いちばん深いところを指す。
日本人の宗教心には二つの筋がある、と彼は書いた。一つは浄土系。法然や親鸞の、自分の力ではなく仏の力にすがる他力の信仰だ。もう一つは禅系。道元や盤珪の流れである。
当時、日本人とは何かを語る本は、神道と国家を中心に据えるのがふつうだった。大拙はそれを脇へずらした。もっと深い、無我と他力の宗教心に「日本的なもの」の根を求めなおしたのである。
ただし、戦争中の大拙をきれいな物語に整えるのは誠実ではない。1934年、彼は満鉄に招かれて満州を訪れ、講演をしている。戦争中の文章には「皇道仏教」や、日本の精神的な指導性を肯定する箇所がある。当時の国体論と、部分的に重なる言葉を使った時期が確かにある。国体論とは、天皇を中心とする国家のあり方を説く議論だ。
一方で『日本的霊性』そのものは、戦争をほめたたえる本ではない。神道国家主義から距離を取り、親鸞のに根を求める内容だ。検閲のもとでの慎重な抵抗とも読める。戦争への遠回りの協力とも読める。両方の読み方ができる本である。
の一部は、「世界史的立場と日本」のような時局論に深く踏み込んだ。大拙はその外側にいた。だが、戦争そのものへの明確な反対を公にしたわけでもない。この揺れは、伝道者の生身として残しておきたい。
戦争は1945年に終わった。翌年、大拙は『霊性的日本の建設』と『日本の霊性化』を書く。原子爆弾の登場と敗戦をふまえ、「武力でなく霊性」の道を改めて説いた。
同じころ(1946年、あるいは1947年)、鎌倉の東慶寺の境内に松ヶ岡文庫を創設する。亡き妻ビアトリスの記念もこめた、禅と仏教の研究図書館である。東西の学者のための研究所として運営され、いまも大拙の文献の中心はここにある。七十代の半ばを過ぎていた。本に囲まれて暮らす道は、たしかにここにあった。
07ふたたび海を渡る
そして1949年、79歳の大拙はアメリカへ渡った。ハワイ大学の東西哲学者会議、次にクレアモント大学院。そして1952年から57年まで、コロンビア大学の客員教授として東洋哲学を講じた。
ニューヨークの講義室と公開セミナーには、思いがけない顔が集まった。トラピスト会の修道士トマス・マートン。作曲家のジョン・ケージ。ケージはのちに、音楽や舞踊の組み立てを禅の考え方で変えていく。精神分析家のエーリッヒ・フロム、作家のオルダス・ハクスリー、精神分析家のカレン・ホーナイ。そして禅の普及書を書いた。
冒頭の問いに、ここで答えが見えてくる。23歳で宗演の原稿を訳し、27歳でイリノイの机に向かった青年。彼は半世紀をかけて、禅を英語で語る言葉を作ってきた。79歳の旅は、その言葉をようやく聞き手に届ける旅だった。届ける相手は仏教徒ではない。西洋の言葉で自分の心を言い切れずにいる人々だった。
1957年8月、メキシコのクエルナバカで、フロムが主催する精神分析家のセミナーに招かれる。ここでの対話は1960年、『Zen Buddhism and Psychoanalysis』という本になった。大拙とフロム、リチャード・デ・マルティーノの共著である。
同じころ、ビート世代の若い詩人たちが大拙の英文を熱心に読んだ。ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダーらである。ワッツの普及書と並んでだった。大拙自身は、ビートの放縦(ほうじゅう)な生き方には距離を置いた。それでも、Zen が反体制文化の合言葉になる道を開いたのは、確かに彼の英文だった。
少し前の1948年には、彼のもとで学んだドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルが本を出している。『弓と禅』(Zen in der Kunst des Bogenschießens)である。大拙は序文を寄せ、西洋の禅受容の橋を一本増やした。
1958年、大拙は日本へ帰った。鎌倉のに戻り、なお英文の著作の改訂と新著を続ける。『Zen and Japanese Culture』改訂版(1959)を出した。『The Essentials of Zen Buddhism』(1962)も続く。晩年の成果である。
1959年からは(みほこ、1935-)が個人秘書として住み込んだ。英文の校閲、通訳、運営を担い、生涯の最後の七年を支えた。1966年7月12日、大拙は95歳で亡くなる。最後まで、英語で禅を語り続けた。
彼が二つの言語で、生涯をかけて語ろうとしたものは何だったのか。それは晩年、一つの短い式にまとめられた。わずか十数字の、逆さまの式である。
Aは非Aなり、故にAはAなり。
08即非の論理
大拙の晩年の思想的結晶がである。『金剛般若経』にしばしば現れる「仏説般若波羅蜜、即非般若波羅蜜、是名般若波羅蜜」(仏の説く般若波羅蜜は、即ち非般若波羅蜜なり、これを般若波羅蜜と名付く)という反復構造を、大拙は「A即非A、故是名A」の形で定式化した。短編『金剛経の論理』(『日本的霊性』所収論考、戦後改訂)が代表的なテクストである。同時期に『』(『無心といふこと』、1939)で「無心」の構造を、敦煌出土の禅典や大乗起信論を通じて掘り下げ、即非と無心は晩年の二つの論理的核となった。
この「AはAでない、故にAである」という逆接は、西洋のA=A(同一律)やA≠非A(矛盾律)とは異なる、東洋的な自己否定をくぐる同一性の構造を示す。大拙はこの論理を、道元の「修証一等」、禅の「」、親鸞の他力回向と響き合わせ、禅浄両巨流の深層論理として提示した。盟友西田幾多郎のと並走する論理構造であり、京都学派と直接の系譜を共有しないまま、互いを照らし返した。鈴木にとってこれは思弁の遊戯ではなく、参禅で透った無字の公案を、英語と日本語の二つの言語で説き直すための、ひとつの文法だった。
79歳の老人がもう一度海を渡った理由を、いま読者は自分の言葉で言えるだろう。では、あなたにも、言い切れないまま抱えているものがあるとして。それを誰に、どの言葉で語るだろうか。
09主要な出来事と著作
- 金沢本多町に生まれる。本名貞太郎。父良準は加賀藩医・蘭学者、6歳で父没
- 石川県専門学校(のち第四高等中学校)で西田幾多郎と出会う。中退・小学校教員
- 東京帝国大学哲学選科に科外で通う。円覚寺で今北洪川に参禅を始める
- 洪川没。釈宗演に師事、無字の公案を透り居士号「大拙」を受ける
- シカゴ万国宗教会議で釈宗演の英文講演を補佐
- イリノイ州ラサールのオープンコート社、ポール・ケーラスのもとで11年
- 『大乗起信論』英訳・『Outlines of Mahāyāna Buddhism』(1907)刊行
- 帰国。学習院中等科英語教師に。柳宗悦らを教える
- ビアトリス・アースキン・レインと結婚
- 大谷大学教授に転任。ビアトリスと『Eastern Buddhist』を創刊
- 『Essays in Zen Buddhism』三巻を英国で刊行、西洋知識人に広範な影響
- 『An Introduction to Zen Buddhism』刊行(後年ユング序文)
- 妻ビアトリス死去
- 戦時下に『日本的霊性』刊行、浄土と禅の二筋を霊性として描く
- 鎌倉東慶寺境内に松ヶ岡文庫を創設
- 弟子ヘリゲル『弓と禅』刊行、欧州への禅受容を媒介
- 79歳から再渡米。ハワイ・クレアモント・コロンビアで東洋哲学を講じる
- メキシコ・クエルナバカでフロムらと精神分析セミナー
- 岡村美穂子が個人秘書として松ヶ岡文庫に住み込み、終生支える
- フロム・デ・マルティーノと『Zen Buddhism and Psychoanalysis』刊行
- 7月12日、鎌倉松ヶ岡文庫で腸閉塞により没。享年95
残した思想の輪郭
- Zen の世界化 ― 「Zen」を英語圏の一般語彙に定着させた20世紀最大の伝道者
- 即非の論理 ― 「AはAでない、故にAである」、自己否定をくぐる同一性の東洋論理
- 日本的霊性 ― 浄土(親鸞・法然)と禅(道元・盤珪)の二筋を日本人の深層の宗教性として描く
- 禅浄の統合 ― 禅の自力と浄土の他力を対立ではなく深層で響き合う二相として捉える
- 精神分析との対話 ― フロム・ユング・マートンらと禅の構造を心理学・神学と突き合わせる
- ― ケルアック・ギンズバーグ・スナイダーら反体制文化が彼の英文を読んだ
- 戦中の両義性 ― 国体論と部分的に共振する語彙を持ちつつ、絶対他力に根を求めた『日本的霊性』
- 西田との並走 ― 四高以来の盟友、と即非の論理が互いを照らし合う
- 松ヶ岡文庫 ― 戦後の東西知的交流の拠点、禅・仏教研究の国際的インフラ
つながり
- 西田幾多郎
伴走 — 金沢の学生時代から六十年。禅を哲学の言葉にした側の親友。
- 道元
先駆 — 「即非の論理」の背後に置かれた「不思量」。その坐禅を説いた人。
- 植芝盛平
伴走 — 禅が世界へ渡った同じ時代、武道の側から日本の精神性を発信した人がいる。
生きた跡を辿るPlaces
鈴木大拙が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 鈴木大拙館記念館
金沢, 日本
大拙の生家近くに建つ思索空間。建築家・谷口吉生設計の水鏡の庭が名高い
- 東慶寺墓所
鎌倉, 日本
北鎌倉の尼寺、大拙と妻ビアトリス、西田幾多郎らも眠る知の友の墓所
さらに辿るならExternal References
鈴木大拙を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「鈴木大拙」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "D. T. Suzuki"
Internet ArchiveEnglishEssays in Zen Buddhism(First Series) — Internet Archive
Internet ArchiveEnglishAn Introduction to Zen Buddhism — Internet Archive
Internet ArchiveEnglishZen and Japanese Culture — Internet Archive
大拙の生地金沢にある記念館