渋沢栄一
もうけることと正しくあることを、 同じ手で握れるだろうか?
血洗島の農民から幕臣・大蔵官僚、第一国立銀行頭取を経て五百超の会社設立に関わり、『論語と算盤』で道徳と経済を結び直した日本資本主義の父
- 論語と算盤
- 第一国立銀行
- 日本資本主義の父
- 合本主義
- 道徳経済合一
刀の世が終わり、金の世が始まる。身分で人を分けてきた国に、会社という仕組みはまだ無かった。 — ひらく
時代の空気
江戸末期、武蔵国血洗島の藍玉産地に儒学と養蚕の家業が並んでいた時代だ。尊皇攘夷の熱が地方の若者にも伝染し、徳川慶喜の家臣として1867年パリ万博に随行した栄一は、サン=シモン主義の銀行家たちが構想した株式会社制度を欧州で目撃した。維新後は大蔵省で井上馨と並び、下野して第一国立銀行を皮切りに鉄道・紡績・製紙・保険・電力・港湾の殖産興業を率いる。日清・日露戦争を挟み、台湾・朝鮮の植民地経済へも合本主義は流入した。関東大震災(1923)の復興に83歳で立ち、新一万円札(2024)の肖像へと還ってくる。
01ホテルのロビーで眠る老人
1923年9月、東京。が街を襲った直後のことだ。のロビーに、一人の老人が寝泊まりしていた、と伝えられる。年は83。名を渋沢栄一という。
この老人は、ふつうの客ではなかった。帝国ホテルそのものを、33年前に設立した側の人間である。生涯に関わった会社は約500。銀行も、鉄道も、紡績も、電力もある。「日本資本主義の父」と呼ばれる男だ。
自邸は飛鳥山にあった。家に帰って休むこともできたはずだ。それなのに彼は、ロビーに寝泊まりしたという。震災にあった人々、罹災者を救うためである。83歳の体で、救援の陣頭に立った。
なぜ、この老人はここにいるのか。会社を500も作った人が、なぜ最後まで救援の先頭に立つのか。その答えは、一冊の古い本と、一つのそろばんにある。時は83年前に戻る。
02藍玉の少年、攘夷の若者
1840年、栄一は武蔵国の血洗島村に生まれた。今の埼玉県深谷市にあたる。父の市郎右衛門は、村でも指折りの豪農だった。養蚕と藍玉づくりと質屋を営んでいた。母は栄。幼名は市三郎、のち栄一郎、栄一。
渋沢家は農家というより、藍玉の商家に近かった。藍玉とは、布を青く染める染料のかたまりである。信州や上州で藍の葉を買い、武州の水と技で発酵させる。それを京都や大坂へ出荷した。
栄一は10代前半から、父について信州を回った。葉の質を見きわめ、仕入れ値を交渉し、蔵からの出荷を管理する。後年、彼はくり返し書いた。「私の商業の基礎は少年時代の藍玉にある」。理屈ではなく、帳簿と現物を照らし合わせて覚えた経営感覚だった。
学問は、従兄(いとこ)の(おだかじゅんちゅう)に習った。『』『大学』『中庸』を、幼いころから声に出して読んだ。の言葉が、こうして体に染みこんだ。剣術は神道無念流を学んだ。
20歳を過ぎたころ、栄一は尊皇攘夷の熱にかかった。天皇を敬い、外国人を追い払え、という運動である。1863年、23歳。従兄の渋沢喜作、尾高惇忠らと、高崎城の乗っ取りと横浜の焼き討ちを計画した。だが直前で中止した。
計画をやめた栄一は故郷を離れ、京都へ向かった。そして1864年、一橋家の家臣になった。一橋慶喜、のちの最後の将軍の家来である。幕府を倒そうとした若者が、一年で幕府側についた。この身の変え方の速さが、栄一の生涯を貫くことになる。そしてこの主君が、彼を海の向こうへ連れていく。
03パリ万博随行、晩餐の席で見たもの
1867年、パリで万国博覧会が開かれた。幕府の代表として送られたのは、徳川昭武、13歳。慶喜の弟である。その随行の会計係に、27歳の栄一が選ばれた。一橋家臣としての腕を、慶喜が見込んでの抜擢だった。
パリまで船で約60日。栄一はに付き従い、スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスを回った。このパリ万博随行が、彼の目を変えた。
パリで栄一が衝撃を受けたのは、株式会社と銀行の仕組みだった。工場主と銀行家と軍人が、対等に同じ晩餐の席に着く。資本と労働と知識が、制度で結び合わされている。日本では士農工商の身分が、人を切り分けていた。商人は武士の下、という秩序が染みついていた。
パリの銀行家たちには、という考えが流れていた。産業を興す者こそ社会を動かす、とする思想である。彼らは鉄道や運河、公益事業へ大きな資金を回していた。栄一の目にそれは、身分ではなく能力と資本で人を結ぶ装置と映った。人と資本を集めて事業を起こし、利益を配り、また投資する。この株式会社の発想を、栄一は晩餐の席ごしに直感した。
フランス滞在中、栄一はフランスの公債と鉄道の株を買った。その運用益を宿代と旅費に充てた。自分の小遣いで、資本が動くのを体験したのである。この実地の体験が、後のとの思想に直接つながる。
だが1868年、戊辰戦争が始まり、幕府は崩れた。栄一は昭武とともに、1868年末に帰国した。主君の慶喜は、静岡で謹慎の身だった。栄一はその静岡で、商法会所(しょうほうかいしょ)を立ち上げた。日本で最初期の、株式会社型の組織である。主君は負けた。だが栄一の手には、パリで見た仕組みが残っていた。
04次官の椅子を捨てて、銀行へ
1869年、大隈重信の強い勧めで、栄一は新政府の大蔵省に入った。29歳。租税、度量衡、貨幣、銀行。国の制度を一から設計する仕事だ。やがて大蔵大丞、今の次官にあたる位まで昇った。
上司は(いのうえかおる)、大蔵大輔である。その下で栄一は、国立銀行条例(1872年)の起草を担当した。これが、栄一の金融の仕事の本当の出発点になった。
しかし1873年、井上と渋沢は予算をめぐって西郷隆盛、大久保利通らと対立した。二人は連名で辞表を出し、下野した。官を離れたのである。33歳の栄一は、そのまま役所に戻らなかった。第一国立銀行の総監役、実質の頭取として民間に転じた。
「国立」という名だが、国が持つ銀行ではない。国立銀行条例にもとづく、制度上は民間の株式会社だった。アメリカのナショナルバンクという仕組みを訳した名前である。この銀行は、国立銀行条例にもとづく最初の銀行だった。日本で最初期の株式会社的な組織の一つとされる。ただし先に静岡の商法会所や通商会社があるので、それらと併せて評価される。
栄一は頭取として、実務の細部に入りこんだ。預金、貸付、為替、紙幣の発行、手形の割引。銀行員の教育、帳簿の様式の統一、信用調査の方法、不良債権の処理。どれも明治初期の日本に、前例のない仕事だった。栄一は手探りで、それを一つずつ制度にしていった。次官の椅子を捨てた男は、この一つの銀行で終わるつもりはなかった。
05五百の会社、合本主義
栄一は第一国立銀行の頭取を、1873年から1916年まで40年以上務めた。そのかたわら、次々に会社と業界の団体を立ち上げた。代表的なものを並べるだけで、近代日本のほぼ全業種にわたる。
- (1873年、抄紙会社として設立)
- 東京株式取引所(1878年)
- 東京商工会議所(1878年)
- 東京海上保険(1879年)
- 日本鉄道(1881年、日本最初の民営鉄道)
- 大阪紡績(1882年、後の東洋紡)
- 日本郵船(1885年、三菱系との合併支援)
- 東京電灯(1886年、東京電力の母体)
- 日本煉瓦製造(1887年、深谷)
- 札幌麦酒(1887年、のちのサッポロビール)
- 帝国ホテル(1890年)
- 共同運輸(三菱との競合を経て日本郵船に合併)
生涯に関係した会社は約500社。数え方によって470から600の幅がある。社会事業は約600団体。東京養育院、東京慈恵会、日本赤十字などである。関わり方は、創立発起人、相談役、取締役、株主、資金の斡旋、経営相談と様々だった。一人の経営者というより、「日本中の会社の産婆役」を演じた人物である。
この多産の土台には、栄一がくり返し語った合本主義(がっぽんしゅぎ)があった。一人の資本家が独占して持ち、経営するのではない。多くの人の小さな資本と知恵を集める。そして公益と利益の両方を生む事業を起こす。
栄一は株式会社の本質を「合本組織」と訳した。ここに彼の独自さがある。ただの英語の訳ではない。「同志が力を合わせて一つの事業の本(もと)を立てる」。儒学の色合いを帯びた言葉だった。少年の日に素読した儒学は、金もうけの現場でも本当に使えるのか。栄一は76歳で、その答えを一冊にまとめる。
06『論語と算盤』― 道徳経済合一
1916年、76歳の栄一はを出した。梶山彬が編み、忠誠堂が刊行した。1908年ごろからの講演や揮毫を集めた本である。体系だった書物というより、座談や講話の集まりに近い。それでも渋沢の思想の核は、この一冊に最も濃く残っている。
中心の命題は、(どうとくけいざいごういつせつ)である。儒学の言葉では義利合一とも呼ぶ。
- 道徳なき経済は、詐欺・独占・搾取に落ち、社会を壊す
- 経済なき道徳は、空論・偽善に落ち、人の暮らしを支えない
- 両者は対立せず、同じ仕事の両面として一つにされるべき
『論語』が説く忠恕(ちゅうじょ)・義・信の徳。それを近代の株式会社を動かす倫理として訳し直した試みだった。
ほぼ同じころ、ヨーロッパではマックス・ヴェーバーが本を書いていた。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904-05)である。資本主義と宗教倫理の関係を論じた本だ。だが渋沢とヴェーバーの間に、直接の交渉や相互参照はない。二人を「東西の経済倫理論の対比」として一概に並べるのは、後世からの後知恵である。その点には注意がいる。
栄一自身の言葉を引こう。
- 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」
- 「倫理と利益とは、元来二つにあらず、一つのもの」
- 「論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売はできまいかと考えた」
なぜ『論語』だったのか。一つは、少年の日に尾高惇忠のもとで素読した体験の厚みがあったからだ。もう一つは、儒学が東アジアの商人たちにも共有された倫理の言葉だったからだ。やのように、世界の成り立ちを問う学問ではない。孔子の言行録の実践の力を、片手の複式簿記と並べた。そうして近代資本主義の経営倫理として、よみがえらせたのである。だがこの明るい標語の裏には、影もあった。
片手に論語、片手に算盤。
07養育院60年、海を渡る老人
栄一の仕事は、会社と銀行だけではなかった。晩年に向けて重みを増したのが、福祉の事業と民間外交である。
東京養育院は、1874年から続く東京府の救貧施設だ。孤児、捨て子、老人、病人を保護する。栄一はその院長を、生涯60年以上務めた。自分の財産も多く投じた。
教育の支援も広い。日本女子大学校(1901年設立)では、成瀬仁蔵の設立運動を資金と人脈で支えた。国士舘(1917年設立)も支えた。東京慈恵会(1887年)は、後のを支える母体となった。二松学舎(三島中洲との関係)や、東京大学の経済学科にも支援を続けた。日本赤十字社では、佐野常民と協働した。
民間外交では、日米関係の改善に晩年まで走り回った。明治の末から大正にかけて、アメリカでは日本人の移民を排する法が問題になっていた。その緊張をやわらげるため、栄一は4度アメリカへ渡った。政府ではなく、民間の対話の道を保つためである。
とりわけ1909年、69歳の渋沢は渡米実業団の団長になった。大隈重信内閣の後押しのもと、約50名の経済人を率いた。3カ月にわたって全米を巡り、商工会議所、大学、大統領と会談を重ねた。
1927年の「青い目の人形」の交換は、その象徴である。アメリカの教会や学校から、日本の子どもたちへ1万3千体の人形が贈られた。日本からも市松人形58体がアメリカへ渡った。日米が戦争に入るまでの15年間、この人形が民間の友好のしるしになった。しかし同じ時期、渋沢の銀行と会社は、海の向こうで別の顔も持っていた。
08道徳経済合一の翳 ― 労働・植民地・朝鮮
『論語と算盤』の明るい標語の裏で、渋沢の資本主義も明治期日本の国策と無縁ではいられなかった。渋沢が関わった(1882)は日本初の大規模紡績工場として1,000人規模の女工を雇用したが、12時間二交代制の深夜労働を前提とした操業で、女工哀史の源流の一つに数えられる。渋沢自身は労働時間短縮や労働者教育を主張したが、工場経営の現場では低賃金・長時間労働が常態化し、後の富岡製糸場の官営から民営への移管を含め、明治日本の紡績業の発展は女工の身体を消費する構造の上に成り立っていた。
植民地・対外進出との関係も複雑である。渋沢が頭取を務めた第一銀行は1878年釜山支店開設を皮切りに朝鮮半島で支店網を広げ、1905年の日韓協約以降は韓国の事実上の中央銀行業務(紙幣発行・国庫金取扱)を担った。1909年に韓国銀行(後の朝鮮銀行)が設立されるまで、第一銀行券が朝鮮で広く流通していた事実は、植民地経済の制度設計に渋沢の銀行が直接組み込まれていたことを意味する。京釜鉄道(1901設立、ソウル-釜山)・京城電気の発起人にも渋沢は名を連ね、台湾でも台湾製糖(1900)など企業の設立に関わっている。日韓併合(1910)以後の朝鮮経営に渋沢の合本主義は制度的資源として持ち込まれ、結果として植民地収奪の構造を整えた側面を否定できない。一方、渋沢自身は粗雑な同化主義を批判し、朝鮮人の教育・産業育成を重視した発言も残すが、「日本資本による朝鮮近代化」という枠組みそのものには終生無自覚だった。
満鉄の対中国政策・日清韓改革への関与も、渋沢が完全に距離を取れたものではなかった。「民間の士」を自称したが、国策企業の設立と株式持ち合いの中心にいる以上、国家と資本の循環から独立することは事実上不可能だった。
渋沢の道徳経済合一は、個々の経営者の倫理規律としては強い射程を持つ一方、国家と資本の一体化が構造的に進む場面では批判の刃を向けにくい思想である。21世紀の読者が『論語と算盤』を現代のCSR・ESGの原典として参照する際、この限界を削り落とさずに受け取ることが、渋沢の思想を単なる企業倫理の美談から切り離して生かす条件になる。
片手に論語、片手に算盤。
09飛鳥山、ふたたびロビーへ
1901年、栄一は61歳で東京王子の飛鳥山に別邸を構えた。今の北区である。曖依村荘(あいいそんそう)と名づけられた邸宅は、和と洋の建築が混じっていた。渋沢の世界観をそのまま形にした空間である。晩香廬(ばんこうろ)と青淵文庫(せいえんぶんこ)の2棟は、いま国の重要文化財として残る。
栄一は経営の第一線に立ち続けた。1909年、古希の祝いを機に、銀行や取引所など60社余の役員を一斉に辞めた。実業界の一線から退く、という意思表示だった。1916年、76歳で第一銀行の頭取も正式に辞した。それでも相談役として、実務から離れなかった。80代でも毎日、丸の内の事務所に通った。手紙を書き、来客に応じた。
貴族院議員、勲一等、男爵、子爵。位はいくつも受けた。だが終生、「民間の士」の立場を崩さなかった。政府の高官への道を、断り続けたのである。福沢諭吉と同じ選び方だった。
そして1923年9月。関東大震災が、東京を襲った。83歳の栄一は、帝国ホテルのロビーに寝泊まりしたと伝えられる。罹災者救援の陣頭に立つためである。冒頭の場面に、私たちは戻ってきた。
なぜ老人はロビーにいたのか。この人にとって、会社を作ることと人を救うことは、別の仕事ではなかった。養育院の院長を60年、銀行の頭取を40年。二つは同じ手で握られていた。片手に論語、片手に算盤。83歳のロビーは、その標語をそのまま生きた姿だった。
1931年11月11日、栄一は飛鳥山の自邸で没した。91歳。前の年から体調を崩していた。それでも最後まで、口述で会社・慈善事業・民間外交の指示を出し続けた。葬儀は11月15日、青山斎場。谷中霊園に葬られた。戒名は泰徳院殿仁智義讓青淵大居士。
没後の評価は動いた。戦前は「財界の長老」として、国民的な英雄だった。戦後しばらくは、「日本資本主義の父」という呼び名が薄れた時期もあった。21世紀に入り、コーポレート・ガバナンス、CSR、ESG投資、ステークホルダー資本主義といった言葉が浮上する。すると『論語と算盤』の道徳経済合一は、100年前の先駆として読み直された。2024年7月3日、福沢諭吉に代わって新一万円札の肖像になった。発行の時点で、人口の約八割が日々手に触れる紙幣である。
老人は、私たちの財布に還ってきた。では、あなたの手はどうだろう。もうけを数える手に、何を握り続けるか。
10主要な出来事と著作
- 武蔵国血洗島村の豪農渋沢家に生まれる(新暦3月16日)
- 尾高惇忠に漢学・剣術を学ぶ。藍玉の買い付けで信州を巡回
- 高崎城乗っ取り・横浜焼き討ち計画を中止、京都へ出奔
- 一橋家(慶喜)に仕官
- パリ万博随行、会計係として欧州6カ国を歴訪。株式会社と銀行を学ぶ
- 静岡で商法会所を設立、日本最初期の株式会社型組織
- 大蔵省出仕、大蔵大丞として国立銀行条例等を起草
- 井上馨とともに下野、第一国立銀行総監役(頭取)として民間へ
- 東京商工会議所・東京株式取引所を設立
- 大阪紡績(後の東洋紡)設立
- 日本煉瓦製造(深谷)・札幌麦酒・東京慈恵会
- 帝国ホテル
- 飛鳥山曖依村荘(現旧渋沢庭園)に移居。日本女子大学校設立支援
- 古希(70歳)を機に第一銀行以外の役員職を一斉辞任。渡米実業団団長として全米を巡回
- 日米親善で4度渡米、民間外交の拠点を築く
- 76歳で第一銀行頭取を辞任。『論語と算盤』刊行
- 関東大震災、帝国ホテルで罹災者救援の陣頭指揮(83歳)
- 日米人形交換(青い目の人形、市松人形)
- 11月11日、飛鳥山で没。享年91。谷中霊園に埋葬
- 新一万円札の肖像として再登場、福沢諭吉から引き継ぐ
残した思想の輪郭
- 道徳経済合一説 ― 倫理と利益は対立するのではなく、同じ仕事の両面。道徳なき経済は犯罪、経済なき道徳は空論
- 合本主義(がっぽんしゅぎ) ― 資本と人の力を合わせる株式会社の東洋的翻訳、一人の独占ではなく多くの小さな資本と知恵の結集
- 論語と算盤 ― 儒学の『論語』を近代株式会社の経営倫理として復活させ、ヴェーバーと同時代の東洋版経済倫理を提示
- 民間の士 ― 終生官職を取らず、慶應の福沢と並ぶ「民間で国を動かす」生き方を全うした
- 500社、600事業 ― 銀行・紡績・保険・海運・鉄道・電力・ホテル・製紙・ビールと、近代日本のほぼ全業種の産業基盤を整備
- 養育院60年 ― 経済人としての顔の裏側で、孤児・棄児・老人の福祉事業に生涯を通じた私財投入
- 2024年の一万円札 ― CSR・ESG・ステークホルダー資本主義の時代に、道徳経済合一が100年ぶりに「現代の課題」として読み直されている
つながり
- 孔子
先駆 — 「片手に論語、片手に算盤」— 渋沢が銀行頭取の実務判断の指針に据えたのが、この人の教えだ。
- 福澤諭吉
同時代 — 渋沢と同じく官職を終生辞退し、言論と教育で近代日本のもう半分を築いた「民間の士」。
- 二宮尊徳
先駆 — 道徳と経済をひとつにする — 『論語と算盤』より先に、それを村の仕法で実践していた人。
さらに読むならFurther Reading
渋沢栄一の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門論語と算盤
渋沢栄一 / 角川ソフィア文庫
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生きた跡を辿るPlaces
渋沢栄一が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 渋沢史料館(飛鳥山)記念館
東京, 日本
北区飛鳥山の旧渋沢邸内。晩香廬・青淵文庫など重要文化財が残る
- 谷中霊園(渋沢栄一墓)墓所
東京, 日本
台東区谷中、渋沢家の広大な墓域。青淵院と呼ばれる顕彰碑も立つ
地図で見る →確認 2026-04-19 - 渋沢栄一記念館(深谷)生誕
深谷, 日本
埼玉県深谷市血洗島、渋沢の生誕地。生家「中の家」と併せて開設
さらに辿るならExternal References
渋沢栄一を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「渋沢栄一」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Shibusawa Eiichi"