始皇帝(嬴政)
永遠に生きようとした皇帝は、 なぜ自分の死まで隠されたのか?
六国を滅ぼして中華を統一し、郡県制と度量衡を敷き、万里の長城と阿房宮の影を遺して不老不死を求めた最初の皇帝
- 中国統一
- 法家
- 焚書坑儒
- 万里の長城
- 郡県制
五百年つづいた戦国の乱世。七つの国が殺し合うなか、秦だけが厳しい法で国を鍛え上げていた — ひらく
時代の空気
戦国時代の末期、商鞅変法(BC359-338)を経た秦は法家国家として完成しつつあった。軍功爵制が血統を超えて将兵を引き上げ、郡県制が宗族を解いて中央へ集めていく。墨家・名家・道家・儒家の諸子百家が論を競い、東方六国(韓魏趙楚燕斉)は離合集散を繰り返した。北辺は匈奴の馬蹄に脅かされ、南方では楚越の地への秦軍が進む。書写文字は大篆・小篆・隷書が地域で割れ、貨幣も刀銭・布銭・蟻鼻銭が並び立っていた。徐福ら方術士は東海の蓬莱に不老不死を探し、長江・黄河には灌漑が掘られ、儒家は古を語り、王朝はその語りを焼き、巡幸の途上で皇帝は崩じる。
01沙丘の夏 ― 隠された死
BC210年の夏。ひとりの男が、旅の途中で死んだ。場所は沙丘という土地で、今の河北省にあたる。男の名は始皇帝(しこうてい)。中国で最初の皇帝である。49歳だった。
彼は五度目の旅の帰り道にいた。天下を統一してから、この皇帝は何度も旅に出ている。目当ての一つは、不老不死(ふろうふし)の薬だった。永遠に生きるための薬を探して、彼は東の海へ人を送り続けた。その男が、旅の途中で病に倒れ、死んだ。
ところが、皇帝の死は隠された。知っていたのは、ごくわずかな側近だけである。宮中に仕える宦官の(ちょうこう)と、最高位の大臣である丞相の(りし)だった。皇帝の遺体を乗せた車は、そのまま都の咸陽へ向かった。死体のにおいを隠すため、塩漬けのアワビを積んだ車が並んで走った。漢の歴史家・司馬遷(しばせん)が書いた『』(しき)は、李斯でこの場面をそう記している。
死の直前、皇帝は遺言の手紙を残していた。長男の(ふそ)に、都へ帰って葬儀を取りしきれ、という内容だった。しかし扶蘇は、都から遠く離れた北の国境にいた。趙高はこの手紙を書き換えた。末の子の胡亥(こがい)を次の皇帝にし、扶蘇には死を命じる偽の手紙を送った。扶蘇はそれを受け入れて、自ら命を絶った。
ここに、いくつもの「なぜ」がある。永遠に生きようとした皇帝は、なぜ死をアワビのにおいで隠される身になったのか。「万世(ばんせい)に伝える」と宣言した帝国は、なぜ手紙一通の書き換えでゆらいだのか。そして、なぜ後継ぎの扶蘇は、父のそばではなく国境にいたのか。答えを知るには、時を四十九年前に戻さなければならない。場所は秦(しん)ではない。敵国である趙(ちょう)の都だ。
02邯鄲の人質の子
BC259年、趙の都・邯鄲で、一人の男の子が生まれた。曾祖父(ひいおじいさん)にあたる(しんのしょうじょうおう)が、まだ秦の王だった頃である。父は秦の王族の子楚(しそ)。だが子楚は、秦から趙へ送られた人質だった。母は趙姫(ちょうき)という。子は政(せい)と名づけられた。
秦の王家の姓は嬴という。だから後の世は、この子を嬴政(えいせい)と呼ぶ。趙で生まれたことから、趙政(ちょうせい)とも呼ばれる。
父の子楚には、後ろだてがいた。邯鄲の大商人、(りょふい)である。子楚は秦の王家の血を引いていたが、正妻の子ではなかった。王になる望みは、遠かった。それでも呂不韋は、子楚に金と知恵をつぎこんだ。「奇貨居くべし」――珍しい品物は、仕入れておく値打ちがある。『史記』呂不韋列伝は、彼がそう考えて投資したと記す。
政が三歳のとき、秦の軍が邯鄲を囲んだ。父の子楚は、呂不韋の手引きで秦へ逃げた。母と子は、邯鄲に取り残された。二人は追っ手から逃れ、町のどこかに身をひそめた。政が父と再会したのは、九歳のころである。母とともに、ようやく秦の都・咸陽へ送り届けられた。
そこから、王位は急に近づいた。BC251年、秦の孝文王(こうぶんおう)が即位して、わずか三日で亡くなった。子楚が秦王となった。荘襄王(そうじょうおう)である。その荘襄王も、即位三年で亡くなった。BC247年、政は秦王になった。満12歳、当時の数え方では13歳だった。
少年の王に、政治はできない。実際の力は、呂不韋が握った。呂不韋は相国という最高の地位につき、「仲父(ちゅうほ)」――父に次ぐ人、と呼ばれた。もう一人、母の太后(たいこう)に気に入られた嫪毐という男も、力をふるった。この時期は、およそ九年つづいた。
BC238年、数えで22歳の秦王政は、雍という町で成人の儀式を行った。そのさなかに起きたのが、(ろうあいのらん)である。王は反乱を鎮め、嫪毐を車裂きの刑にした。母は雍に閉じこめた。翌年、呂不韋を相国の地位から追い、遠い蜀の地へ流すよう命じた。呂不韋はその途中、毒をあおいで自ら死んだ。
父の代わりだった男と、母の男。22歳の王は、その二人を自分の手で消した。宮廷の中に、王より強い者はもういない。では、宮廷の外には。六つの国が、まだ残っていた。
03十年で六つの国を
自分の手で政治をとりはじめた王は、一人の男を重く用いた。李斯(りし)。楚の国の出身で、思想家の荀子に学んだ男だった。李斯は、韓非子という思想家の本を秦王に読ませた。王は、こう嘆いたという。「嗟乎、吾れ此の人を見、之と遊ぶを得ば、死するも恨まず」――ああ、この人に会って語り合えるなら、死んでも悔いはない。
韓非子は韓の王族だった。韓を救うために秦へ使いに来たが、李斯の中傷によって獄の中で死んだ。BC233年のことである。王は韓非の死を悔いたと、『史記』老子韓非列伝は記す。
韓非子の教えは、法家(ほうか)と呼ばれる。法(きまり)と、術(人を動かす技)と、勢(位の力)。この三つで、君主が国のすべてを握る。秦は、この考えを帝国づくりの柱にした。
BC230年、秦は韓を滅ぼした。将軍は内史騰である。そこから十年、秦の軍は止まらなかった。BC228年に趙、BC225年に魏。BC223年には、将軍王翦が六十万の大軍で楚を破った。BC222年には、将軍王賁が燕を滅ぼす。燕はその五年前、荊軻という刺客を秦王のもとへ送った国だった。そしてBC221年、最後に残った斉は、戦わずに降伏した。五百年つづいた戦国の分裂が、わずか十年で終わった。
秦王政、数えで39歳。王は天下に、統一を告げる文書を出した。「寡人以眇眇之身、興兵誅暴乱、頼宗廟之霊、六王咸伏其辜、天下大定」――この小さな身で兵を起こし、乱れた世を正した。六人の王はみな罪に伏し、天下は定まった。
次に王は、自分の呼び名を決めさせた。「王」では、もう足りない。大昔の伝説の君主、三皇(さんこう)と五帝(ごてい)。その「皇」と「帝」を合わせて、「皇帝(こうてい)」という呼び名を作った。自分は、その最初の皇帝。だから「始皇帝」である。「始」は、はじまりの意味だった。二世、三世と続き、万世まで伝える。そういう意図がこめられていた。
朕、始皇帝為(た)れ。後世、数うるを以てし、二世・三世、万世に伝え、窮まり無からしめん
皇帝は、色も決めた。(ごとくしゅうしせつ)という考えがあった。陰陽家の鄒衍が説いたもので、王朝は五つの「徳」を順にめぐる、という説である。前の王朝・周は火の徳だった。火に勝つのは水。だから秦は水の徳を名乗り、服も旗も黒でそろえた。数は六を尊び、黄河を「徳水(とくすい)」と呼び変えた。
「万世に伝える」。そう宣言した皇帝の前に、しかし、すぐに問題が現れた。剣で勝ちとった天下を、どうやって治めるのか。宮廷は、その答えをめぐって二つに割れた。
04焼かれた書物、埋められた人々
丞相の王綰らは言った。「諸侯を分封して宗室を守るべし」。皇帝の一族を各地の王にして、帝国の守りにせよ、という意味である。昔の周のやり方、封建制(ほうけんせい)を部分的にでも復活させる案だった。
李斯は真っ向から反対した。「周の衰えは諸侯の分立に在り」。周が弱ったのは、各地の王が勝手に力を持ったからだ、と。始皇帝は李斯の案をとった。全国を36の郡に分け、その下に県を置く。郡や県の長は、皇帝が直接選び、直接やめさせる役人にする。これが(ぐんけんせい)である。血のつながりで治めるか、役人で治めるか。この対立は、その後二千年の中国政治の、いちばん太い軸になった。
八年後のBC213年、咸陽の宮殿で宴が開かれた。学問をつかさどる役人、博士(はかせ)の淳于越が、また封建制を持ち出した。李斯は、これを厳しく責めた。「私学もて法教を譏誹(きひ)す」。民間の学問が、国の法と教えをそしっている、と。そして李斯は、こう献策した。秦の記録、医薬、占い、農業の本以外は、すべて焼く。とくに『詩』『書』と『百家語』――諸子百家の書物を焼く。学者が集まって、昔を持ち出して今を批判することを禁じる。破った者は、一族皆殺し。始皇帝はこれを認めた。焚書(ふんしょ)である。
翌BC212年、今度は人が埋められた。きっかけは、不老不死の薬を探していた方士たちである。方士とは、仙人の術や薬を扱う人々をいう。(じょふく)や侯生・盧生は、薬が見つからない責めを恐れて逃げた。そして逃げた先で、始皇帝の悪口を言った。皇帝は激しく怒った。咸陽の儒者(じゅしゃ)と方士を捕らえ、460人あまりを穴に生き埋めにした。『史記』秦始皇はそう記す。坑儒(こうじゅ)である。書物を焼き、学者を埋める。二つ合わせて、(ふんしょこうじゅ)と呼ばれる。
このとき、父をいさめた者がいた。長男の扶蘇である。始皇帝は怒り、扶蘇を咸陽から遠ざけた。北の国境の上郡で、将軍蒙恬の三十万の軍を監督せよ、という名目だった。罰としては、それだけに見える。だが後継ぎが都から消えたことの意味は、二年後に明らかになる。
05二千年つづく骨格
書物を焼くのと同じ時期に、帝国の骨格が組まれていった。
まず、郡県制の中身である。各郡には、守(しゅ)・尉(い)・監(かん)の三人を置いた。行政と軍事と監察を、それぞれ別の役人が受け持つ。三人とも、中央から送られてくる。郡の下の県にも、県令(けんれい)などの役人を任じた。血のつながりではなく、役目で動く国のしくみが、ここでできた。
次に、文字。それまで、国ごとに字の形がちがっていた。李斯はこれを整理し、小篆という書体を標準にした。のちに程邈という牢屋の役人が、隷書を考え、公文書の実用の書体になった。漢字を使う地域が、今も同じ文字を共有している。その土台がここで据えられた。
長さ・量・重さの単位も、貨幣もそろえた。秦を法で作り変えた改革者、(しょうおう)が百年以上前に秦の国内で行った統一を、全国に広げたのである。貨幣は、半両銭(はんりょうせん)という丸い銭に決めた。真ん中に四角い穴があいている。この形が、その後二千年の中国の銅銭の基本になった。
馬車の車輪の幅も、六尺にそろえた。馳道という国の幹線道路を整え、咸陽から東・北・南へ放射状に道を伸ばした。物と軍を運ぶ、国の血管である。
北には、(ばんりのちょうじょう)。将軍蒙恬が三十万の軍を率い、北の遊牧民・匈奴を河套の地から追い払った。そして燕・趙・秦がすでに築いていた北の城壁を修理し、つなげた。長さは「万里」――数千キロと記される。今残る長城は、はるか後の明の時代のものである。だが北の遊牧の民との、千年つづく境界線は、ここで引かれた。
宮殿も造った。BC212年、咸陽が手狭になり、渭水の南岸に(あぼうきゅう)を建てはじめた。『史記』は、前殿だけで「東西五百歩、南北五十丈」と記す。そして、自分の墓。始皇帝陵(しこうていりょう)は、王になった当初から造られ、数十年かかった。その墓を守るように並ぶのが、兵馬俑(へいばよう)である。実物大の兵士と馬の焼き物が、八千体あまり。1974年、井戸を掘っていた農民が偶然見つけた。
秦は十五年で滅びる。しかし、秦が組んだこの骨格は、次の漢の帝国にそのまま受け継がれた。二千年つづく国のかたちを作った男は、自分の命だけは、思うようにならなかった。
06東の海のむこうに
天下を統一してから、始皇帝は五度、旅に出た。BC220年、219年、218年、215年、そして210年。ただの見回りではない。BC219年には、泰山の頂で封禅を行った。天と地に統一を報告する、古い祭りである。行く先々に、石碑を立てた。琅邪台刻石、泰山刻石。李斯の小篆の代表作である。
そして、東の海。方士の徐福が献策した。東の海に三つの神の山がある。蓬莱、方丈、瀛州。そこで不老不死の薬を探す。始皇帝は、少年少女三千人と多くの職人を船に乗せて送り出した。BC219年と、BC210年の二度である。徐福は、帰ってこなかった。侯生・盧生・韓終・石生といった方士たちも、山東半島や遼東へ薬を求めて遣わされた。薬は、見つからなかった。
晩年の始皇帝は、咸陽の宮殿の中に自分のいる場所を秘した。どこにいるかを、家臣にも告げなかった。そうすることで「真人(しんじん)」――死を超えた存在になろうとした、と『史記』は伝える。
法で人を動かし、剣で天下をとった男。その男が最後に統べようとしたのは、自分の死だった。BC210年、始皇帝は五度目の旅に出る。帰り道の途中に、沙丘があった。
07沙丘、ふたたび
冒頭の場面に戻ろう。BC210年7月、沙丘平台で始皇帝は病に倒れ、亡くなった。49歳だった。
遺言の手紙は、長男扶蘇に宛てられていた。都へ帰って、葬儀を取りしきれ。それは、扶蘇を後継ぎにするという意味だった。だが扶蘇は、二年前に父自身が北の国境へ追いやっていた。手紙は、はるか北の上郡まで届かなければならない。その手紙を握っていたのが、宦官の趙高だった。
趙高は、丞相の李斯を抱きこんだ。二人は手紙を書き換え、末の子の胡亥を二世皇帝にした。扶蘇と将軍蒙恬には、偽の手紙で自殺を命じた。扶蘇はそれを受け入れて自ら死んだ。蒙恬は抵抗したが、毒で殺された。一行は皇帝の死を隠したまま、アワビの車とともに咸陽へ帰った。(さきゅうのへん)である。帝国の中心で起きたこの書き換えが、秦が崩れる引き金になった。
冒頭の「なぜ」に答える材料は、もう出そろっている。皇帝は生きているうちから、自分のいる場所を隠していた。後継ぎは、皇帝自身が遠ざけていた。そして遺言の手紙は、宦官の手の中にあった。
二世皇帝胡亥の時代は、さらに苛烈だった。趙高は鹿を連れてきて「馬です」と言い、家臣たちがどう答えるかを試した。(しろくいば)の故事である。その趙高は、丞相の李斯さえも偽りの罪に落とし、咸陽の市場で腰斬――腰から切る刑にした。BC208年のことである。
BC209年7月、陳勝と呉広が反乱を起こした。二人は国境の守りに送られる途中、大雨で行軍が遅れた。遅れれば死罪。それを恐れて、大沢郷で立ち上がった。である。反乱は野の火のように、全土に広がった。最後に勝ち残ったのは、(こうう)と劉邦(りゅうほう)だった。BC207年、趙高は胡亥を追いつめて自殺させた。次に立てられた子嬰は、趙高を殺した。しかし咸陽に迫った劉邦に、子嬰は皇帝の印を差し出して降伏した。秦は、始皇帝の死からわずか四年で滅んだ。統一から数えても、十五年だった。
朕、始皇帝為(た)れ。後世、数うるを以てし、二世・三世、万世に伝え、窮(きわ)まり無からしめん。
万世を意図した号は、二世で絶えた。郡県制も、文字も、道も、長城も、二千年残った。残らなかったのは、それを作った男の王朝だけだった。すべてを自分ひとりで統べようとした人間は、自分の死の後を、いったい誰に託せばよかったのだろうか。
08考証 ― 『史記』の数字と発掘のあいだ
出生をめぐる疑念。母趙姫はもともと邯鄲の名妓で呂不韋の愛妾であったとされ、子楚に嫁いでまもなく嬴政を産んだことから、「呂不韋こそ実父ではないか」という疑念が『史記』呂不韋列伝にも書き留められている。漢初の儒家による秦正統性の毀損とも、史実の反映ともとれる、二千年来の論争の種である。
焚書坑儒の実相は、現代の考証では規模・対象ともに史記の数字通りではない可能性が議論される。坑じられた460余人は儒家の経学者というより方術士・術数家の比重が高く、また「焚書」も民間所蔵書を国家管理に集約する側面を伴っていた、と読む研究もある。一方で、漢初の儒家による秦批判が数字を膨張させた可能性も指摘される。思想を政治が裁けるという前例を開いた点で、その象徴性は揺るがない。中国における「言論への権力の介入」の最古・最大の事例として、二千年にわたって参照され続けている。扶蘇の追放もまた、単なる懲罰にとどまらず、後継者の所在を中央から遠ざけたことで、二年後の沙丘の変の伏線となった。
阿房宮は秦滅亡時には完成を見ず、項羽が咸陽入城の際に焼いたと長く信じられてきたが、近年の考古発掘では大規模な焼失層は前殿の基壇には確認されておらず、「未完の宮殿」として残された可能性が高まっている。
始皇帝陵の外陣に相当する兵馬俑(現在世界遺産)は、1974年3月、陵東1.5キロの西安市臨潼区の農民が井戸を掘った際に偶然発見された。発掘された一号坑から三号坑までで約8000体の実物大陶俑が確認され、秦の兵制と芸術水準が二千二百年を経て具体的に蘇った。『史記』は陵墓内部を「水銀を以て百川江河大海と為し、機もて相灌輸す」と記す。現代の土壌水銀含有量調査はこの記述を部分的に支持しているが、中心の地下宮殿は技術的・考古学的理由から未発掘のまま、後世に委ねられている。
徐福東渡伝説は日本各地(熊野・富士吉田・佐賀など)に地方伝承として残るが、史的実在の検証は困難である。不老不死への執念は、合理の頂点としての法家君主が、人間の死そのものを統治の埒外に追いやろうとした最後の試みでもあった。皇帝号の創始は、王から皇帝へ、中華の最高権力者の呼称の決定的転換であり、封建と郡県の対立は、以後中国二千年の政治思想の基本軸となった。
09主要な出来事と遺産
- 趙の邯鄲で生まれる。父は秦の王孫子楚、母は趙姫
- 荘襄王崩御、13歳で秦王に即位。呂不韋が相国として摂政
- 22歳で親政開始、嫪毐の乱を鎮圧。翌年呂不韋を罷免
- 韓・趙・魏・楚・燕・斉を次々に滅ぼし天下統一
- 皇帝号を創始、始皇帝となる。郡県制・文字統一・度量衡統一・貨幣統一を断行
- 五度の巡遊、泰山封禅、琅邪台刻石、東海への不老不死探索
- 将軍蒙恬に30万の軍で匈奴を討ち、万里の長城を連結
- 焚書令、『詩』『書』『百家語』を焼く
- 坑儒、咸陽で460余人の儒生・方士を埋殺。扶蘇を上郡に左遷
- 第五次巡遊の帰途、沙丘平台で崩御。享年49。趙高・李斯が遺詔を改竄、胡亥を二世皇帝に擁立
- 陳勝・呉広の乱勃発
- 子嬰が劉邦に降り秦滅亡(統一から15年)
- 西安臨潼で兵馬俑坑が発見される
残した思想の輪郭
- 皇帝号 ― 王から皇帝へ、中華の最高権力者の呼称の決定的転換、以後二千年の君主像の枠
- 郡県制 ― 封建から官僚制へ、血縁に基づかない中央集権の原型、漢以降の王朝の標準形
- 文字・度量衡・貨幣の統一 ― 帝国を物理的・文化的に束ねるインフラ、東アジア漢字圏の基盤
- 万里の長城 ― 北方遊牧民との千年の境界線の原型、農耕文明と遊牧文明の境界観念そのもの
- 焚書坑儒 ― 思想を政治が裁く最古・最大の事例、以後「言論への権力の介入」の参照点
- 法家の実装 ― 韓非子・李斯の法術勢が統一帝国の運営原理へ、効率と苛酷の両面が露呈
- 短命と遺産 ― 統一15年・崩御4年で帝国は滅ぶが、敷いた骨格は漢に継承され二千年続く
つながり
- 韓非子
先駆 — その書に秦王が嘆息した思想家。法・術・勢は、帝国の骨組みに実装された。
- 孔子
対比 — 焚書の火が焼いたもののなかに、この人の伝えた『詩』と『書』があった。
- 司馬遷
継承 — 帝国の統一と崩壊を冷徹に記し、後世の断代史の範型を作った史家。
生きた跡を辿るPlaces
始皇帝(嬴政)が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 秦始皇帝陵博物院(兵馬俑)記念館
西安, 中国
始皇帝の陵墓と兵馬俑坑。世界遺産、古代史最大の考古発見のひとつ
この人が描かれた作品Portrayals
始皇帝(嬴政)が登場する、または題材になった作品。 物語で出会った姿から、実際に生きた跡へ。
主人公・題材キングダム
漫画 / 2006年 — 中華統一を目指す若き嬴政(のちの始皇帝)を主要人物として描く。
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さらに辿るならExternal References
始皇帝(嬴政)を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「始皇帝」項
WikipediaWikipedia 日本語版「秦」項
始皇帝が統一した王朝の解説
WikipediaEnglishWikipedia English — "Qin Shi Huang"