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芸術的直観

フレデリック・ロー・オルムステッド

Frederick Law Olmsted·1822–1903·アメリカ·

公園は、誰のものなのだろう? 芝生の上で、人は同じになれるのだろうか?

Central Park を起点に、全米の都市と大学と国立公園を景観として設計し直したランドスケープの父

  • Central Park
  • Prospect Park
  • ランドスケープ・アーキテクチャ
  • Greensward
  • ビルトモア
工場と移民で都市がふくれあがり、金持ちの街と貧しい街が分かれ、奴隷制をめぐって国が割れかけていた時代 — ひらく

時代の空気

19世紀中葉から末の合衆国は産業革命と移民流入で都市が急膨張した時代だ。ニューヨーク市は1850年51万から1900年344万へ膨れ、貧民街と富裕街の分離が進んだ。ダウニングとヴォーのロマン主義景観論を背景に、1857年セントラル・パーク設計競技が公園運動の幕を開け、フレデリック・ダグラスら反奴隷制論が高揚した。1861-65年の南北戦争で合衆国衛生委員会が野戦医療を担い、1864年リンカーン署名のヨセミテ保護、1885年ナイアガラ保護、1893年シカゴ万博、Gilded Age のヴァンダービルト庭園——市民公園運動の原型が刻まれた半世紀だった。

01自分で造った緑の中で

1903年8月28日。マサチューセッツ州ウェイヴァリーので、ひとりの老人が息を引き取った。81歳。フレデリック・ロー・オルムステッド(Frederick Law Olmsted)。ニューヨークのを設計した人である。

この病院の敷地の緑は、彼自身の事務所が設計したものだった。設計者は、自らが造った緑のなかで死んだ。記憶の障害が深まって引退したのが1895年、73歳。1898年からはほぼ寝たきりで、この病院に入院していた。

彼は大学に行っていない。船乗りをし、農夫をし、新聞記者をした。36歳でセントラル・パークの設計競技に勝ち、そこから40年、アメリカ中の公園と大学と森を設計した。

なぜ、大学に行かなかった農夫が、公園に人生を賭けたのか。彼は、芝生の上に何が起きると信じていたのか。そして、造った本人が最後にその緑のなかで死ぬとは、どういうことなのか。

時は60年あまり前、1840年に戻る。

02大学に行けなかった青年

1840年、18歳のオルムステッドは、イェール大学に入るつもりだった。ところが直前に、目を痛めた。7歳のときから、目に漆毒症しつどくしょう(ツタウルシの毒による炎症)が出やすい体質だったのである。入学はあきらめ、ニューヨーク市の商会で店員として働き始めた。

彼は1822年4月26日、コネチカット州ハートフォードに生まれた。父ジョンは布地や雑貨を売る商人で、店は繁盛していた。母シャーロットは彼が3歳のときに亡くなり、父はメアリー・ブルと再婚した。継母との仲はよく、弟ジョン・ハルとは生涯の相棒になる。

目の病気のせいで、学校には通ったり通わなかったりだった。父は息子を学校に縛りつけなかった。家庭教師と牧師と農場の手伝いで、教育を補った。少年は森と川と海岸を、10年のあいだ自由に歩き回った。景色を見る目は、ここで育った。マサチューセッツの学校(フィリップス・アンドーヴァー・アカデミー)でも一時学んだが、目の不調は続いた。

店員の仕事は長く続かなかった。20歳をこえたころ、中国茶を運ぶ船「ロナルドソン号」に船乗りとして乗り込んだ。中国とジャワへの往復である。壊血病かいけつびょうや脚気かっけにかかり、やせ細って帰ってきた。海の暮らしは、もうこりごりだった。

次に選んだのは、農夫の道だった。1843年から3年間、ニューイングランドで農業を学んだ。1848年、父の助けでスタテン島に125エーカーの農場を買い、新しい農法を試した。農場は思ったほどうまくいかなかった。それでも農学と樹木と土と温室の基礎が、ここで身についた。

1850年、弟ジョン・ハルと友人ウォルター・ヘンリーとともに、英国を歩いて旅した。この旅は1852年、『英国農夫の散歩と語らい』という本になった。彼の最初の本である。そして同じ年、30歳の農夫のもとに、ある新聞社から仕事の依頼が届く。

03南部を歩いた記者

依頼主はニューヨーク・デイリー・タイムズだった。今のニューヨーク・タイムズの前身である。編集長ヘンリー・ジャーヴィス・レイモンドは、南部の奴隷制について書いてほしいと頼んだ。1852年から57年まで、彼は三度、南部を旅した。

記事は「ヨーマン(Yeoman)」という筆名で連載された。ヨーマンとは、自分の土地を耕す小さな農民のことである。農夫だった彼らしい名前だった。記事は1856年から61年にかけて、三冊の本にまとめられた。『奴隷州の海岸の旅』『テキサス越境の旅』、そして『』である。

彼の書き方は、ただ「奴隷制は悪だ」と叫ぶものではなかった。奴隷制は南部の経済をだめにしている。白人の小さな農民が自分の土地を持つのを、じゃましている。土地を荒らしている。そう、観察を積み重ねて冷静に示した。北部の人々に大きな影響を与え、リンカーンもこれを読んでいた。

農夫で、記者で、本の著者。だが彼はまだ、公園をひとつも造っていなかった。1857年の秋、ニューヨークで、ある公募が始まる。

04三十三の案のなかから

1857年秋、ニューヨーク市の中央公園委員会が、公園の設計案を公募した。セントラル・パーク(Central Park)は、1853年に法律で決まった事業である。市民のための大きな公共公園としては、世界で最初級のものだった。広さは843エーカー(341ヘクタール)。今の面積と同じである。

場所はマンハッタンの真ん中、59丁目から110丁目まで。当時そこは、岩と湿地の広がる未造成の土地だった。もそこにあった。アフリカ系の自由民と移民が、1,600人ほど暮らす集落である。

その年の終わり、建築家が、無名の農夫上がりのオルムステッドを誘った。一緒に応募しないか、と。ヴォーは英国生まれで、(米国で最初の景観建築家)の相棒だった人である。自然の姿を生かした公園づくりに、強い関心を持っていた。

1858年4月28日。二人の案「Greensward Plan(グリーンスワード案)」が、33の応募のなかから一等に選ばれた。グリーンスワードとは、広がる芝生という意味である。

案の中身は、こうだった。公園を横切る4本の道路を、地面より低く掘り下げて通す。そうすれば公園の景色が道路で切れない。岩は削らず、地形をそのまま生かす。芝生、森、水、岩場という4種類の景色をつなげる。馬車、歩く人、馬に乗る人の道を、すべて分ける。橋や東屋は、景色に溶け込むように石と鉄で慎重に造る。どれも、のちの都市公園すべての手本になった発明だった。

公園は共和国の肺である。誰もが同じ芝生の上を歩けるように。

— 1858年、セントラル・パーク着工の年。『Central Park 第一次年次報告』序文の論旨を、編者が凝縮した要旨訳

1858年8月、工事が始まった。オルムステッド36歳、ヴォー33歳。オルムステッドは主任建設監督として、3,000人から4,000人の労働者を指揮した。着工と同時に、セネカ・ビレッジは強制的に収用され、住民は追い出された。この暗い事実は、2010年代にコロンビア大学の考古学調査で改めて光が当てられることになる。

1859年までに湖ができた。1862年までにモール(並木の広場)、1863年にランブル(林の小道)。完成は1873年。15年かかった。だが、その途中で国が割れる。

05戦争と鉱山と、ヨセミテの谷

1861年、南北戦争が始まった。同じ年の6月、オルムステッドは(U.S. Sanitary Commission)の事務局長に任命される。公園の現場を離れ、ワシントンDCに移った。この委員会は、戦場の衛生や野戦病院の医療、看護の管理を担う組織である。今の赤十字の前身のひとつとされる。看護師クララ・バートンや、外科医ヘンリー・ボウディッチと働いた。

2年の激務だった。公園の現場との二重の負担に耐えきれず、1863年9月に辞任した。次に向かったのはカリフォルニアである。マリポサ鉱山会社の管財人として、2年を過ごした。

この西海岸での日々に、大きな仕事がひとつ加わる。1864年6月30日、リンカーンがヨセミテ・グラント(ヨセミテ渓谷を公の保護地にする法)に署名した。オルムステッドは(ヨセミテ渓谷保護委員会)の委員長を務めた。「風景を公が守る」という政策は、ここから始まった。1872年のイエローストーン国立公園、1916年の国立公園局へとつながる道である。

私生活には、悲しみがあった。1857年、弟ジョン・ハルが結核で亡くなった。1859年6月、彼は弟の寡婦かふメアリー・クリーヴランド・パーキンズと結婚し、弟の遺児たちを引き取って育てた。息子ジョン・チャールズ、フレデリック・ロー・ジュニア、娘マリオンらの名が伝わる。続柄の整理は史料により異なるが、家としては一本につながっている。

1865年、43歳でニューヨークに戻った。ヴォーと事務所を再開する。セントラル・パークの仕上げと並んで、新しい依頼が次々に舞い込んだ。

06公園をつなぎ、森を育てる

最初の大仕事は、ブルックリンの(Prospect Park)だった。1866年に着手し、1873年に完成。ヴォーとの共同設計で、広さは526エーカー。地形の変化はセントラル・パークより豊かで、湖と森と草原が、より大胆に組まれている。「もし Prospect Park だけが残ったなら、私はそれで満足する」とオルムステッドは語ったとされる。彼自身が最高作と考えた公園である。

仕事は北へも広がった。1873年からは、カナダ・モントリオールの丘を市民公園にする仕事(モン・ロワイヤル公園)を手がけた。1872年から85年にはに加わる。観光業者の乱開発で荒れたナイアガラの滝の周辺を、公のものとして守る運動である。英国の景観論者とも手を組んだ。1885年、ニューヨーク州立のナイアガラ・リザベーションが成立した。北米で最初級の州立公園である。

ボストンでは、街を囲む9つの公園を11キロの緑の道でつないだ。(Emerald Necklace、エメラルドの首飾り)と呼ばれる。1878年から96年にかけての仕事である。そのひとつバック・ベイ・フェンズでは、湿地の生きものの世界を取り戻す工事をした。生態系を考えた景観設計の、原型とされる。

シカゴ郊外では、リバーサイドという町を設計した(1869年)。駅を中心にした丸い街区と、曲がった道。川と大木をそのまま生かした住宅地である。のちにが『明日の田園都市』(1898年)で唱える考えの、はるかな先駆けだった。ワシントンDCでは、合衆国議会議事堂の敷地を設計し直した(1874年から92年)。

カリフォルニアでは、スタンフォード大学のキャンパスを設計した(1886年から90年)。上院議員レランド・スタンフォード夫妻の依頼である。棕櫚しゅろ並木と煉瓦のアーケードが連なる、地中海風の大学。このは、西海岸の大学景観の手本になった。

1893年、71歳。計画に加わった。やチャールズ・マッキムと組み、湿地を運河と島で造り直した会場は「White City(白い都市)」と呼ばれた。のちの(City Beautiful)は、ここから始まる。

最後の大作は、ノースカロライナ州アッシュビルのだった(1888年から95年)。大富豪ジョージ・ワシントン・ヴァンダービルト2世の、8,000エーカーをこえる私有地である。米国最大の個人邸宅のまわりに庭園を造り、その外に広い森を育てた。この森は、米国で最初の科学的な森林管理の実験場だった。のちの米国林野部(1905年)と、イェール大学の林業大学院の源になる。彼は73歳になっていた。

1895年、記憶の衰えがはっきりし、自ら引退した。事務所は息子フレデリック・ロー・ジュニアと甥ジョン・チャールズが、Olmsted Brothers として引き継ぐ。以後60年で、全米6,000件をこえる公園と大学と住宅地を手がけた。

これだけの仕事のすべてに、彼は何を通していたのか。

07芝生の上の民主主義、そして職能の発明

オルムステッドの景観哲学は、単なる庭園技法ではなかった。公園は共和国の機能する装置である、という強い確信があった。

(1) 階級を越える共有空間。19 世紀半ばのニューヨーク市は、急激な人口流入(1850 年 51 万人 → 1870 年 94 万人 → 1900 年 344 万人)の圧力下で、労働者街と富裕住宅街の分離が進みつつあった。オルムステッドは「公園は、貧民と富裕層が同じ芝生の上を、同じ歩みで歩く唯一の場所である」(『Central Park 第一次年次報告』1858)と書いた。この民主的機能 ― 芝生の上に階級差は現れない ― こそが公園の第一義だった。

(2) 静寂(pastoral)と崇高(picturesque)の交替。一枚岩の広い芝生に立つと視界が開けて気持ちが鎮まる(静寂的景観、pastoral)。隣接する岩場に入り込むと鬱蒼うっそうと木陰が迫り不思議な高揚がある(崇高的景観、picturesque)。この 2 モードを一つの公園内で交互に配置することで、都市生活者の精神的疲労が段階的に解体されるとオルムステッドは考えた。イギリス風景庭園(ランプトン・ハンフリー・レプトンらの 18 世紀系譜)の米国的応用。

(3) 労働の不可視化。公園の景観から、造成の人工性・労働の痕跡を徹底的に隠す設計原則。実際の Central Park は、湖・山・芝生・森の全てが土運搬・岩爆破・植栽・配水の組合せで人工的に造られたのだが、完成した景観からはその痕跡が消されている。「自然は造られるのではない、呼び起こされるのだ(Nature is not created, it is called forth)」というオルムステッドの設計原則は、日本の枯山水・借景の感性とも響き合う。

(4) 商業広告の排除・動物の制限・法的保護。公園内の看板・商業広告・動物放牧を制定条例で厳しく制限し、「公園は商業空間ではない」という原則を制度的に守った。現代の「パブリック・スペース」概念の起源の一つ。

これらの哲学は、単に Central Park の事業記録として残されただけでなく、アメリカ全土の数百の都市公園と大学キャンパスと国立公園の設計思想として連続的に適用される。

ランドスケープ・アーキテクチャ(landscape architecture、景観設計)という職能名は、オルムステッド自身が Central Park の肩書きとして「Landscape Architect in Chief」と名乗ったところから一般化した。それ以前、類似の仕事はランドスケープ・ガーデナー(景観庭師、Andrew Jackson Downing 世代)かランドスケープ・デザイナーと呼ばれたが、オルムステッドは建築家の専門職に対等の位置を景観設計者に与えるため、意図的にこの新語を普及させた。1899 年、オルムステッド・ジュニアと甥ジョンを中心に米国景観建築家協会(ASLA、American Society of Landscape Architects)が創設され、職能は制度として確立する。1901 年 ASLA はハーヴァード大学景観建築学科(米国初の景観建築学位課程)の設置を支援した。1917 年、オルムステッド・ジュニアは米国最初の国立公園局(National Park Service)の設立法案を起草、父が 1864 年ヨセミテで始めた政策を連邦制度として完成させた。

08ふたたび、マクリーン病院へ

ここで、冒頭の病院に戻ろう。1895年に引退した男は、1898年からほぼ寝たきりになった。入ったのは、マサチューセッツ州ベルモント・ウェイヴァリーのマクリーン病院である。この病院の新しい敷地の景観は、彼自身の事務所が手がけた自設計じせっけいの場所だった。1903年8月28日、設計者は自らが造った緑のなかで息を引き取った。81歳。コネチカット州ハートフォードのオールド・ノース墓地に葬ほうむられた。

なぜ農夫が、公園に人生を賭けたのか。ここまで辿ってきた読者には、もう見えているだろう。船と農場で、彼は土と草を知った。南部の旅で、奴隷制が土地を荒らすのを見た。ふくれあがる都市で、金持ちの街と貧しい街が分かれていくのを見た。そして彼は、芝生を造った。誰もが同じ芝生の上を歩く場所を。

公園は共和国の肺である。誰もが同じ芝生の上を歩けるように。

— 同じ言葉を、彼の人生の側から読み直すとき——『Central Park 第一次年次報告』(1858)序文の要旨訳

彼が設計した公園と大学と風景は、150年後の現在も米国の都市の骨格として働いている。セントラル・パークには年間4,200万人が訪れる。プロスペクト・パーク、ビルトモア、スタンフォード、ヨセミテ。どれも、オルムステッドがいなかったら今の形をしていない。書物の中の思想家ではない。芝生と水と木の中の思想家だった。

だが、その芝生の下には、追い出された1,600人の村があった。そして造った本人は、最後に自分の緑のなかで、記憶の障害を抱えたまま死んだ。「民主主義の空間は造れるのか」。彼は、この問いを景観として残した。

あなたが今度、公園の芝生に座るとき。その芝生は、誰のものだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. 4月26日、コネチカット州ハートフォードで誕生。父はドライグッズ商人ジョン・オルムステッド
  2. 母シャーロット・ロー・ハル死去、翌年父はメアリー・ブルと再婚
  3. 漆毒症で目を痛めイェール大入学を断念、ニューヨーク市で商店員
  4. 中国茶輸入船ロナルドソン号で中国・ジャワ航海、船員病で衰弱して帰国
  5. ニューイングランドで農業修業
  6. スタテン島サウスサイド農場(125エーカー)で実験農業を始める
  7. 弟らとの英国徒歩旅行を綴った『英国農夫の散歩と語らい』を刊行、ニューヨーク・デイリー・タイムズ南部特派員
  8. 南部ルポ三部作『奴隷州の海岸の旅』『テキサス越境の旅』『綿花王国への旅』(1861圧縮版)を順次刊行
  9. 4月28日、ヴォーと共にGreensward PlanでCentral Park設計競技に一等当選、36歳
  10. 弟ジョン・ハルの寡婦メアリー・クリーヴランド・パーキンズと結婚
  11. 南北戦争勃発、合衆国衛生委員会事務局長として2年間従軍医療改革
  12. ヨセミテ・グラント法施行、ヨセミテ渓谷保護委員会委員長として国立公園政策を初期化
  13. Mariposa Estate監督後ニューヨーク復帰、ヴォーと景観建築事務所再開
  14. Prospect Park(ブルックリン)着手、ヴォーとの共同設計で1873年完成
  15. Riversideイリノイ州景観的郊外町計画
  16. ナイアガラ保護運動、1885年ナイアガラ・リザベーション州立公園成立
  17. Central Park終局的開園、Mount Royal Park(モントリオール)着手
  18. US Capitol grounds(ワシントンDC)再設計
  19. ボストン Emerald Necklace、Back Bay Fens 湿地復元など九公園連続体
  20. スタンフォード大学キャンパス設計
  21. ビルトモア・エステート、米国初の科学的森林管理実験
  22. シカゴ World's Columbian Exposition景観計画(バーナム・マッキムらと)
  23. 73歳、記憶障害と健康衰弱で引退、Olmsted Brothers社へ事業継承
  24. 自設計のマクリーン精神病院(ベルモント・ウェイヴァリー)に入院
  25. 8月28日マクリーン病院で死去、81歳。ハートフォードOld North墓地埋葬

残した仕事の輪郭

  • Central Park(1858-73) ― ヴォーとの共同設計、世界最初級の大規模公共公園、サンクン・トランスヴァース/4 モード動線分離/自然主義景観の発明
  • Prospect Park(1866-73)・Emerald Necklace(1881-96)・Riverside(1869)・Mount Royal(1873-) ― 公園連続体・景観郊外・湿地復元の先駆事業
  • Biltmore Estate(1888-95) ― 米国初の科学的森林管理実験、USDA 林野部とイェール林学大学院の源泉
  • ヨセミテ・グラント(1864)・ナイアガラ保護(1872-85) ― 連邦・州制度としての風景保全の起点
  • World's Columbian Exposition(1893) ― バーナム・マッキムと協働した会場景観、City Beautiful 運動の出発点
  • 著作 ― 『英国農夫の散歩と語らい』(1852)、南部奴隷制ルポ三部作(1854-60)と『綿花王国への旅』(1861)
  • 合衆国衛生委員会事務局長(1861-63) ― 南北戦争下の野戦医療改革、赤十字的モデル
  • ランドスケープ・アーキテクチャという職能の発明 ― 肩書きと専門職団体(ASLA, 1899)とハーヴァード景観建築学科(1901)の制度化
  • 息子ジュニア経由の連続体 ― Olmsted Brothers が 1895-1950 年代の全米 6,000 件超を手がけ、米国景観設計の支配的系譜を形成
1903 年 8 月 28 日、マサチューセッツ州ウェイヴァリーのマクリーン精神病院で老衰により死去、81 歳。コネチカット州ハートフォードのオールド・ノース墓地に埋葬された。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

フレデリック・ロー・オルムステッドが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • セントラル・パークゆかり

    ニューヨーク, アメリカ

    オルムステッドとカルヴァート・ヴォーの代表作。近代都市公園の原点

  • フェアステッド(オルムステッド国立歴史公園)記念館

    ブルックライン, アメリカ

    マサチューセッツのオルムステッド事務所兼自邸。設計図面と植栽が保存

  • プロスペクト・パークゆかり

    ブルックリン, アメリカ

    オルムステッドとヴォーがセントラル・パークに続き設計したブルックリンの傑作公園

さらに辿るならExternal References

フレデリック・ロー・オルムステッドを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。