オッカム
いらないものは増やすな、と説いた人が、 なぜ夜の船で教皇の町を去ったのか?
「必要なしに多を立てるべからず」で普遍の過剰を刈り取った中世最後の改革者
- 唯名論
- オッカムの剃刀
- 経済性の原理
教皇はローマを離れ、皇帝とにらみ合っていた。修道会は「貧しさ」をめぐって、内側から割れていた。 — ひらく
時代の空気
14世紀前半の西欧は、教皇庁がローマを離れフランス・アヴィニョンに座した「アヴィニョン捕囚」期(1309-1376)にあった。ヨハネス22世のもとで教皇権は世俗領主と財産を巡って膨張し、フランシスコ会内部では聖フランチェスコの清貧理念をめぐる厳格派と穏健派の対立が激化していた。オックスフォードはパリと並ぶスコラ学の中心で、ドゥンス・スコトゥス没後(1308)の世代がその論理を継承・批判していた。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はヨハネス22世と対立し、1328年に破門されたまま帝国を統治した。1347年からは黒死病が西欧を襲い、オッカムも同年ミュンヘンで没する。
01夜の船
1328年5月26日の夜。南フランスの町アヴィニョンから、一そうの船が出た。乗っているのは、フランシスコ会という修道会の総長。そして、同志が数名。その中に、40歳を少し越えた一人の修道士がいた。イングランド生まれのウィリアム・オッカムである。
彼はこの町に4年いた。自分で来たのではない。教皇の役所(教皇庁)に、呼び出されたのだ。自分の書いた本に、教会の教えに反する所があると疑われて。町の修道院に住み、出歩くことはできた。だが結論は、いつまでも出なかった。
その男が、いま教皇の町を、夜の船で去ろうとしている。行き先はイタリアのピサ。そこには、教皇と対立する皇帝がいる。教皇に呼ばれた身で、教皇の敵のもとへ走る。彼はこの先、破門されたまま一生を送ることになる。
不思議なのは、この男の口ぐせである。「必要がないなら、ものを増やすな」。後に「(かみそり)」と呼ばれる考え方だ。よけいな仮定を、刃物のようにそり落とす。そう説いた人が、なぜ人生でいちばん重い一手を選んだのか。なぜ、教皇に背いたのか。
時は、40年ほど前に戻る。
02オッカム村の少年、オックスフォードの学生
1287年ごろ(1285年ごろとする説もある)、イングランド南部に生まれた。サリー州の小さな村、オッカム。今のロンドンの近くだ。家はおそらく自由農(領主に縛られない農民)の身分だった。詳しい家族のことは伝わっていない。
若くしてフランシスコ会に入った。聖フランチェスコが始めた、「」と呼ばれる修道会である。この会は、ちょうど内側から割れかけていた。争いの種は「清貧(せいひん)」、つまり貧しく生きるという理想だった。フランチェスコが説いたを、どこまで厳しく守るのか。厳格派と穏健派が、激しく対立していた。この争いが後に、彼の人生を決めることになる。
1310年ごろから神学を学びはじめた。場所はロンドンの修道院(グレイフライアーズ)か、オックスフォードか。両方の説がある。オックスフォード大学にいたことがはっきり確かめられるのは、1317年から1319年ごろだ。この時期、彼は『命題集』という教科書を講義する役目を務めていた。
当時のオックスフォードは、パリと並ぶ学問の中心だった。神学と哲学を合わせた「スコラ学()」がさかんな場所である。少し前に亡くなった学者の考えが、議論の中心にあった。スコトゥスは「この石は、なぜ他の石ではなく、この石なのか」を説明しようとした。そのために、細かな仕組み(個物化の原理)をいくつも考えた人である。
オッカムはスコトゥスの、するどい論理の運び方を受け継いだ。だが向かった先は逆だった。スコトゥスが積み上げた仕組みを、片っぱしから削り落とす方向へ進んだのである。その最初の刃がふるわれる場所が、一冊の注解書だった。
03『命題集注解』――あるのは、ひとつひとつのものだけ
1317年から1319年ごろ、彼は『命題集注解』を書いた。ペトルス・ロンバルドゥスという学者の『命題集』に、自分の考えを書き加える本だ。中世の神学では、これが卒業論文のような定番だった。大学の教授資格(magister)をめざす修道士は、必ず書いた。
彼の注解は、ほかの誰とも違っていた。テーマの一つは「」。「人間」や「石」のような、ものをまとめる言葉は、本当に存在するのか、という古い問いである。オッカムの答えは、はっきりしていた。存在するのは、ひとつひとつの人、ひとつひとつの石だけ。「人間」という言葉は、心が似たものをまとめてつけた名前(nomen)にすぎない。あるいは、心に自然にできる記号(signum naturale)である。この立場を「」と呼ぶ。「名前だけ」という意味だ。
昔のアベラールも、少し前のドゥンス・スコトゥスも、「人間」のような普遍に、ある程度の実在を認めていた。オッカムは、その余地を全部閉じてしまう。あるのは、ひとつひとつのものと、それを指す言葉や概念だけだ、と。
そうなると、世界の見取り図はぐっと簡単になる。スコトゥスが考えた「この性(haecceitas)」という仕組み。共通の性質と、個々の性質。普遍と個々のもののあいだに置かれた「形相的区別」。これらはすべて「必要がない」として、消されていく。
若い修道士の書いた一冊は、やがて遠い町で読まれることになる。読む人は、味方ではなかった。
04オッカムの剃刀
後に「オッカムの剃刀(Ockham's Razor)」と呼ばれる原則がある。剃刀は、ひげをそる刃物のこと。よけいなものを、そり落とすという意味だ。ただ、彼自身がこの名を使ったわけではない。原則の元になる言い方が、(Summa Logicae、論理学大全)や『命題集注解』のあちこちに散らばっている。
必要なしに多を立てるべからず(Non sunt multiplicanda entia sine necessitate)。
この有名な形は、彼の本には見つからない。1639年、アイルランドのスコトゥス派の学者ジョン・ポンセ(パンシュとも)らが、原則を短くまとめたものとされる。オッカム自身がくり返し使ったのは、もっと古い言い方だった。「より少ないもので足りるとき、より多くを使うのは無駄である(frustra fit per plura quod potest fieri per pauciora)」。
これは「世界には何がある」という主張ではない。「説明するときの、むだの省き方」の話である。少ない材料で説明がつくなら、多くを仮定する必要はない。そういう節約のすすめだ。
だがオッカムの手にわたると、この原則は、神学と哲学の「余分」をまとめてそり落とす刃物になった。ただし「剃刀でいらない」と片づけたわけではない。普遍が本当にある、形相的区別がある、と仮定すると、どんな矛盾が起きるか。それを一つずつ突いていったのである。信仰が必要としない限り、目に見えない実体や神秘のしくみも、哲学では仮定しない。
刃は、神学の深い所にも届いていた。そして、それをにらんでいた人がいた。オックスフォード大学の、前の総長である。
05アヴィニョン召喚
1323年から24年ごろ、ジョン・ルッターレルという神学者が動いた。オックスフォード大学の前総長である。彼はオッカムの『命題集注解』から、問題だと考えた56の命題を選び出した。そしてそれを、異端(教会の正しい教えに反する考え)の疑いがあるとして、教皇庁に訴えた。
このころ教皇ヨハネス22世は、ローマにいなかった。フランスのアヴィニョンに座していたのである。教皇庁がローマを離れていたこの時期(1309-1376)を、後の人は「」と呼ぶ。オッカムは1324年、このアヴィニョンに呼び出された。アヴィニョン召喚である。37歳ごろのことだ。彼は出頭し、尋問(取り調べ)を受けた。
1326年、調査委員会が報告をまとめた。51の箇条が、異端または誤り(誤謬)と判定された。ただし、正式な宣告までは出なかった。その数年間、彼は町のフランシスコ会修道院に住んだ。出歩くことはできた。だが教皇庁の監視の下で、結論を待ち続けるだけだった。論理で議論してきた学者が、論理ではなく権威の前で、答えを待つ。そんな年月だった。
1327年、状況が動く。フランシスコ会の総長ミカエル・ド・チェゼナが、アヴィニョンに呼び出された。教皇ヨハネス22世と、清貧をめぐって激しく対立したためである。後に「」と呼ばれる争いだ。争いの芯は一点だった。「キリストと使徒たちは、何も所有しなかった」。フランシスコ会はそう教えてきた。教皇は、その教えを否定したのである。教皇にとってそれは、神学だけの話ではなかった。教会がもつ莫大な財産を、正しいと言えるかどうかの問題だった。
ミカエルは、オッカムに頼んだ。教会法の上で、この問題はどうなるのか、調べてほしい、と。オッカムは調べた。そして、一つの結論にたどりつく。異端者なのは、自分ではない。教皇ヨハネス22世こそが、異端者である。
剃刀が、教皇に向いた。
06ふたたび夜の船、そしてミュンヘン
こうして、1328年5月26日の夜に戻る。ミカエルとオッカム、そして同志数名は、船でアヴィニョンを脱出した。地中海を渡り、イタリアのピサへ逃れた。そこで頼ったのが、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世である。バイエルンの領主(公)にしてドイツの王で、この年に皇帝の冠を受けていた。皇帝もまた、教皇ヨハネス22世と対立していた。
冒頭の「なぜ」に、いま答えられるだろうか。彼は、何かを増やしたのではない。「いらないもの」を、そり落としたのだ。教皇が教会の財産のために立てた教え。それをオッカムは、必要のない、しかも間違った仮定だと見た。学問で通してきた掟を、人生にもそのまま通した。だから、船に乗った。
伝承では、彼はルートヴィヒに会って、こう言ったという。「皇帝よ、あなたは剣で私を守ってください。私はペンであなたを守りましょう」。ただし、これは後の時代に生まれた話である。二人はピサで皇帝に合流し、1329年ごろ皇帝の都ミュンヘンへ移った。オッカムは破門された身のまま、そこで一生を過ごすことになる。
ミュンヘンでの仕事は、大きく変わった。論理学と神学から、政治の哲学へ。『教皇権威に関する対話』『八つの問題について』などの本で、彼は教皇が世俗の権力をもつことを、徹底して否定した。皇帝には、教皇に頼らない正統性がある、と論じた。世俗の権力と教会の権力を切り分けるこの議論は、およそ200年後の宗教改革(ルター、カルヴァン)へ、地下水のように流れこんでいく。
だが彼の言葉が届く先は、政治だけではなかった。
07科学革命への橋、信仰と理性の分離
オッカムの仕事は、近世への橋渡しとして二重の意味を持つ。
一つは科学方法論。普遍は心のうちの概念であり、自然界の認識については個物の経験と直観的認識を基礎に据える彼の立場は、後の的探究の哲学的根拠を用意した。17世紀のベーコン以後の帰納主義とは、後期スコラ学・唯名論の系譜を介してゆるやかに接続される。
もう一つは。アクィナスは自然理性で神の存在を論証できると考えた()。オッカムは、神の意志の絶対自由(、potentia absoluta)を徹底して強調し、論理的には神が一見ありえない行為――例えば罪を徳と定めること――すらできる、とまで論じた。神の意志は人間の理性では捉えられない。自然理性は被造物の秩序しか扱えず、神そのものは信仰によってのみ近づける。
これは一見、信仰を守る議論だが、実は理性を信仰から独立させる入り口だった。自然理性が神から切り離されれば、残されるのは自然物だけを扱う理性――すなわち近代自然科学の理性である。これはオッカム個人が目指したところではなく、彼の議論が後に纏うことになる意図せざる歴史的役割だった。
08最期、そして残ったもの
1342年、ミカエル・ド・チェゼナが死んだ。オッカムは、フランシスコ会の反体制派を実質的に率いる立場になった。1347年4月9日または10日の夜ごろ、ミュンヘンで没した。60歳ごろだったと考えられている。死因はわかっていない。同じ年、黒死病がヨーロッパを襲いはじめていた。だが流行の山とは時期がずれており、老いや病による死と見るのが穏当である。
彼は死ぬまで、教皇ヨハネス22世とも、その後の教皇たちとも和解しなかった。フランシスコ会の中では、やがて穏健派が優勢になり、厳格派は消えていった。それでも彼の論理学の教科書『スンマ・ロギカエ』は、15世紀までヨーロッパの大学で標準の教科書であり続けた。パリ、ウィーン、クラクフ、プラハの神学部を通じて、次の世代が彼の議論の骨組みを吸い込んでいく。ルター、カルヴァン、そしてデカルト。彼らは知らず知らず、この修道士の考え方を身につけていた。
「オッカムの剃刀」という呼び名が定まったのは、ずっと後のことである。要約の形「Entia non sunt multiplicanda praeter necessitatem」は、1639年のジョン・ポンセらにさかのぼる。「Ockham's Razor」という名前そのものは、19世紀半ば(W・ハミルトン、1852年ごろ)に定着したとされる。いずれにせよこの原則は、科学哲学から統計学、機械学習まで、今も考え方の常識として生きている。
必要なしに多を立てるべからず
彼は「いらないもの」を自分で決め、その代価を自分で払った。学問の余分をそり落とし、教皇の教えをそり落とし、自分の安全までそり落とした。では、何が「必要」で、何が「必要でない」のか。それを決める刃を、あなたは自分の人生のどこまで向けられるだろうか。
09主要な出来事と著作
- イングランド・サリー州オッカム村に誕生(1285頃説もあり)
- フランシスコ会に入会
- 神学教育を開始(ロンドン・グレイフライアーズまたはオックスフォード)
- オックスフォードで『命題集注解』執筆
- 『自然学注解』などを執筆
- 『スンマ・ロギカエ(論理学大全)』執筆
- アヴィニョン教皇庁に召喚、異端尋問開始
- 調査委員会が51箇条を異端・誤謬と判定(正式宣告には至らず)
- ミカエル・ド・チェゼナと教皇清貧論争に巻き込まれる
- アヴィニョンから脱出、ピサで皇帝ルートヴィヒ4世の庇護下に入る
- 皇帝に従いミュンヘンへ、政治論争書の執筆を始める
- ミカエル死去、フランシスコ会反体制派の指導者に
- ミュンヘンで死去。享年約60
残した思想の輪郭
- オッカムの剃刀 ― 必要のない存在者を多立すべからずという方法論的経済性の原則
- 極端な唯名論 ― 普遍は心の概念と名にすぎず、実在するのは個物のみ
- 自然神学への懐疑 ― 神の意志は絶対自由、自然理性で神の属性は完全には到達できない
- 信仰と理性の分離 ― 理性の領域を自然界に絞ることで、近代科学の方法論的空間を開く
- 政治哲学 ― 教皇権威を世俗から分離、皇帝権の独立と教会権の限定を論じる
- 近代への橋 ― ルター、カルヴァン、さらにデカルトの認識論に間接的影響
つながり
全体のつながりを見る →生きた跡を辿るPlaces
オッカムが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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WikipediaWikipedia 日本語版「ウィリアム・オブ・オッカム」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "William of Ockham"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "William of Ockham"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "William of Ockham"