三島由紀夫
文と武は、 一つに接合できるか?
戦後日本で「文武両道」を体現しようとし、45歳で市ヶ谷に散った二十世紀日本文学の極
- 金閣寺
- 文武両道
- 豊饒の海
時代の空気
昭和初年に生まれ、戦時下の少年期を学習院で過ごす。1944年冬の徴兵検査で肺浸潤と誤診され即日帰郷となった屈辱は、戦地で散った同世代に対する負い目として刻まれた。敗戦と占領、1947年憲法下に文壇へ出て、1955年前後の戦後派文学興隆を担う。1960年安保闘争で知識人左派が主流化する一方、1964年東京五輪と高度成長のなか、保守側から戦後民主主義への抵抗思想が形を結ぶ。象徴天皇制と自衛隊の曖昧な位置を抱え、1968年全共闘の昂りを背景に楯の会が結成された。1970年大阪万博と高度成長の頂点で、戦後二十五年の節目が訪れる。
01平岡公威、祖母夏子の部屋
大正14年(1925年)1月14日、東京市四谷区永住町(現新宿区四谷)に生まれた。本名は平岡公威。父平岡梓は農林省の官僚で、のちに水産庁の局長を務めた人物、母倭文重は漢学者橋健三の長女である。「三島由紀夫」は昭和16年、16歳の習作「花ざかりの森」で用い始めた筆名であり、本名で死を選ぶことはなく、最後まで「三島由紀夫」として死んだ。
公威は生後49日目から、祖母なつ(旧姓永井、夏子)の部屋へ連れ去られて育った。夏子は元公家華族永井岩之丞の娘で、下級武士出身の平岡家に嫁いだ誇り高い老女だった。「男の子らしく外で遊んではいけない」と孫を病弱な少女のように育て、母倭文重が授乳に行くのも決まった時刻のみだった。この12年間の祖母との同居と、祖母の死後の母の側での「遅れた少年時代」が、公威の感受性を特異に形作った。自伝的小説『』(昭和24年)でこの幼年期が克明に描かれる。
02学習院、東大 ― 神童と称された秀才
昭和6年、初等科入学。は華族の子弟教育のために創立された宮内省管轄の学校で、公威は秀才として注目された。文藝部の『輔仁会雑誌』に詩・短歌・散文を次々発表し、中等科では文学に没頭する。昭和16年、16歳のとき中等科の国文学教師清水文雄らが主宰する同人誌『文藝文化』に「花ざかりの森」を発表、このとき「三島由紀夫」の筆名が初めて使われた。
昭和19年、学習院高等科を首席で卒業し、天皇から銀時計を賜る。同年、東京帝国大学法学部に入学(独法、後に法律学科)。戦時下の徴兵検査では第二乙種合格となり、昭和20年2月、肺浸潤と誤診されて即日帰郷となった。同世代の青年が次々と戦地に散っていくなか、医師の誤診のひと言で帰された20歳は、数年後の短編「中世」や後年の『』で、死に損ねた者の位置から繰り返し書き出すことになる。「生き残った者」の負い目は、本人が生涯そうと認めたわけではないが、戦後の作品の多くが戦中を生き延びたことの意味を問い直す構えで立ち上がっていく。戦争末期は工場勤労動員に駆り出され、敗戦のとき20歳。昭和22年、東大を卒業し大蔵省に就職、銀行局国民貯蓄課に配属されるが、昭和23年9月、1年足らずで退官して専業作家の道に入った。
03『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』
昭和24年(1949年)、『』を河出書房から刊行。24歳の青年作家による赤裸々な自己告発の体裁で、戦後文壇に衝撃を与えた。同性愛的性向、死と血への憧憬、女性への愛の不可能 ― 「仮面」で取り繕って生きる青年の告白は、太宰の『人間失格』と並ぶ戦後文学の自画像となった。川端康成はこの作品を高く評価し、三島は以後、川端を師と仰ぐ。なお作中で開示される性的指向は語り手「私」のものであり、平岡公威自身が生前に同性愛者であると公に表明した記録は限定的にとどまる ― この距離をどう読むかは、作品史の問いとして開かれている。
昭和29年、『潮騒』。ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』を下敷きに、伊勢の神島を舞台に漁師の若者新治と海女の娘初江の素朴な恋を描いた健全な中篇で、映画化もされて国民的な人気を得た。
昭和31年、『』。昭和25年の金閣寺放火事件を素材に、吃音の青年僧溝口が美そのものに苛まれ、ついにその象徴を焼き払うに至る心理を追った長編。「美は、私にとって仇敵の如きものであった」の一行に凝縮されるように、美と憎悪、破壊と救済の逆説が追究された。三島の代表作として国際的にも高く評価される。
04身体改造、ボディビルと剣道
三島は昭和30年(1955年)頃からボディビルを始めた。玉利齋らのジムに通い、ダンベルとバーベルで体を鍛え上げた。学習院時代の「病弱な少年」への復讐のように、死の直前まで約15年続く身体改造の時期が始まる。
ボクシング、剣道、居合道、空手も習った。1960年代にはしばしば上半身裸の写真集やポートレートのモデルとして登場し、細江英公の写真集『薔薇刑』(1963年)は三島のナルシシズムと肉体美を芸術写真として定着させた。「文武両道」は三島が好んだ言葉で、ペンと剣、言葉と肉体を一つに統合する営みとして、以後の生涯を貫く枠組みになる。昭和43年(1968年)に発表された自伝的エッセイ『』では、観念から始まった自分が肉体を獲得し直す過程を、筋肉と言葉の対話として綴っている。
昭和33年、瑤子(杉山瑤子)と結婚、長女紀子・長男威一郎を授かる。家族と執筆と身体鍛錬を並行する、異様な密度の生活が続いた。
05政治への傾斜 ― 『憂国』から『英霊の聲』へ
1959年(昭和34年)、戦後の倦怠を画家・拳闘家・俳優・実業家の四青年に託した長編『』を刊行。野心作だったが当時の批評は冷淡で、三島自身も挫折として受け止めた。この時期から政治的立場がしだいに明確になっていく。
二・二六事件を題材にした短編『』(昭和36年)では、命令を受けないまま叛乱から取り残された青年将校武山中尉夫婦の切腹の戯曲的な細部までを克明に描き(のちに三島自身が脚本・主演で映画化、1966年)、続く中編『』(昭和41年)では、二・二六の青年将校と特攻隊員の霊が「などてすめろぎは人間となりたまひし」と問い詰める降霊会の形式で、戦後の象徴天皇制と人間宣言への抗議を表に出した。
昭和43年、雑誌『中央公論』七月号に評論『』を発表。経済中心主義を痛烈に批判し、政治制度ではなく日本文化の連続性を保証するものとして「」を擁護した。三島のが最も体系的に示された論考である。同年10月、(たての会)を結成。大学生・社会人からなる私兵組織で、自衛隊の富士学校で定期訓練を受けた。三島自身も昭和42年、42歳で陸上自衛隊富士学校に44日間体験入隊した(マスコミは「自衛隊入隊」と呼んだが厳密には体験入隊である)。
美は、私にとって仇敵の如きものであった。
06『豊饒の海』四部作
昭和40年(1965年)、三島は生涯最後の大長編『』四部作の執筆を開始した。『春の雪』(大正初期の華族令嬢との恋)、『奔馬』(昭和初期の青年将校による昭和維新運動)、『暁の寺』(戦後のタイの王女)、『天人五衰』(現代の孤児の少年)と、転生を通じて同一の魂が四度現れる構想である。
本多繁邦という弁護士(のち元判事)が四度の転生を見届ける観察者となる。『豊饒の海』は、三島にとって「最後の長編」という明確な自覚のもとに書かれた。執筆と並行しての活動と自衛隊訓練が進む、文武を一つに接合する実験そのものが四部作の裏側にあった。
07市ヶ谷駐屯地、11月25日
昭和45年(1970年)11月25日午前11時頃、三島はの森田必勝・古賀浩靖・小賀正義・小川正洋の四人を率い、東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に向かった。総監益田兼利陸将と面会中、三島らは益田を人質にとり、総監部バルコニーから自衛隊員約千人を前に、改憲決起を呼びかける演説を行った。
演説は約7分間。野次と嘲笑で途絶え、呼びかけは失敗した。三島は総監室に戻り、割腹自殺を遂げた。腹を横一文字に切り、介錯に当たった森田必勝は刀を振り下ろしたが介錯は成功せず、続いて古賀浩靖が最後の一刀で首を落として介錯を完了した。三島45歳。森田必勝も続いて同じく割腹し、古賀が介錯した。25歳。古賀・小賀・小川は投降し、のち反乱・殺人予備などで有罪判決を受けた()。
『』第四巻『天人五衰』の最終原稿は、当日11月25日朝に新潮社編集者小島千加子のもとへ届けられていた。第一巻『春の雪』から5年半にわたる四部作は、最後の最後に書き上げられたうえでの決起だった。妻瑤子と長女紀子・長男威一郎は、当日の決行を事前に知らされていなかった。本名平岡公威ではなく、「三島由紀夫」として死を選んだ45年の生だった。
08主要な出来事と著作
- 東京四谷に誕生(本名平岡公威)。生後49日目から祖母夏子の部屋で育てられる
- 16歳、学習院中等科で『花ざかりの森』、筆名「三島由紀夫」始まる
- 学習院高等科首席卒業、天皇から銀時計を賜る。東大法学部入学
- 2月、徴兵検査で肺浸潤と誤診され即日帰郷。8月、敗戦時20歳
- 東大卒業、大蔵省入省、1年足らずで退官して専業作家へ
- 『仮面の告白』刊行、文壇的地位を確立
- 『潮騒』発表、映画化で国民的人気
- ボディビル開始、以後15年の身体鍛錬の時期
- 『金閣寺』発表
- 瑤子と結婚、のち長女紀子・長男威一郎を授かる
- 『鏡子の家』刊行、批評は冷淡だった
- 『憂国』発表、二・二六事件の切腹の美学
- 細江英公『薔薇刑』出版
- 『豊饒の海』四部作連載・執筆
- 『英霊の聲』発表。同年『憂国』を自身の脚本・主演で映画化
- 陸上自衛隊富士学校に44日間体験入隊
- 『文化防衛論』『太陽と鉄』発表、楯の会結成
- 11月25日朝『天人五衰』最終原稿を新潮社へ送付。同日昼、市ヶ谷自衛隊東部方面総監部で演説後に割腹。森田必勝の介錯は成功せず、古賀浩靖が完了。享年45
残した思想の輪郭
- 文武両道 ― ペンと剣、言葉と肉体を一つに接合しようとした30年の試み
- 仮面の告白 ― 戦後文学に自己暴露の一つの頂点を据えた
- 美と破壊 ― に結晶した、美そのものへの憎悪と破壊の逆説
- 身体改造 ― 15年にわたるボディビル・剣道・空手、「病弱な少年」への復讐としての肉体の鍛錬
- と楯の会 ― 「文化概念としての天皇」を中心に据えた戦後批判、私兵組織による政治的実践
- 市ヶ谷の自決 ― 45歳、演説と割腹を一続きに遂げた、日本近代文学史で最も異常な死
出典と確認メモ
5件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 昭和31年『新潮』連載、1950年の金閣寺放火事件を素材に、吃音を抱えた学僧溝口の独白で綴られた『金閣寺』の一節。幼い頃から父に聞かされた金閣の美は、近づけば遠のき触れれば責められる ― そのまま生き...
一次資料を開く三島由紀夫『金閣寺』新潮社、昭和31年 (1956) 連載、同年10月単行本刊行。新潮文庫版書誌。1950年金閣寺放火事件 (林養賢による) を素材化
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 人間は、もっと堕落せねばならぬのかもしれない。堕落することで、はじめて何かが見えてくるのかもしれない。philograph quotes.ts mishima-3.text は『仮面の告白』(昭和 2...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ。
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ。
- 出典二次資料で確認済み研究上論争あり
研究上論争あり: mishima.mdx pullsource '『金閣寺』(昭和31年『新潮』連載)' は三島由紀夫『金閣寺』の連載媒体・年代記述として正確。新潮社『新潮』1956年(昭和31年)1月号〜10月号連載...
つながり
全体のつながりを見る →さらに読むならFurther Reading
三島由紀夫の思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門金閣寺
三島由紀夫 / 新潮文庫
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Yukio Mishima / 訳: Ivan Morris / Vintage International
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生きた跡を辿るPlaces
三島由紀夫が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- 多磨霊園(三島由紀夫墓所)墓所
府中, 日本
平岡家墓所に眠る三島由紀夫
地図で見る →確認 2026-04-19 - 山中湖文学の森 三島由紀夫文学館記念館
山中湖, 日本
山中湖村立の文学館、三島の自筆原稿・書簡・蔵書を収蔵
さらに辿るならExternal References
三島由紀夫を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「三島由紀夫」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Yukio Mishima"
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