ライプニッツ
この世界は、 可能な世界の中で最善か?
モナドと予定調和で宇宙を設計した、微積分を独立発見した汎知(はんち)の天才
- モナド
- 予定調和
- 微積分
- 最善世界
時代の空気
三十年戦争(1618-1648)の傷が残る神聖ローマ帝国は数百の領邦に分かれ、ライプニッツが生まれた1646年はまだ講和直前だった。ルイ14世のフランスが東方拡大を続けるなか、マインツ・ハノーファー・ベルリンの諸宮廷は外交と科学アカデミー創設で対抗し、1700年にはライプニッツ自身がベルリン科学アカデミーを開いた。カトリック・ルター派・改革派の和解は神学外交の課題であり、王立協会(1660)・パリ科学アカデミー(1666)を結ぶ書簡共和国の中で、ニュートンとの微積分優先権論争が国家の威信と絡みながら進行した。
01ライプツィヒの法学教授の子――幼い百科的読書
1646年7月1日、ライプツィヒに生まれた。父フリードリヒ・ライプニッツはライプツィヒ大学道徳哲学教授で哲学部の役職も務めたが、ゴットフリートが6歳のとき(1652年)に没した。父の蔵書は主に法律、神学、古典文学、歴史で、幼い息子はやがて自由に出入りを許された。
少年期に父の書庫でラテン語に親しみ、十代初めにはギリシア語にも手を広げた。近所の奥さんたちが「あの子は毎日ラテン語の本と暮らしている」と噂したという逸話が残る。15歳でライプツィヒ大学に入学、哲学と法律を修め、19歳で博士号取得を申請したが「若すぎる」と却下され、1666年にニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学で博士号を取得(大学は教職を提示したが、彼は断った)。
この段階で彼の志はすでに「普遍学(scientia universalis)」――あらゆる学問を統一する一つの枠組を作ること――に向かっていた。博士論文と並行して『組合せ術について(De Arte Combinatoria)』を書き、記号論理学の最も早い試みを行った。
02マインツ、パリ――外交と微積分
1667年、元外交官ヨハン・クリスティアン・フォン・ボイネブルクとの出会いから、マインツ選帝侯ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルンの宮廷へ道が開け、法典編纂の仕事に関わっていく。並行して、プロテスタントとカトリックの教会再統一という壮大な夢を追求し始めた。この夢はデカルト主義・スコラ哲学・ルター派神学の間を縫う微妙な外交課題を要求した。
1672年、外交使節としてパリに派遣された。表向きの任務はフランス王ルイ14世を「ドイツではなくエジプトへ遠征させる」プロジェクト(実現せず)の提案だったが、パリ滞在(1672-1676)は彼の数学・物理学の真の教育期間となった。
クリスティアーン・ホイヘンス(1629-1695、当時のヨーロッパ最高の数学者・物理学者)の指導を受け、17世紀数学の最前線に追いつく。1675年秋、ライプニッツは独自に微積分の基本定理と記法を発見した。彼の記法(dx、∫)は今も世界の教科書で使われている。
03ニュートンとの微積分優先権論争
ここに運命の暗雲がかかる。1665-1666年のペスト休暇中、ニュートン(当時22歳)は既に流率法(fluxions)として微積分を発見していたが、長く発表しなかった。1684年にライプニッツが微積分を最初に印刷公表したとき、ニュートンは沈黙していた。
1690年代から論争が始まる。ライプニッツはニュートンの仕事を知らずに独立発見したと主張し、ニュートン派はライプニッツがロンドン訪問時(1673、1676)にニュートンの未発表ノートを閲覧して剽窃したと主張した。
1711年、ライプニッツがロンドン王立協会に抗議の書簡を送ったことをきっかけに、翌1712年3月6日、協会(会長:ニュートン)は公式の調査委員会を設置し、4月24日に報告をまとめた。委員は全員ニュートン派、委員の氏名は非公開、最終報告書はニュートン自身が匿名で執筆した。同1712年末に刊行された報告書『Commercium Epistolicum』(往復書簡集)は、ニュートンの優先権を認めジョン・キールの主張を擁護する形でライプニッツへの剽窃疑惑を強く示唆し、翌1713年以降広く流布した。
現代の学史は、二人が独立発見したこと、ただし記法・公表はライプニッツが先、着想・応用はニュートンが先と認めている。しかし論争はライプニッツの晩年を精神的に消耗させ、死後何十年もイギリスとドイツの数学者を分断した。イギリスは彼らの愛国心からニュートンの流率法記法に固執し、結果として18世紀のイギリス数学は大陸に遅れを取ることになる。
04ハノーファー――宮廷史家と多方面の活動
1676年、パリから帰途、ライプニッツはオランダに滞在し、ハーグでスピノザ(1632-1677)を訪問した。数日にわたる対談と『エチカ』未刊原稿の閲覧があったと本人の書簡は伝える。スピノザの「神即自然」の一元論は、ライプニッツが取らなかった道として、しかし無視できない思考の相手として、その後の思想形成に影響した。
ハノーファー(現在のドイツ・ニーダーザクセン)のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公ヨハン・フリードリヒに宮廷図書館長・宮廷史家として仕えた。残りの生涯40年間、ハノーファーが本拠となる。
彼の多方面ぶりは驚異的だった。
- 機械式計算機の設計・試作(加減乗除ができる「ステップ・レコナー」、1673年・1694年)
- 二進法の研究と中国哲学との関連(フランス宣教師ブーヴェが1701年の書簡に添えた易経六十四卦の図をライプニッツが1703年に受け取り、二進法との対応を見出す)
- 鉱山事業の数理的管理(ハルツ銀山の水力機械の改良計画、10年失敗)
- ベルリン科学アカデミー創設(1700、初代院長)
- ブラウンシュヴァイク家の史書編纂(一族の正統性を中世まで辿る大プロジェクト、未完)
- キリスト教諸派の統一計画(ボシュエとの長い書簡、カトリック・ルター派・改革派の和解)
- ロシア近代化の提案(ピョートル大帝への書簡、1711・1712・1716年の面談)
1714年、彼のパトロンであるハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがジョージ1世としてイギリス王位に就いた(1701年王位継承法によるプロテスタント継承、カトリック系の近親請求者は排除された)。ライプニッツもロンドンへの同行を期待したが、王はニュートン派に配慮してライプニッツをハノーファーに置き去りにした。これは静かな屈辱だった。
05『弁神論』1710と『モナドロジー』1714
晩年の二冊が、彼の思想を最も明確に提示する。
1710年、『弁神論(Essais de Théodicée)』がアムステルダムで刊行された。この書は親交のあったプロイセン王妃ゾフィア・シャーロッテとの対話に始まり、ピエール・ベイルの『歴史批評辞典』が突きつけた信仰と理性の緊張、悪の問題への懐疑に応答した神義論の大著で、「この世界は可能な全ての世界の中で最善である」という有名なテーゼを展開した。
神は無限の可能世界を見通し、その中で最大の完全性と調和を含む世界を選んで創造した。悪は神が許容するものとして、全体の最善の相貌の中に位置づけられる、と。この楽観主義は1755年のリスボン地震後にヴォルテール『カンディード』(1759)で徹底的に諷刺され、18世紀啓蒙思想の攻撃対象となった。
1714年、ウィーン滞在期に書かれた90節の小篇『モナドロジー(単子論)』は、後期ライプニッツ哲学の凝縮である。
には窓がない。何も内に入って来ず、何も外に出ていかない。偶有性はスコラ学者の可感的形象のように、一つの実体から離れて別の実体へ移動することもない。
モナドは宇宙の究極の単位である。物質的な原子ではなく、力を持つ精神的な単純実体。空間的な部分を持たず、他のモナドと物理的に作用し合うことはない。それでも全てのモナドはそれぞれの明晰さの度合いで宇宙全体を表現しており、予定調和(harmonia praestabilita)によって神の創造の瞬間から完全に同期している。
これは世界の多元的統一のビジョンだった。無数のモナドがそれぞれに宇宙を映しながら、しかし全体の秩序は神の設計により完全に調和している。デカルトの心身二元論とスピノザの一元論の間で、ライプニッツは質的多元論を提示した。
06最期――忘れられた外交官
1716年11月14日、ハノーファーの自宅で、ライプニッツは痛風と腎臓結石の悪化により息を引き取った。70歳。
臨終に立ち会ったのは身近な筆記者と医師のみだったと伝わる。ハノーファー宮廷は喪を発しなかった。王(ジョージ1世)からの弔問はなし。葬儀に身分ある参列者として名が残るのは、助手を務めた歴史家ヨハン・ゲオルク・フォン・エックハルトくらいだった。ベルリン科学アカデミーは開祖の死を公式には発表せず、パリ科学アカデミーだけがフォントネルの追悼演説を行った。葬儀は簡素で、墓は長く目印もなかった。
彼の膨大な遺稿(約15,000通の書簡、50,000枚以上の手稿)はハノーファー王室図書館に引き継がれ、ほとんどが未整理のまま200年以上眠った。1923年からベルリン科学アカデミーによる『ライプニッツ全集(Academy Edition)』の編纂が始まり、100年経った現在もまだ完結していない。
ライプニッツの全体像は、死後徐々に見えてきた。カント、ヘーゲル、ラッセル、フッサールが次々に彼を再読し、20世紀に計算機と論理学の発展の中で、記号論理と数理論理学の先駆者として再評価された。ノーバート・ウィーナーは『サイバネティクス』でライプニッツを「情報理論の守護聖人」と呼んだ。
07主要な出来事と著作
- ライプツィヒに誕生
- 父没、6歳
- 15歳でライプツィヒ大学入学
- アルトドルフ大学で博士号、『組合せ術について』
- パリ外交使節。ホイヘンスに師事、微積分独立発見(1675)
- ロンドン訪問(後に剽窃疑惑の口実とされる)
- ハーグでスピノザに面会、ハノーファーへ
- 微積分の論文を『アクタ・エルディトルム』に公表
- ニュートンとの優先権論争が始まる
- ベルリン科学アカデミー創設、初代院長
- 中国の易経と二進法の関連を発見(ブーヴェの書簡)
- 『弁神論』刊行
- ライプニッツが王立協会に抗議、論争が公的段階へ
- 王立協会が調査委員会を設置し報告、『Commercium Epistolicum』刊行
- パトロンがジョージ1世として渡英、ライプニッツはハノーファーに残される
- 『モナドロジー』執筆
- ハノーファーで死去。享年70
残した思想の輪郭
- ― 宇宙の究極単位は窓のない精神的な単純実体、質的多元論
- ― モナド同士は直接作用せず、神の創造時の同期だけで宇宙の秩序が成立する
- ― 神はの中で最大の完全性と調和を含む世界を選んで創造した、楽観的神義論
- 微積分 ― 独立発見、
dx∫の記法は現代数学の標準 - 二進法 ― 0と1だけで全数を表記する理論、計算機科学の先駆
- ― いかなる事実にも十分な理由がある、形而上学の基礎原理
- 記号論理・の構想 ― 「計算しよう(calculemus)」、思考を形式計算に還元する夢
出典と確認メモ
7件- 抜粋原典で確認済み要旨訳
要旨訳: leibniz.mdx pullquote '我々が住むこの世界は、可能な全ての世界の中で最善である' は Leibniz 'Essais de Théodicée' (1710) の核心命題 'le...
一次資料を開くFlammarion 仏 GF 哲学叢書版『Essais de Théodicée sur la bonté de Dieu, la liberté de l'...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: leibniz.mdx PullQuote 'モナドには窓がない。何も内に入って来ず、何も外に出ていかない。偶有性はスコラ学者の可感的形象のように、一つの実体から離れて別の実体へ移動することもない。'...
一次資料を開く仏 Wikisource La Monadologie §7 全文 'Les Monades n'ont point de fenêtres, par lesq...
- 出典原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: leibniz.mdx pullsource '『弁神論』(Theodicée, 1710年)' は書誌として正確。Leibniz の正式書名は 'Essais de Théodicée sur la...
一次資料を開くFlammarion GF Théodicée 書誌。正式書名 'Essais de Théodicée sur la bonté de Dieu, la li...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: src/data/quotes.ts の leibniz-2 'モナドには窓がない' は Leibniz の La Monadologie §7 (1714) 'Les Monades n'ont p...
一次資料を開く仏 Wikisource La Monadologie ページに Boutroux 1881/1892, Bertrand 1886, Janet 1900 の...
- 引用原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: src/data/quotes.ts の leibniz-3 'なぜ無ではなく何かが存在するのか' は Leibniz 'Principes de la nature et de la grâce, ...
一次資料を開く仏 Wikisource 公開の Leibniz『理性に基づく自然と恩寵の原理』§7 でフランス語原文 'pourquoi il y a plutôt quel...
- 思想原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 1710年、『弁神論』の中心命題。神が選びうるあらゆる可能世界のなかで、全体の調和という観点からこの世界が選ばれた ― そう論じることで、個別の悪や苦しみを神の知恵の配列のなかに位置づけようとする神義...
- 思想原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: 1710年、『弁神論』の中心命題。神が選びうるあらゆる可能世界のなかで、全体の調和という観点からこの世界が選ばれた ― そう論じることで、個別の悪や苦しみを神の知恵の配列のなかに位置づけようとする神義...
つながり
- デカルト
批判的継承 — ライプニッツ『モナドロジー』(1714)『新システム』(1695)『形而上学叙説』(1686)で、デカルトの心身二元論と延長を実体の属性とする立場を退け、実体を非延長的で単純な精神的原子「モナド」とし、心身の相関を「予定調和」で説明。デカルトの運動量保存則も『力学的証明』(1686)で誤りと指摘し活力(vis viva)概念を提起
- スピノザ
対比 — 1676年11月ハーグでライプニッツがスピノザを訪問し数日間対話、『エチカ』未刊原稿を見せられたとされる(ライプニッツ自身の手稿・書簡に記録)。しかし後にスピノザ主義の反響を恐れて距離を取り、『神と人間の悟性についての考察』(1677-78)等で批判的に論評。一なる実体のスピノザ・無限の単純実体の複数を認めるライプニッツの対照
- カント
先駆 — カント初期論文『活力の正しい評価についての考察』(1746)はライプニッツ=デカルト論争(活力対運動量)を主題とする。『純粋理性批判』(1781)はライプニッツ=ヴォルフ派のドイツ合理論(バウムガルテン経由)を継承しつつ、予定調和とモナド論をはじめとする独断的形而上学を批判的に再構成、超越論哲学として再起動した
さらに読むならFurther Reading
ライプニッツの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門モナドロジー 他二篇
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生きた跡を辿るPlaces
ライプニッツが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
さらに辿るならExternal References
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Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "Gottfried Leibniz: Metaphysics"
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