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実践の知

加藤清正

Katō Kiyomasa·1562–1611·日本(戦国・桃山)·

戦いで名を上げた武将は、 なぜ四百年後も「清正公さん」と呼ばれるのか?

秀吉子飼いの武将にして築城と治水の名人、熊本城と白川改修で肥後一国を整え、没後は「清正公信仰」として庶民の祈りを受け続ける肥後の祖

  • 熊本城
  • 築城
  • 白川治水
  • 虎退治
  • 肥後国造り
  • 関ヶ原
天下人が秀吉から家康へ移るとき、秀吉に育てられた武将はどちらの側に立つのかを迫られた時代 — ひらく

時代の空気

戦国末期から安土桃山、江戸初期へ移る時代だ。本能寺の変(1582)から秀吉の天下統一(1590)、文禄・慶長の役(1592-98)、秀吉の死(1598)、関ヶ原(1600)を経て大坂の陣(1614-15)直前の張りつめた静けさへ。尾張中村に生まれた秀吉の遠縁の少年は、賤ヶ岳の七本槍(1583)で武名を得、九州・小田原・朝鮮の戦陣を渡り、肥後一国52万石の藩祖として熊本城天守を立ち上げた。日蓮宗を厚く信奉し、最後は1611年二条城の秀頼家康会見の帰路に没する。

01二条城の春、三か月後の死

1611年3月28日、京都の二条城。徳川家康と豊臣秀頼の会見が、ここで実現した。家康は、に勝って天下を握った老人である。秀頼は、亡き豊臣秀吉のひとり息子だ。19歳の秀頼と、70歳の家康。関ヶ原から11年、二人が同じ座敷に並ぶ日だった。

その席に、ひとりの武将が付き添っていた。加藤清正、肥後(いまの熊本県)の大名である。清正は、浅野幸長とともに、この会見をとりもった。そして秀頼の上洛(京都へ上ること)に付き添い、護衛した。会見は無事に終わった。家康が秀頼を「成長された」とほめ、その場は静かに閉じたと伝わる。

清正は、関ヶ原では家康の側に立った男だ。家康の養女を、妻にも迎えている。その男が、秀頼のそばを離れなかった。なぜか。

そして三か月後の6月24日。清正は病に倒れ、この世を去った。享年50(満49歳)。死因は、いまも定まっていない。病だったという説がいくつもあり、家康が毒を盛ったという話まで語り継がれた。

戦に強く、城を築き、二人の主人のあいだに立った男。その死から四百年、熊本の人々は彼を「清正公さん」と呼び、いまも祈りを向けている。武将が、なぜ祈りの相手になったのか。

時は38年前、近江(いまの滋賀県)の長浜に戻る。

02長浜の台所から、賤ヶ岳へ

1573年、豊臣秀吉が長浜の城主になった。秀吉はまだ織田信長の家来で、天下人になる前である。この年、11歳前後の少年が120石をもらい、秀吉の小姓組(そば近くに仕える少年たち)に入った。少年の名は虎之助、のちの加藤清正である。

清正は1562年、尾張(いまの愛知県西部)の中村に生まれた。中村は、秀吉が生まれた村でもある。母の伊都は、秀吉の母の従姉妹(いとこ)だった。3歳のとき父を亡くし、母子は秀吉を頼って長浜へ移ったと伝わる(出自には諸説ある)。

清正は秀吉の妻おねの手元で育った。同じように育てられた少年に、福島正則とがいる。三人は寝起きをともにした。のちに清正が強く反発し、正則とともに敵に回す三成は、この台所仲間だった。

1583年4月、秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳(しずがたけ、近江の北の端)でぶつかった。勝家は織田家の重臣で、信長の死後、秀吉と天下を争っていた。21歳の清正は秀吉の側で戦い、敵の猛将山路正国を討ち取ったと伝わる。秀吉は清正に3000石を加えた。

福島正則、脇坂安治、片桐且元ら七人の若者が、この戦で名を上げた。人は彼らを「」と呼んだ。秀吉の台所で育った少年は、こうして武将になった。だが彼の名を本当に大きくするのは、槍ではなく、海の向こうの寒さだった。

03海を渡った槍

秀吉は天下人への道を進み、清正はその戦にことごとく従った。1585年の紀州攻め、1586年からの九州攻め。1588年、清正は肥後の北半分、19万5千石を与えられた。20代半ばで、初めての大名である。南半分はという武将がもらった。行長はキリシタン(キリスト教徒)で、のちに清正の敵になる。

1592年、秀吉は朝鮮に兵を送った。、いわゆる朝鮮出兵である。清正は二番隊の主将として海を渡った。釜山から漢城(いまのソウル)へ入り、さらに北へ進んだ。そして朝鮮の王子二人を捕虜にした。

この戦は、朝鮮の人々にとって侵略だった。村を焼き、人を殺し、深い傷を残した。その傷は、いまも韓国・朝鮮の記録が告発し続けている。日本で語られる清正の「虎退治」の英雄譚(えいゆうたん)は、この戦の中で生まれた。虎を仕留めたこと自体は複数の記録に短く残る。だが劇的な物語の輪郭は、後の時代に整えられたものだ。

1597年、二度目の出兵。清正は半島の南東の端、蔚山(うるさん)に(日本式の山城)を築いた。そこへ明(中国の王朝)と朝鮮の連合軍5万が押し寄せた。清正は城にこもった。12月から翌年1月、真冬である。

水が尽きた。食べ物が尽きた。兵は寒さと飢えで次々に死んだ。清正は援軍が来るまで耐えぬいた。1598年、秀吉が死に、出兵は終わった。清正は戦の傷と、失った兵の記憶を身体に刻んで帰国した。

この寒さと渇きを、清正は忘れなかった。それは数年後、まったく別の形で現れる。

04石を積む

1600年、関ヶ原の戦い。秀吉の死後、天下をめぐって徳川家康と石田三成が争った。清正は三成に強く反発し、家康の側についた。ただし本戦には出ていない。清正は九州に残り、隣の小西行長(三成の側)の領地を攻めた。宇土城、そして八代城。九州戦線を、清正は独りで動かした。

戦が終わると、清正は肥後一国52万石の主になった。38歳。旧小西領を合わせ、肥後の全部が彼のものになった。ここから、清正の本当の仕事が始まる。

1601年、清正は熊本城を築き始めた。古い隈本城の地、茶臼山の台地を削り、巨大な城を立ち上げる。石垣は下がゆるやかで、上へ行くほど垂直に立つ。「武者返し」と呼ばれる形だ。よじ登った敵を、最後の一歩で突き落とす。

城の中には、井戸を120か所以上も掘った(数には諸説ある)。畳の芯に干瓢(かんぴょう)や里芋を入れ、土塀に干瓢を塗り込めたとも伝わる。すべて、長く城にこもるための備えである。蔚山で水を絶たれた男が、水を絶やさない城を造った。

城だけではない。城下の町割り、家臣の屋敷、商人の町、川と堀の流れ。一万人を超える人足を動かし、肥後の土地そのものを組み直した。1610年には名古屋城の(全国の大名を動員する幕府の工事)にも呼ばれた。加藤家の石垣の腕は、天下に知られていた。

石を積む男の頭には、ひとつの考えが宿っていたと伝わる。

築城は一代、仁政は百代。

— 清正の治国観を凝縮する口伝(『続撰清正記』『清正公御事績』系の編纂史料を通じて流布、出典には諸説あり)

05川を治める、そして影

熊本の町を、白川という川が貫いている。阿蘇の火山灰を運ぶ暴れ川で、たびたびあふれて平野を荒らした。清正は城と並行して、この川の手当てに取りかかったとされる。堤を築き、支流の井芹川と坪井川を分け、堀に取り込む。

石をくり抜いて土砂を流す「鼻ぐり井手(はなぐりいで)」。白川と坪井川を分ける堤「石塘(いしども)」。熊本には、清正の名を冠した水の仕組みが多く残る。ただし、その多くは後の細川藩の時代に手が加えられている。どこまでが清正の仕事かは、ひとつひとつ確かめる必要がある。

この国造りには、影がある。朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮の職人たちが、肥後で焼き物を始めた。それが(高田焼)の源流になった。熊本城の一部にも、朝鮮の築城や瓦の技が入っている。

言葉を奪われ、故郷を奪われ、外国での労役に一生を閉じ込められた人々の技である。清正の土木の輝きを語るとき、この影を溶かして消してはならない。

城と川を整えた男は、しかし、まだ二人の主人のあいだに立っていた。

06二人の主人のあいだで

関ヶ原の後、清正の立場はむずかしかった。秀吉に育てられた大名として、秀吉の子秀頼への忠義は捨てない。だが天下を握った家康には、逆らわない。1601年、清正は家康の養女清浄院を妻に迎えた。徳川と縁を結びながら、秀頼への臣下の礼も崩さない。二つを同時に持ち続ける道だった。

そして1611年3月28日、二条城。冒頭の場面である。家康と秀頼の会見を、清正は福島正則、浅野幸長とともにとりもった。関ヶ原から11年。豊臣家を残しながら、徳川の世に収める。それが清正の政治のすべてだった。

会見は整って終わった。だが家康にとっては秀頼を抑えるための儀式、清正にとっては秀頼を守るための同席。同じ部屋に、別の意図が並んでいた。

三か月後、清正は死んだ。享年50(満49歳)。死因は梅毒、脚気(かっけ)、腎臓病、そして毒殺説まで、諸説が並んだまま決着していない。家康が饅頭(まんじゅう)に毒を仕込んだという話は、江戸の後期以降に講釈(こうしゃく)で広まったものだ。同じ時代の記録に、その裏付けはない。

同じ1611年に浅野長政と堀尾吉晴が、二年後には浅野幸長が死んだ。いずれも秀吉に引き立てられた大名である。豊臣方の有力な武将が、相次いで消えていく。そして4年後、(1614-15)で豊臣家は滅びた。清正が生きていたら、どうなっていたか。それは、いまも語られ続ける「もしも」である。

築城は一代、仁政は百代。

— 同じ口伝を、清正の死のあとから読み直す ― 城を築いた男が去り、「仁政は百代」の側が始まる

07清正公さん

清正の遺骸は、に葬られた。日蓮宗の寺である。清正は日蓮宗を深く信じ、肥後で多くの寺を守った。キリシタンだった隣の小西行長との対立も、その背景にある。本妙寺は最初、熊本城の中にあった。1614年、三回忌をきっかけに、花岡山の中腹へ移されたと伝わる。

江戸の中ごろから、が全国へ広がった。日蓮宗の寺を中心に「清正公さん」「せいしょこさん」と呼ばれ、祈りの相手になった。戦の神、疫病(はやりやまい)よけ、子どもの病気の治り、商売の繁盛。清正は250年をかけて、少しずつ神になっていった。芝居や絵草紙では、虎退治の物語が何度も語り直された。

1632年、清正の子忠広が幕府に領地を取り上げられ、加藤家は二代で絶えた。肥後は細川家のものになった。それでも熊本の人々は、細川の殿様より「清正公さん」を主人として敬い続けた。2016年の熊本地震で熊本城が大きく崩れたとき、復興の象徴として呼ばれたのも清正の名だった。

冒頭の問いに戻ろう。関ヶ原で家康についた男は、なぜ秀頼のそばを離れなかったのか。なぜ武将が、祈りの相手になったのか。清正が積んだ石垣は、地震で崩れる。だが「この土地を整えた人」という記憶は、四百年たっても崩れなかった。城は一代で終わる。では、あなたが百代先に残したいものは、何だろうか。

08考証 ― 築く人の遺産をどう測るか

熊本城の設計には、の経験が濃く反映している。慶長2年12月から翌年1月にかけ、水も食糧も尽き、凍餓と寒さで多くの兵を失いながら援軍到着まで耐え抜いた経験が、水と食糧を城内に備蓄し、長期籠城に耐える縄張りを発想させた。慶長6年(1601年)の着工から一般には慶長12年(1607年)完成とされ、反り返る武者返しの石垣、大小天守、宇土櫓を含む49の櫓(正確な数は諸説)、18の櫓門、29の城門、縦横に張り巡らした井戸(120か所以上)を持つ巨大な城塞都市が立ち上がった。

  • 武者返し ― 石垣下部は緩やかな勾配だが、上部が垂直に立ち上がる「扇の勾配」。攀じ登ろうとした敵を、最後の一歩で突き落とす形
  • 井戸の多さ ― 城内120か所以上(諸説)。蔚山で水を絶たれた経験の反映
  • 銀杏・里芋の備蓄 ― 畳の芯に干瓢や里芋、土塀に干瓢を塗り込めたと伝わる。長期籠城対策
  • 二様の石垣 ― 築城時期の異なる石垣が交わる箇所があり、増築・改修の痕跡として現存

熊本城は単なる城ではなく、国造りのための土木工程そのものだった。城下の町割り、家臣団の屋敷配置、商人町の立地、外堀と坪井川・白川・井芹川の水系統制 ― 一万人を超える普請人足を動員した大公共事業として、肥後の国土全体が再編された。慶長15年(1610年)の名古屋城天下普請助役への動員は、加藤家の石垣技術が天下普請の場でも知られていたことを示す。

白川治水については、清正期に堤防整備・支流井芹川と坪井川の分離・外堀への組込が進んだことは確認できるが、後代(江戸期以降、細川藩時代)の改修も積み重なっており、現存施設の「どこまでが清正帰属か」は個別に留保を要する。

  • 鼻ぐり井手(はなぐりいで) ― 阿蘇外輪山の火山灰土壌は堆積しやすい。石をくり抜いた水路で土砂を排出する構造だが、現存する鼻ぐり井手は細川藩時代以降の整備が大きく、「清正が基本発想の原点」というのは後代伝承としての位置づけ
  • 石塘(いしども) ― 白川と坪井川を分岐させる堤。熊本市街の骨格に関わる遺構(清正期の築造を示す同時代史料は限定的、江戸期の地誌類に清正帰属の伝承)
  • 轟泉水道(ごうせんすいどう)関連 ― 宇土方面の水利事業(清正との関係は間接的)

南関・日田街道の整備、芦北・天草方面の事業も、清正時代に着手・改修されたものと、後世に清正の名を冠して整理されたものが重なっている。熊本の土木遺産をすべて「清正の仕事」と一括りにすることは、現地の研究史的には慎まれている。

加えて、朝鮮出兵で連行された朝鮮人技術者が清正の肥後で陶業を始め、のちの八代焼(高田焼)の源流となった。朝鮮の築城・瓦葺きの技法も熊本城の一部に取り入れられている。これは「技術移転」という穏当な言葉では済まない ― 原語を奪い、故郷を奪い、生涯を外国での労役に閉じ込めた人々の技術を、戦利品のように持ち帰った構造である。この加害の事実を、熊本の土木遺産の輝かしさに溶かさずに残すことが、現代から清正を語るときの最低条件である。文禄の役における焼き討ち・虐殺は朝鮮半島の民衆に深い傷を残し、現代韓国・朝鮮の史料が繰り返し告発する加害の中心にある。虎退治伝承(『清正記』『朝鮮役覚書』に記される)は江戸期の講談・絵草紙でもっとも流布した英雄譚であり、史実性については諸説ある ― 虎を仕留めた事実そのものは複数の同時代史料に短く触れられるが、家臣を一頭の虎が食い殺し清正が槍で突き殺した、といった劇的な物語の輪郭は後世編纂の整形が大きい。

出自と家族について補っておく。幼名夜叉丸、のち虎之助。父清忠は鍛冶師とも尾張守山城に仕えたとも伝わるが詳細は定かでない(鍛冶師・土豪・地侍など諸説あり)。天正16年(1588年)の肥後北半国拝領は、旧肥後領主佐々成政が天正15年の肥後国人一揆で失脚し、秀吉が領地を清正(北半)と小西行長(南半)に分けた結果である。正室は秀吉の意向で山崎氏の女(大政所の養女、西の丸殿)を娶ったが天正19年(1591年)に早世し、その後は織田信長の弟信時の娘正応院、徳川家康の養女清浄院(慶長6年・1601年再婚)らを迎えた。子は嫡男忠正(10歳前後で早世)、次男忠広(慶長6年・1601年生まれ)、3女ほか。法号は浄池院殿永運日乗大居士。熊本では、加藤神社(熊本城内)・本妙寺加藤清正公廟が今も参拝者を絶やさない。

は、豊臣家の存続と徳川の秩序を両立させようとする、関ヶ原から十一年を経た清正の政治的試みだった。会見そのものは儀礼的に整い、家康が秀頼を「成長された」と称えるかたちで終わったと伝わるが、徳川にとっては秀頼の威光を抑えるための演出、清正にとっては秀頼を守るための同席という、互いに別の意図が並走する場でもあった。清正の死亡の場所は熊本城本丸御殿とする伝承と、京都帰路の船中で発病し熊本帰着後に没したとする伝承が混在し、同時代史料での確定は難しい。死因については、当時から梅毒・脚気・腎臓病・毒殺説まで諸説が並び立ち、現在も決着していない。家康による暗殺説(二条城会見後の饅頭に毒を仕込んだ等)は江戸後期から近代の講釈で繰り返し語られたが、同時代史料での裏付けはなく、政治的状況からの推測の域を出ない ― 整然とした断定はここでは慎みたい。

没後の神格化についても留保がいる。の理由は『家光時代の若君監督不行届』『幕府への謀反疑い』など諸説あり、政治的整理の側面も指摘される。出羽国丸岡へ配流された忠広の後、藩は細川家(熊本藩54万石)に引き継がれたが、江戸後期の戯作・浄瑠璃・絵草紙では虎退治の英雄譚が繰り返し再生産され、信仰と娯楽と「肥後の祖」の像が分かちがたく重なっていく。武神・疫病除け・子どもの病気平癒・商売繁盛 ― 庶民の多様な祈りを引き受ける神格として清正が250年かけて神になっていった過程は、細川の治世が続いても「清正公さん」が熊本の主人として残り続けた記憶の政治学として読める。清正の遺産は、熊本城の石垣や白川の堤ではなく、「この土地を整えた人」として肥後の人々の記憶に住み続けていることそのものにある。築城は一代で終わる。しかし「仁政は百代に及ぶ」― 城と堤は形ある遺産だが、信頼と記憶は形ない継承として、四百年後の熊本の人々にまで届いている。

09主要な出来事と著作

  1. 尾張国愛智郡中村に生まれる。父加藤清忠、母伊都(大政所の従姉妹)
  2. 11歳前後で秀吉の小姓組、120石
  3. 賤ヶ岳の戦い、七本槍の一人として3000石加増
  4. 肥後北半国19万5千石、熊本に入国。27歳で大名
  5. 小田原征伐に従軍
  6. 紀州攻めに従軍
  7. 九州攻めに従軍、戦後肥後北半国19万5千石
  8. 文禄の役、二番隊(軍次では第二軍)の主将8000兵で朝鮮へ渡海、釜山上陸後咸鏡道まで北進。朝鮮王子2人(臨海君・順和君)を捕虜
  9. 慶長の役、蔚山倭城を築き12月から翌年1月にかけ明・朝鮮5万の連合軍に籠城、凍餓と寒さの中を耐え抜く
  10. 関ヶ原時九州留守、宇土城・八代城を攻略。戦後、肥後一国52万石を領す
  11. 熊本城築城開始(一般に1607完成とされる)。家康養女清浄院を後妻に迎える
  12. 白川改修、鼻ぐり井手、石塘、南関・日田街道整備等の肥後国造り
  13. 名古屋城天下普請助役として動員される
  14. 3月28日、京都二条城で徳川家康と豊臣秀頼の会見に同席・斡旋。6月24日、京都帰路もしくは熊本帰着後で病没。享年50。死因は梅毒・脚気・毒殺説など諸説あり
  15. 本妙寺(熊本)に葬られ、慶長19年(1614)三回忌で花岡山中腹へ改葬。清正公信仰として日蓮宗寺院を中心に全国へ広がる
  16. 嫡男忠広の代で加藤家改易(寛永9年)、細川家が熊本入国し以後肥後は細川藩

残した思想の輪郭

  • 築城の哲学 ― 熊本城は単なる城ではなく、蔚山籠城の経験を設計に織り込んだ「長期籠城と国造りの装置」
  • 武者返し ― 反り返る石垣の扇の勾配、攀じ登った敵を最後の一歩で突き落とす日本式築城の到達点
  • 白川治水 ― 阿蘇火山灰の暴れ川を制御し、熊本平野の農業と城下町の基盤を定めた
  • 仁政は百代 ― 一代の築城は形ある遺産、しかし仁政が記憶として継承されるとき、それは百代を超えて生き続ける
  • 清正公信仰 ― 没後の神格化として、武神・疫病除け・子どもの守り神まで多層に祀られる日蓮宗の広がり
  • 矛盾の共在 ― 朝鮮出兵の侵略と、連行した陶工による技術移植、その両方を同じ履歴に抱える人物としての清正
  • 熊本の祖 ― 細川家の治世が続いても「清正公さん」が熊本の主人として残り続けた、記憶の政治学
慶長16年(1611年)6月24日、熊本城本丸御殿で没。50歳。遺骸は本妙寺(熊本)に葬られ、法号は浄池院殿永運日乗大居士。没後「清正公信仰」が肥後一国から全国へ広がり、日蓮宗寺院を中心に今も祀り続けられている。

つながり

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生きた跡を辿るPlaces

加藤清正が歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

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