オスマン男爵
街の骨格を描き変えることは、 誰のための都市をつくることか?
17 年かけてパリの石畳と下水と大通りを描き直し、近代都市計画の原型を造った県知事
- パリ大改造
- 大通り(ブールヴァール)
- 下水道
- 同心放射状
- 第二帝政
時代の空気
十九世紀中期のフランス、ナポレオン三世第二帝政期(1852-70)である。1848年二月革命と六月の労働者蜂起を経て、1851年12月のクーデタで皇帝が即位した。産業革命と鉄道網が農村人口を都市へ吸い上げ、パリは1850年百万から1870年百八十万へ膨張した。1832年の第一次コレラは市内に一万八千人の死者を出し、密集街路は感染と蜂起の温床として恐れられた。クレディ・モビリエ銀行とペレール兄弟の都市金融が再開発資金を供給し、レ・アール市場のバルタール鉄骨やガルニエ・オペラがベル・エポックの予兆を刻んだ。帝政は1870年スダンの敗戦で崩壊し、翌春のパリ・コミューンを残した。
01アルザスのプロテスタント家系と法律家時代
1809 年 3 月 27 日、パリ 1 区フォーブール=デュ=ルール通りで生まれた。ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン(Georges-Eugène Haussmann)。父ニコラ=ヴァランタン・オスマンはナポレオン一世帝国の軍需補給官(intendant militaire)、母エーヴ=マリー・ダンテル(Ève-Marie Dentzel)はアルザス出身のプロテスタント。父方の祖父はストラスブールの商人で、革命期に共和派議員を務めた ニコラ・オスマン である。一族はルイ 14 世のナント勅令撤廃(1685)でフランスへ逃れたドイツ・プロテスタント系アルザス人の末裔で、ケルン出身の版画家エーバーハルト・オスマン を祖にもつと伝える。
少年時代は帝政期の栄光と王政復古の保守反動のはざまで育った。母方の祖父 ジョルジュ・フレデリック・ダンテル(革命期のドイツ系プロテスタント牧師、のち共和派議員)の名を受け継ぎ、幼名は「ジョルジュ」。両家ともに官僚・議員を輩出した第三共和政前夜のブルジョワ公職者階層に属する。
リセ・アンリ 4 世 を経て 1827 年パリ大学法学部(ソルボンヌ)に進み、同時にパリ音楽院でヴァイオリンと作曲を学んだ(母方の叔父がチェリスト アレクサンドル・ダンシュ と近縁、音楽は終生の嗜好となる)。1831 年法学士取得、同年県庁書記としてポワチエ県へ赴任、翌 1832 年ヨンヌ県総務監査官補へ昇進した。1836 年、同じプロテスタント家系の オクタヴィー・ド・ラアルプ(Louise-Octavie de Laharpe、ボルドー出身)と結婚。1838 年に長女アンリエット、1841 年に次女ファニーが生まれている(生涯独身ではない、と念のため記す)。以後、ネラック郡(1840)・サン=ジロン郡(1841)・ブレー郡(1848)・ヴァール県(1849)・ヨンヌ県知事(1850)・ジロンド県知事(1851 年 11 月 → 1853 年 1 月、ボルドー)と、ほぼ 20 年を地方県政官として移動し続けた。背の高い(1m90 近い)力士的体格と、決断の早さ、書類捌きの速さが評判だった。
021853 年、ナポレオン 3 世からの命
1851 年 12 月 2 日のクーデタで大統領 ルイ=ナポレオン・ボナパルト が帝位に就き、翌 1852 年に第二帝政が始まる。ナポレオン 3 世は叔父の帝国の再建者として「パリ近代化」を自らの統治理念の柱に据えていた。ロンドン亡命時代(1846-48)に目にしたリージェンツ・パーク、ハイド・パーク、広く清潔な大通りと地下鉄の原型を、彼はパリに移植したいと考えていた。
皇帝はまず 1849-53 年に ジャン=ジャック・ベルジェ をパリ県知事(セーヌ県知事)に据え、リヴォリ通り延伸と中央市場設計を試みたが、財政的裏付けと政治的強権が足りず計画は停滞した。1853 年 6 月 22 日にオスマンはジロンド県知事からセーヌ県知事(préfet de la Seine、パリ市長相当)への任命の通達を受け、6 月 29 日付で正式に着任した(任命詔は 6 月 23 日付)。当時 44 歳。オスマンの回想によれば、彼は任命の当日皇帝の執務室に呼ばれ、ロンドン亡命中から皇帝自身が手を入れてきたという パリの構想図 を示されたとされる。赤青緑黄の四色で主要幹線道路を書き込んだ地図である、という伝承が広く流通しているが、原本の現状所在を含め細部には史料的な揺れがある。
オスマンは『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』(1890-93、第三巻 1893 没後刊)で、その会見を「皇帝陛下は、パリの地図ではなく、未来のパリの骨格をお見せになった」という趣旨で描いている(本稿の引用は直訳ではなく論旨の要約)。1853 年から 1870 年 1 月 5 日の解任まで 17 年間、彼はパリ県知事としてフランス史上最大規模の都市大改造を指揮することになる。
03大改造の論理 ― 衛生・軍事・経済の三位一体
(Haussmannisation)は、しばしば「美観」の問題として語られる。しかし当事者の理論は冷徹で実務的だった。皇帝とオスマンが公式に掲げた三つの名目は以下である。
(1) 衛生。1832 年、1849 年、1853-54 年、そして 1865-66 年と、パリはコレラの大流行を受け続けた。1832 年の第一次コレラだけで市内の死者は約 1 万 8000 人、とくに イル・ド・ラ・シテ など中世以来の密集市街地で死亡率が 3 倍以上に達した。医学的原因(瘴気説から後の水系感染説まで)の解釈はなお揺れていたが、「狭く暗く淀んだ街路」こそが疾病の温床だという合意は広くあった。下水・清水の分離配管と、広い大通りに日と風を通す ことは、近代公衆衛生の第一義的実装として位置づけられた。
(2) 軍事。中世以来のパリは、1830 年 7 月革命・1832 年 6 月蜂起・1848 年 2 月革命と 6 月蜂起の四度にわたり、路地の バリケード によって王権・共和政権を転覆してきた。ナポレオン 3 世自身の政権も、その系譜の上に立ちつつ、同時にその再発を恐れていた。広い直線の大通り は、バリケードを張りにくく、騎兵隊と砲兵隊が一直線に展開できる。ブルバールは「砲兵の射線」でもあった ― この事実を当時の批判派(ヴィクトル・ユゴー、プルードンを含む)は鋭く指摘している。オスマン自身は回想録でこの軍事的動機を控えめにしか語らないが、国務院での予算審議議事録(1857-58)にはこの目的が明記されている。ただし「広い大通りは反乱抑止のためだった」という命題は十分条件としても必要条件としても疑いえる ― 広場・公園・市場の確保や排水勾配など、軍事と無関係な動機も同じ計画書に並ぶ。後章で触れる 1871 年コミューンの帰結を含め、この点は今も議論が続く。
(3) 経済。1850 年代のパリは急激な人口流入(1800 年 55 万人 → 1850 年 100 万人 → 1870 年 180 万人)の圧力下にあった。大改造は、土地収用・建設事業・新築建築の建設ラッシュを通じて大量の雇用を生み、同時に不動産市場を活性化し、鉄道網との接続(ガール・ド・レスト 1849・ガール・デュ・ノール 1864 等の新ターミナルへの主要大通り接続)を通じて経済圏としてのパリを再編した。皇帝の政権基盤であった (1852 年エミール・イザーク・ペレールとイザーク・ペレールの兄弟が設立、サン=シモン主義の経済思想を背景にもつ大規模投資銀行)が、株式と社債を通じて鉄道・都市改造・不動産事業に巨額の融資を回し、第二帝政の景気循環そのものを駆動した。1867 年にこの銀行は過剰投機の末に破綻するが、近代投資銀行業の祖形としてその経営手法は世界に伝播する。
この三つを「衛生・軍事・経済」と並べることを、21 世紀の読者は冷たく感じるかもしれない。だが 1850 年代のパリにとって、それは生死に直結する三重の課題だった。オスマンの仕事の冷徹さは、三者を同時に、同じ石と鉄で解こうとしたところにある。
04大通りと同心放射状、下水道 600 km
改造の具体像は、書物ではなく地図に刻まれている。
第一系統網(1854-58):皇帝の赤の線。リヴォリ通り延伸、セバストポル大通り・ストラスブール大通り・サン=ミッシェル大通り による南北軸、中央市場(レ・アール)のバルタール鉄骨市場(1853-74、十棟のパヴィヨンに鋳鉄柱とガラス屋根、1873 年エミール・ゾラ『パリの胃袋』の舞台)。
第二系統網(1858-67):皇帝の青の線。オペラ大通り・サン=ジェルマン大通り・マルゼルブ大通り、(凱旋門)から放射する 12 本の大通り群(「エトワールの 12 星」)、ブーローニュの森 整備(1852-58)、ヴァンセンヌの森 整備(1858-65)、パリ北西部のモンソー公園・南東部のモンスリ公園。
第三系統網(1867-70):皇帝の緑の線。ブールヴァール・ヴォルテール、ブールヴァール・マジャンタ、東部労働者街への放射網、ビュット=ショーモン公園(1867、万博の年に開園、かつての採石場跡を人工の山と滝と湖の景観として再生)。
建築ファサードの統制にも一貫した論理が通った。建物の高さは街路幅に対する比率で定め、1 階商店・2 階夜会場(アントルソル)・3-5 階住居・6 階メイド部屋 という オスマニアン・ファサード の層序を事実上の標準とした。建物間の切れ目を最小化し、アンクルドリエ(一直線に伸びる二階バルコニーの連なる石造ファサード)を道路景観の規範とした。素材は リュタス石灰岩(パリ近郊の白い石灰岩)を強制したため、大通りは日の光のもとでほぼ同じ色調をもつ。21 世紀の私たちが「パリらしい」と感じる色は、この統制の残響である。
上下水道。オスマン配下の主任技師 (1810-78、エコール・ポリテクニーク卒)が 1854 年から 1870 年にかけて敷設した 地下水道網 は、既存の 100 km を 600 km に拡張した。下水道は単なる排水路ではなく、飲料水管・ガス管・圧縮空気管・後の電信線 を通す複合インフラ管廊(エグー・ヴィジタブル、人が歩ける下水道)として設計された。1867 年の万国博覧会では、皇后 ウジェニー 自らが下水道の観光ボート遊覧を行い、「清潔な地下のパリ」は帝政の誇るべき成果として国際的に展示された。飲料水はそれまでのセーヌ川直接取水から、ヴァンヌ渓谷(1867 完成)・デュイ渓谷 からの長距離パイプラインで 130 km 以上先の地下水へ切り替えられた。ベルグランの仕事は、バザルジェットのロンドン下水道(1858-75)と並んで、19 世紀都市衛生の双頭である。
051870 年の解任、晩年の弁明、没後の再評価
1868 年頃から、オスマンへの政治的逆風は急速に強まった。予算規模は当初の見積もりを大幅に上回り(累計支出は5億フランを大きく超えたとされる)、土地収用の補償金をめぐる裁判は市内で 3 万件を超えた。財政手法としてオスマンが用いた デレゲーション・ド・ボン=デュ=ヴィル(割引債、市の将来財源を担保に民間銀行から資金調達する疑似公債)は、国会予算審議を経ない「影の財政」として、自由主義野党(とくに ジュール・フェリー の 1868 年パンフレット『オスマン氏の幻想会計(Comptes fantastiques d’Haussmann)』)に激しく攻撃された。
そしてもう一つの、より重い影が大改造には付随していた。中央区の労働者街区から立ち退きを強いられた住民の総数は、現代の歴史家の推定でおよそ 35 万人にのぼる(Pinkney 1958、Jordan 1995 ほかの推計、計算根拠により 30 万から 35 万の幅がある)。彼らはバンリュー(郊外)の北部・東部 ― ベルヴィル、メニルモンタン、ラ・ヴィレット、サン=ドニ ― へ押し出され、家賃と通勤負担を新たに負った。補償金は地主と長期賃借人にしか流れず、日銭で暮らす単身労働者・移住者・寡婦には実質的な救済はなかった。「広い大通りに日と風を通す」事業の裏で、「狭く暗く淀んだ街路」とともに人が物理的に追い出されていた事実を、ここで省略はできない。近代ジェントリフィケーションの最初期事例として、この立ち退きは今日もなお批判的に検討されている。
1870 年 1 月 5 日、皇帝は自由帝政内閣の首班 エミール・オリヴィエ の要求を容れ、財政正常化の象徴として オスマンを解任 した。8 ヶ月後の 9 月 2 日、スダンの戦いで皇帝自身が捕虜となり、9 月 4 日パリで第二帝政は倒れ、9 月 19 日から 1871 年 1 月 28 日までパリはプロイセン軍に包囲される。1871 年 3 月 18 日からのパリ・コミューンは、オスマンが建てた新しいパリそのもの ― とりわけシャトー=ドー区・ベルヴィル区 ― を拠点として燃え上がり、5 月の「血の週間」で鎮圧された。
ここで広く引き合いに出されるのが、「オスマンの広い大通りはバリケードを張りにくく、政府軍の砲兵展開を許したからこそコミューンは鎮圧された」という命題である。直線的射線という設計意図が、皇帝政府を倒した同じ反乱の鎮圧に転用された皮肉な構図として、19 世紀末から 20 世紀の都市批評(ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』を含む)の常套句となった。一方で近年の実証研究は、コミューン期に確認されたバリケードの分布をたどると、オスマン以前の旧街区(マレ、ファブール・サンタントワーヌ、シャトー=ドー北部)に多く、新設の幅広い大通り上にも建設されている点を指摘する ― つまり大通りは反乱を一義的に防いだわけではない。「広い大通り = 反乱抑止」という命題は、設計意図としては確実だが帰結としてはなお留保つきというのが、現在の慎重な歴史像である。彼の更迭からわずか 1 年 3 ヶ月後に、自らの設計したパリで起きたこの一連の出来事は、都市計画と政治権力の関係を 21 世紀の私たちにまで突きつけている。
第三共和政下のオスマンは、旧帝政の汚職官僚として長く糾弾された。1881 年に上院議員に選出され(コルシカ島選出のボナパルティスト議員時代 1877-81 を経ての復帰)、政界復帰を試みたが大きな政治的影響力は取り戻せなかった。晩年の 10 年はパリ 16 区の自宅で回想録執筆に費やされ、『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』 三巻(第一巻 1890、第二巻 1890、第三巻 1893 没後刊行)で、彼は自分の仕事を丹念に、しかし弁明的な色調で記録した。1891 年 1 月 11 日、81 歳で死去、ペール・ラシェーズ墓地(56 区画)に埋葬された。
20 世紀に入り、ル・コルビュジエ(1925 年「ヴォワザン計画」で中央パリを解体する遙かに過激な案を提示)以降の都市計画家は、オスマンを批判しつつも「オスマン主義」(Haussmannisme)を近代都市計画の 原型 として引用し続けた。ハワード(田園都市)・ヴァーグナー(ウィーン環状道路圏)・ナッシュ(ロンドン・リージェント街)・後藤新平(関東大震災後の東京復興計画、1923-24)・セルダ(バルセロナの拡張区エイシャンプラ)の仕事は、いずれもオスマンが 1853-70 年に試みた「国家権力による都市総体の描き直し」の系譜にある。
21 世紀の再評価の眼差しは二重である。一方では、ジェントリフィケーション(労働者の周辺への追い出し)の元祖としての批判 ― 大改造で中央区から東部・北部へ押し出された労働者階級が、のちのコミューンの担い手となった皮肉。他方では、疫学・下水・公園・光・風 を都市設計の第一義的課題として統合した 近代公衆衛生都市の設計者 としての再評価。彼自身はおそらくどちらの側にも属さない。帝政の代行者として、石と鉄と水を描き直した実務家だった。
私はパリを貫くために身を削った。石の都市を造り変えるには、石の意志が要る。
06主要な出来事と著作
- 3月27日、パリ1区で誕生。アルザス・プロテスタント系の官僚家系
- パリ大学法学部(ソルボンヌ)法学士、ポワチエ県書記として官僚生活開始
- オクタヴィー・ド・ラアルプ(プロテスタント)と結婚、長女・次女を授かる
- ヨンヌ・ネラック・サン=ジロン・ブレー・ヴァール・ヨンヌ・ジロンドを転々とする地方県政官
- 1月ジロンド県知事、6月22-29日ナポレオン3世によりセーヌ県知事に任命(44歳)、パリ大改造開始
- 第一系統網着工、ベルグラン主任技師による下水道600km計画始動
- リヴォリ通り延伸完成、セバストポル大通り開通
- ブーローニュの森整備完了、エトワール広場の12本放射大通り設計完成
- パリ市域拡張(周辺11コミューン併合、20区制へ、人口100万→160万)
- ヴァンヌ渓谷からの長距離水道着工、飲料水源をセーヌから地下水へ切り替え
- パリ万博、皇后ウジェニーによる下水道観光ボート披露、ビュット=ショーモン公園開園、クレディ・モビリエ破綻
- ジュール・フェリー『オスマン氏の幻想会計』により予算超過と疑似公債を激しく追及される
- 1月5日、オリヴィエ自由帝政内閣の要求でナポレオン3世により解任。9月2日スダン敗戦、9月4日第二帝政崩壊
- 3-5月パリ・コミューン、5月「血の週間」で鎮圧。広い大通りと反乱の関係をめぐる議論が始まる
- コルシカ島選出のボナパルティスト議員として政界復帰
- 上院議員に選出されるも大きな政治的影響力は取り戻せず
- 『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』三巻を順次刊行(第三巻は1893年没後刊)
- 1月11日、パリ16区ボワシー・ダングラ通りの自宅で死去、81歳。ペール・ラシェーズ墓地56区画に埋葬
残した仕事の輪郭
- パリ大改造(1853-70) ― 第二帝政 17 年間のセーヌ県知事として、中央パリの街路・ファサード・下水・公園・市域を総体として描き直した
- 同心放射状の大通り網 ― 凱旋門を中心とする 12 本の放射軸を含む都市骨格。19 世紀以降のあらゆる近代都市計画の原型
- 地下 600 km の下水道 ― 主任技師ベルグランのもとで建設された排水・飲料水・ガス・電信の複合インフラ管廊、都市衛生の物理的条件
- オスマニアン・ファサード ― 街路幅に対する高さ比・石材・層序を統制した建築景観、「パリらしさ」の視覚的源泉
- 公衆衛生都市の設計 ― コレラ・腸チフス・結核と向き合う 19 世紀公衆衛生の空間的解答、のちのハワード・後藤新平・ル・コルビュジエに影響
- 帝政の代行者としての両義性 ― 強権なくして成立しえなかった仕事、だからこそ民主主義と都市計画の関係を今も問い続ける存在
出典と確認メモ
9件- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: haussmann.mdx Chapter 2 段落: ナポレオン三世が 1849-53 年に Jean-Jacques Berger をパリ県知事 (préfet de la Seine) に据え、...
一次資料を開くNapoleon III + Haussmann 都市改造 1853-1870、Berger 期の停滞と Haussmann 着任の歴史的位置
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: オスマンは『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』(1890-93、第三巻 1893 没後刊)で、その会見を「皇帝陛下は、パリの地図ではなく、未来のパリの骨格をお見せになっ...
一次資料を開くFondation Napoléon 公式。Napoléon III + Haussmann のパリ大改造 (1853-1870)、1853年6月会見の歴史的位...
- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: haussmann-2 context は、Georges-Eugène Haussmann 『Mémoires du Baron Haussmann』 (Paris: Victor-Havard, ...
一次資料を開くHaussmann Mémoires 全 3 巻 French full text。第 3 巻『Grands travaux de Paris』結語近くで Na...
- 引用二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 私は時代の道具であった、しかし私はその道具を進んで取ったのだ
一次資料を開くHaussmann Mémoires (Victor-Havard 1890-1893) 全文 French。'instrument dévoué de l'E...
- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: オスマンは『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』(1882-93、第三巻 1893 没後刊)で、その会見を「皇帝陛下は、パリの地図ではなく、未来のパリの骨格をお見せになっ...
一次資料を開くBnF Gallica 公開。Mémoires du Baron Haussmann 第 1 巻 1890、第 2 巻 1891、第 3 巻 1893 (没後刊...
- 場面二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: haussmann.mdx Chapter 2 段落: Haussmann が『回想録 (Mémoires du Baron Haussmann)』(1890-93、第三巻 1893 没後刊) で、N...
- 解釈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1870年1月5日の解任後、失脚した旧帝政の汚職官僚として公に批判され続けたオスマンが、晩年パリ16区の自邸にこもり10年かけて書き上げた三巻の回想録。パリ大改造が衛生・軍事・経済の三つの名目で帝政の...
一次資料を開くBnF Gallica で Mémoires 全3巻 (Tome I 'Avant l'Hôtel de Ville', Tome II 'Préfecture...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 私はパリを貫くために身を削った。石の都市を造り変えるには、石の意志が要る
一次資料を開くMémoires tome II/III に 'percer Paris' / 'éventrer' の technical 用語頻出。philoglyph 邦...
- 抜粋二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 私はパリを貫くために身を削った。石の都市を造り変えるには、石の意志が要る。
一次資料を開くMémoires tome II/III の Paris 改造章。'percer' 動詞は確認、'volonté de pierre' は philoglyph...
つながり
全体のつながりを見る →さらに辿るならExternal References
オスマン男爵を別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジョルジュ・オスマン」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "Georges-Eugène Haussmann"
修正を提案する Send a correction
一次資料で確認できる事実誤認は優先して確認します。解釈差異は編集判断です。
修正フォームを開く ▸