オスマン男爵
パリをつくり直した男は、 なぜ命じた皇帝に切られたのか?
17 年かけてパリの石畳と下水と大通りを描き直し、近代都市計画の原型を造った県知事
- パリ大改造
- 大通り(ブールヴァール)
- 下水道
- 同心放射状
- 第二帝政
百万人に膨れたパリで、病と反乱と金が同じ狭い路地に詰まっていた — ひらく
時代の空気
十九世紀中期のフランス、ナポレオン三世第二帝政期(1852-70)である。1848年二月革命と六月の労働者蜂起を経て、1851年12月のクーデタで皇帝が即位した。産業革命と鉄道網が農村人口を都市へ吸い上げ、パリは1850年百万から1870年百八十万へ膨張した。1832年の第一次コレラは市内に一万八千人の死者を出し、密集街路は感染と蜂起の温床として恐れられた。クレディ・モビリエ銀行とペレール兄弟の都市金融が再開発資金を供給し、レ・アール市場のバルタール鉄骨やガルニエ・オペラがベル・エポックの予兆を刻んだ。帝政は1870年スダンの敗戦で崩壊し、翌春のパリ・コミューンを残した。
011870 年 1 月 5 日、皇帝は彼を切った
1870 年 1 月 5 日、パリ。ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンは、皇帝ナポレオン 3 世から解任を告げられた。17 年のあいだ、この街の道路と下水と公園を描き直してきた男である。60 歳だった。
理由は、金だった。新しい内閣の首班(トップ)エミール・オリヴィエが、財政を正常に戻す印としてオスマンの首を求めた。皇帝はその要求を受け入れた。パリを造り変えろと命じた本人が、造り変えた男を切ったのである。
それから 8 か月後、皇帝自身がで捕虜になる。2 日後、パリで帝政は倒れた。さらに翌年の春、パリ・コミューンと呼ばれる市民の反乱が起きる。燃え上がった場所は、オスマンが建てた新しいパリそのものだった。
彼の広い大通りは「反乱を起こしにくい街」のためだった、と言われる。だが、その街で反乱は起きた。命じた皇帝に切られ、防ぐはずの反乱に燃えた。この男の 17 年は、いったい何だったのか。時は 17 年前、1853 年の夏に戻る。
02アルザスの血と、二十年の地方回り
1853 年 6 月 22 日、オスマンはボルドーで一通の通達を受けた。ジロンド県の知事から、セーヌ県の知事へ。セーヌ県知事とは、今でいうパリ市長にあたる役職である。44 歳だった。
彼は生まれながらのパリっ子ではあった。1809 年、パリ 1 区に生まれている。だが一族の根はアルザス、ドイツとの国境にある地方だった。プロテスタント(キリスト教の新教)の家系である。17 世紀に信仰の自由を奪われ、ドイツからフランスへ逃れてきた。祖父は革命期の議員、父はナポレオン 1 世の軍の補給官。役人と議員を出し続けた家である。
若いころは法律と音楽を学んだ。パリ大学で法学を学びながら、音楽院でヴァイオリンと作曲も習った。音楽は一生の楽しみになる。1831 年に法学士となり、その年に県の書記として地方へ出た。
そこから 20 年、彼は地方を回り続けた。ポワチエ、ヨンヌ、ネラック、サン=ジロン、ブレー、ヴァール、そしてボルドー。妻オクタヴィーも同じプロテスタントの家の出で、二人の娘に恵まれた。背は 190 センチ近く、力士のような体格だった。決断が早く、書類を捌くのも速い。そういう評判の役人だった。
だが、地方の知事がなぜ首都を任されたのか。呼んだのは皇帝である。その皇帝には、一枚の地図があった。
03皇帝の四色の地図
ナポレオン 3 世は、1851 年 12 月のクーデタで権力を握った皇帝である。ナポレオン 1 世の甥にあたる。叔父の帝国を建て直す者として、「パリの近代化」を自分の政治の柱にした。
彼にはお手本があった。ロンドンである。皇帝になる前、彼はロンドンで亡命(国を追われて外国で暮らすこと)生活を送った。そこで見たのは、広い公園と、清潔で幅の広い大通り。あれをパリに移したい、と考えていた。
最初に任せたのは、ジャン=ジャック・ベルジェという知事だった。だが金も政治の力も足りず、計画は止まった。そこで呼ばれたのがオスマンである。1853 年 6 月 29 日、彼はセーヌ県知事に正式に着任した。
オスマンの『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』によれば、彼は任命の当日に皇帝の執務室に呼ばれた。そこで見せられたのが、パリの構想図である。赤、青、緑、黄の四色で主要な道路が書き込まれていた、と伝えられる。皇帝がロンドン時代から自分で手を入れてきた地図だという。ただし、この地図の原本が今どこにあるかを含め、細かい点には史料(歴史の記録)のゆれがある。
彼は回想録で、この会見を「皇帝陛下は、パリの地図ではなく、未来のパリの骨格をお見せになった」という趣旨で描いている。本稿の引用は直訳ではなく、論旨の要約である。ここから 17 年、彼はフランス史上最大の都市大改造を指揮する。しかし皇帝は、なぜそこまでしてパリを造り変えたかったのか。理由は「美しさ」ではなかった。
04病と、バリケードと、金
(Haussmannisation)は、しばしば「美観」の問題として語られる。だが当事者の考えは、もっと切実で実務的だった。皇帝とオスマンが公式に掲げた理由は、三つある。
一つ目は病である。1832 年、パリをコレラが襲った。市内だけで約 1 万 8000 人が死んだ。とくにイル・ド・ラ・シテ(セーヌ川の中州、パリ発祥の地)など、中世からの密集した街で死亡率は 3 倍以上に達した。病の原因は、まだよく分かっていなかった。だが「狭く暗く淀んだ街路」が病の温床だ、という考えは広く共有されていた。下水と清水を分け、広い大通りに日と風を通す。それが第一の目的だった。
二つ目は反乱である。中世以来のパリは、路地にバリケード(道をふさぐ砦)を築いて、何度も政権を倒してきた。1830 年、1832 年、1848 年と、四度も。ナポレオン 3 世の政権もその流れの上に立っていた。だからこそ、同じことが自分に起きるのを恐れた。広くまっすぐな大通りは、バリケードを張りにくい。騎兵と砲兵が一直線に展開できる。大通りは「砲兵の射線」でもあった。作家(『レ・ミゼラブル』の著者)や思想家といった批判派は、この点を鋭く突いた。
三つ目は金である。パリの人口は 1800 年の 55 万から、1850 年には 100 万に膨れ上がっていた。大改造は、土地の買い上げと建設ラッシュで大量の仕事を生む。不動産の値も上がる。新しい鉄道の駅と大通りをつなぎ、パリを一つの経済圏として組み直す。その資金を回したのが、という銀行だった。ペレール兄弟が 1852 年に設立した大きな投資銀行である。背景には、(産業と技術で社会を良くしようという思想)があった。鉄道、都市改造、不動産に巨額を融資し、第二帝政の景気そのものを動かした。
病と、反乱と、金。この三つを並べることを、冷たいと感じる人もいるだろう。だが 1850 年代のパリでは、どれも生き死にに直結していた。オスマンは三つを同時に、同じ石と鉄で解こうとした。では、その石と鉄は、どんな形をとったのか。
05赤、青、緑の線 ― 石と水の 17 年
改造の姿は、本ではなく地図に刻まれている。皇帝の地図の色ごとに、工事は三段階で進んだ。
まず赤の線(1854-58)。リヴォリ通りの延伸と、セバストポル大通りを軸とする南北の道。そして。鋳鉄の柱とガラス屋根をもつバルタールの鉄骨市場は、のちに作家エミール・ゾラの小説『パリの胃袋』の舞台となる。
次に青の線(1858-67)。オペラ大通り、サン=ジェルマン大通り。の凱旋門を中心に、12 本の大通りが放射状に伸びた。「エトワールの 12 星」である。が公園として整備され、モンソー公園、モンスリ公園が生まれた。
最後に緑の線(1867-70)。東部の労働者街へ伸びる大通り網、そしてビュット=ショーモン公園。かつての採石場の跡を、人工の山と滝と湖に変えた。
建物にも一つの決まりを通した。高さは道の幅に応じて決める。1 階は店、3 階から 5 階は住まい、6 階はメイド部屋。石はパリ近郊の白い石灰岩に限る。だから大通りは、日の光のもとでほぼ同じ色に見える。私たちが「パリらしい」と感じるあの色は、この決まりの名残である。
地下も変わった。主任技師が 1854 年から敷いた下水道は、100 キロから 600 キロへ伸びた。それは単なる排水路ではない。人が歩ける広さで、水道管もガス管も通す地下の道だった。1867 年の万国博覧会では、皇后ウジェニー自らがボートで下水道を巡った。飲み水もセーヌ川から、130 キロ以上先の谷の地下水に切り替えられた。
石と水と鉄で、17 年。だが工事が進むほど、金は膨らんでいく。そして、追い出される人がいた。
私はパリを貫くために身を削った。石の都市を造り変えるには、石の意志が要る。
06追い出された 35 万人、そして 1870 年 1 月 5 日
中央の労働者街から立ち退きを強いられた住民は、今の歴史家の推定でおよそ 35 万人にのぼる。彼らは北や東の郊外、ベルヴィルやメニルモンタンへ押し出された。家賃と通勤の負担を、新たに背負って。補償金は地主と、長く借りている人にしか流れなかった。日銭で暮らす労働者、移住者、夫を亡くした女性には、実質的な救いはなかった。「広い大通りに日と風を通す」事業の裏で、人が物理的に追い出されていた。
1868 年ごろから、オスマンへの風当たりは急に強まった。工事の費用は、当初の見積もりを大きく超えた。土地の買い上げをめぐる裁判は 3 万件を超えた。彼は市の将来の収入を担保に、銀行から金を借りる仕組みを使っていた。国会の予算審議を通らない、いわば影の財布である。政治家(のちの第三共和政の首相)は、これを激しく攻撃した。1868 年の小冊子『オスマン氏の幻想会計』である。
そして 1870 年 1 月 5 日。冒頭の場面である。皇帝は自由帝政内閣の首班エミール・オリヴィエの要求を受け入れ、財政正常化の象徴としてオスマンを解任した。皇帝はパリを造り変えたかった。だが、造り変えるための金の出し方が、皇帝自身の政権を揺らし始めていた。切られたのは皇帝ではなく、道具のほうだった。
8 か月後、スダンの戦いで皇帝は捕虜になる。帝政は倒れ、パリはプロイセン軍に囲まれた。翌 1871 年 3 月、パリ・コミューンが立ち上がる。拠点はシャトー=ドー区とベルヴィル区。オスマンが押し出した人々の街だった。5 月の「血の週間」で、反乱は鎮圧された。彼が更迭されて、わずか 1 年 3 か月後のことである。
第三共和政のもとで、オスマンは長く「旧帝政の汚職役人」と呼ばれた。コルシカ島選出の議員、のち上院議員として政界に戻ったが、大きな力は取り戻せなかった。晩年の 10 年は、パリ 16 区の自宅で『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』を書いて過ごした。全三巻。自分の仕事を丹念に、しかし弁明の色をにじませて記録した本である。第三巻が出たのは、死の後だった。
私は時代の道具であった、しかし私はその道具を進んで取ったのだ
07大通りは反乱を防いだのか ― 考証と再評価
1891 年 1 月 11 日、オスマンは 81 歳で死去し、ペール・ラシェーズ墓地(56 区画)に埋葬された。命じた皇帝に切られ、防ぐはずの反乱に燃えた街。彼が「進んで取った道具」の帰結を、ここで考証として整理しておく。
まず軍事的動機の史料的位置づけ。オスマン自身は回想録でこの動機を控えめにしか語らないが、国務院での予算審議議事録(1857-58)にはこの目的が明記されている。ただし「広い大通りは反乱抑止のためだった」という命題は、十分条件としても必要条件としても疑いえる ― 広場・公園・市場の確保や排水勾配など、軍事と無関係な動機も同じ計画書に並ぶ。衛生についても同様で、1832 年のみならず 1849 年、1853-54 年、1865-66 年とコレラ流行は続き、医学的原因(瘴気説から後の水系感染説まで)の解釈が揺れるなかで、街路の拡幅は近代公衆衛生の第一義的実装として位置づけられた。経済面では、ガール・ド・レスト(1849)・ガール・デュ・ノール(1864)等の新ターミナルへの主要大通り接続が経済圏としてのパリを再編し、クレディ・モビリエは 1867 年に過剰投機の末に破綻するが、近代投資銀行業の祖形としてその経営手法は世界に伝播する。
の関係については、「オスマンの広い大通りはバリケードを張りにくく、政府軍の砲兵展開を許したからこそコミューンは鎮圧された」という命題が広く引き合いに出される。直線的射線という設計意図が、皇帝政府を倒した同じ反乱の鎮圧に転用された皮肉な構図として、19 世紀末から 20 世紀の都市批評(ヴァルター・ベンヤミン『』を含む)の常套句となった。一方で近年の実証研究は、コミューン期に確認されたバリケードの分布をたどると、オスマン以前の旧街区(マレ、ファブール・サンタントワーヌ、シャトー=ドー北部)に多く、新設の幅広い大通り上にも建設されている点を指摘する ― つまり大通りは反乱を一義的に防いだわけではない。「広い大通り = 反乱抑止」という命題は、設計意図としては確実だが帰結としてはなお留保つきというのが、現在の慎重な歴史像である。
財政と立ち退きの考証。累計支出は 5 億フランを大きく超えたとされ、オスマンが用いたデレゲーション・ド・ボン=デュ=ヴィル(割引債、市の将来財源を担保に民間銀行から資金調達する疑似公債)は、国会予算審議を経ない「影の財政」として自由主義野党(ジュール・フェリーの 1868 年パンフレット『オスマン氏の幻想会計(Comptes fantastiques d’Haussmann)』)に攻撃された。立ち退き住民の推定 35 万人は Pinkney 1958、Jordan 1995 ほかの推計で、計算根拠により 30 万から 35 万の幅がある。押し出し先はバンリュー(郊外)の北部・東部 ― ベルヴィル、メニルモンタン、ラ・ヴィレット、サン=ドニ ― であり、近代ジェントリフィケーション(労働者の周辺への追い出し)の最初期事例として、この立ち退きは今日もなお批判的に検討されている。
物理的成果の考証。建築ファサードは街路幅に対する高さ比率で統制され、1 階商店・2 階夜会場(アントルソル)・3-5 階住居・6 階メイド部屋というオスマニアン・ファサードの層序が事実上の標準となり、アンクルドリエ(一直線に伸びる二階バルコニーの連なる石造ファサード)とリュタス石灰岩の強制が道路景観の規範を作った。ベルグラン(1810-78、エコール・ポリテクニーク卒)の下水道は、飲料水管・ガス管・圧縮空気管・後の電信線を通す複合インフラ管廊(エグー・ヴィジタブル)として設計され、飲料水はヴァンヌ渓谷(1867 完成)・デュイ渓谷からの長距離パイプラインで地下水へ切り替えられた。バザルジェットのロンドン下水道(1858-75)と並ぶ、19 世紀都市衛生の双頭である。
出自の補注。父ニコラ=ヴァランタン・オスマンはナポレオン一世帝国の軍需補給官(intendant militaire)、母エーヴ=マリー・ダンテルはアルザス出身のプロテスタント。父方の祖父はストラスブールの商人で革命期に共和派議員を務めたニコラ・オスマン、母方の祖父は革命期のドイツ系プロテスタント牧師で共和派議員のジョルジュ・フレデリック・ダンテルであり、幼名「ジョルジュ」はこの祖父に由来する。一族はナント勅令撤廃(1685)でフランスへ逃れたドイツ・プロテスタント系アルザス人の末裔で、ケルン出身の版画家エーバーハルト・オスマンを祖にもつと伝える。リセ・アンリ 4 世を経て 1827 年パリ大学法学部(ソルボンヌ)、パリ音楽院(母方の叔父がチェリスト アレクサンドル・ダンシュと近縁)、1836 年にボルドー出身のオクタヴィー・ド・ラアルプと結婚、1838 年長女アンリエット、1841 年次女ファニー。
後世の系譜。20 世紀に入り、(1925 年「ヴォワザン計画」で中央パリを解体する遙かに過激な案を提示)以降の都市計画家は、オスマンを批判しつつも「オスマン主義」(Haussmannisme)を近代都市計画の原型として引用し続けた。ハワード(田園都市)・ヴァーグナー(ウィーン環状道路圏)・ナッシュ(ロンドン・リージェント街)・後藤新平(関東大震災後の東京復興計画、1923-24)・セルダ(バルセロナの拡張区エイシャンプラ)の仕事は、いずれもオスマンが 1853-70 年に試みた「国家権力による都市総体の描き直し」の系譜にある。
21 世紀の再評価の眼差しは二重である。一方では、ジェントリフィケーションの元祖としての批判 ― 大改造で中央区から東部・北部へ押し出された労働者階級が、のちのコミューンの担い手となった皮肉。他方では、疫学・下水・公園・光・風を都市設計の第一義的課題として統合した近代公衆衛生都市の設計者としての再評価。彼自身はおそらくどちらの側にも属さない。帝政の代行者として、石と鉄と水を描き直した実務家だった。
強い権力なしには成立しなかった仕事が、いまも私たちの通勤路と公園を決めている。では、誰にも追い出されずに街を描き直す方法は、あるのだろうか。
08主要な出来事と著作
- 3月27日、パリ1区で誕生。アルザス・プロテスタント系の官僚家系
- パリ大学法学部(ソルボンヌ)法学士、ポワチエ県書記として官僚生活開始
- オクタヴィー・ド・ラアルプ(プロテスタント)と結婚、長女・次女を授かる
- ヨンヌ・ネラック・サン=ジロン・ブレー・ヴァール・ヨンヌ・ジロンドを転々とする地方県政官
- 1月ジロンド県知事、6月22-29日ナポレオン3世によりセーヌ県知事に任命(44歳)、パリ大改造開始
- 第一系統網着工、ベルグラン主任技師による下水道600km計画始動
- リヴォリ通り延伸完成、セバストポル大通り開通
- ブーローニュの森整備完了、エトワール広場の12本放射大通り設計完成
- パリ市域拡張(周辺11コミューン併合、20区制へ、人口100万→160万)
- ヴァンヌ渓谷からの長距離水道着工、飲料水源をセーヌから地下水へ切り替え
- パリ万博、皇后ウジェニーによる下水道観光ボート披露、ビュット=ショーモン公園開園、クレディ・モビリエ破綻
- ジュール・フェリー『オスマン氏の幻想会計』により予算超過と疑似公債を激しく追及される
- 1月5日、オリヴィエ自由帝政内閣の要求でナポレオン3世により解任。9月2日スダン敗戦、9月4日第二帝政崩壊
- 3-5月パリ・コミューン、5月「血の週間」で鎮圧。広い大通りと反乱の関係をめぐる議論が始まる
- コルシカ島選出のボナパルティスト議員として政界復帰
- 上院議員に選出されるも大きな政治的影響力は取り戻せず
- 『回想録(Mémoires du Baron Haussmann)』三巻を順次刊行(第三巻は1893年没後刊)
- 1月11日、パリ16区ボワシー・ダングラ通りの自宅で死去、81歳。ペール・ラシェーズ墓地56区画に埋葬
残した仕事の輪郭
- パリ大改造(1853-70) ― 第二帝政 17 年間のセーヌ県知事として、中央パリの街路・ファサード・下水・公園・市域を総体として描き直した
- 同心放射状の大通り網 ― 凱旋門を中心とする 12 本の放射軸を含む都市骨格。19 世紀以降のあらゆる近代都市計画の原型
- 地下 600 km の下水道 ― 主任技師ベルグランのもとで建設された排水・飲料水・ガス・電信の複合インフラ管廊、都市衛生の物理的条件
- オスマニアン・ファサード ― 街路幅に対する高さ比・石材・層序を統制した建築景観、「パリらしさ」の視覚的源泉
- 公衆衛生都市の設計 ― コレラ・腸チフス・結核と向き合う 19 世紀公衆衛生の空間的解答、のちのハワード・後藤新平・ル・コルビュジエに影響
- 帝政の代行者としての両義性 ― 強権なくして成立しえなかった仕事、だからこそ民主主義と都市計画の関係を今も問い続ける存在
つながり
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WikipediaWikipedia 日本語版「ジョルジュ・オスマン」項
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