本文へスキップ
φPhiloGlyph
D
実践の知

ダグ・ハマーショルド

Dag Hammarskjöld·1905–1961·スウェーデン/国連·

誰にも、 見られていないときに、 どう立つか?

国連事務総長として冷戦の只中で黙して祈り、コンゴ上空に墜ちた北欧の官僚詩人

  • 国連事務総長
  • スエズ危機
  • コンゴ危機
  • 道しるべ
植民地が次々に独立し、米ソがにらみ合うなかで、生まれたばかりの国連が試されていた時代 — ひらく

時代の空気

第二次大戦後の脱植民地化が一気に進む冷戦初期。1945年に発足した国連は米ソの拒否権政治に縛られ、1950-53年の朝鮮戦争で初代事務総長トリグブ・リーはソ連の不信任を浴びて辞任した。1953年4月、中立国スウェーデンの財務官僚ハマーショルドが代替案として満場一致で選ばれる。1956年スエズ危機で英仏イスラエルがエジプトを侵攻、彼は国連緊急軍UNEFを発明した。1958年レバノン危機、1960年コンゴ独立直後のベルギー軍残留とカタンガ分離、1961年1月のルムンバ暗殺、9月のンドラ墜落へと走った。日記『道しるべ』は1963年、姉妹宛の手紙とともに死後出版される。

01ンドラへ、真夜中の飛行

1961年9月17日の夜。コンゴのレオポルドヴィル(今のキンシャサ)から、一機のDC-6が飛び立った。機体の名は「アルビッド・ヴァールマルク」。乗っていたのは、国連事務総長ダグ・ハマーショルド、56歳だった。

行き先は北ローデシア(今のザンビア)のンドラ。そこで彼は、コンゴから分かれようとするカタンガ州の指導者、モイーズ・と会う約束だった。国連軍はこのとき、カタンガの軍と撃ち合っていた。事務総長は、戦いを止める話し合いのために、自分から敵のすぐそばまで飛んだ。

飛行機はわざと遠回りの道をとった。無線も切った。着陸は夜のうちに済ませる。どれも、撃墜げきついや妨害ぼうがいを恐れての用心だった。

9月18日、午前4時ごろ。ンドラ空港に着く直前、機は空港から約13キロの森に落ちた。16人のうち15人が、その場か直後に亡くなった。ただ一人助かった警備員も、数日後に息を引き取った。

事故だったのか、撃ち落とされたのか。その答えは、今も出ていない。だが、もっと大きな問いがある。世界でいちばん大きな会議の、いちばん上に立つ人が、なぜ自分の体を戦場のそばまで運んだのか。そしてその人の机の中には、なぜ政治のことを一行も書かない日記が残されていたのか。

時は56年前に戻る。

02首相の四男

1905年7月29日、スウェーデン南部のヨンショーピングという町に、四人兄弟の末の子として生まれた。父は。国際法の学者で、第一次世界大戦のあいだ、スウェーデンの中立を守る首相をつとめた(1914〜1917年)。のちにはオランダ・ハーグの常設仲裁裁判所じょうせつちゅうさいさいばんしょの判事にもなった。母アグネス・アルムクヴィストは、信心深いルター派(プロテスタントの一派)の女性で、末子ダグを温かく抱えた。

一家はやがてウプサラの町へ移る。父はそこでウップランド県の知事となり、ダグは知事の公邸で育った。少年は一人でいるのが好きだった。山を歩き、植物を観察し、北欧の神話を読んだ。医師で神学者のアルベルト・シュヴァイツァーに心を寄せた。「父からは公人としての厳しい奉仕、母からは神と人への愛を受け継いだ」。のちに彼は、自分をそう言い表している。

1923年、18歳でウプサラ大学に入った。法学、経済学、哲学を学ぶ。1930年に経済学の修士、1933年には景気の波を研究した論文 Konjunkturspridningen で博士になった。25歳で財務省に入る。世界は大恐慌のあとで、彼は国の経済を立て直す政策づくりにかかわった。1936年、財務省の事務次官と、国立銀行(リクスバンク)の理事になる。

数字の人でありながら、祈る人でもある。30代に入ったばかりの彼は、周りの目にそう映りはじめていた。その二つは、どうやって一人の中に収まっていたのか。

03結婚しなかった官僚

結婚はしなかった。妻も子もなく、親しい相手についての公の記録もない。手紙や『道しるべ』の言葉から、同性への思いを読みとる研究者もいる。だが彼自身は一生この話題に触れず、禁欲きんよく的な独身者として通した。彼の毎日は、役所、古い本、山歩き、祈り、そしてスウェーデン文学アカデミーの集まりでできていた。

1941年から1948年まで、国立銀行の総評議会の議長もかねた。1947年に外務省へ移り、経済の問題を担当する。1949年には外務省の事務総長、1951年には無任所大臣になった。政治家ではなく民間人のまま、副外相にあたる位置についたのである。戦後、アメリカがヨーロッパの復興を助けたマーシャル・プランの交渉では、中立国スウェーデンの代表として真ん中に立った。どの党にも属さない。だから保守の政権にも、社会民主の政権にも信頼された。それが彼の変わったところだった。

1951年、スウェーデン代表団の一員として、初めて国連総会に出た。ニューヨークの会議場で、彼の名を知る人はほとんどいなかった。その二年後、この無名の役人が、世界でいちばん難しい椅子に座ることになる。

04「退屈な官僚」と呼ばれた男

1950年から53年の朝鮮戦争で、国連の初代事務総長(ノルウェー人)は、アメリカと中国の板ばさみになった。ソ連からの信頼も完全に失った。1953年、後任を決める常任理事国の駆け引きで、米ソのどちらから見ても「無難すぎる」名前が出てきた。多くの人が知らない、スウェーデンの財務官僚ハマーショルド。1953年4月10日、安全保障理事会は満場一致で、47歳の彼を第二代事務総長に推した。アメリカ国務省は「退屈な官僚」だと安心した。その見立ては外れる。

就任するとすぐ、彼は国連事務局が各国から独立して動けるようにし始めた。当時のアメリカは、マッカーシー上院議員の「赤狩り」の時代だった。国務省は、国連で働くアメリカ国籍の職員に、政治的な忠誠の審査を強制した。ハマーショルドは、職員を任命する権限は事務総長だけのものだと主張し、アメリカ政府の口出しを拒んだ。

1954年12月には、スウェーデン・アカデミーの会員に選ばれ、父ヤルマルがかつて座った席を継いだ。詩と古い本を愛する心が、公に認められた瞬間だった。同じ月、彼は自ら北京へ飛んだ。北朝鮮に捕らえられたアメリカ空軍機の乗員11人(あとで15人と確定)を取り戻すためである。中国の首相、と直接向き合った。1955年1月の会談に続き、8月までに乗員全員の解放を勝ち取る。

当事国から頼まれていなくても、事務総長は自分で動く。この先例は、のちに「ペキン方式」、あるいは沈黙の外交と呼ばれた。国連憲章に書かれた事務総長の役割を、ぎりぎりまで広く読む。彼のやり方が、ここで初めて形になった。次に彼を待っていたのは、大国どうしがぶつかる運河だった。

05スエズ運河と、国連の新しい軍

1956年10月。エジプトの大統領がスエズ運河を国有化した。それを受けて、イギリス、フランス、イスラエルの三国がエジプトを攻撃した()。アメリカもソ連も攻撃には反対だった。だが安全保障理事会は、イギリスとフランスの拒否権で動かなくなった。

ハマーショルドは総会の「」決議を使った。安保理が止まっても、総会が動ける仕組みである。そして歴史上初めての****をつくった。兵士は約6,000人。戦うためではなく、運河地帯で停戦と撤退を見守るための軍だった。三国が引き上げたあとも、UNEFは1967年まで10年間、エジプトとイスラエルの国境に立ち続けた。事務総長が軍を含む国際的な活動を設計し、指揮する。国連にとって初めてのことだった。のちに「事務総長の特別任務とくべつにんむ」と呼ばれる考え方は、ここから生まれた。

1957年4月26日、彼は総会で再び満場一致で選ばれた。同じ年、国連本部の1階に「瞑想の部屋(Meditation Room)」を新しくつくり直した。中央には、スウェーデンから贈られた6トンの鉄鉱石の一枚岩を置いた。「わたしたちの内側には、沈黙に囲まれた静けさの中心がある」。自分で書いた案内文をそえた。会議と議論の建物に、宗教を問わず誰でも一人になれる小さな部屋を差しこんだのである。

1958年7月のレバノン危機では、国連レバノン監視団(UNOGIL)を送り、アメリカ軍が上陸したあとの撤退を調整した。米ソでも英仏でもない「第三の声」。彼は国連をそこへ押し出そうとしていた。だがその声を、大国はいつまで許すだろうか。

過ぎ去ったものに ― ありがとう。来たるものに ― イエス、と。

— 『道しるべ(Vägmärken)』1956年のエントリ。スエズ危機で国連緊急軍を生み出した年に、日記へ書きつけた短い言葉

06コンゴ、ルムンバ、フルシチョフ

1960年6月30日、コンゴ(今のコンゴ民主共和国)がベルギーから独立した。だが7月になっても、ベルギー軍は「国民を守る」という名目で居座った。鉱山の多いカタンガ州では、知事のモイーズ・チョンベが分離独立を宣言した。後ろにはベルギーの鉱山会社ユニオン・ミニエールがついていた。そこへソ連が手を出し、アメリカも手を出す。独立したばかりの国の内乱と、米ソの代理戦争が、同時に走り出した。である。

初めての首相パトリス・ルムンバは、国連に助けを求めた。ハマーショルドはONUC(国連コンゴ活動団)を送った。いちばん多いときで約20,000人。だが現場はもつれた。ソ連に近づくルムンバ首相、カサブブ大統領、軍人モブツの三つどもえ。ルムンバは、国連のやり方は生ぬるいと批判し、ソ連に援助を求めた。1960年9月、カサブブとモブツのクーデタで、ルムンバは解任され、捕らえられる。

1961年1月17日、ルムンバはカタンガへ移され、処刑された。ベルギー側が深くかかわっていたことは、のちの調査で確認されている。アメリカのCIAにも、彼を排除する計画や暗殺あんさつ計画の記録はある。ただ、現場での殺害に直接手を下したかについては、今も評価が分かれる()。

国連はルムンバを守れなかった。このことで、ソ連や非同盟の国々から、ハマーショルドへの激しい非難が起きた。1960年9月の総会で、ソ連のフルシチョフ首相は「ハマーショルドは辞任せよ」と迫った。事務総長の職を、米・ソ・中立の三人で分ける三頭制(トロイカ)にせよ、とも求めた。ハマーショルドは総会の演壇から答えた。国連を必要としているのは大国ではない。「その他すべての国々」だ。彼らが望むかぎり、自分はこの職にとどまる。会場は万雷の拍手に包まれた。

フルシチョフとの衝突は、それから一年、彼の最後の一年をおおう緊張になった。そして1961年9月、カタンガの戦いが再び燃え上がる。

07ンドラ、ふたたび

1961年9月、カタンガの分離独立をめぐる戦争が再燃した。国連軍はカタンガ勢力と交戦状態に入った。ハマーショルドは、停戦の話し合いのため、チョンベと中立の場所で会うことを決めた。場所は北ローデシアのンドラ。ここから先は、この物語の最初に戻る。遠回りの航路、無線の沈黙、夜の着陸。そして9月18日午前4時ごろの墜落。

なぜ彼は自分で飛んだのか。ここまで読んできた人には、もう見えているはずだ。北京へも自分で行った。スエズでは、誰にも頼まれていない軍をつくった。総会の演壇で、大国ではなく「その他すべての国々」のために立つと言った。ンドラへの飛行は、そのすべての続きだった。

死因については、いくつもの説があり、今も最終的に確定していない。1962年の公式調査は事故説を有力とした。だがその後、現場の近くで銃声を聞いたという証言、二機目の機影や爆発音の証言が重なった。南アフリカの諜報ちょうほう資料や、ベルギー人傭兵ようへいの関与の疑いも出てきた。意図的な破壊工作はかいこうさくや撃墜を疑わせる材料である。国連は2015年以降、調べ直しを再開した。2017年のモハメド・チャンデ・のあと、2019年から2023年の最新の報告書は「事故・撃墜・破壊工作のいずれも排除できない」とした。そしてイギリス、アメリカ、ベルギー、南アフリカに、まだ隠されている資料を出すよう求め続けている。歴史は、をひとつの真実に閉じることを、まだ拒んでいる。

1961年10月、ノーベル委員会は彼にノーベル平和賞を死後に授与した。のちにノーベル財団の規則は、死後の授与を原則として認めない形に改められた。その結果、平和賞を死後に受けた人は、ハマーショルドただ一人となった。

だが、彼が世界に残したものは、賞ではなかった。翌年、マンハッタンの机の中から、それは見つかる。

08机の中の『道しるべ』

1962年、彼のマンハッタンのアパートの机の中から、黒革の日記帳が見つかった。スウェーデン語で書かれた『ヴェーグメルケン(Vägmärken)』 ― 英訳題『Markings(道しるべ)』。友人レイフ・ベルフストレームに宛てた手紙が添えられていた。「これらは私と神との交渉の記録です。出版しても、出版しなくても、あなたの判断で」。姉妹しまい宛の遺品いひんメモも一緒だった。

1925年から1961年8月の死の数週間前までの私的瞑想・祈り・ハイク(短詩)。政治的記述は一つもない。詩篇、ジョン・ダン、マイスター・エックハルト、、ダンテ、ヨハネス・クリュソストモス、キルケゴール、シュヴァイツァーへの応答が層をなす。ライン・マイスターのエックハルトを中軸とするキリスト教の神秘しんぴ主義()、そして禅仏教への深い共感(鈴木大拙を読んでいた) ― これらが一人の事務総長の日々の沈黙を支えていた。

1963年、刊行直後に世界的ベストセラー。英訳版『Markings』は1964年、Leif Sjöberg と W. H. オーデンの共訳で刊行された。神学者は「近代の『告白録』」と呼び、哲学者は「祈りの現象学」と論じた。彼の公的人格の**「ハマーショルドの沈黙」**の内実が、一人の人間の祈りの記録として事後に公開された ― これは20世紀の公私の境界の再定義だった。

決して「見て」もらうためではなく、ただ「あり」さえすれば足りる ― そうであるべきだった

— 『道しるべ(Vägmärken)』。死後に机の中から見つかった日記の一節。政治のことは一行も書かれていない帳面に、自分の立ち方について残した言葉

ンドラの森に落ちた事務総長と、机の中で神と向き合っていた一人の人間。その二人は、同じ人物だった。人前の働きと、人目のない祈り。彼はその二つを、一本の線の上に置こうとした。あなたが誰にも見られていないとき、その線は、どこを通っているだろうか。

09主要な出来事と著作

  1. スウェーデン・ヨンショーピング誕生。父ヤルマル(のち首相・国際法学者)
  2. ウプサラ大学。法学・経済学を学び1933年経済学博士号
  3. 財務省事務次官・スウェーデン国立銀行(リクスバンク)理事
  4. リクスバンク総評議会議長を兼任
  5. マーシャル・プラン・OEEC関連交渉でスウェーデン代表
  6. 外務省事務総長
  7. 無任所大臣(副外相格)。国連総会代表団員として初出席
  8. 4月10日、国連第2代事務総長に満場一致で選出(47歳)
  9. 12月、北京で周恩来と直接会談、米空軍機乗員解放交渉開始。スウェーデン・アカデミー会員(父ヤルマルの旧座席を継承)
  10. ペキン方式 ― 米空軍機乗員11→15名を解放
  11. 10月、スエズ危機。国連緊急軍(UNEF)を発明
  12. 4月、事務総長再任(満場一致)。国連本部に瞑想の部屋を新装
  13. 7月、レバノン危機。UNOGIL派遣
  14. 6月30日コンゴ独立、7月以降の内乱とカタンガ分離。ONUC派遣。9月総会でフルシチョフのトロイカ要求と対決
  15. 1月17日ルムンバ暗殺。9月17-18日、ンドラ近郊で搭乗機墜落、死亡。56歳。10月ノーベル平和賞を死後授与(歴史上唯一)
  16. 日記『道しるべ(Vägmärken / Markings)』刊行、世界的ベストセラーに
  17. 国連オスマン再調査再開。2019-2023年報告は事故・撃墜・破壊工作のいずれも排除できないと結論

残した思想の輪郭

  • 沈黙の外交 ― 事務総長が当事国の招請なしに独立行動する「」の先例化
  • 国連緊急軍(UNEF)の発明 ― 非戦闘員による停戦監視という新しい多国間安全保障の枠組み
  • 小国のための大国 ― 安保理の拒否権政治に抗う国連事務総長職の倫理的再定義
  • 『道しるべ』の内面性 ― エックハルト・禅・詩篇を融合した「ルター派神秘主義」的信仰
  • 公人の私性 ― 公的な官僚性と私的な祈りが一つの人格で両立しうるという20世紀の例示
1961年9月17-18日深夜、北ローデシア(現ザンビア)ンドラ近郊で搭乗機DC-6「アルビッド・ヴァールマルク」が墜落、搭乗者16名全員死亡。56歳。

つながり

全体のつながりを見る →

さらに読むならFurther Reading

ダグ・ハマーショルドの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。

※ 広告 (Amazon アソシエイト)。リンクから書籍を購入されると、 PhiloGlyph に紹介料が支払われる場合があります。詳細は プライバシーポリシー および 利用規約 を参照してください。

生きた跡を辿るPlaces

ダグ・ハマーショルドが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。

  • ウプサラ旧墓地墓所

    ウプサラ, スウェーデン

    ハマーショルドと家族が眠るウプサラ大聖堂近くの墓地

    地図で見る →確認 2026-04-19
  • ハマーショルド図書館(国連本部)所属

    ニューヨーク, アメリカ

    第2代事務総長の名を冠する国連公式図書館

さらに辿るならExternal References

ダグ・ハマーショルドを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。