バークリー
森の中で木が倒れたとき、 それは本当に音を立てているのか?
「存在するとは知覚されること」 ― 物質そのものを疑った観念論者
- 存在するとは知覚されること
- 観念論
- 非物質論
時代の空気
バークリーが生まれた1685年のアイルランドはイングランド系プロテスタント地主層が土地と政治を握り、カトリック多数派は刑事法で公職と土地所有から排除されていた。トリニティ・カレッジに入った1700年は名誉革命後ニュートン『プリンキピア』(1687)とロック『人間知性論』(1690)で経験論と機械論的自然観が支配的、1707年に英スコットランド合同。1729年到着のロードアイランドは英領植民地で奴隷制下にあり、ウォルポール首相期の議会は植民地補助金を凍結、彼の大学構想は資金不達で潰えた。
01アイルランド、キルケニーの地主の子
1685年3月12日、アイルランド南東部キルケニー近郊のディスアート城に生まれた。父ウィリアム・バークリーはイングランド系アイルランド人の地主。土地と秩序の中で育った少年は、11歳でキルケニー・カレッジに入学する。ここはジョナサン・スウィフトも学んだ名門校だった。ラテン語、修辞学、聖書解釈。学校は知識を与えたが、バークリーは知識の根拠を問い始めた。
1700年、15歳でダブリンのトリニティ・カレッジに進学した。数学、古典、哲学を修め、22歳でフェロー(研究員)の資格を得る。この時期のノートが後に「コモン・プレイス・ブック」として残されており、若き哲学者の思索の足跡をたどることができる。出発点はジョン・ロックの認識論への疑問だった。ロックは物質が感官に「観念」を与えると説いたが、バークリーは問い返した。その物質そのものを、私たちはどうやって知ることができるのか。ページの隅に書き込まれた問いが、やがて哲学史を揺るがす答えへと育っていった。
02若き非物質論 ― 世界は観念でできている
1709年、24歳のバークリーはを刊行した。距離や奥行きは目で直接感知されるのではなく、触覚の経験と結びついた「観念の記号」として学習されると論じた。生まれつき目の見えない人が突然視力を得ても、最初は距離を判断できない。見ることは読むことに似ている、という鋭い洞察だった。
翌1710年、25歳でにおいて核心を打ち出す。「存在するとは知覚されることである(Esse est percipi)」。観念の担い手としての物質的実体を仮定する必要はなく、知覚されない物質が独立して存在するという想定は不要だ、と断じた。物体は感官に与えられる観念の束であり、それ以上でも以下でもない。リンゴを見るとき、私たちが経験しているのは赤さ・硬さ・甘さという観念の集合であり、それら観念を超えた「物質的実体」を想定する根拠はどこにもない。
1713年、28歳でを著す。物質論者ハイラスと者フィロヌースの対話形式で、一般読者にもわかりやすく論を展開した。「熱さや冷たさは心の中にある」という議論は、感覚的性質がすべて精神に依存することを鮮やかに示した。この三部作はいずれも20代で書かれており、哲学史上もっとも早熟な体系構築の一つとして今も語り継がれる。
03ロンドン社交界とヨーロッパ旅行
1713年、バークリーはロンドンへ向かった。哲学書三冊で名を知られた彼は、当時の文人社会に自然に受け入れられた。諷刺作家ジョナサン・スウィフト、詩人アレグザンダー・ポープ、随筆家ジョゼフ・アディソンらと親交を結ぶ。スウィフトはバークリーを「天才的な哲学者にして、人類がほぼ知らない美徳の持ち主」と評し、宮廷や文芸サロンの場に引き合わせた。バークリー自身もこの時期、哲学を孤独な書斎の仕事から社交と論争の舞台へ持ち出した。
1713年から1721年にかけて、バークリーは二度ヨーロッパを旅する。フランス、イタリア、シチリアを巡り、古典の遺跡と現代の宮廷の両方を目に焼き付けた。ローマではバチカンの美術を観察し、視覚理論の実地検証を行った。ラファエロの絵画を前に、目が「読む」意味を考えた。旅の間も思索は続き、後の著作の素材が積み重なっていった。
この時期のバークリーは純粋な学者ではなく、世界を歩く観察者でもあった。彼が問いかけた「知覚」の問題は、絵画や建築物を前にしてより鮮明な重みを帯びた。知覚こそが存在ならば、芸術は存在を創り出す行為でもある。
Esse est percipi — である
04バミューダ大学構想、ロードアイランドへ
1724年、バークリーは新世界に理想の大学を建てる構想を描き始めた。予定地はバミューダ諸島、そこに神学校を設立し、植民地の入植者と先住民の若者を共に教育する。啓蒙と信仰を一体に育てる場を作ろうとした。この構想には当時の知識人たちが熱狂し、詩人ポープは「あなたの計画は不死だ」と書き送った。
英国議会から2万ポンドの補助金の約束を取り付け、1728年秋に自ら大西洋を渡った。翌1729年1月、妻アン・フォースターと共に英領ロードアイランドのニューポートに到着し、バミューダへの資金到着を待ちながら約2年半滞在する。この間、農園を購入し、現地の牧師や知識人と交流した。バークリーはここで説教を行い、奴隷にも洗礼を授けた。哲学者として信仰の実践に向き合った時期だった。
しかし補助金は最終的に支払われなかった。英国政府はロバート・ウォルポール首相の指示のもと、植民地への財政支出を凍結した。夢は砕けた。1731年、バークリーは農園の書籍と備品をエール大学に寄贈し、アイルランドへ帰国した。この旅が歴史に残したのは、1868年にカリフォルニア大学が彼の詩句「西方へと帝国の星は進む」にちなんで、バークレーの地名と校名を冠したことである。
05クロインの司教として
1734年、バークリーはアイルランドのクロイン(Cloyne)の司教に任命された。49歳。以後18年間、農村の小教区を拠点に、哲学と宗教と社会問題を行き来し続けた。
この時期、バークリーはロック哲学への批判を深めた。物質的世界の存在を当然の前提とする思想が、無神論や懐疑主義を育てると彼は見ていた。神のみが世界を知覚し続けることで物質なき宇宙の一貫性が保たれる――1710年の『人知原理論』と1713年の『三つの対話』で既に定式化されていたこの立場を、司教時代のバークリーは社会論・宗教論の場へと広げていった。
1744年には奇書(Siris)を刊行する。タール水(松から採ったタールを水に浸して得た液)の薬効を論じるところから始まり、次第に新プラトン主義的な形而上学へと移行する異色の著作だ。クロインで流行した疫病への処方として書いたが、議論は単なる民間療法の紹介に留まらない。物質の最小単位から宇宙の秩序まで、すべてを精神の働きとして読み解こうとする、晩年のバークリーの集大成ともいえる。民衆の病と魂の救済を同一の関心から論じた姿が、そこに映っている。批評家たちはこの著作の奇妙な跳躍を笑ったが、バークリーは意に介さなかった。
06オックスフォードで死去
1752年、バークリーはクロインを離れ、オックスフォードへ移住した。18年間務めた司教の職を去り、息子ジョージのオックスフォード大学入学に付き添うためだった。老境に入ったバークリーにとって、家族と学問の場が交わるこの街は、最後にふさわしい場所だった。
翌1753年1月14日の日曜日、妻が傍らで説教を読み聞かせているさなかに突然倒れた。妻と子どもたちの前で、静かに息を引き取った。67歳。遺体はクライスト・チャーチ大聖堂に葬られた。
哲学的には逆説的な最期だった。「存在するとは知覚されること」と説いた人が、知覚する者たちに囲まれながら、知覚することをやめた。妻アンは晩年のバークリーについて、「死の直前まで穏やかで、苦しんだ様子がなかった」と書き残している。死の直前まで、彼は家族の朗読に耳を傾けていたと伝わる。知覚が続く限り、存在は続く。読み、聴き、感じる人々に囲まれた瞬間に、彼は世界を離れた。
07主要な出来事と著作
- アイルランド・キルケニー近郊に誕生。父はイングランド系アイルランド人の地主
- ダブリンのトリニティ・カレッジに入学。ロックの認識論に触れ、物質概念への疑問を深める
- 『視覚新論』刊行(24歳)。距離知覚が触覚と観念の結合であると論じる
- 『人知原理論』刊行(25歳)。「Esse est percipi」を定式化し、非物質論を確立
- 『ハイラスとフィロヌース』刊行。ロンドンへ移り、スウィフト・ポープらと交流
- バミューダ大学構想のため渡航。1729年ニューポート到着、資金到着を待ち約2年半滞在後に帰国
- クロイン司教に任命(49歳)。以後18年間アイルランドの農村で神学・哲学に従事
- 『シリス』刊行。タール水の薬効を論じながら新プラトン主義的形而上学を展開
- オックスフォードで家族と過ごす中、日曜日に急逝。享年67。クライスト・チャーチに埋葬
残した思想の輪郭
- 非物質論(イマテリアリズム) ― 物質は存在せず、世界は精神と観念のみで構成される
- Esse est percipi ― 存在するとは知覚されること。感覚的物体の存在は知覚(知覚するか・されるか)に尽き、知覚する精神や神はこの原則の外に立つ
- 神の持続的知覚 ― 誰も見ていない木が存在し続けるのは、神が常に知覚し続けているからだ
- 視覚理論 ― 奥行きや距離は学習された観念であり、視覚と触覚の複合である
- バークレー校の語源 ― カリフォルニア大学バークレー校は彼の詩句「西方へと帝国の星は進む」にちなんで命名された
出典と確認メモ
8件- 文脈原典で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 1710年、25歳のダブリン・トリニティ・カレッジ研究員ジョージ・バークリが刊行した『人知原理論』第一部第3節の中核句。ロックが前提とした知覚の奥に控える「物質」という想定を、若い哲学者は手放す。経験...
一次資料を開くTrinity College Dublin (Berkeley 母校) 所蔵 1734年第二版 PDF。Section 3『Their esse is per...
- 文脈原典で確認済み要旨訳
要旨訳: berkeley-1.context: 1710年、25歳のダブリン・トリニティ・カレッジ研究員 (Junior Fellow) George Berkeley (1685-1753) が刊行した『人...
- 文脈二次資料で確認済み要旨訳
要旨訳: 1710 年、25 歳のダブリン・トリニティ・カレッジ研究員 George Berkeley が刊行した『人知原理論 (A Treatise concerning the Principles of ...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: berkeley.mdx mdx-pullquote (本文 PullQuote) 「Esse est percipi — 存在するとは知覚されることである」は George Berkeley, Pr...
一次資料を開くPart I (Of the Principles of Human Knowledge) §3。'Their esse is percipi' を canon...
- 抜粋一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: berkeley.mdx pullquote (frontmatter) 「Esse est percipi — 存在するとは知覚されることである」は George Berkeley, Princip...
一次資料を開くPart I (Of the Principles of Human Knowledge) §3。'Their esse is percipi, nor is ...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: berkeley.mdx pullsource '『人知原理論』' は George Berkeley, A Treatise concerning the Principles of Human K...
一次資料を開くProject Gutenberg #4723 全文。1710 Dublin 初版 + Part I のみ刊行 (Part II 未刊) を確認。pullquo...
- 抜粋原典で確認済み定本確認済み
定本確認済み: berkeley-1.source 『人知原理論(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge)』第一部第3節(1710) — Geo...
一次資料を開くTrinity College Dublin David Wilkins 電子化 1734 年第二版 (Berkeley 自身改訂)。Part I §3 'th...
- 引用一次資料で確認済み原典確認済み
原典確認済み: 私たちはまず埃を立てておいて、それから見えないと不平を言う
一次資料を開くIntroduction §3。'Upon the whole, I am inclined to think that the far greater par...
つながり
- デカルト
批判的継承 — 『人知原理論』(1710)『ハイラスとフィロナスの三つの対話』(1713)でデカルトの延長実体(res extensa)を退け、「存在するとは知覚されることである(esse est percipi)」の観念論を主張。デカルトの第一性質/第二性質の区別(ロック経由)を崩し、物質実体を観念へと解消した
- ヒューム
批判的継承 — 『人間本性論』(1739-40)でバークリの観念論的経験論を引き継ぎつつ、物質実体だけでなく精神実体(スピリット)も印象に還元し、因果・自己の同一性も習慣による連合として解体。バークリの「esse est percipi」を徹底化して、神という保証装置も取り払う懐疑主義的経験論へ
さらに読むならFurther Reading
バークリーの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門人知原理論
ジョージ・バークリ / 訳: 大槻春彦 / 岩波文庫
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生きた跡を辿るPlaces
バークリーが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- クライスト・チャーチ大聖堂(オックスフォード)墓所
オックスフォード, イギリス
1753年没、身廊の大きな記念碑は詩人アレクサンダー・ポープによる銘を持つ。ジョン・ロック記念碑の近くに並ぶ
さらに辿るならExternal References
バークリーを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジョージ・バークリー」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "George Berkeley"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "George Berkeley"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "George Berkeley (1685—1753)"
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