ジョン・ロールズ
自分がどんな立場に生まれるか分からないとき、 どんな社会を選ぶか?
無知のベールの背後から公正な社会契約を組み直した現代正義論の巨人
- 正義論
- 無知のベール
- 公正としての正義
二つの世界大戦と大不況を通り抜けたアメリカが、豊かさの中で「誰が損をしているか」を問い始めた時代 — ひらく
時代の空気
第一次大戦後の1921年、メリーランド州ボルチモアの法律家家庭に生まれた。大恐慌期に少年時代を過ごし、ジフテリアと肺炎で二人の弟を相次いで失う。1943年に陸軍歩兵として太平洋戦線に動員され、ニューギニア、ルソン島を経て占領下日本に入り、広島の惨状を目撃して伝統的キリスト教信仰を捨てた。戦後ハーヴァードで教えた1960-70年代は、公民権運動、ベトナム戦争、ジョンソン政権の「偉大な社会」が並走し、英米政治哲学は功利主義が支配的だった。『正義論』(1971)はその布置を塗り替え、冷戦終結後の多元化する民主社会で『政治的リベラリズム』(1993)へ展開する。
01「神の摂理」と言われた日
1945年。ジョン・ロールズは24歳で、アメリカ陸軍の歩兵だった。ニューギニアと、フィリピンのルソン島で戦い、生き残った。まわりには、戦死した仲間がいた。
部隊には、親しくしていた従軍牧師がいた。兵士のために祈る、軍の中の牧師である。その牧師は、仲間の死を「神の摂理」で説明しようとした。神がすべてを正しく決めている、という考えだ。ロールズは、その言葉に強く反発した。
もう一つ、忘れられない出来事があった。仲間の兵士が、正しいとは思えない理由で罰せられるのを見た、と彼はのちに回想している。誰が死に、誰が罰を受けるか。それを決めているのは、神の正しさではない。そう感じるほかなかった。
戦争が終わると、彼は占領軍の一員として日本に入った。そこで、原爆が落ちたあとの広島の惨状を目にした。彼の伝統的なキリスト教の信仰は、この時期にくずれた。
彼は、大学では神学を学び、一時は聖職者になる道さえ考えていた青年だった。その青年が、なぜ神を手放したのか。そして、神のかわりに何を置いたのか。時は24年前、1921年のボルチモアに戻る。
02ボルチモアの少年と、二人の弟
1921年2月21日、メリーランド州ボルチモア。ジョン・ボードリー・ロールズ(John Bordley Rawls)は、五人兄弟の次男として生まれた。父ウィリアムは名の知れた法律家。母アンナ・アベルは、女性が選挙で投票する権利を求める運動に力を注いだ人だった。
家は、暮らしに困らない上流中産階級だった。しかし、その安定を内側から裂く出来事が起きる。1928年、ジョンが7歳のとき、弟ボビーが死んだ。ジョンからうつったジフテリアが原因だった。ボビーは5歳だった。
翌1929年、今度は弟トミーが死んだ。これもジョンからうつった肺炎だった。ジョンは、二人の弟に病気をうつしてしまった兄になった。自分は生き残り、弟たちは死んだ。この重い罪責感を、のちに家族や伝記作家は、ロールズの宗教的・道徳的な感じ方の源として語ることになる。
同じ病気にかかっても、誰が生き、誰が死ぬかは選べない。生まれる家も、体の強さも、才能も、自分で選んだものではない。大人になったロールズは、こうしたものを「道徳的に偶然のもの」と呼ぶ。その言葉の奥には、幼くして運の重さを知った人の沈黙がある。
学校はボルチモアのカルヴァート・スクールから、コネティカット州のケント・スクールへ進んだ。1939年、18歳でプリンストン大学に入学。はじめは神学と教職をめざし、倫理神学と哲学を専攻した。卒業論文も宗教と倫理をめぐる内容で、一時は聖職者になる道を考えた。
哲学に本気で向かうのは大学の後半である。哲学者ノーマン・マルコムの影響と、ウィトゲンシュタインという哲学者の本にふれたことがきっかけだった。だが、卒業の年は1943年。22歳のロールズは陸軍に徴兵される。行き先は太平洋だった。
03戦場から帰って、書き続けた二十年
1946年、除隊。ロールズはプリンストンに戻り、哲学の博士課程に入った。研究の主題は、「道徳についての知識とは、どんなものか」。1950年、博士号を取った。
1949年には、ブラウン大学出身の画家マーガレット・フォックスと結婚している。家庭のことは表に出にくい。だが彼女は草稿を読み、長い書き直しの年月をともに歩む人となった。
1952年から翌年まで、フルブライト奨学金でイギリスのオックスフォードに滞在した。滞在先はクライスト・チャーチ。そこで法哲学者H・L・A・ハート、思想史家、哲学者スチュアート・ハンプシャーと交わった。イギリスとアメリカの哲学が、ロールズの中で結びつき始める。
帰国後はコーネル大学、次いでMITで教え、1962年、41歳でハーヴァード大学へ移った。この間の1958年、論文「」を発表する。社会のルールを、みんなが公平な立場で選ぶとしたらどうなるか。この論文に、後の大きな本の骨組みがすでにあった。
書いては直し、講義では学生の反論を受けとめる。その繰り返しが20年以上続いた。そして1971年、50歳。600ページを超える一冊の本が、ハーヴァード大学出版局から出る。
04『正義論』、自分の持ち札を伏せる
その本の名は『』(A Theory of Justice)。20年以上の講義と書き直しの結晶だった。
中心にあるのは、ひとつの思考実験である。想像してみよう。あなたはこれから、ある社会に生まれる。しかし、自分がどの家に生まれるか、男か女か、どんな才能を持つか、体が強いか弱いかを知らない。ロールズはこの状態を「」と呼び、そこにかかっている目かくしを「」と呼んだ。
自分の持ち札が見えないまま、社会のルールを選ぶとしたら。人はまず、誰にでも同じ基本的な自由を求めるだろう。次に、自分がいちばん不利な立場に生まれるかもしれない、と考える。だから、もっとも不利な人がいちばん良くなるような不平等だけを認めるはずだ。そして、その不平等につながる地位や仕事には、誰にでも公平にチャンスが開かれていなければならない。ロールズはこれを「」として示した。二つ目の原理の後半が、有名な「」である。
正義とは、悪い人を罰することでも、かわいそうな人に施しをすることでもない。憲法、財産のしくみ、教育、チャンスの配り方。社会の「基本構造」を、最初から公平に組み立てる原理のことだ。ロールズはこの考え方を「公正としての正義」と呼んだ。
その頃のイギリスとアメリカの政治哲学は、功利主義がほとんど独占していた。「みんなの幸せの合計がいちばん大きくなる選択が正しい」という考えだ。ロールズは、合計のために誰かが犠牲にされることを許さなかった。『正義論』は、この状況を一夜で作り直したと言われる。
反論もすぐに来た。1974年、同じハーヴァードの哲学者は、『アナーキー・国家・ユートピア』で応じた。人が正しく手に入れたものを、国が取り上げて配り直してよいのか、と。法哲学者、ドイツの哲学者ハーバーマス、経済学者アマルティア・センも、それぞれ違う角度から応じた。ロールズは答え続けた。だが、ある一つの批判だけは、長く抱えこむことになる。
正義は社会制度の第一の徳である、ちょうど真理が思想体系の第一の徳であるように。
05一つの正しさを押しつけない
批判はこうだった。あなたの理論は、「人はこう生きるべきだ」という一つの包括的教説を、こっそり前提にしているのではないか。カントの哲学のような、特定の考え方を。ロールズは20年、この問いを考え続けた。
1993年、72歳で『』(Political Liberalism)を出す。現代の民主社会には、宗教も、宗教を持たない倫理も、いろいろな哲学も、たがいに相いれないまま同居している。ロールズはこれを「の事実」と呼んだ。なくすべき欠点ではなく、自由な社会なら必ず生まれる事実だ、と。
ならば正義のしくみは、どれか一つの教えに寄りかかってはならない。キリスト教徒も、宗教を持たない人も、それぞれ自分の根っこから、同じ政治のルールを支えられる。そうした合意をロールズは「」と呼んだ。
そのために、市民が公の場で使う理由は、みんなに差し出せるものに限る。これが「」である。自分の正義を、人生全体の答えとしては語らない。この薄さは妥協ではなかった。争いを内戦にしないための、節度だった。
1999年には『』(The Law of Peoples)を出した。国の中で考えた正義を、そのまま世界に広げるのではない。それぞれの「人民」(peoples)を単位に、戦争、他国への介入、人権、援助の限界を考え直した。この本を出した頃、ロールズの体はすでに、静かに変わり始めていた。
06言葉を失ってからも、そして1945年へ
1995年、最初の脳卒中が起きた。その後も小さな発作が続き、パーキンソン病も進んだ。話すことが不自由になり、人前に出ることは少なくなった。それでも草稿の整理と、短い返事は続けた。
この頃、1997年頃に、彼は『私の宗教について』(On My Religion)という短い文章を書いている。若い日に信仰を失ったときのことをふり返る文章で、死後の2009年に出版された。
1999年、アメリカ国家人文科学メダルを受けた。クリントン大統領は、民主主義への信頼をよみがえらせた思想家として彼をたたえた。
教師としてのロールズは、多くの弟子を育てた。トマス・ネーゲル、T・M・スキャンロン、クリスティン・コースガード。同僚のマーサ・ヌスバウム、アマルティア・センとは長く対話を重ねた。授業では自分の説を押しつけず、学生に反対意見を粘り強く守らせた。相手の議論を、相手自身より強い形に組み立ててから批判する。この礼儀は、彼の哲学の作法そのものだった。
2002年11月24日、マサチューセッツ州レキシントンの自宅で、心不全のため死去した。81歳だった。
ここで、1945年の戦場に戻ろう。従軍牧師は、仲間の死を「神の摂理」で説明した。誰が死に、誰が生きるかは、神が正しく決めている、と。24歳のロールズは、それを受け入れられなかった。7歳と8歳で二人の弟を失った彼は、運がどれほど人を左右するかを、体で知っていたからだ。
だが彼は、神を手放したあと、「だから何も正しくない」とは言わなかった。運の配り方そのものに、正しさはない。ならば正しさは、人間が自分たちの手で作るほかない。自分の持ち札を伏せて、誰に生まれても受け入れられる社会を選ぶ。無知のベールを、若い日に失った「摂理」を人間の側から置き直したものとして読むこともできる。
正義は社会制度の第一の徳である、ちょうど真理が思想体系の第一の徳であるように。
07残ったのは答えではなく、方法
ロールズが残したのは、一つの答えではなく、一つの方法だった。自分の立場を棚上げして、誰にとっても公正な制度を問う、という考え方。いま、世界の不平等、気候の問題、AIの倫理をめぐる議論は、無知のベールのさまざまな変奏の中で続いている。
あなたは、自分がどの家に、どんな体で生まれるかを知らない。そう仮定したとき、いまのこの社会を、そのまま選ぶだろうか。
08思想の構造と論争――『正義論』から『万民の法』へ
『正義論』(A Theory of Justice, 1971)の骨格は、1958年の論文「公正としての正義」(Justice as Fairness, Philosophical Review)に既に現れていた。社会契約を、伝統的な自然状態ではなく、公平な選択状況として再構想する試みである。原初状態において、人は自分がどの地位・性別・才能・時代に生まれるかを知らない。この情報的制約の下で選ばれる正義の二原理は、第一に平等な基本的自由の原理、第二に格差原理――社会経済的不平等は、(a)機会の公正な平等の下で開かれた職務に付随し、(b)最も不遇な人々の利益を最大化するときにのみ、許される。基本的自由は経済的繁栄と引き換えに犠牲にしてはならないとされ、第一原理が第二原理に優先する。
構成は三部からなる。第一部「理論」は原理の選択を論じ、第二部「制度」は立憲民主制、、分配的正義を扱い、第三部「目的」は善・自尊・道徳心理学へ進む。ロールズにとって正義は罰や慈善の名ではなく、社会の「基本構造」、すなわち憲法、所有制度、教育、機会の配分を最初から組み立てる原理だった。功利主義が支配していた戦後の英米政治哲学に対し、『正義論』は効用総和のために個人を犠牲にすることを原理的に禁じた点で、決定的な転換をもたらした。
応答は多方向から来た。1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー、国家、ユートピア』で、ロールズの再分配論に対し、個人の権利と最小国家の側から応答した。ドゥオーキンは資源の平等、ハーバーマスは討議倫理、センは潜在能力(ケイパビリティ)の観点からそれぞれ応答し、『正義論』は自由主義・共同体主義論争の起点となった。
もう一つの批判――「包括的道徳説を前提している」――に対する20年の沈思の結実が『政治的リベラリズム』(1993)である。近代民主社会は道理ある多元性の事実に貫かれ、宗教、世俗倫理、哲学的立場が互いに両立しないままに併存する。ならば正義の構想は、どれか一つの(カント主義、功利主義、キリスト教、等々)に依拠してはならず、異なる教説が自らの立場から支持できる政治的構想――重なり合う合意――を目指すべきだ。この転回は、『正義論』のカント主義的読みを政治的に洗練したものだった。彼は自説を人生全体の善の教説として語るのを避け、立憲民主社会の市民が公的理由(public reason)として互いに差し出せる範囲に絞った。その薄さは妥協ではなく、多元社会で争いを内戦にしないための節度だった。
1999年の『万民の法』(The Law of Peoples)は、国内の二原理をそのまま世界へ拡張するのではなく、諸人民(peoples)を単位とした国際社会の原理を、非コスモポリタンな構想として論じ直した。リベラルな人民だけでなく「良識ある階層社会」を含める点は批判も受けたが、戦争、介入、人権、援助の限界を、国内正義とは別の平面で考える試みであった。
信仰の側面については、自伝的断片『私の宗教について』("On My Religion", 1997年頃執筆、没後2009年出版)が、太平洋戦線での信仰喪失を回顧している。後年のロールズが才能や家庭環境を「道徳的に偶然のもの」と呼ぶとき、そこには抽象的な平等論だけでなく、二人の弟の死と戦争を通じて、与えられた運の重さを知った人の経験が重なっている。オックスフォード滞在(1952-53)でのH・L・A・ハート、アイザイア・バーリン、スチュアート・ハンプシャーとの交流は、英米分析哲学と政治哲学の融合の起点となり、講義においては相手の議論を相手自身よりも強い形にしてから批判する作法が、弟子のトマス・ネーゲル、T・M・スキャンロン、クリスティン・コースガードらに受け継がれた。
09主要な出来事と著作
- ボルチモアに誕生。父は法律家、母は女性参政権運動家
- 二人の弟を相次いで失う
- 陸軍歩兵として太平洋戦線へ。占領下日本に駐留
- プリンストン大学で哲学博士号取得
- フルブライトでオックスフォード留学、ハートらと交流
- 論文「公正としての正義」発表
- ハーヴァード大学哲学科教授に就任
- 『正義論』刊行――無知のベールと格差原理
- 『政治的リベラリズム』刊行――重なり合う合意
- 『万民の法』刊行。アメリカ国家人文科学メダル受賞
- 11月24日、レキシントンで心不全により死去、81歳
残した思想の輪郭
- 無知のベール ― 自分の特権と立場を棚上げして、公正な社会制度を選ぶ思考装置
- 公正としての正義 ― 正義は所与の秩序ではなく、公平な手続きから構成される
- 格差原理 ― 不平等が許されるのは、最も不遇な人々の利益を最大化するときだけ
- 政治的リベラリズム ― 道理ある多元性を前提に、重なり合う合意を目指す正義の構想
- 基本的自由の優先 ― 経済的繁栄と引き換えに基本的自由を犠牲にしてはならない
つながり
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ジョン・ロールズの思索に近づく、手に取って損のない版を三冊まで。 岩波・ちくま・講談社学術文庫を基本に、原著または定評ある英訳を一冊添えています。
入門正義論(改訂版)
ジョン・ロールズ / 訳: 川本隆史・福間聡・神島裕子 / 紀伊國屋書店
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生きた跡を辿るPlaces
ジョン・ロールズが歩いた街・記された碑・思索が残る館。 机から抜け出して一度、場所の側から哲学に触れてみる。
- ハーバード大学エマソン・ホール所属
ケンブリッジ, アメリカ
ロールズが『正義論』を執筆し、長年にわたり教鞭を執ったハーバード哲学科の本拠
- マウント・オーバーン墓地墓所
ケンブリッジ, アメリカ
ロールズ夫妻の墓があるアメリカ初の庭園墓地。ハーバード大近く
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ジョン・ロールズを別の角度から辿るための外部リンクを並べています。 百科事典・原典アーカイヴ・記念館など、出典はそれぞれ性格が異なります。 リンク先のアクセス条件(閲覧のみ可、要登録、借覧制限など)は サイト側の表記を参照してください。
WikipediaWikipedia 日本語版「ジョン・ロールズ」項
WikipediaEnglishWikipedia English — "John Rawls"
Stanford Encyclopedia of PhilosophyEnglishStanford Encyclopedia of Philosophy — "John Rawls"
Internet Encyclopedia of PhilosophyEnglishInternet Encyclopedia of Philosophy — "John Rawls (1921—2002)"